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ボディビルと私
バーベルと共に歩んだ十数年

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月刊ボディビルディング1972年6月号
掲載日:2018.04.19
日本ボディビル協会理事
三重県ボディビル協会副会長
三重ボディビル・ジム代表
藤田務
写真は昭和33年当時の筆者

写真は昭和33年当時の筆者

 まず最初に私が住んでいる三重県北東部の環境についてふれてみたい。
 公害の町として有名な四日市市を中心としたこの一帯は、石油コンビナートをはじめあらゆる近代産業が林立する重化学工業地を形成している。
 私の住まいは“その手は桑名の焼きはまぐり”で知られる桑名市。勤め先は四日市市の中部海運である。
 東は真珠と伊勢エビで有名な伊勢湾、西は鈴鹿の連峯に接し、風光明美なこの一帯が、いつの間にか健康をむしばむ公害の町と化してしまった。
こうした環境が、いつしか私をしてボディビルの虜としてしまったのかも知れない

逞しいからだにあこがれて

 私がどうしてボディビルを始めるようになったかというと、それはごく小さな願いからだった。
せめて裸になったときに、アバラ骨が見えないような体になりたい、というのがその動機であった。たしかに私の体はクラスの誰よりも細く弱々しく見えた。
 それは中学1年生の秋、運動会の仮装行列に参加したときのことだった。私たちのグループは、インディアンに仮装し、私はどうしたことか曾長をすることになった。
なんとか強く見せようと、裸の上半身に墨を塗ってはみたものの、洗濯板かブリキの湯タンポのようにアバラ骨が見え、栄養失調の曾長ができあがってしまった。
そして、みんなに私が曾長であることを知らせるために、曾長と書いた紙を首からブラ下げて歩いたのである。
 こんなことも原因して、なんとか強い体になりたいと私は陸上競技部に入ることにした。
それから3年間、私は朝に昼に走り続けた。しかし、残念ながら私には選手として競技会に出るほどの力はなかった。
 同級生からよくこんなことをいわれたものだ「3年生になっても選手として競技会に参加できないのなら、クラブなんか止めてしまえ!」
たしかに後輩たちが選手として参加し、脚光を浴びているなかで、私の役目は、ゴールの近くでバスタオルを持って後輩選手を迎えることだった。
また、練習中には各選手がそれぞれ専門種目に入る前フィールドやトラックの整備をするのが仕事だった。
 しかし、それでも私は陸上競技部を止めようとはしなかった。私の心の中には、強く健康な体に憧れがあり、それが少しずつではあったが着々と実現しつつあったからだ。
また、先生も私を選手としてではなく、心身とも逞しい子供になればよいのだ、と励ましてくれていた。

ボディビルとの出会い

 あれは確か昭和31年の初めごろだと記憶している。職場の同僚が、力道山の表紙のボディビル誌の創刊号を持っていた。
 パラパラッと見ただけで、これこそ私が夢に描いていたスポーツであると直感し、同僚から無理に借り受けると仕事も手につかず、会社を早退し夢中で読みふけった。
そして、私のまず始めたのは道具づくりからである。ベンチは大工仕事の器用な祖父に頼み、私はセメントを買ってきて、手製のバーベルをつくることにした。
 セメントの固まるのももどかしく、まず、ツー・ハンズ・プレスを試みた。残念!これが1回もあがらないのである。
重量はやっと20kgほどなのに。なさけなくなってしまった。しばらくはベンチ・プレスとスクワット、それにベント・ローイングに専念した。
 しばらくしてミルクの空缶にセメントを流しこみ、プレスとカール用の軽いバーベルをつくった。
重量は8kgぐらいだったと思う。いま皆さんがたが使っているバーベルと比べたら笑われそうな軽くてチャチなものだった。
 とにかく2週間ぐらいで、基本種目のやり方は全部覚えた。このころの私の体位は、身長165cm、体重48kg、胸囲78cmであった。
 練習時間もまちまちで、冬の朝早く霜柱を踏みながら練習したり、残業で遅くなったときなど、星空の下で1人でトレーニングしたものだった。
 こうして練習を始めて数ヵ月たったころ、東京で第1回ミスター日本コンテストが開催された。そして、中大路和彦選手の男性美が週刊誌などに掲載された。
「よし!俺もミスター日本コンテストに出場できるような体になるぞ」と心に誓い、コンクリート・バーベルの重量を増したのだった。
昭和30年練習3か月の筆者身長160cm、体重48kg、胸囲78cm

昭和30年練習3か月の筆者身長160cm、体重48kg、胸囲78cm

バーベル仲間に会う

 こうして1年2年と過ぎたころ、ボディビルのブームもようやく下火となり、書店でボディビル誌を見かけることも少なくなった。
私もスランプになり、体の変化もほとんど見られなくなった。
 そんな頃、窪田先生の書かれた「ボディビル入門」を手に入れ、これがキッカケで以前にも増してボディビルに精を出すことになった。
そして、洋書なども片っばしから買入れ、新しいトレーニングを研究したりした。
 たまたま四日市市で食事をしていたところ、バーベルを落す音が聞えてきた。久しぶりに聞くなつかしい音だ。
食事もそこそこにかけつけると、数人の若者がバーベルに取り組んでいた。そこは当時この地方唯一のトレーニング場である「重量挙ボディビル協会」だった。
 私はさっそく入会。初めて憧れの鉄製バーベルに触れてみた。「これでトレーニングすればきっと大きくなれるぞ」そんな思いで毎日練習した。
当時の仲間でいまでも続けて練習している人も何人かいる。
 昨年、全日本社会人重量挙選手権にミドル級で優勝した東芝三重工場の鈴木浩司選手(現在32才)もその1人だ。
また、三重県ボディビル協会の大井康裕会長や、まだ現役で活躍している長崎清選手なども、私の古い仲間たちである。
 当時、大井会長はベンチ・プレスで130〜140kgをあげていて、私たちの目標の的だった。
 その頃の練習は、いつも重量あげの選手と一緒だった。そして、私も何回か重量あげの試合に出場したものだ。
一番印象に残っているのは、第1回三重県重量あげ新人大会のミドル級に出場し優勝したときのことだ。
 あれほど痩せ細っていた私の体も、だんだん筋肉がつき、ビルダーらしい体に変身してきた。そして、昭和37年から39年にかけて3年連続全日本大会(関西側の関係者によって主催された大会)に出場した。
結果はいずれも予選で失格となったが、決してくじけるようなことはなかった。無残な失格よりも、大会に出場できるまでに逞しくなったことの喜びの方が大きかった。

体育館へ練習とコーチに

 公害問題がようやく社会問題として取りあげられ出したのと同時に、昭和48年には全国高校統合大会が、昭和50年には国体が三重県で開催されることが決まり、県民の社会体育とスポーツに対する関心も高まってきた。
 その施策の1つとして、四日市市では市の中央に総合体育館を建設した。体育館にはサーキット・トレーニング室も完備していた。
しかし、コーチもいず利用者もせいぜい2〜3人というさびしいものだった。
 私は、これでは宝の持ち腐れと思い勤務を終えてから週6日間、自分のトレーニングを兼ねてコーチをかって出た。
初めの6ヵ月間ぐらいは、私のほか2〜3人という状態が続いたが、1年、2年とたつうちに人数も増え、いまでは1日30人以上の市民がトレーニングに汗を流している。
 ここで、体育館での私のコーチ法をちょっと述べることにしよう。
 この体育館でトレーニングする人たちは、いわゆるコンテスト・ビルダーになるというよりも、健康管理と各種スポーツの機能向上を目的とした人がほとんどだった。
 それがため、本館でバスケット、テニス、バトミントン、バレーボールなどの一般者の練習日には、私も率先してこれらのスポーツに参加するようにした。
これは、バーベルだけで鍛えるのではなく、あらゆるスポーツによって、筋肉と機能性を兼ね備えた体をつくるためであった。
 また逆に、陸上競技、テニス、バレーボールの選手たちにウェイト・トレーニングの指導もした。その中には県下の一流選手として育っていった人たちも多くいる。
このように私の理想とするトレーニングが着々と実現できた陰には、体育館の永澄所長を始め関係者の理解と協力があったことをあらためて感謝している。

三重県ボディビル協会設立とミスター日本初出場

 四日市体育館でコーチをするようになってから早くも4年がすぎた。その間に、私にとって素晴らしいできごとが続いた。
 まず、私の勤める中部海運にボディビルのクラブができた。
そして、実業団協議会に入会し、長崎清選手と一緒に第3回実業団パワーリフティング大会に参加した。
 この大会で長崎選手はスクワット1位、総合で2位となり、私はスクワット3位、総合で4位に入賞した。
そして、団体戦では3位であった。
 次に、昭和44年度のミスター実業団に私は壮年の部で出場し、3位を獲得。念願のボディコンテストで初入賞することができた。
続いて昭和45年度のミスター実業団優勝と、ミスター日本初出場という私のボディビル歴に新しい1ページが加えられた。
 昭和45年には関係者の努力によって県協会が設立された。そして、第1回ミスター三重コンテストが行なわれ、私は初代のチャンピオンに選ばれた。
 昨年8月には、県協会の行事として静岡、愛知、三重の3県によるミスター中部日本を開催した。
このコンテストには私は選手としてではなく、審査員の1人として参加した。
 また11月には、県協会と四日市教育委員会体育局との協賛で、武本蒼岳氏や女性コーチによるウェイト・トレーニング教室なども開催した。
昨年第一回ミスター三重コンテスト優勝ボディビルを始めて十六年悲願ついに達成

昨年第一回ミスター三重コンテスト優勝ボディビルを始めて十六年悲願ついに達成

念願のジム設立

 手製のベンチとバーベルで始まった私のボディビル運動も、すでに十数年の年月が過ぎた。
そして、その間に体得したことを1人でも多くの人に教え、おかされつつある健康を取り戻すために、なんとかジムをつくりたいと考えるようになった。
そして、長崎清選手と相談して、桑名市内に共同で念願のジムをつくることにした。
 ジムは三重ボディビル・ジムと命名し、三泗ボディビル・センターの伊藤敏男会長(三重県協会理事長)はじめ県協会の人たちの並々ならぬ協力を得て、ついに去る2月2日オープンすることができた。
 こうして、ジムの開設とともに、私にとってまた新しいボディビルが始まったのである。人生は長い。
いままでは私のほんの基礎訓練期間だと思っている。これからは、ビルダーとして。あるいは指導者として本腰を入れて取り組んでいきたい。
 私はまだまだ若い者に負けないつもりだ。今年も実業団とミスター中部日本を狙っている。
それがため、毎日2時間のトレーニングは欠かしたことがない。
 私がこのようにボディビル一筋に打ち込むことができる陰には、理解ある家族の協力があるからである。
今は亡き祖父にベンチを作ってもらったことに始まり、朝早くから夜遅くまで、仕事とボディビルに明け暮れる私に、グチひとつコボさず協力してくれる女房や子供に感謝せずにはいられない。

ビルダー諸君に一言

 きょうまで数多くの先輩たちが残された日本のボディビルの灯を、より以上大きく育てるのが私達現役ビルダーの義務であると思う。
ともすれば心より筋肉が先行しがちなボディビルである。体が逞しいだけで通用する時代はすでに過去のものだ。
 それより一歩進んで、心身ともに健全な素晴らしい人間になるためのボディビルでなくてはならない。
このことは、ボディビルが広く一般大衆に理解され、そして普及していくことにつながるのではないだろうか。
 最後に、日本体育協会のスポーツマン綱領の一節を記し、ここに書かれた意味を心して、ボディビル発展のために一層の努力をはらおうではないか。
———スポーツは、人間だけがもつ文化の1つである。これをより高くより美しいものにするには、スポーツを行なうものの精神と、それをとりまく環境の清らかなことが必要である。
美しいスポーツマンシップは、このような世界のなかで生まれ、やがて生活を導く基として、社会のために貢献するであろう。
故にスポーツマンは、競技場にあると同じ精神と態度で生活し、りっばな社会人でなければならない。———
月刊ボディビルディング1972年6月号

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