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日本ボディビル界の過去〜現在〜未来(上)
<ジム運営の観点から問題を提起>

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月刊ボディビルディング1972年6月号
掲載日:2018.04.05
JBBA事務局長
❜68ミスター日本
吉田 実
記事画像1
 我々ボディビル界の者の長い間の努力が結実して、最近では、社会体育におけるボディビル運動の優秀性が広く世間に認識され、実践者が急速に増加してきたことはまことに喜ばしいことである。
 しかし、今後も果てしなく成長するであろうボディビル界の進路を誤まらず、1人でも多くの人にボディビル運動の恩恵に浴してもらい、また、ボディビル界の者が少しでも多くこの利益を享受できるように,ここでひとつ問題を提起したい。

ボディビルが普及されることは既存のジム経営者に損?

現在、ボディビル界にある者を便宣上次のように分類してみた。
①練習者
②指導者
③ジム経営者
④関連産業にたずさわる者
⑤その他

 以上の①~⑤のそれぞれの立場からボディビルが広汎に普及した場合に,ほんとうに利益になるのかどうかということを、極めて打算的な見地から検討してみたい。

 ①の練習者にとっては、ボディビルの普及にともない、設備の整った練習場が各地に設立され、わざわざ長時間かけて遠くのジムに通う不便さが解消される。
 また、練習技術、指導技術も日進月歩の発達が予想され、少ない労力で最大の運動効果をあげることができる。

 ②の指導者にとってはジムが増加し繁栄する結果、よい条件に恵まれた職場が保証され、世間でのボディビル指導者に対する評価認識も向上し、めでたしめでたし。

 ③のジムの経営者にとっては、普及の結果、練習者が増えることは願ってもない幸福だが、その反面「利潤の多い産業には、その利益を求める競争者が増える」という資本主義社会の原則から、いちだんと競争が激しくなることが予想される。
 また、この競争に新しく参加するジムは、当然ながら既存のジムより設備とサービスをよくするはずだ。
 不便なジムから便利なジムに会員が移動するのはわかりきっている。かといって、既存のジムは設備を大幅に改善するのに先だつ資金に乏しい。
 その結果、優勝劣敗、厳しい自然界の法則の前に敢えなく討ち死に...。
よほどの努力を続けないかぎり、現在のボディビル・ジムの大半が、このような運命にさらされる。

 ④の関連産業にたずさわる者とは、運動器具メーカーおよび小売店、健康食品製造販売会社、トレーニング・シャツなどの運動用品会社、それに本誌のような出版社などである。
 これらの業者にとっては、ボディビル人口が増えることは、そのまま需要が増加して、マイナスになる要素はひとつもない。

 ⑤のその他とは、ファン、協会運営者など①~④の分類に含まれない総ての人たちだ。
 この分類に属するいかなる立場の者にとっても、ボディビルが普及発展して、練習者が増加し、世間の認識が高まることは、プラスにこそなれマイナスになることなど考えられない。
 そうしてみると、ボディビルがより以上に普及した場合に、打算的な見地からの損得勘定は、現在のジム経営者だけが損をして、その他は総て得をする計算だ。
 何をつまらないことをいっているかと怒らずに、最後まで読んでいただきたい。
ここでは、単にひとつの問題を提起しただけにとどめ、一応それを頭に入れておいて、ボディビル界の過去一現在一未来ということを論じたい。

ボディビルの本格的練習は昭和28年から

 ボディビル運動が本格的に日本で行なわれるようになったのは、昭和28年秋に、早稲田大学バーベル・クラブが設立された頃からだったと記憶する。
 スティーブ・リーブスがNABBAミスター・ユニバースに優勝したのが昭和25年、レジ・パークが優勝したのが26年だから、その少し後になる。
 ただ、これは現在のような形のボディビルのみを指してのことだ。
 バーベルが日本に渡来したのは明治年間だ。柔道で名高い嘉納治五郎先生がスエーデンから持ち帰ったという記録があるが、おそらくは、このときが最初だったろう。
 それ以後も「怪力法」の著者である若木竹丸氏が、大正末期から昭和にかけて、かなり研究された練習方法で実践していたようだ。当時の若木氏の写真を見ると、その練習のあとが偲ばれる。
 その他にも、相当数の実践者があったと考えられるが、本稿では論旨と異なるので省略する。

猫もシャクシもボディビル

 昭和30年〜31年までの短い期間が日本ボディビル界の第1期黄金時代であった。
 昭和30年に日本テレビで、平松俊男玉利斉、窪田登氏らがモデルとなった「男性美の創造」が放映された直後から、ボディビルが世間に大反響を呼び起こした。
 昭和20年に大東亜戦争で惨敗を喫した日本が、始めて経験した敗戦の傷は想像を絶するほど深く醜いものだった。
それまでは一等国民と信じて疑わなかった日本人が、急転直下、四等国民としての生活を余儀なくされていた。
 昭和28年〜30年頃は、食糧を始めとして物資は極めて乏しく、豊かな生活を送る外国人を羨望し、自から卑下した時代がやや治まった経済復興の端緒期だった。
 力道山が伝家の宝刀”空手チョップ”をひっさげて、大男の外人プロレスラーをねじ伏せる姿に、大人も子供も、当時台数の少なかったテレビの前に鈴なりになって、拍手喝采を送っていた。
 自分たちが成し得なかった外人コンプレックスを力道山に払拭させ、溜飲をさげていた時代だった。
 国民の大多数は、ヤセさらばえた体に粗末な衣服をまとい、自信を失った顔で前かがみになって歩いていた。
そこに、同じ日本人の、筋肉隆々とした逞しいレスラーたちがブラウン管に映し出されたのを見て、ビックリ仰天したに違いない。
 これがほんとうに自分たちと同じ日本人なのか?自分もボディビルをやったら、こんな立派な体になれるのだろうか!
 当時の感覚からすれば、昭和40年代の若者がボディビルダーの体を見たフィーリングとは、まったく異質の受けとめかたをしたであろうことは想像に難くない。
 その気持が、ボディビルを爆発的なブームに押し上げ”猫もシャクシもボディビル”といわれたほどの一時期を作りあげた原動力であったのだろう。

1カ月に入会希望者千数百人

 この当時を知らない者に、なんといって説明したら、そのブームぶりを信じてもらえるのだろうか。
今より数倍儲かっていた頃のパチンコ屋さんが十数軒もボディビル・センターに商売替えをしたものだ。
 アッという間に、都内だけでも27軒ほどのボディビル・センターが誕生した。
 日本で最初の本格的ボディビル・センターである東京・渋谷の日本ボディビル・センター(現JBBA理事長小寺金四郎氏経営)では、最盛期には僅か25坪のスペースに、1カ月で千数百人の入会希望者が押しかけ、センター側をあわてさせた。
通勤電車顔負けの詰め込みをしたところで、1カ月に千人以上の入会者を受け入れることは不可能なので、あとは止むなくお引き取りを願うという、信じられないような事態が数ヵ月も続いた。
 もちろん、これは日本ボディビル・センターに限らず、他のジムも同様の繁栄ぶりで、ジム経営者はウハウハ喜んでいた。
 露地や空地では、若者たちが寄ってたかってコンクリート・バーベル(当時は鉄製バーベルが高価で、なかなか手に入らなかった)を持ち上げていたものだ。かくいう私も、その空地ボディビル・クラブ?出身だ。
 一流新聞が1面全部のスペースを,ボディビルの基本運動方法と効果の解説に費したのもこの頃である。
 それほどケタ違いのブームであった。しかし、そのブームは残念ながらボディビル運動の本質をよく理解したものではなかった。それは単に”筋骨隆々”に興味をもったに過ぎなかった。
 現在のように、体力増進、健康管理の運動法としての、正しいボディビルの効果を認識したものではなかった。いってみれば、根なし草の、浮わついた人気であったのだ。
 そのため、世間のボディビル熱のさめかたも早かった。昭和32年頃にブームが過ぎ去ると、ブームに便乗して営利本位だけで開場したジムは、次々に閉鎖または転業してしまった。
それまで隆盛を極め、我が世の春を謳歌していたボディビル・センターではあったが、都内で残ったジムはわずか5軒ほどだった。

誤った認識が普及にブレーキ

 それから昭和40年頃までは、全国でもジムの軒数は少なく、ボディビル界全体が沈滞ムードだった。
年に1回のミスター日本コンテストをやっとの思いで開催し、ボディビルの火を絶やさない程度の活動をするのが精一杯の時代だった。
 ミスター日本コンテストも、三越デパートの屋上で、デパートのアトラクション的色彩の濃いなかで開催するのが通例で、参加選手も30名程度集めるのに四苦八苦。
JBBAの役員諸氏が各ジムをまわって出場を勧誘していたのが実情だ。
 しかし、その間にスポーツ界においては、スローテンポではあったがボディビルの優秀さを認識し、徐々にこれを実践し始めるようになってきた。
 それまでは、バーベル運動をやると筋肉が硬くなるとか、スピードが鈍るといった、バカバカしい説を唱えていた体育学者や生理学者がいたものだ。
 ましてや一般の人たちの間では、ボディビルをやると重量に圧迫されて心臓が悪くなるなどの俗説が、まことしやかに通っていた。
 当時は日本のボディビル界自体が高度の学問的裏付けによるトレーニング方法を熟知していなかった点は認めなければならない。
しかし、欧米の体育界では10年も20年も前に、論議され解明されたボディビルと柔軟性、スピードなどとの関連についての疑問を、アカデミックな立場にある当時の日本の大学教授などが、自分の勉強不足を棚にあげて、直感に頼っただけの意見を吐いたために、日本のボディビルの進歩発展が10年以上も遅れたことは否めない事実である。

スポーツ界がようやくボディビルの価値を認識

 日本のスポーツ界にバーベル運動が取り入れられた最も大きなキッカケはオリンピック参加によるものと私は考える。
 我が国のスポーツ界は、1928年のアムステルダム、❜32のロスアンゼルス、❜36のベルリン・オリンピックにおける水陸両種目黄金時代はともかくとして国際試合に負けたときの言い訳が3つあった。
すなわち、
①外国選手に較べて、体力が決定的に劣る。
②外来スポーツの歴史と経験の差。
③前記②に関連して外国選手に較べ技術で劣る。
 なかでもその最大の言い訳は、①の体力の問題であった。
 ところが、日本人より先天的に体力が優れているはずの外国選手、とくに欧米選手が、オリンピック選手村の中にまでバーベルを持ち込んで、鍛練しているのを目のあたりに見たのだ。
 もともと体力に恵まれていない者が鍛練を怠り、先天的に体力に恵まれた者がたゆまぬ鍛練を続けていれば、この両者の体力差は縮まるどころか、永遠に隔たることは自明の理だ。
 この欧米選手たちがバーベルに接している姿を見た日本の選手・役員がハタと考え込んだ。
日本の体育学者は、バーベルを用いて運動をすると、筋肉が硬くなり、スピードが鈍るといっているが、この連中は毎日この運動をしていて、よい記録を出しているじやあないか。何かへんだな・・・。
 聞いてみれば、女子選手でさえも、ウェイト・トレーニングは必須のものということだ。遅ればせながら、このバーベル運動を取り入れたところ、効果は抜群、成績上昇。
 ボディビル界の第1期黄金時代の後のこの時期は、市井のボディビル界は沈滞ムードであったが、スポーツ界を中心として認識され、実践され始めた時代であった。
 これを言葉を替えて、本稿の論旨に則り表現すれば、運動効果を認めた他種スポーツ競技団体あるいは学校、実業団スポーツ・クラブがバーベルを買い求めて、ボディビル・センターという場所以外でボディビルの花を咲かせ経営に苦しんでいたジムには、この恩恵に浴する機会があまり与えられなかつた。

社会体育

 昭和45年頃から社会体育という言葉が使われ始めた。
 日本体育界、スポーツ界の総本山である日本体育協会が、今までの選手中心の運営姿勢を180度転換して、底辺の拡大、一般社会人の健康増進のためのスポーツ振興を旗印に掲げるように変身した。
 体協の内部事情に詳しい人のなかには、これは体協の見せかけだ、と決めつける意見も多い。
つまり、東京、メキシコ両オリンピックで、水泳・陸上のメイン種目に選手強化費用の大部分を注ぎ込んだ。
 とくに東京大会のときには、陸上競技と水泳に全強化費用の80%〜90%を消費した。
メイン種目に、何が何でも日章旗をはためかせたい、これが開催国としての悲願だったのだ。
 しかし、他の競技団体からの突き上げが激しく、体協執行部がやむなく、陸上競技と水泳で成績不振の場合にはしかるべき責任をとるから、今は目をつぶっていて欲しいと言明。
結果はマラソンと水泳男子800mリレーの銅メダルがわずかに2つ。
 体協執行部がこの責任を回避するために、方向転換をして社会体育を叫び始めた、というのが、これに対する批判意見だが、本稿でこれ以上論ずべき問題ではないので、素直に体協の姿勢を善意に受けとめることにしたい。
 体協のこの目標変更により、実に今年度は、社会体育振興に体協予算の50〜60%を投入する結果となった。
 これはひとり体協だけにとどまらず文部省を始めとした国家、あるいは都道府県、市区町村単位での社会体育振興にまで及んでいる。
 数年前から各地に公立のトレーニング・センターが続々と開設され、体育館の付属設備としても、ボディビル運動器具が多く設置されるようになった。
 折も折、我が国では高度経済成長の影響を大きく受けて、加速度的な機械文明と、経済生活の豊かさのもたらす弊害のひとつである、栄養多摂取と運動不足のアンバランスから起こる、ぜいたくな健康障害が社会問題となってきた。(つづく)
月刊ボディビルディング1972年6月号

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