偉大なトミー・コーノの足跡
<世界のトミー・コーノ>
われわれバーベル愛好者だけが知っていると思ったら大違い。コーノのファンは世界中にいたのであり、しかもいまだに忘れられていないのである。
私が1961年の世界重量あげ選手権大会に参加し、日本代表選手団全員でウィーンの街を見学に行ったときのことである。買物中とおぼしき2〜3人づれの中年婦人に、一員の石川邦夫さん(ミドル級)は声をかけられた「トミー・コーノ!?」
そう呼ばれた当の石川さんは、確かに風ぼうといい、体格といいトミー・コーノに似ているところがあった。
熱っぽい視線で声をかけられた石川さん、テレているかと思ったら、平然と「オー・イエス・アイアム・トミー・コーノ!!」と胸を張り、せがまれるままにサインをした。白い紙にはっきり〝石川邦夫〟と。
つぎは1963年、ストックホルムで行われた世界重量あげ選手権大会のときのことである。必勝を期してへルシンキで1週間の合宿トレーニングをしていたとき、地元の10〜12才ぐらいの少年2人が、連日ホテルのわれわれの部屋に遊びにきた。
この人なつっこい2人の少年と、手まね足まねで重量あげのハナシなどをよくしたが、ある日ちよっとからかい半分に「オレはトミー・コーノだ!!」と胸を張ってみせたら、「トミー・コーノはもっとこうなんだ!!」と肩をいからせて胸を張り、私を指さし〝お前はやせている〟という仕草をするのである。
いやはや、コーノの名がこれほど知られているとは知らなかった。
*
1961年5月26日、ホノルルで行われた競技会でミドル・ヘビー級プレスに158.5kgの世界新記録を樹立した瞬間。
<トミー・コーノの足跡>
いうまでもなく、ウェイト・リフターとして、あまりにも才能がすぐれ、世界記録を更新すること約30回。数少ないオリンピック2連勝者の1人であり、さらに、世界選手権8連勝という偉業をなし遂げた。それにつけ加え、ミスター・ワールドのタイトルを数回獲得、という素晴らしい経歴をもっているからである。
それに、彼の温厚な人柄が「記録破りの男」の人気をいやがうえにも高めたのである。
以下は、コーノが優勝したオリンピックと世界選手権大会のトータル記録である。
1952年 ライト級 362.5kg◎
1953年 ミドル級
1954年 L・へビー級 435.0kg ○
1955年 L・へビー級 435.0kg
1956年 L・へビー級 447.5kg◎○
1957年 ミドル級 420.0kg
1958年 ミドル級 430.0kg ○
1959年 ミドル級 425.0kg
(註:◎印はオリンピック、○印は世界新記録)
上記のようであるが、その後も優勝こそできなかったが、次のような活躍を続けたのである。
1960年 ミドル級2位 427.5kg ㋔
1961年 L・へビー級3位 430.0kg 世
1962年 L・へビー級2位 455.0kg 世
1963年 ミドル級 スナッチで失格 世
(註:㋔はオリンピック、世は世界選手権大会。1963年、コーノはじめて敗退。時に33才)
Χ Χ Χ
たいていのチャンピオンは、一度負けるとすぐ引退してしまうが、コーノはそうしなかったのである。
結局、東京オリンピックの前年を最後に選手生活にピリオドを打ってしまった。われわれ日本人にとっては、東京でもう一度花を咲かせてもらいたかったが、ついにこの偉大な彼の姿を見ることはできなかった。
<ぜんそくに悩んだ少年時代>
コーノの両親は広島県人で、高野貫一氏の四男として生まれた。
彼は、2〜14才まで〝ぜんそく〟に悩み、あの〝怪力コーノ〟とはほど遠い弱々しい少年だったという。
そんな病弱なコーノを心配した友人の1人が、健康法として重量あげを勧めたのが動機で病みつきになったということである。
多分、その頃のコーノは、日に日に丈夫になり、体力が強くなる喜びに胸をおどらせていたに違いない。
17才で北カリフォルニア州重量あげ選手権大会に出場した彼は、ライト級2位に入賞。この好成績でトレーニングにも一段と熱が入るようになった。また、同胞ハロルド・坂田(1948年ロンドン・オリンピック、ライト・へビー級2位。その後プロレスラーに転向し、グレート・東郷とタッグを組んで活躍、日本のマットにも何度か登場した)の刺激も手伝い、世界の王者への道をばく進するようになった。
<好敵手は3人のソ連選手〉
しかし、コーノの連勝記録といえども、決して安易なものではなく、ときには連勝をはばまれそうになったこともあった。その都度コーノは、不屈の精神でライバルに勝ち世界の王座に君臨しつづけたのである。
コーノの好敵手をあげるとすれば、先ず一番にF・ボグダノウスキー(ミドル級)であり、次いでT・ロマキン(L・へビー級)といえよう。この両者は、ともにソ連の選手で、コーノの全盛期に史上に残る数々の熱戦を展開したのである。
ロマキンとの対戦でコーノが苦しめられたのは、1954年の世界選手権大会のときである。プレスとスナッチで5kgの差をつけられたコーノは、最後のジャークで172.5kgの世界新記録をマークし逆転優勝をなしとげた。コーノがもしこれに失敗し、ロマキンが165kgぐらいのジャークに成功していたら、連勝記録は2度で終わっていたであろう。
1957年から59年にかけての3年間はボグダノウスキーとの激烈な優勝争いに終始した。
ことに、1957年の世界選手権大会では、両雄ともトータルで420kgの世界タイ記録をマークし、かろうじてコーノが体重差で優勝を手にした。
1958年の大会では、コーノが430kgボグダノウスキーが422.5kgと、そろって世界新記録を樹立したが、これもコーノが逃げきりの優勝。
1959年は、ボグダノウスキーがスナッチに失敗したため、コーノの楽勝となり、8連勝の金字塔をうちたてた。
これ以後、コーノは1960年のローマオリンピックにミドル級で出場し、重量あげ史上初のオリンピック3連勝をねらっていたが、ソ連の新鋭A・クリノフの前に惜しくも破れ去り、ついに3連勝の夢はならなかった。
それにしても、コーノの好敵手は常にソ連の選手ばかりであったことは興味深い。
産経ボディビル・クラブで得意のポーズを見せるトミー・コーノ。うしろに〝WELCOME MR KONO〟の張り紙が見える。
<ミスター・ワールドの栄冠>
最近は、このコンテストは行われなくなったと聞いているが、記憶の限りでは、1970年オハイオ州コロバスの大会のものが最後ということになるようである。
このときは、アマチュアの部でケン・ウォーラー(アメリカ)、プロフェショナルの部でアーノルド・シュワルツェネガー(オーストリア)が優勝した。この最後のミスター・ワールドはオリバ、コロンボ、ドレイパー、ティネリーノ、コーなど、そうそうたる顔ぶれが一堂に会した、それまでにない高度なコンテストであった。
トミー・コーノが、何度かミスター・ワールドを獲得したといっても、いま述べた1970年のミスター・ワールドのように世界のトップ・ビルダーたちが数多く参加したコンテストだったわけではない。それに、もともとウェイトリフターには何点かの上積み点が与えられていたので、必ずしも名実ともにミスター・ワールドのチャンピオンとはいえないかも知れない。
それにしても、やはりすぐれたチャンピオンであったことに異論はない。
1955年のミスター・ワールドでは、いまもその名を知られているフランスのアーサー・ロビンに8ポイントの差をつけて優勝した。
この大会にはイランのベテラン・リフター、M・ナムジューも参加し、イギリスのジョン・リーと同点で4位に入賞した。とくに、この大会で見せたナムジューのアクロバティックな演技を盛り込んだポージングは大きな話題を呼んだ。
コーノが1961年のミスター・ワールドを獲得したときは、私はこの目で彼の肉体美を確かめることができた。
控室でコーノを見たところでは、身長165cm、体重およそ78kgで、それほど素晴らしいとは感じなかった。むしろ、われわれの仲間の大内仁選手(当時ミドル級)のほうが立派に見えた。といっても大内選手はコンテストには出場しなかったが……。
ところが、コンテストを見て私は驚いた。万場の観衆は「トミー・コーノ!!」のアナウンスとともにステージに勇姿を現わしたコーノを見て、他のビルダーたちよりもはるかに多くの猛烈な声援を送ったのである。そして、コーノがポーズをとりはじめると、場内は静まりかえってしまい、ポーズが決まると、ため息と感激の口笛をするばかりであった。
私は目をサラのようにして、彼のポーズを頭の中に焼きつけようとした。しかし、広背筋を強調するポーズをとったとき、その広がりの素晴らしさに目を奪われ、そのあとはどんなポーズをとったかわからなくなってしまった。
結局、この大会でもコーノは、2位B・マーチ(アメリカ)、3位G・マイアック(フランス)を押えてミスター・ワールドの栄冠に輝いた。
私自身、トミー・コーノの肉体美をこの目で見て感じたことは、決してコーノの体はバルク型でもデフィニション型でもなく、そうかといってリラックスしている時など、プロポーションがよいとも思えないのだが、ひとたびポーズをとると、体がひと回りもふた回りも大きくなったように見え、バランスのとれた美しい、しかも迫力に満ちたポーズで観衆を魅了するから不思議である。
コーノの美しく逞しい体は、見る者をして、他のビルダーにない〝何か〟を感じさせるのである。それは多分、重量あげで鍛え、ボディビルで補った独得のトレーニング法と、天分の体のしなやかさなどが一体となってかもし出すのであろう。
プロポーションのよさとポーズで'61ミスター・ワールドを獲得したコーノ(中央)。左は2位のB・マーチ、右は3位のマイアック。(筆者撮影)
<最後の世界新記録>
そのころ彼は「近い将来、日本選手は軽量級で優勝するチャンスがあるだろう」と予言していたが、確かにそれは当っていた。
1961年にも〝里帰り〟してくれたが、今度はぜひ両親の母国日本で世界新記録を樹立したいと意欲満々で来日、日本の関係者にとって願ってもないことを目的として来たのだった。
結果は、彼の予定であったM・へビー級プレスの世界新記録更新はならなかったが、2〜3日後のエキジビションで、L・へビー級プレスの世界記録を更新する153.5kgに成功、日本のファンを喜ばせてくれた。
こうして約10日間滞在し、世界新記録を〝置き土産〟にしてくれたこともあって、彼が帰国してからもしばらくは、コーノで始まりコーノで終わるというブームを巻き起こした。
日本からアメリカに帰国?したコーノは、その年5月26日ホノルルで行われた競技会で、M・へビー級プレスに158.5kgの世界新記録を樹立し、およそ一昔前からの好敵手ロマキンがローマ・オリンピックで樹立した記録を書き変えた。
このときの彼の体重は、M・へビー級のリミットより6.5kgも軽い83.5kgしかなかったのである。しかも、今どきのようなジャークまがいのあげ方ではなく、まったく反動を用いないミリタリー・プレスだったのである。
いずれにしても、多分、これがコーノの最後の世界新記録樹立となった記念すべき競技会となったのである。
昭和33年に来日し早速コーチするコーノ(右端)。ベンチ・プレスをしているのは宇土選手('57ミスター日本)。立っているのは左が矢沢選手('58ミスター日本)と、染谷選手。
多数の見物人の前でプレスをするコーノ。
<国際コーチとして世界を股に>
その後、彼はボブ・ホフマンの編集する「ストレングス・アンド・へルス」誌に寄稿し、健筆をふるっているが、他にも、偉大なコーノにふさわしい職業が与えられている。
それは、いわずと知れた重量あげのコーチである。といっても単なるコーチではなく、世界を股にかけた「国際コーチ」なのである。
最初は、メキシコ・オリンピックを目指すメキシコ重量あげ選手の強化育成を手がけ、次いでこんどは西ドイツに渡り、ミュンへン・オリンピックを目指す西ドイツ選手のコーチと、世界の重量あげ界から引っ張りダコである。
そして次は、モントリオールを目指すカナダ選手の指導ということになりそうである。
いずれにしても、尊敬するトミー・コーノが、次々と優秀な選手を育て、世界に送り出してくれることを期待したい。
1963年ストックホルムで行われた世界選手権大会でのスナップ。減量中のため厚着をしている(筆者撮影)
昭和33年3月に来日したコーノは、関係者の熱烈な歓迎を受けたが、女性にも大変な人気だった。
なお、私ごとき者が偉大なコーノを語るには、少々知識不足であり、読者の皆さんに満足いただけたかどうか疑問である。
本来ならばコーノ氏とは「トミー、ケンジ」の仲である大沼賢治氏(現早大職員で、かってライト級ジャークで非公認ながら世界新記録を成し遂げた日本重量あげ界のけん引力となった人)あたりが書くべきところだと思う。
機会があったらひとつ大沼氏に筆をふるってもらいたいと勝手に考えている次第である。
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