”日本ボディビル史”〈その1〉
月刊ボディビルディング1975年8月号
掲載日:2018.03.02
日本ボディビル協会副会長 田鶴 浜弘
~~~まえがき~~~
もともと、スポーツのすべてに、ボディビルディングのねらいがあり、日本に於いても、その観念に変りは無かったと思う。
ボディビル思想は、古代ギリシャ以来の流れである事は間違いない――その証拠に、古代ギリシャの遺跡からは、古代オリンピックと、数々の彫刻が逞しい健康な人間讃歌をたたえているではないか。
近代ボディビル・ムーブメントを、私は単なるスポーツとしてのみならず近代文明公害の中での、これこそは貴重な人間主張の提唱として、大きく意義づけをしたいと思うのだ。
アメリカやヨーロッパ以外のボディビル先進国の一つであるイランの場合に、私は、特別の興味をひかれる――と云うのは、この国は、古代ペルシャ時代のシルク・ロード以来、西欧文明と東洋文明を結ぶのだが、イランには、個有の民族ボディビルとして有名な“コシティ”が古くから伝たわっていて、その“コシティ”には、ペルシャ民族の興亡の歴史が秘められているのだと聞く。
“コシティ”は、樫の木の根棒(重いものは10kg以上)が、バーベルの代りで、肉体を鍛練するのだが、かつて強大を誇った大ペルシャ帝国滅亡後も、ペルシャ民族の武勇を永く後世に残し、いつの日かの再起に備えよう――と云う悲願をこめて、山中の穴倉道場で、青少年の心身を鍛練する愛国のボディビルとして、ひそかに伝承されて来たと云われているのだ。
近代オリンピックで、イランがレスリングに強い秘密が、実は“コシティ”にあったという有名な挿話のみならず、そのペルシャ民族興亡史という何千年にもわたる壮大なロマンに、私は心うたれる。
ボディビル・ムーベメント誕生以前の日本人社会の風俗文化にも、怪力づくり、ないしは武芸とかスポーツなどのための筋肉づくり(マッスル・ビルディング)の修業(この場合、単にトレーニングと云うより修業と云う語感がふさわしい)と、健康増進のための体操などは行われていたが、逞しい筋肉美を人間讃歌として追求しよう――と云う近代ボディビル感覚は、とぼしかったようである。
それにもかかわらず肉体美えの求道が、今日かくも盛大に至ったのは何故であろうか――と云うと、第2次世界大戦に敗れたみじめさ(世界の経済大国になり上って以来久しい今日の日本人には、いや、私自身も、もうすっかりあの頃の悲しい実感は忘れ去った)のなかからボディビル・ムーブメントが発生するに至ったのは、単なるカッコ好さえの追求では決して無いので、敗戦日本の焦土から立ち直ろうと云う強烈な日本民族復興意欲の社会背景からうまれたのだ――と云うことに大きな意義がある。
この点を私は、ここで特に強く主張し、今日のビルダー諸君の注意を喚起しておきたい――当時の詳細はあとに書く。
従って日本のボディビルも、その点に於ては、逞しい民族の執念がこもるイランの“コシティ”の場合と、何か一脈相通ずるものがあるではないか。
ところで、日本におけるボディビル・ムーブメント以前の怪力ないし筋肉作り修業だとか、健康増進のための身体づくりが後年のボディビル・ムーブメントにつながる土壌になったようである。
それらの状況だが、戦前のスポーツ関係を思い出して見ると、特に、陸上競技や格斗競技の選手たちの間では、専門の筋肉増強のためのマッスル・ビルデング・トレーニングが盛んであって、夫々が工夫を凝らしたものである。
その一例として思い出すのは、大正末期から昭和初年にかけて東京高師(今の教育大)の投擲(スローイング)選手として活躍した安東熊夫選手などはマッスルビルに憑かれてしまって、極端なまでの筋肉発達と、或は何か先天的な内科疾患か障害体質が重なったのかも知れないが、発達し過ぎた筋肉による内臓圧迫と云う奇病を患うのである。
一般的に使用されていた用具は鉄亜鈴、エキスパンダーだとか、それぞれ手製のバーベル類似のものなどで、本物のペーベルはあとになる。
怪力づくりえの執念から、すばらしい筋肉美をつくりあげた世界的怪力者の若木竹丸氏が、たしか昭和8年頃であったか、同氏独自のマッスルビルである自転車タイヤのチューブを用いた筋肉鍛練法を完成し、その著書“怪力法”を刊行したのが、その時代の日本のマッスルビルに一時代を劃した感があった。
そして怪力を追求した若木氏が、その結果として、目的の“怪力”と同時に、“肉体美”の両方を得たわけである。
若木氏の場合と比較して誠に面白い対照をなすのが近代ボディビルの始祖ユーゼン・サンドウの場合で、サンドウは全くその逆であった。
つまりサンドウは“肉体美”の追求のために鉄亜鈴運動に取り組み、目的とする“肉体美”の完成と同時に“怪力”をも併せて得たもので、この東西両氏は、トレーニング目的の出発点こそ違うが、結果はまことによく似ているのだ。
但し、結果が似ている事は必ずしも本質も同一であるとは云えないと思う。
日本におけるバーベルによるウェイト・トレーニングの開拓者は“重量挙げ”(ウェイトリフティング)競技のパイオニアである井口幸男氏であったと思う。
バーベル使用は、重量挙競技の輸入の歴史にはじまるのであり、昭和9年3月に日本体育協会が嘉納治五郎会長に依頼してオーストリーからバーベルを買って来てもらい、これを当時、世田谷にあった文部省体育研究所(大谷武一所長)に重量挙げ競技の研究を一任したのがはじまりである。
事の発端は、世界大戦のため流会になった1940年東京オリンピック準備の一環であった。
実際にそのバーベル操作と重量挙げ競技の研究に取り組んだのが、当時岡山県から上京し、日本体育会体操学校に学んだ井口氏で、井口氏は岡山時代米俵での怪力修行にならぶ者無い豪力を誇ったと聞く。
当時の重量挙げ競技は、体操競技の一つの種目として扱われていたし、研究は文部省体育研究所が本拠であっただけに、用具としてのバーベル、ダンベル等も肉体の鍛練用具としての研究テーマであったはずで、従って井口氏とバーベル運動、ならびに重量挙げ競技は、切っても切れない関係となる。
後年のボディビル・ムーブメント台頭期にはボディビルと井口氏が率いるウェイトリフティングの間の領域区分の問題などが派生したこともその点に由来するのだ。
だが、文部省体育研究所における当時のバーベル研究の主目標の実際は、何と云っても東京オリンピックを控えた至上命令の重量挙げ競技であったし、当時はまだ、国際的にもボディビル・ムーブメントはいい気なテーマとして育っていなかった。
昭和11年5月に、日本体操連盟の一行事として行なわれた第一回日本重量挙選手権大会で初の日本チャンピオンは井口氏が獲得し、昭和12年9月に日本重量挙連盟独立の旗あげにも、事実上の中心人物は彼であった。
その後、井口氏はウェイトリフティングによる記録追求の道を一路推進することになる。
ボディ・コンテストだが、これもまた、ボディビル・ムーブメント台頭以前の行事としては、あとに書くがウェイトリフティングの分野で行なわれた。それは、台頭期のウェイトリフティングが体操競技連盟の分野の一行事として行われたことと軌を一にするもであって、力を追求するのがウェイト・リフティング競技の本道であり、逞しい健康の象徴でる理想の肉体づくりを追求するのがボディビル夫々、本来目的は異なっているのが当然であろう。
ボディビル思想は、古代ギリシャ以来の流れである事は間違いない――その証拠に、古代ギリシャの遺跡からは、古代オリンピックと、数々の彫刻が逞しい健康な人間讃歌をたたえているではないか。
近代ボディビル・ムーブメントを、私は単なるスポーツとしてのみならず近代文明公害の中での、これこそは貴重な人間主張の提唱として、大きく意義づけをしたいと思うのだ。
アメリカやヨーロッパ以外のボディビル先進国の一つであるイランの場合に、私は、特別の興味をひかれる――と云うのは、この国は、古代ペルシャ時代のシルク・ロード以来、西欧文明と東洋文明を結ぶのだが、イランには、個有の民族ボディビルとして有名な“コシティ”が古くから伝たわっていて、その“コシティ”には、ペルシャ民族の興亡の歴史が秘められているのだと聞く。
“コシティ”は、樫の木の根棒(重いものは10kg以上)が、バーベルの代りで、肉体を鍛練するのだが、かつて強大を誇った大ペルシャ帝国滅亡後も、ペルシャ民族の武勇を永く後世に残し、いつの日かの再起に備えよう――と云う悲願をこめて、山中の穴倉道場で、青少年の心身を鍛練する愛国のボディビルとして、ひそかに伝承されて来たと云われているのだ。
近代オリンピックで、イランがレスリングに強い秘密が、実は“コシティ”にあったという有名な挿話のみならず、そのペルシャ民族興亡史という何千年にもわたる壮大なロマンに、私は心うたれる。
ボディビル・ムーベメント誕生以前の日本人社会の風俗文化にも、怪力づくり、ないしは武芸とかスポーツなどのための筋肉づくり(マッスル・ビルディング)の修業(この場合、単にトレーニングと云うより修業と云う語感がふさわしい)と、健康増進のための体操などは行われていたが、逞しい筋肉美を人間讃歌として追求しよう――と云う近代ボディビル感覚は、とぼしかったようである。
それにもかかわらず肉体美えの求道が、今日かくも盛大に至ったのは何故であろうか――と云うと、第2次世界大戦に敗れたみじめさ(世界の経済大国になり上って以来久しい今日の日本人には、いや、私自身も、もうすっかりあの頃の悲しい実感は忘れ去った)のなかからボディビル・ムーブメントが発生するに至ったのは、単なるカッコ好さえの追求では決して無いので、敗戦日本の焦土から立ち直ろうと云う強烈な日本民族復興意欲の社会背景からうまれたのだ――と云うことに大きな意義がある。
この点を私は、ここで特に強く主張し、今日のビルダー諸君の注意を喚起しておきたい――当時の詳細はあとに書く。
従って日本のボディビルも、その点に於ては、逞しい民族の執念がこもるイランの“コシティ”の場合と、何か一脈相通ずるものがあるではないか。
ところで、日本におけるボディビル・ムーブメント以前の怪力ないし筋肉作り修業だとか、健康増進のための身体づくりが後年のボディビル・ムーブメントにつながる土壌になったようである。
それらの状況だが、戦前のスポーツ関係を思い出して見ると、特に、陸上競技や格斗競技の選手たちの間では、専門の筋肉増強のためのマッスル・ビルデング・トレーニングが盛んであって、夫々が工夫を凝らしたものである。
その一例として思い出すのは、大正末期から昭和初年にかけて東京高師(今の教育大)の投擲(スローイング)選手として活躍した安東熊夫選手などはマッスルビルに憑かれてしまって、極端なまでの筋肉発達と、或は何か先天的な内科疾患か障害体質が重なったのかも知れないが、発達し過ぎた筋肉による内臓圧迫と云う奇病を患うのである。
一般的に使用されていた用具は鉄亜鈴、エキスパンダーだとか、それぞれ手製のバーベル類似のものなどで、本物のペーベルはあとになる。
怪力づくりえの執念から、すばらしい筋肉美をつくりあげた世界的怪力者の若木竹丸氏が、たしか昭和8年頃であったか、同氏独自のマッスルビルである自転車タイヤのチューブを用いた筋肉鍛練法を完成し、その著書“怪力法”を刊行したのが、その時代の日本のマッスルビルに一時代を劃した感があった。
そして怪力を追求した若木氏が、その結果として、目的の“怪力”と同時に、“肉体美”の両方を得たわけである。
若木氏の場合と比較して誠に面白い対照をなすのが近代ボディビルの始祖ユーゼン・サンドウの場合で、サンドウは全くその逆であった。
つまりサンドウは“肉体美”の追求のために鉄亜鈴運動に取り組み、目的とする“肉体美”の完成と同時に“怪力”をも併せて得たもので、この東西両氏は、トレーニング目的の出発点こそ違うが、結果はまことによく似ているのだ。
但し、結果が似ている事は必ずしも本質も同一であるとは云えないと思う。
日本におけるバーベルによるウェイト・トレーニングの開拓者は“重量挙げ”(ウェイトリフティング)競技のパイオニアである井口幸男氏であったと思う。
バーベル使用は、重量挙競技の輸入の歴史にはじまるのであり、昭和9年3月に日本体育協会が嘉納治五郎会長に依頼してオーストリーからバーベルを買って来てもらい、これを当時、世田谷にあった文部省体育研究所(大谷武一所長)に重量挙げ競技の研究を一任したのがはじまりである。
事の発端は、世界大戦のため流会になった1940年東京オリンピック準備の一環であった。
実際にそのバーベル操作と重量挙げ競技の研究に取り組んだのが、当時岡山県から上京し、日本体育会体操学校に学んだ井口氏で、井口氏は岡山時代米俵での怪力修行にならぶ者無い豪力を誇ったと聞く。
当時の重量挙げ競技は、体操競技の一つの種目として扱われていたし、研究は文部省体育研究所が本拠であっただけに、用具としてのバーベル、ダンベル等も肉体の鍛練用具としての研究テーマであったはずで、従って井口氏とバーベル運動、ならびに重量挙げ競技は、切っても切れない関係となる。
後年のボディビル・ムーブメント台頭期にはボディビルと井口氏が率いるウェイトリフティングの間の領域区分の問題などが派生したこともその点に由来するのだ。
だが、文部省体育研究所における当時のバーベル研究の主目標の実際は、何と云っても東京オリンピックを控えた至上命令の重量挙げ競技であったし、当時はまだ、国際的にもボディビル・ムーブメントはいい気なテーマとして育っていなかった。
昭和11年5月に、日本体操連盟の一行事として行なわれた第一回日本重量挙選手権大会で初の日本チャンピオンは井口氏が獲得し、昭和12年9月に日本重量挙連盟独立の旗あげにも、事実上の中心人物は彼であった。
その後、井口氏はウェイトリフティングによる記録追求の道を一路推進することになる。
ボディ・コンテストだが、これもまた、ボディビル・ムーブメント台頭以前の行事としては、あとに書くがウェイトリフティングの分野で行なわれた。それは、台頭期のウェイトリフティングが体操競技連盟の分野の一行事として行われたことと軌を一にするもであって、力を追求するのがウェイト・リフティング競技の本道であり、逞しい健康の象徴でる理想の肉体づくりを追求するのがボディビル夫々、本来目的は異なっているのが当然であろう。
〔世界的怪力者として知られる若木竹丸氏は、昭和の初め独自の研究成果を、その著”怪力法”で世に公開した。写真は若木氏が演ずる怪力の一芸〕
~~~日本ボディビル協会誕生以前の動きなど~~~
日本のボディビル・ムーブメントが本格的な形をととのえる以前に、その素地になるいろいろな動きがあった。
それらの中で、主なことがらについて、ここにあげておく。
先づ〔第1〕に、ウェイトリフティングをめぐるバーベル使用のウェイト・トレーニングによって逞しい身体づくりが注目を集めはじめると共に、昭和26年の第1回アジア競技大会における“ミスター・アジア・コンテスト”に際し日本選手の参加があり、その翌年には、日本における初のコンテストが行われるなど、ウェイトリフティングの関連行事としてではあるが“ボディ・コンテスト”という新しいジャンルの開拓があったこと。
それらの中で、主なことがらについて、ここにあげておく。
先づ〔第1〕に、ウェイトリフティングをめぐるバーベル使用のウェイト・トレーニングによって逞しい身体づくりが注目を集めはじめると共に、昭和26年の第1回アジア競技大会における“ミスター・アジア・コンテスト”に際し日本選手の参加があり、その翌年には、日本における初のコンテストが行われるなど、ウェイトリフティングの関連行事としてではあるが“ボディ・コンテスト”という新しいジャンルの開拓があったこと。
昭和27年、福島で行われたウェイトリフティング競技会の時に開催された日本で初めてのボディ・コンテストで優勝した当時の窪田登氏。
〔第2〕には、海外における日系ボディビルダーの活躍と、その存在が、大きい刺戟になったと思うこと。
〔第3〕には、時期を同じくしてクローズ・アップされたのが力道山によるプロレス・ブームで、プロレスとボディビルとの縁が深いだけに、これもまた刺戟になるのだ。
〔第4〕には、そうした中で、ボディビル・ムーブメント展開の拠点が相次いでうまれはじめたこと。
ミスター・アジア誕生のボディ・コンテストは、昭和26年3月、インドのニューデーリーで第1回アジア競技大会が開催され、ウェイトリフティング競技の関連行事として、ニューデーリーの国立スタディアムで(3月6日)おこなわれた。
イラン、マレイ、ビルマ、日本、インドの5カ国から、40名の参加で、日本は井口幸男、窪田登の両選手が出場する。
コンテストは、身長によって(5フィート6インチ以下)、(5フィート9インチ以下)、(6フィート以下)、(6フィート以上)の4クラスに分けて審査がすすめられた。
審査の採点基準は次の通り6項目合計の100点満点によるものであった。
(1)筋肉の発達状況 30点満点。
(2)身体の均整 20点満点。
(3)筋肉の均整 15点満点。
(4)ポージング(2回行う)20点満点
(5)反射機能の状況 10点満点
(6)人格(マナー)5点満点
競技の結果、ミスター・アジアの栄冠はインドの選手(パリマ・ロイ)が獲得し、日本の2選手は、初めてのことでおそらくポージング等の不馴れのためかと思われるが途中で棄権したさうである。
日本における、初のボディ・コンテストは、その翌年、昭和27年に、福島県平市でウェイトリフティグ協会の主催で行なわれる。
前年のアジア競技大会で初めて経験した“ミスター・アジア・コンテスト”によって啓発されたことと、福島県にはボディビルの先覚者とも云う可き額賀誠氏(広野町の医師)の一家が、その熱心な提唱者であったと聞いている
出場選手は、このコンテストで“ミスター日本”になった早大ウェイトリフティング部の窪田登氏をはじめとして、いずれもウェイトリフティング関係者20名であったと云う。
海外において活躍した日系ボディビルダーの中で、日本のボディビル・ムーブメント台頭に大きい影響力を与えたのはハロルド坂田とトミー・コーノであろう。
ロンドン・オリンピックでウェイトリフティング競技ライト・へビー級銀メダルから“ミスター・ワイキキ”になって、次いでプロレス入りしたハロルド・坂田は、昭和26年にプロボクシング元へビー級世界チャンピオンのジョー・ルイス等と共にプロレスラーとして来日したとき、力道山のプロレス入りを手引きするなど、日本のファンに親しまれる。
彼は、その後もプロレスラーとして何度も来日しているし、その初来日(昭和26年)のとき、彼の愛妻になった千枝子さんとのロマンスを実らせただけに、人的交流も多彩であったから、彼によって親しくボディビルを吹き込まれたり、次いで指導をうけた者も少なくない。
私が、はじめて逢ったときも、次のような具合であった。“ミイは生れつきやせっぼっちの弱虫だったンよ……バディビル(ボディビルと云わぬ)は、好きなところに好きなだけマッスルを肥らせてくれたネ……本当ョ、嘘でない証拠見せてあげます……こうやって、何処の肉でも思うように動かせる……わかるネ田鶴浜さん…”云いながら、得意のマッスル・コントロールで全身の筋肉をピクピクと実に器用で美事なリズムカルさで躍動させながら片眼つぶってニッと笑って見せてから、その“バディビル至上論”を一席聞かせて呉れたものである。
余談だが、ハロルド・坂田のマッスル・コントロールは抜群のうまさがあって、誰かが、こんな陰口をたたいていたほどである。
“坂田が女を口説には詞はいらねエ、ダンスしながら女を抱いて、あのでかい大胸筋をブルン!ブルン!と揺すらせたら、大概の女は、それだけで1コロさ…”
またロンドン・オリンピックのウェイトリフティング、ライト級金メダルのトミー・コーノも1954年の“ミスター・ワールド”ショート・マン・クラスに優勝の他、アメリカのトップ・ビルダーとして、彼の来日はずっと後になるが当時すでにアメリカのボディビル雑誌を賑わせていたのも私共日本の同好者に与えた影響力は大きかったと思う。
〔第3〕には、時期を同じくしてクローズ・アップされたのが力道山によるプロレス・ブームで、プロレスとボディビルとの縁が深いだけに、これもまた刺戟になるのだ。
〔第4〕には、そうした中で、ボディビル・ムーブメント展開の拠点が相次いでうまれはじめたこと。
ミスター・アジア誕生のボディ・コンテストは、昭和26年3月、インドのニューデーリーで第1回アジア競技大会が開催され、ウェイトリフティング競技の関連行事として、ニューデーリーの国立スタディアムで(3月6日)おこなわれた。
イラン、マレイ、ビルマ、日本、インドの5カ国から、40名の参加で、日本は井口幸男、窪田登の両選手が出場する。
コンテストは、身長によって(5フィート6インチ以下)、(5フィート9インチ以下)、(6フィート以下)、(6フィート以上)の4クラスに分けて審査がすすめられた。
審査の採点基準は次の通り6項目合計の100点満点によるものであった。
(1)筋肉の発達状況 30点満点。
(2)身体の均整 20点満点。
(3)筋肉の均整 15点満点。
(4)ポージング(2回行う)20点満点
(5)反射機能の状況 10点満点
(6)人格(マナー)5点満点
競技の結果、ミスター・アジアの栄冠はインドの選手(パリマ・ロイ)が獲得し、日本の2選手は、初めてのことでおそらくポージング等の不馴れのためかと思われるが途中で棄権したさうである。
日本における、初のボディ・コンテストは、その翌年、昭和27年に、福島県平市でウェイトリフティグ協会の主催で行なわれる。
前年のアジア競技大会で初めて経験した“ミスター・アジア・コンテスト”によって啓発されたことと、福島県にはボディビルの先覚者とも云う可き額賀誠氏(広野町の医師)の一家が、その熱心な提唱者であったと聞いている
出場選手は、このコンテストで“ミスター日本”になった早大ウェイトリフティング部の窪田登氏をはじめとして、いずれもウェイトリフティング関係者20名であったと云う。
海外において活躍した日系ボディビルダーの中で、日本のボディビル・ムーブメント台頭に大きい影響力を与えたのはハロルド坂田とトミー・コーノであろう。
ロンドン・オリンピックでウェイトリフティング競技ライト・へビー級銀メダルから“ミスター・ワイキキ”になって、次いでプロレス入りしたハロルド・坂田は、昭和26年にプロボクシング元へビー級世界チャンピオンのジョー・ルイス等と共にプロレスラーとして来日したとき、力道山のプロレス入りを手引きするなど、日本のファンに親しまれる。
彼は、その後もプロレスラーとして何度も来日しているし、その初来日(昭和26年)のとき、彼の愛妻になった千枝子さんとのロマンスを実らせただけに、人的交流も多彩であったから、彼によって親しくボディビルを吹き込まれたり、次いで指導をうけた者も少なくない。
私が、はじめて逢ったときも、次のような具合であった。“ミイは生れつきやせっぼっちの弱虫だったンよ……バディビル(ボディビルと云わぬ)は、好きなところに好きなだけマッスルを肥らせてくれたネ……本当ョ、嘘でない証拠見せてあげます……こうやって、何処の肉でも思うように動かせる……わかるネ田鶴浜さん…”云いながら、得意のマッスル・コントロールで全身の筋肉をピクピクと実に器用で美事なリズムカルさで躍動させながら片眼つぶってニッと笑って見せてから、その“バディビル至上論”を一席聞かせて呉れたものである。
余談だが、ハロルド・坂田のマッスル・コントロールは抜群のうまさがあって、誰かが、こんな陰口をたたいていたほどである。
“坂田が女を口説には詞はいらねエ、ダンスしながら女を抱いて、あのでかい大胸筋をブルン!ブルン!と揺すらせたら、大概の女は、それだけで1コロさ…”
またロンドン・オリンピックのウェイトリフティング、ライト級金メダルのトミー・コーノも1954年の“ミスター・ワールド”ショート・マン・クラスに優勝の他、アメリカのトップ・ビルダーとして、彼の来日はずっと後になるが当時すでにアメリカのボディビル雑誌を賑わせていたのも私共日本の同好者に与えた影響力は大きかったと思う。
オリンピック重量挙二連勝、ボディビル界でも数々のタイトルを獲得したトイー・コーノ。写真は1958年”里帰り”したとき集まった日本のファンの前でポーズをとるコーノ。
ボディビル・ムーブメン展開の拠点になる人々だが、のちに、その推進力の中心となる早大バーベル・クラブの誕生があった(昭和29年)。
早大バーベル・クラブの詳細については次号にゆずるが、大学スポーツ活動としてボディビル専門の集まりは早大バーベル・クラブが最初であった。
早くから健康づくりに取組んでいたY・M・C・Aのバーベル・クラブも当然有力な拠点で、東京以外の地方にも、Y・M・C・A系列のウェイト・トレーニングによる身体づくりはウェイトリフティングと併行していたようである。
その他、仙台には、北大教授の英人バートン・イー・マーチン氏がボディビルの熱心な提唱者で、S・H・クラブを主率し、また前記の福島県広野町の額賀グループがあったし、関西にも、大阪、神戸に同好者がうまれはじめるのだが、私の勉強不足で全国に少なくないはずの幾多のボディビル先覚者について不明の点が多いのを残念に思う。
従って、ここでは取りあえず手許にある全国ボディビル・ジム・リストの中から、協会設立前後に設立されたボディビルジムをあげておく。
日本ボディビル・センター(東京渋谷 益坂)小寺金四郎、平松俊男
後楽園へルス・ジム(東京文京区)岡村憲佶
サンケイ・ボディビル・センター(現在は無いが東京有楽町)
兼岩道場(靜岡駅南口)兼岩元城
中日へルス・クラブ(名古屋中日スタジアム内)中村清
中心体育会笛(京都市北区)小野藤二
神戸ボディビル・ジム(神戸市生田区)田近斐、田近英二
堺ボディビル・センター(南海線堺駅前)佐野誠之
ナニワ・ボディビル・クラブ(大阪北区堂島)萩原稔
福岡ボディビル・センター(福岡市奈良屋町)太田実
(次号につづく)
早大バーベル・クラブの詳細については次号にゆずるが、大学スポーツ活動としてボディビル専門の集まりは早大バーベル・クラブが最初であった。
早くから健康づくりに取組んでいたY・M・C・Aのバーベル・クラブも当然有力な拠点で、東京以外の地方にも、Y・M・C・A系列のウェイト・トレーニングによる身体づくりはウェイトリフティングと併行していたようである。
その他、仙台には、北大教授の英人バートン・イー・マーチン氏がボディビルの熱心な提唱者で、S・H・クラブを主率し、また前記の福島県広野町の額賀グループがあったし、関西にも、大阪、神戸に同好者がうまれはじめるのだが、私の勉強不足で全国に少なくないはずの幾多のボディビル先覚者について不明の点が多いのを残念に思う。
従って、ここでは取りあえず手許にある全国ボディビル・ジム・リストの中から、協会設立前後に設立されたボディビルジムをあげておく。
日本ボディビル・センター(東京渋谷 益坂)小寺金四郎、平松俊男
後楽園へルス・ジム(東京文京区)岡村憲佶
サンケイ・ボディビル・センター(現在は無いが東京有楽町)
兼岩道場(靜岡駅南口)兼岩元城
中日へルス・クラブ(名古屋中日スタジアム内)中村清
中心体育会笛(京都市北区)小野藤二
神戸ボディビル・ジム(神戸市生田区)田近斐、田近英二
堺ボディビル・センター(南海線堺駅前)佐野誠之
ナニワ・ボディビル・クラブ(大阪北区堂島)萩原稔
福岡ボディビル・センター(福岡市奈良屋町)太田実
(次号につづく)
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