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「ビル・パール物語」〈4〉
経営者とスターとしての両立

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月刊ボディビルディング1974年1月号
掲載日:2018.07.03
高山 勝一郎
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七つのジムを経営

 ビル・パールがジムの経営に手を染めてから、まる2年が過ぎた。

 この頃には、サクラメントを中心にして、ビルのヘルス・ジムは7ヵ所に増えていた。23才と云えば、ジムの経営に限らず、何かを経営していくのに充分な年令とはいい難く、また、それだけの苦労を積まねばならなかったのだが、26才になんなんとして、7つのジムのオーナーになったことも、ボディビル界ではまず異例だった。

 その7つのジムで、ビルが雇用していた使用人が40人。1つのジムに平均6人を配置して、ジムの維持、清掃、コーチなどにあたらせていたが、みんながみんな経験を積んだエキスパートだったわけではないから、ビルの苦労たるやひとしおだった。

「ビル、練習生がスクワットをやっていて、腰の骨を痛めたらしいんですがどうしましょうか」「ビル、会員の一人が、われわれの与えたトレーニング・プログラムではどうしても効果が出ない、ルーティーンを再検討してくれと云っていますが……」「ビル、管理人がフロアに傷がついていると文句をいってきましたが……」等々、いろんな問題が殺倒してきて、ビルの心の休まる暇はなかったのである。

 それらの問題を解決しなければならないのは、いやがおうでもビル自身であったから、彼はこの7つのジムの間を往復するだけで、体力と筋肉とそして時間をすり減らしていた。

「ビル、君はどうしてそう急激にジムを増やすんだ。これでは君の健康に影響が出てきはしないだろうか」

 レオ・スターンはあくまでビルの身が心配だった。

「自分でも知らぬ間にジムが増えてしまったんです。あちらでボディビルの愛好者が集って私を呼ぶ、また別のところでフィジカル・フィットネスの必要性を感じてグループが出来る。どうしてもいやだと云えなくて……」

 採算を度外視して作ったジムも多かったから、彼のフトコロ具合はいつも苦しかったが、この頃のビルの眼は、この世界に尽す生きがいに燃えて、いつもキラキラと輝いていた。

誘い

 そんなある日、ヨーク・バーベル会社からビルへ長距離の電話がかかってきて、ビルを驚かせた。
「私はヨークのジョン・ターパックといいます。実は、本年度のNABBAミスター・ユニバースのコンテストにぜひビル・バールさんのご出場をおねがいしたいと思いまして」

「今年のユニバースに?」

 ビルは、ジム経営で疲れはてた自分の体調を考えて、声をとぎらせた。
「もちろん、全費用は当社で負担させていただきます。ぜひ出ていただきたいのです」

「なにぶんに、いまの私はトレーニング不足でとても……」

「実は、内状を打ちあけますと、ジョー・ワイダー氏のIFBB側から、ジャック・デリンジャーがプロの部で出場することになっているのです。ワイダー氏のやり方が、コマーシャリズム一辺倒であることは一般のよく知るところですが、何とか真のボディビルがかくあるべし、という姿を打ち出したく思いまして……」

「お気持はうれしいが、いまの私には自信がありません。お断りさせていたけたらありがたい」
 ビルは電話を切ったあと、すぐレオ・スターンに連絡をとった。

「それはやはり断ってよかった。君のいまの体調で、ジャック・デリンジャーに勝つことは不可能だよ」

 レオも冷静にそう判断したのだった。

 しかし、次の日も、そして次の日もヨークからの熱心なすすめの電話はかかってきた。ビルがまだ幼ない頃、生まれてはじめて手にしたバーベルがヨークの製品であったことと、いまの自分の環境を考えて、ビルはフト感無量になり、そして、ヨークのすすめどおりユニバースに出て見ようか、と考えようになってきた。

 レオ・スターンはこれに猛烈な反対をした。そして最後にサジを投げた。

 コンテストまでには、あとわずか3ヵ月を余すだけだった。

敗北

 1956年ミスター・ユニバース・コンテストの前景気は上々だった。

 1953年度のAAUミスター・アメリカのビル・パールと、1956年度AAUミスター・アメリカのジャック・デリンジャーの一騎打ち、これは大変なみものだと、世界中の人々がこのコンテストに注目した。

 とくにアメリカではこれが大きな話題となり、9月23日のコンテスト当日には、数百人の観客がアメリカからロンドンの会場におしよせた。

 その日。

 ビルは3カ月間のトレーニングでようやく体調をとり戻したが、また例の旅行病が出て、ロンドンでの3日間を無為に過ごし、ベスト・コンディションとはいえない状態だった。

 それでも彼はプロの部のトールマン・クラスでルー・マーティン(英国)とアーノルド・ダイソン(英国)を破り優勝することができた。

 一方、ジャック・デリンジャーはプロの部ショートマン・クラスでレジ・パークの義弟にあたるジョン・イサックを破り、またイギリスのトップ・ビルダー、ジム・サンダースをもくだしてこれも優勝、いよいよプロ・ユニバースの総合優勝を、予想どうり2人で争そうことになったのである。

 NABBA会長オスカー・ハイデンスタム氏がステージ中央に歩みよると場内はシーンと水を打ったように静かになった。

「発表します。プロ・ミスター・ユニバース……ジャック・デリンジャー君、2位ビル・パール君……」
 この瞬間、ビルは生涯で最も大きい敗北を味わって、勝負の厳しさを胸にかみしめていた。

ジムの整理

「今度のコンテストは、本当にいい勉強になりました。これからはトレーニング一筋に打ち込みます。そして、コンテストに出る時は、自分が100パーセント自分の体に自信のもてる、そういう時だけに限ります」

 ビルはアメリカに帰って来ると、レオ・スターンに会ってそういった。

「よくそこに気がついた。君はまだ若い。これからいくらでも可能性があるんだ。とりあえず、ジムを少し整理して、トレーニングに打ち込めるようにした方がよいと思う」

「ええ、帰りの飛行機の中で決心したんです。ジムは6ヵ所を整理して、最初に作ったサクラメント・ジムだけを残します」

 それはビルにとって大きな転換だった。ジムの経営、後進の指導。これはビルの生きる糧であり、かつ生きがいであった。その大半を切りすてることは、ビルにとって身を切られるようにつらいことであった。

 しかし彼はそれをあえてやった。

 6つのジムを人手に売り渡したのである。

 この時期、ビルの表情は淋しげだった。とくに、ジムに練習にきていたビルの多くのファンがビルと別れることをいやがって、またそれがビルにとってもつらく、何回か涙を見せたことがあったという。

 6つのジムの売却で得たお金は、最後に残ったサクラメントのヘルス・ジムに注ぎ込んでこれを拡充し、ビルがここで自分のトレーニングに集中することに決めたのは、1957年の暮もおしせまった頃であった。

リーヴスの訪問

 あけて1958年、ビルのジムは繁栄の一途をたどり、ジムへの入会者はあとをたたなかった。

 また、ビル自身も当初の目標どおりにトレーニングに寸暇を惜しんで打ちこみ、体調はすばらしい回復を見せてきた。

 そんなある日、このジムに一人の珍しい訪問者があった。

 広い肩巾、ひきしまった腰腹部、スラリと長い足、そして何よりもその秀麗な容貌。"わあっ、スティーヴだ!スティーヴ・リーヴスだ"と、ジムの練習生がなだれをうって玄関口へ殺倒したのでも判る。2代目ミスター・ユニバース、スティーヴ・リーヴスの訪問であった。小型の、たぶんアルフア・ロメオであろう、いきなスポーツ・カーが玄関に横づけになっている。

「初対面のような気がしませんね。あなたに会うのは、ビル」

「私も。あなたのような大先輩においでいただいて恐縮です。で、どのようなご用なのでしょう、ミスター・リーヴス」

 ビルは丁重に聞いてみた。

「いや、恥ずかしい話ですが、あなたのジムでコーチとして働けたらと思って……」

「エッ!あなたのような大ビルダーが私どものコーチに……?」

 ビルは信じられなかった。リーヴスはパリッとした洋服を着ていたし、だいいちイタリーのスポーツ・カーだって乗り廻しているではないか。

「恥を申さねばなりませんが、女房がどうも浪費家でね。わずかばかりのテレビ出演料だけではどうにもならないので、定職を探していたのですよ。パールさんと一緒に働けたら楽しいだろうと考えたわけです」

「それは光栄です。でも、私のジムも貧乏経営、コーチの方に払える謝礼も1時間わずか3ドルなのですよ。大先輩をとてもそんな安サラリーで拘束できません」

「それはチョットばかり期待はずれですな」リーヴスは屈託のない顔でほがらかに笑った。

「仕方がない。実はイタリーの映画会社から、ヘラクレス映画に出演の話がきているのですがね。気がむかなかったのですが、行ってみるほかなさそうだ」

 リーヴスは、ビルと夕食を共にし、楽しくボディビルの話に花を咲かせたあと、スポーツ・カーに乗っていずこともなく走り去った。

 そののち、ビルは、スクリーン以外でこのスティーヴ・リーヴスと再び会うことはなかったのである。

 リーヴスはこのとき選んだ自分の道をまっすぐ歩み、映画スターとして以後不動の地位を築いた。人間としてのビルとリーヴスの歩んだ道は、このとき以来大きく違っていくことになるのである。

カムバック

 一方、ビル・パールの師であり友であるレオ・スターンは、写真家としての分野でも名を挙げはじめていた。

 レオのスカイライト・スタジオで撮ったビルの写真が、沢山の雑誌に載りはじめたのもこの頃からである。

「ビル、いよいよ君のダブル・タイトルを取る時期が近づいたようだ。ミスター・ユニバースにもう一度挑戦してみるとよい」

「そうですね。今度は目標を2年後におき、トレーニングを重ねてベストに持っていける自信があります」

 二人は、この新しい目標をたて、共に意欲をもえたたせた。

「昨年はレジ・パークがNABBAのダブル・タイトル・ホルダーになっている。ビル、君がそうなるのも時間の問題だ」

 レオはそういってビルを励まし、ビルはビルで、連日4時間、週7日休みなしの猛トレーニングに突入していった。彼の体位は、いままでになかったレコードを記録し、とくに腕囲21インチ(52.5cm)にバルク・アップしたことが、レオをはじめ関係者をおどろかせた。

 かくして、ビルは1961年ミスター・ユニバース・コンテストにエントリーした。

 時を同じくして、NABBA本部からレオ・スターン宛に、コンテスト審査員としての招へい状が届いた。レオは熟考した上、これを丁重に断った。

 レオとビルの師弟関係は有名だったし、ビルが優勝した時に何らかの情実があったのか、とうたがわれてはビルが可愛そうだという、レオの思慮があってのことだった。

ダブル・タイトル

'65NABBA ミスター・ユニバース・コンテストで優勝したジャック・デリンジャー

'65NABBA ミスター・ユニバース・コンテストで優勝したジャック・デリンジャー

 当時、イギリスの"ヘルス・アンド・ストレングス"誌には毎月"New BillPearl"という写真シリーズが掲載されていた。もちろん、写真はレオ・スターンの提供である。

 ビル・パールは、だから、イギリスでも最高に人気のあるスター・ビルダーであった。

 当日、会場となったロンドンのヴィクトリア・パレスは、この大スターを一目見んものとつめかけた観衆で大混乱を招き、警官隊が派遣されるというありさまであった。

 すでに、誰の眼にも、このビル・パールが総合優勝することは間違いない事実である、とうつったらしく、一緒にビルについて来たレオ・スターンはもう一度人々に乞われてあらためて審査員席にすわらせられてしまった。

「100パーセント自分の体が完全にならない限りコンテストには出ない」というビルの信念は、以前から一般の人々にも伝説のように知れわたっていたから、「彼が出場する以上、彼は100パーセント完全であり、そうである以上は彼に勝てる選手がいる筈もない」という単純な結論を招いていたのかも知れない。

 だから、レオ・スターンが情実で審査する余地も無く、ビル・パールは、文句なしの総合優勝をとげてしまったのである。

 そのコンテストの行われた日の夜、ローヤル・ホテルでは、全出場者とNABBA関係者が集って、盛大なダンス・パーティが開かれた。

 この夜の主賓は、コンテスト1位のビルであってよい筈だったが、彼は人々の間に小さくなって、目立たず誇らず、一人静かに坐っていた。

 この会場に、アール・メイナードという若者がいた。アメリカから6度目のコンテスト出場だったが、入賞を逸してくさっていたのが、ミス・ビキニにかこまれて話をしているうちに、つい陽気になって大声を挙げて笑ったりしていた。

「僕の尊敬するビルダーは、何といってもビル・パールさ。きょうは、ステージで彼のポージングを見ることが出来なかったんだが、何としても一度拝みたいもんだ」

 そんな話をしている間も、ホール中央ではオスカー・ハイデンスタム氏に指名されたビルダーが、シャツをぬいでは得意のポーズを見せている。

 「きょうの花形スターさんはどこにいったのかしら。全然めだたない方ね」

 ミス・ビキニ嬢がつぶやいた。

「それがビルのいいところさ。あの謙虚さはとても僕らには及びもつかない」アールは自分のことのように肩をそびやかした。

 そうこうしているうちに、ホールでの余興ポージングはみんな終ってしまった。

「アレ?ビル・パールはポージングしなかったのかな」アールは変な顔をした。

「アラ、ビル・パールさんは一番最初に出たのよ。あなた、知らなかったの?」ビキニ壌にからかわれてアールは顔色を変えた。

「しまった。100万ドルのポージングを見そこなってしまったのか」

 彼は本当に残念そうな顔をして、その場でじだんだを踏んだ。

 このアール・メイナードこそ、これより3年ののち、1964年NABBAプロ・ミスター・ユニバースになり、さらに1965年IFBBミスター・ユニバースになったその人である(つづく)
月刊ボディビルディング1974年1月号

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