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私の歩んだ道
ボディビルと共に十七年

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月刊ボディビルディング1974年1月号
掲載日:2018.05.20
'66IFBBミスター・ワールド ショートマン・クラス4位
木村 武

チビはやっぱりチビだった

 私がボディビルを始めたのはいまから17年前、中学2年生、13才のときである。現在でもやっと154cmしか身長のない私は、その当時からクラス一番のチビだった。別に病気をしたこともなく、いたって健康ではあったが、身長に比例して体力も弱く、どんな運動でも人並みにできるものはなかった。

 ガキ大将はどこにでもいるように、私の家の近所にもそして同級生にもいた。からだが小さくてケンカの弱い私が「チビ!ちょっとこい」と、いつもあわれないじめられ役になったのは当然である。

 そんなわけで、私がボディビルを始めた動機というものは、決して健康管理だとか、運動不足の解消などというのんきなものではなく、少しでも大きくなりたい、体力をつけて強くなりたい、そしてあのガキ大将どもをやっつけたい、いや、やっつけるのは無理だとしても、せめていじめられ役から逃れたい、という切実な子供心からだったのである。

 初期のボディビルといえばすぐ出てくるのがプロレスであり、力道山である。私もはじめてテレビでプロレスを見たとき、そこに映し出された力道山の胸のすくような技と強さ、これこそ私が夢に描いていた英雄の姿だった。たちまちプロレス・ファンになった私は、金額は忘れたがいくらかの会費を払って力道山後援会に入会した。

 そのころ力道山が東京の人形町にレスリング・センターを開設した。後援会員だった私は、このニュースを聞いて、いてもたってもいられずすぐに入会した。このセンターの目的はプロレスラーの養成と、一般の人を対象としたボディビルによる体格・体力の向上で、その後各地にできたボディビル・ジムの草分けだった。

 その当時はまだボディビルという名前も耳新しく、しかも力道山や東富士をはじめ、本職のプロレスラーたちと一緒に練習ができるというので、逞しい肉体にあこがれた若者たちがぞくぞく入会してきた。

 最初に書いたように、私の身長は現在でも154cmである。当時クラス一番のチビだった私がプロレスラーになろうと真剣に考えていたといっても信じる人はだれ一人いないだろう。しかし私は本気でそう考えていたのである。身長が低いのは、ただ人よりも成長が遅れているだけで、ボディビルをやればきっとプロレスラーのような体格になれると子供心に信じていたのである当時、よくプロレスラーたちから「木村君、ずいぶん一生懸命やっているようだが、まさかそのからだでレスラーになろうなんて考えているんじゃないだろうな」といわれたものだ。

 約1年間というものは、勉強もそっちのけで、それこそボディビルに明けボディビルに暮れる毎日だった。学校の授業が終わるのを待ちかねて人形町まですっとんでいくや、夜遅くなるのも忘れて練習に打込んだ。しかし悲しいことに私の身長はいっこうに伸びようとはしなかった。1年間たってもクラス一番のチビはやっはり一番のチビだった。
私のビフォア・アンド・アフター。左は開始後3カ月、右は3年後。

私のビフォア・アンド・アフター。左は開始後3カ月、右は3年後。

プロレスラーをあきらめ重量あげ、ボディビルへ転向

 この頃になってようやく自分のからだが小さいのは持って生まれた体質であり、たんに成長が遅れているからではないことがわかった。いくら練習をしたからといって、プロレスラーはおろか、人並みの体格になるのも無理だと考えるようになった。

 しかし、1年間熱心に練習したおかげで筋肉や体力はだいぶついてきた。そして、こんどは小さくても体重制のある重量あげなら練習次第でなんとかやれるだろうと考えた。

 いまはなくなったが、その頃、日暮里に東洋ボディビル・クラブというのがあった。ここではボディビルと重量あげの両方の練習ができるようになっていた。コーチは以前重量あげをやっていた照井進さんであった。重量あげに方向転換した私は、さっそく入会金300円、1カ月分の会費500円を払って入会した。中学3年生、14才のときである。

 なんでも思い立つとすぐ熱中する私は、こんどは明けても暮れても重量あげの練習に打込んだ。国立競技場に窪田登先生をたずねて、いろいろお話をうかがったりしたこともある。そのとき、ちょうどローマ・オリンピックを目指してトレーニングしていた三宅義信選手と一緒になり、2人ではだかになってどっちがいい体格をしているか自慢し合ったのを覚えている。

 重量あげの練習をはじめて約1年がすぎた頃、やっぱりこれもあきらめることにした。これは決して私があきっぽいからではなく、プロレスラーにしろ重量あげにしろ、根本的に選手になる素質がないことをさとったからである。重量あげ3種目の記録もこの1年間でずいぶん伸びたが、それもまったく素人の域を出るものではなく、とても一流選手を望むのは無理なことがわかったからである。それからはただボディビル一筋に今日にいたっている。
1966年IFBBミスター・ワールド・コンテストに出場したときの私

1966年IFBBミスター・ワールド・コンテストに出場したときの私

故三島由紀夫氏の思い出

 東洋ボディビル・クラブもその2年後には閉鎖されることになり、こんどは新しく千代田区にできたサンケイ・ボディビル・センターに移った。

 そのころ、新進作家として注目されていた三島由紀夫氏もここでトレーニングに励んでいた。三島氏は小さいときから病弱で、なんとかこれを克服したいと剣道とボディビルを始めたときいた。とにかくすごいハード・トレーニングで、とても近寄りがたい雰囲気がただよっていた。

 それでなくても当時すでに有名だった三島氏に、私ごときものが気軽に話しかけられるはずもなく、そのころは会ったときにちょっと挨拶をする程度だった。

 サンケイ・ボディビル・センターも約1年で閉鎖されたので、こんどは後楽園ジムへ移った。そしてここでまた三島氏と一緒にトレーニングをすることになった。

 ある日、私がジムに入っていくと、三島氏がニコニコしながら近づいてきて「きのう銀座のイエナ洋書店で雑誌を買ったら君が載っているじゃないかたいしたもんだ」とアメリカのボディビル誌"ミスター・アメリカ"を手にして話しかけてきた。

 ちょっとここで"ミスター・アメリカ"誌に私が載ったいきさつを説明しよう。

 私がボディビルを開始して3年目ぐらいのときだった。始めて神田の古本屋でアメリカのボディビル雑誌を手に入れた。そこには当時有名なチャック・サイプス、レジ・パーク、ビル・パールといったチャンピオンたちが載っていた。なんとかこんな人たちと文通したり、もっと詳しいことを知りたいと考え、この“ミスター・アメリカ”誌を出しているIFBBのワイダー会長やパーカー理事長によく手紙を書いた。また、日本のコンテストの模様や当時の日本の一流ビルダーの写真なども送ってやった。その中に私のポーズ写真やビフォア・アンド・アフターの写真も入れてやったので、これが雑誌に載ったというわけである。

 話が横道にそれたが、三島氏とはこんなことが縁となって、その後よくお茶を飲んだり一緒にごはんを食べたりするようになった。そして、たしか昭和42年だったと思うが、三島氏が日生劇場や上野文化会館で上演された「河岸のおどり」という戯曲を書かれることになり、築地の魚市場に勤めている私に一度ゆっくりと河岸を案内してくれないかという話があった。もちろん私は喜んで案内したのであるが、その後いちだんと親しくなり、よく自宅に遊びにいったり、休日など魚を料理してやったりした。

 天才作家と魚河岸のアンチャンの組合せはまことに奇妙にうつるにちがいない。話の内容といえばきまってボディビルのことで、三島氏も決してむずかしい文学論などを持ち出して私を困らせるようなことはしなかった。ただボディビルの話の中でほんの一言か二言であるが、必ず人生というものについてふれることがあった。

 ではここで三島氏独得のトレーニング法を紹介しよう。

 本誌73年5月号で窪田先生が命名され紹介された「ピサの斜塔」である。これは腹筋運動のレッグ・レイズの変形であるが、ある程度の経験者でも5〜6回やればダウンしてしまうほどきつい運動である。三島氏はこれを10回以上繰り返していた。

 つぎはデクライン・ダンベル・プレスである。もちろん大胸筋の運動であるが、三島氏はベンチ・プレスはほとんどやらず、胸の運動といえばこれ専門である。これは大胸筋の下部によく効くやり方で、三島氏の写真をみればわかるように腹筋と大胸筋下部がとくに発達しているのがわかる。

 三島氏と最後に会ったのは、あの割腹事件の1週間ぐらい前だった。いつものように後楽園でトレーニングをしており、あとから私がいくと、ふだんと少しも変わらず、きょうは何セットやったとか、どうだ最近は腕も太くなったろうなどと話しかけてきた。おそらく1週間後に起こったあの事件を、三島氏はすでに心に決めていたのであろうが、そういったことは態度や言葉からはまったくうかがい知ることはできなかった。

 あの事件は私にとっては非常にショッキングな出来ごとだった。あの偉大な作家が私のようなものを1人前の友人として扱ってくれ、私も三島氏のそばにいることによって、いつも何か教えられるものがあっただけに、事件のニュースを聞いたときは全身から血が引いて一瞬なにもわからなくなってしまった。

 三島氏の文学は別として、あの事件および三島氏の人格をどう評価していいのか私にはわからなかったが、目の前が真暗になった私は、それまで欠かさず週に3日はトレーニングしていたのが2日となり1日となり、いつしかジムから遠ざかるようになってしまった。

コンテスト初出場と海外遠征

昭和36年第1回ミスター全日本コンテスト。右端が4位に入賞した私

昭和36年第1回ミスター全日本コンテスト。右端が4位に入賞した私

 話は前後するが、私が最初にコンテストに出たのは昭和33年、大阪で行われたミスター浜寺コンテストである。成績は15位だったが、ボディビルを始めて2年目、15才になったばかりのときだっただけに、これからの努力次第ではあるいはミスター日本になれるのではないかと喜んだものである。とにかく、いくらレベルが低かった当時とはいえ、15才という年令は、その後の全日本クラスのコンテストでは例をみないのではないだろうか。

 このコンテスト初参加以来、昭和44年ごろまで、東京で行われたミスター日本コンテスト、大阪地区で行われたミスター浜寺、ミスター全日本等のコンテストには欠かさず出場した。古いボディビル・ファンならきっと私の勇姿(?)に記憶があると思う。154cmという身長は、どこのコンテストにおいても必ずゼッケンはNo.1なのである。コンテストの幕があき、選手団の先頭に立って入場してくるのがこの私だからである。

 上位入賞の記録としては、昭和36年第1回ミスター全日本コンテストの4位である。このときの優勝は、のちにプロに転向し現在でも活躍中の大久保智司選手、2位はミスター日本にもなった金沢利翼選手、3位はミスター日本コンテストで何回か決勝まで進出した東勝選手、そして4位が私であった。

 前にも書いたように、その後もIFBBの会長や理事長さんとの文通は続いていた。そして、ぜひユニバースかワールドのコンテストに出てみないかという誘いの手紙が何回もきていた。

 私も本場アメリカのボディビル視察とビッグ・コンテストを一度見たいと考えていたので、1966年度のミスター・ワールド・コンテストに出場することにした。父に頼んでアメリカまでの往復旅費を出してもらい、それまでにいくらか貯めておいた貯金をふところに単身アメリカに渡った。ことわっておきたいのは、私がそれまで多くの外国のボディビル関係者と文通したり、海外コンテスト出場のために2回もアメリカに行ったりしているので相当英語ができるのではないかと錯覚される人がいるかも知れないが、実は英語はまるっきりだめなのである。

 私の知人で1966年度ミスター日本の土門義信氏がそのころロスアンゼルスにおられたので、アメリカに着くや、まず土門さんをたずね、ニューヨークまでの旅行についてこまごまとアドバイスを受けたものである。しかし一歩街に出るともういけない。どっちを向いても外人ばかりである。いや、アメリカ人にしてみれば外人が1人ということになるのだが。まあ2日ばかり遅れはしたがなんとかニューヨークにたどりつくことができた。この間はヤジキタ道中、いやそれ以上で、いろいろ面白い話もあるが、誌面の都合でそれはいずれ機会をみて書いてみたい。

 ミスター・ワールド・コンテストの会場は、ニューヨークの中心街にあるアカデミー・ミュージック・ホールでちょうど東京の日劇くらいの大きい会場だった。人場料は10ドル(当時のレートで3600円)だった。その当時の日本のコンテストといえば、海岸やデパートの屋上で無料で見せていたものだった。

 それがなんと3600円。しかも超満員というのだから、その権威の高さ、スケールの大きさに驚いた。ただ意外だったのは出場選手が少ないことだったショートマン、ミディアムマン、トールマンの3クラス合わせてやっと17名だった。

 このとき優勝したのが日本でもなおじみのセルジオ・オリバであった。雑誌などではときどき見ていたがすぐそばで彼を見たときの私の驚きはまさに心臓が止まるほどショックを受けたといってもいい。どう見てもわれわれと同じ人間のからだではない。まるで筋肉のオバケだ。もちろん私は最初から上位入賞をねらっていたわけではないが、オリバを見てそのあまりのすごさに、すでに自分の成績など眼中になかった。こんなすごいオリバが出るのを知って多くのビルダーたちは出場を取り止めたのに違いない。幸いにして私はショートマン・クラスの4位に入賞することが出来た。これは多分、はるばる遠く日本からやってきたことへの同情と、私がとびきり小さすぎて、他の選手との比較がむずかしかったという条件にも恵まれていたと思う。

 第2回目の海外遠征は1968年度ミスター・ワールド(ニューヨーク)とミスター・ユニバース(マイアミ)の出場である。成績はいずれもショートマン・クラスの4位だった。なお、ミスター・ワールドに日本から一緒に参加した武本蒼岳選手は2位に入賞するとともにベスト・レッグ賞を獲得した。
1968年ミスター・ワールド・コンテスト。前列中央が武本選手、その左が私

1968年ミスター・ワールド・コンテスト。前列中央が武本選手、その左が私

しまいに

 三島氏の事件のあとしばらくトレーニングを中止したことはあったが、中学2年生、13才のときに始めていま30才。すでに17年間ボディビルを続けている。魚河岸に勤めるかたわら、三菱製紙ボディビル部のコーチを引受け、週3日、1日1時間のトレーニングを欠かしたことがない。とくに過日のミスター日本コンテストの前は1日3時間のハード・トレーニングを6カ月間続けた。17年前の仲間で現在までボディビルを続けている人はほんの数えるほどしかいないのが残念である。

 ガキ大将をやっつけるために始めたボディビルだったが、いつしかプロレスラーを目指し、重量あげ選手を目指し、そしていずれもだめになったが、私にとってそれよりもはるかに大きな収獲があった。それは健康と体力である。魚河岸の仕事は朝早く重労働である。しかし、ボディビルで鍛えた疲れを知らない私のからだは、きょうも生きのいい魚のようにピンピンとはねまわっている。いつまでもいつまでもボディビルを続けていきたい。
月刊ボディビルディング1974年1月号

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