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ボディビルと私<その10>
”根性人生”

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月刊ボディビルディング1974年2月号
掲載日:2018.07.26
東大阪ボディビル・センター会長
元プロレスラー  月影 四郎

私の育てた2人のコーチ

 ”根性人生”の筆をとって早くも10回目。毎月なにか少しでもお役に立てばと思いながらとりとめもなく、内容のとぼしい自叙伝になってしまったことをおわびしたい。
 さて今回は、私の育てた2人のコーチ、滝川君と門屋君についてちょっと触れてみたい。

 新年を迎えてことしは”とら年”、東大阪ボディビル・センターの年男がコーチの滝川君。しかも、私がここにジムを開設して1周年。ようやく軌道に乗りかけたこのジムを一段と飛躍させなければならない大切な年でもあり彼には大きな期待をかけている。

 前号で紹介したように門屋コーチも滝川コーチも、一般の人と少しも変わらない普通のサラリーマンだった。会社が終わってから道場に駆け込んでくる姿は、健康をとり戻し、体力をつけてハッピーライフを求めようとしているだけだった。それがいつの間にかボディビルの魅力にとりつかれ、いまではコーチとして後進の指導にあたっている。

 門屋コーチは入門以来、人の2倍も3倍ものきつい練習と時間をかけ、 見事均斉のとれた強い体力と知性の豊かさを自分のものにした。その過程には前号で述べたような”宙ずりシット・アップ”や”肩にバーベルを結わえつけたヒンズー・スクワット”などのような人間ばなれのしたきびしい練習が待ちうけていたのである。

 彼にとって最初の半年間は自分自身との苦しい闘いであった。それによく堪えた彼は、やがてトレーニング法を身につけ、 指導法の研究に打ち込むようになり、今日では日本でも有数のコーチとなり、ボディビルの普及発展のために献身している。

 さて次は、私の東大阪ボディビル・センターの滝川コーチ。彼は生粋の大阪人。小柄ではあるが戦国の武士の風格をそなえ、「われこそは大和民族の血を引くものなり」と悦に入る明るい人気者である。私との出会いは、国際月影道場を開設したときである。当時国際日活に技術者として勤務していた彼は、道場開設に忙殺されている私を大いに助けてくれた。

 そのころの滝川コーチは、若いのに下腹が少し出っ張り、そのくせ顔色はいつも青白く生気のない青年だった。 よく話を聞いてみると、子供のころから弱く、 病気という病気はほとんど経験したという。そして、親戚の人から「こんどはだめらしい」といううわさが何度も出たほどであった。それがために、力の強いプロレスラーや、 格闘競技には人一倍の関心とあこがれをもっていたらしい。

 月影道場もなんとか完成し、新しい器具が運び込まれてくると、彼は毎日きてバーベルに触れたり、 うらやましそうに部員たちの練習を見学していた。私は最初レスリング部員と比べて、あまりにも貧弱な彼に同情し、「どうですか。よかったら一緒に練習してみませんか」と声をかけてみた。しばらくして、われわれが準備体操を始めるとすみの方で遠慮がちに練習するようになった。そんな彼が、いまでは見違えるばかりの逞しい肉体の所有者となり優秀なコーチに育って、 私の右腕としてなくてはならない存在となっているのである。

 彼は普通の練習では満足せず、足腰を鍛えるために、国際ビルの冷暖房用の石炭運びをかって出た。石炭をモッコに入れて階段の多い出入口から、地下の機関室への運搬は絶好のトレーニング場だった。

 宿直も進んでやり、夜、 誰もいない練習場で1人もくもくと練習することもあった。さらに、ビルの温度の点検も引受け、 5階から順に地下まで走って点検していくという、 スタミナ養成にはもってこいの仕事で、体にいいことならなんでもやるという積極さだった。しかもその間に、冷暖房技術者の国家試験に合格したのをはじめ、私との出合後だけでも、自動車免許、映写技術者1級免許、ボイラー技士免許、危険物取扱主任免許、高圧ガス取扱主任免許等を次々と取得するという努力家だった。

 このことは、幼くしてお母さんに死別し、不遇時代に培われた逞しい生活力と、道場入門後に鍛えられた強い肉体と根性が、前述のような得がたい資格をいくつも手にしたのであろう。

 それからの彼は、体力が強くなったばかりでなく、性格も明るくなり、昔の彼とはまるで生まれ変わったようになって、 国際ボディビルの選手として現在は私の東大阪ボディビル・センターのコーチとして活躍している。
〔第2回ミスター全日本コンテストの入賞者たちと。左から3位・鬼堂選手、私、 1位・梯選手、 私の後援者でありボディビルのよき理解者の野口国際会館社長、3位・東選手〕

〔第2回ミスター全日本コンテストの入賞者たちと。左から3位・鬼堂選手、私、 1位・梯選手、 私の後援者でありボディビルのよき理解者の野口国際会館社長、3位・東選手〕

第2回ミスター全日本の思い出

 ミスター浜寺コンテストに続いて第1回ミスター全日本コンテストもきれいな浜寺の海岸で行われてきたが、いよいよこの白砂の海岸での開催も不可能になる日が近づいてきた。

 というのは、高度経済成長の波は当然この阪神工業地帯にも押し寄せ、 あれほどきれいだった海岸も徐々に汚染されてきた。さらに臨海コンビナートとして次々に埋立てられ、昔の面影はなくなってきたからである。

 思えば真夏の太陽の下で、思う存分オゾンを吸って、全身に紫外線をいっぱいに受けながら、出場選手たちがコンテスト前のウォーミングアップしている姿を見るとき、 ほんとうのコンテストはこれでなくてはいけない、恵まれた大自然があって、はじめてそこに建康があるんだ、と感じたものだ。

 さて1962年7月21日、こうした状況下で第2回ミスター全日本コンテストが開催された。すでに5代のチャンピオンも誕生し、着々と実績をあげてきてこの大会の権威も定着し、全国各地から優秀な選手たちがぞくぞくと集まってきた。

 当初は審査員への批判や不満が大会後に各ジムの間でささやかれたものだった。採点基準や審査方法等が現在ほど確立されていなかった当時としては審査員に対する尊敬も、そのジムの先輩への範囲を出ていなかった。おのずからジム間の目に見えない葛藤も多くひいき主義による採点があるなどの中傷が絶えず、いつもあと味の悪いうわさが流れたものである。

 しかし5年を経過したこの大会の雰囲気は、その後の協会役員の努力により審査の公正、 審査員への信頼と権威が確立され、 選手たちにもそれがよく理解されてきたようだった。そして、 スポーツマン・シップに従って、 ただ勝てばよいという狭い考え方から、日頃の鍛練の成果を舞台上にくりひろげ堂々と相手に打ち勝つという、健康と肉体美を競うボディビルにふさわしい考え方に変わってきた。

 ボディビルに限らずいかなるスポーツにおいても、 日頃の地道な努力が優勝という栄誉につながるのであり、いかに前年のチャンピオンといえども、この努力を怠ったならば、たちまちその座をすべり落ちることは明白である。たとえそこに多少のひいきがあったとしても、長い間の精進の差は歴然とあらわれ、それをくつがえすことはとうてい不可能である。

 この5年の間にも、このことは事実となって何回かあらわれた。そして、選手の間にも、よしやってやろう、という強い意志と努力があれば、必ずそれが報われることがわかってきたようだ。とくにボディビルにおいては、きわめて地味で、しかも苦しいふだんの努力がコンテストという華やかな舞台で実を結ぶのである。

 こうして厚い選手層の参加を得て大会はいやがうえにも盛りあがった。私も審査員として慎重に審査を続けた。どの選手を見てもこれほど粒のそろった大会ははじめてであり、全員が昨年の入賞レベルに達しているようにさえ感じられた。

  中でも私の道場にいた三羽烏の1人である重村洵選手によく似た感じの梯政治選手が群を抜いているように感じられた。果たして1962年度のミスター全日本は、映画スターのようなムードをもち、 端正なマスクと男らしく発達した全身の筋肉、 それに抜群のプロポーションを兼ね備えた梯選手が選ばれた。2位には(元)ナンバ・ボディビル・ センターの至宝といわれ、 日頃からデフィニションの良さで定評のあった鬼堂明久選手、 3位には背筋にものをいわせ、 こうもりのように羽ばたくポーズで話題になった三重県出身の東勝選手が選ばれた。

部分賞の変わり種は脚の部をとった空手界の新星、迎明文選手である。さすがに空手というはげしいスポーツで鍛練しただけあって、見事な脚の持主だった。また、 腕の部分賞をとった坂本政雄選手(福岡)は、 この大会の最年長選手で、たしか43才だったと記憶している。たとえ年令を経ても、日ごろの節制と練習法の研究次第では、堂々と若者に打ち勝ち、いかにボディビルの寿命が長いかを示してくれた点で、まことに有意義であった。

 この大会をふりかえってみて、いままになく教訓あり、感激あり、進歩あり、いろいろのドラマがあって私の最も印象の強い大会の1つとなった。
 役員と選手の間にもお互いに信頼と権威があり、スポーツマン・シップに満ちたこの大会は、ボディビル界の夜明けを迎えたような明るいものだった。
〔第2回ミスター全日本コンテストの浜寺会場につめかけた大観衆〕

〔第2回ミスター全日本コンテストの浜寺会場につめかけた大観衆〕

第3回全日本コンテスト 梯政治選手が2年連続優勝

 さて、第2回全日本コンテストをもって、思い出多い浜寺海岸ともお別れかと残念がられていたが、埋立ての予定が延び、結局もう1年ここで開催できることになった。

 この第3回大会では、前年度に続いて梯選手が2連勝を飾った。そして2位には九州の新鋭、小笹和俊選手が入った。小笹選手は翌年の第4回と第5回の全日本コンテストで優勝し、 1967年の第13回ミスター日本にもなっている。さらに1966年にはIFBBミスター・ユニバースのショートマン・クラス2位という日本人初の快挙をなしとげている。デフィニションなどという言葉もまだあまり使われていなかった当時だが、それまでのチャンピオンたちに見ることができなかった筋肉のすごいキレをもっており、日本のボディビル界にデフィニションの重要さを認識させた第1号のビルダーといっても過言ではないだろう。さらに彼はこの大会で腕と腹の2つの部分賞をも獲得している。第3位には、見事なプロポーションと発達した脚をもった吉田薫選手(京都)が選ばれた。

 こうして何かと偏見をもって見られていたボディビルも、ようやく一般大衆にも理解されはじめ、社会体育の場として広く普及されはじめてきた。そして、新しい練習器具の開発やトレーニング法の研究も急速に進んできた。 私が昔、 レスリング時代に経験した、ただ重い鉄のかたまりを使ってメチャクチャに体を鍛えるというのではなく近代的な器具を使って理論的なトレーニングをするという、カラリとした明るいボディビル観が生まれ、これに魅力を感じた若者たちが、ぞくぞくこれを実践するに及んで、ボディビルも草分け時代から、ようやく成長期、黄金期へ向ってすべり出していった。
 次号は本格的道場の経営への歩みを紹介することにしたい。
〔第3回ミスター全日本コンテスト。左から3位・吉田選手、 1位・梯選手、 2位・小笹選手〕

〔第3回ミスター全日本コンテスト。左から3位・吉田選手、 1位・梯選手、 2位・小笹選手〕

月刊ボディビルディング1974年2月号

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