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右手26、左手24のタコが物語る
パワーリフターとコンテスト・ビルダーの両立

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月刊ボディビルディング1974年2月号
掲載日:2018.07.20
'73 JFBBミスター東日本プロ2位
国分寺トレーニング・ジム会長 関 二三男

ビルダーの願い

「形が良く筋力の強いからだ」これはビルダーの誰もが願っていることであろう。しかし、現実にはこの両方を兼ね備えることはなかなかむずかしい。私もパワーリフティングでは過去に何回か優勝しているが、ボディコンテストにおいては残念ながら決勝に進出したことさえない。ボディビルを始めてから19年、いつかはきっとこれを両立させたいと願っていただけに、今回の東日本プロ2位に入賞できたことを素直に喜んでいる。

 去年の春頃、遠藤さんと私、それに選手3名の計5名が沖縄でのボディビル・デモンストレーションに招待されていることを聞き、私は秘かに期するものがあった。デモンストレーションの際、他のビルダーに比べてパワーリフターがあまりにも違う体形をしていたのでは、ボディビル全体を見たとき決して良い印象を与えないだろうと考えたからである。

 当時、私の体重は72kg、腹囲は81cmで、バルクはあったが、どう見てもコンテスト・ビルダーらしいデフィニションはなかった。5月のオール・ジャパンのパワーには4.5kg減量して、ようやくライト級リミットいっぱいの67.5kgで通過した。

 ふつう大会が終わって4〜5日もすればたちまちもとの体重に戻ってしまうのであるが、今回は大会を終えた時点で体重増量にストップをかけた。前述の沖縄行きが8月初旬と決定したからである。

 そこでまず67.5kgの体重を維持しながら、からだ全体のデフィニションを出さなければならない。とくに、腹部にまったく凸凹がないのに気付き、ここを重点的に鍛えることにした。ここ数年間というもの、ほとんどパワー1本にしぼっていた私は、どうしても腹筋のトレーニングがおろそかになっていたのである。腕、胸、脚にしても、パワーの練習でバルクはついたが、やはりキレが足りなかった。

 5月20日のパワー大会に続いて7月1日にはミスター・オール・ジャパン・コンテストが行われた。当日、私は決勝進出者の体位測定を担当した。これは、いままでとかく体位の誇大表示が問題となっていたので、審査終了後に実測し、これを公表してビルダーの参考にしようという趣旨であった。

 実測していて気付いたことは、各サイズともいままで想像していたよりはるかに少ないことだった。ステージであれほど太く見える腕が実測40cm以下であり、あんなに大きな逆三角形の胸が120cmないのである。それがいったん舞台に上がるとあんなに大きく見える。デフィニションは美しく見せると同時に、バルクをもカバーしているのに違いない。そのとき、ついでに自分の腕を測ってみたら39cmであった。「よーし、これなら自分にもコンテストを目指す可能性がなきにしもあらずかな。あとはどうしてデフィニションをつけるかだ」と考えた。それに、プロ部門の選手に比較的デフィニションが欠けているのに気付き、努力次第では次の大会にはなんとか入賞できるのではないかと考えた。
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沖縄訪問でコンテスト出場を決意

 オール・ジャパン・コンテストも無事に終わり、8月に入ってすぐ、遠藤さん、私、吉村君、末光君、小先君の5名で沖縄を訪れた。私を除いた4人は現在、日本のビッグ・ビルダーたちである。

 最初のデモンストレーションは那覇市の流球ホールで行われた。まず、私と沖縄の誇るパワーリフター、仲村昌英君によるパワーの模範演技。それに続いて前記4選手によるポージングが行われた。そして翌日から2日間、県内各地を訪れて4選手によるポージングのデモンストレーションが行われたが、私はいつも1人洋服を着たまま見ているだけだった。このとき私が感じたのは、ビルダーとしてただ筋力があるだけでは片輪であり、ボディコンテストも狙えるような体格、形をも備えていなければ本当のビルダーといえないのではないかということだった。

 その後、ミスター山形コンテストに審査員として招かれ、出川昇君、末光君、小先君の4名で訪れた。続いて9月には私の故郷、栃木県からミスター栃木コンテストに役員、審査員として招かれた。いずれも私自身、JFBB東京連盟の理事長ということで、役員兼審査員として招かれたのだったが、もし私が一度でもコンテスト入賞を果たしていれば、ゲスト・ポーザーをも兼ねることができるのではないかと真剣に考えた。そうすれば各地方連盟などが中央から役員やゲストを招聘する場合、人数や費用の点でいくらかでも楽になるのではないだろうか。こんなことも刺激となって、私はますますコンテスト入賞を強く心に決めた。

東日本コンテストを目指して

 JFBBミスター東日本コンテストが12月2日と決まり、私の目標ははっきりした。まだ2ヵ月ちょっとある。ただその10日前に東日本パワーもありコンテストとパワーの練習を同時に進めなければならない。したがって、このときのスケジュールの主眼は、パワー3種目と全体的なデフィニション、とくに腹筋に重点を置き、各運動の間に必ずシット・アップをはさんだ。

 これは沖縄、山形、栃木の一連の大会を見て痛感したことであるが、コンテストでは筋肉の大きさも必要だが、それにも増してデフィニションが必要であり、その内でも腹筋の凸凹はステージに上がったときの最初のポイントとなり、しかも、体の真中であるから前面ポーズの場合はいつでも目につく。胸をアピールするときも、あるいは腕、脚をアピールするときも腹筋が悪くてはどうしても迫力に欠けてしまう。

 1ヵ月ばかりたったころ、腹囲も78cmと、3cmしまり、いくらか腹筋らしきものが出てきた。しかし、いかんせん私も32才。これ以上果たしてクッキリと出るものだろうか、それが気になった。

 そんなある日、たまたま訪れたボディビル通のK氏に私のポーズを見せたところ、まだまだダメだ。ジムやコンテストの控室で見たときはよく見えても、いざステージに上がると、その程度の腹筋ではまったく見えなくなってしまう」という手きびしい言葉が返ってきた。トレーニングの成果を自慢げに見せた私は、この言葉を聞いてビシリと胸にくるものがあった。腹筋ばかりでなく、からだ全体のキレを出すため、一段と練習に熱を入れた。
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腹囲75cmを目標に最後の追込み

 話が少し横道にそれるが、私は過去に4回コンテストに出場し、いずれも予選で落ちている。

 まず最初は'66ミスター東京コンテスト(優勝・後藤武男氏)で、そのときの私の体重は59kgしかなく細すぎ、次が'67同コンテスト(優勝・鈴木正広氏)で、これも61kgで細すぎてダメ。そして3回目が1昨年のミスター東京。今度は体重72kg、胸囲120.8cm、腕囲(右)42.1cmと、サイズだけは1級品だったが、腹囲が83cmもあり太すぎてこれまた落選。4回目が同年秋のミスター関東コンテスト。これも身長160cm前後の選手では各サイズともずば抜けて大きかったがデフィニション、ゼロで、どうしても決勝進出はならなかった。

 以上の4回の経験から、私のコンテスト熱も消えかかっていたのであるが「男ならもう一度勝負してみよう」と以前にも増したハード・トレーニングを自分に果したのだった。事実、過去4回のときより今度が一番良いように思えた。とはいっても、腹囲78cmはまだまだ太すぎる。なんとかしなければならない。あとは食事調整によるしかない。

 私は15年ほど前、新和拳でボクシングをやっていたことがある。ボクシングは、またの名をハングリー・スポーツという。当時の私の体重はコンスタントに48〜49kgだった。身長が同じで現在は70kgを越えている。そういえばボクサー時代はごはん、パン、めん類をほとんど食べたことがなかった。いくらトレーニングしても腹囲は77cm以下にはならない。あとは食事調節に頼るほかはなかった。そしてコンテストまでの1ヵ月間というもの、ほとんどごはんを口にしなかった。

 このコンテストには私のジムからアマの部に中川君(東日本7位、東京6位に入賞)もエントリーしていた。コンテストも近くなったある日、中川君は「会長はいくらでも好きなときに練習できるからいいなあ」というのである。さきほどのK氏の批評に続き、またしても私の胸に大きな衝撃を与える一言だった。

「確にそのとおりだ。アマチュアの選手でもびっくりするような節制とハードなトレーニングをしている。まして俺はボディビルでめしを食っているプロだ。アマとどこか違うところを出さなければならない」と自分の心に言い聞かせ、その日からさらに激しいトレーニングを"めし・パン・めん"抜きで始めた。

 私の手を見た人は、みんなタコの多いのに驚く。生まれつきあまり手が大きくないのでどうしてもタコができやすい。すでに以前から私の手は日本ボディビル界No.1のタコ保有であろうと思っていたが、今度は手のひらばかりでなく指と指の間にもタコができて、右手に26、左手に24、合わせて50ものタコができてしまった。

 東日本コンテストの10日前、11月23日に東日本パワーリフティング選手権大会が行われた。もちろん私もライト級に出場した。コンテストのためにウェート調整をしていたので、この大会にはなにもしないで朝食を摂って検量67.05kgで簡単に通過した。

 結果はライト級で優勝はしたものの記録的にはさんざんなものだった。ベンチ・プレス130kg、スクワット170kg、デッド・リフト205kg、トータル505kgで、デッド・リフトを除いては大幅に記録が落ちてしまった。これはボディコンテストに焦点を合わせていたので、パワーのための練習がおろそかになっていたためと、ウェート調整のために体力が消耗していたのが原因したらしい。ただ、デッド・リフトの記録だけが落ちなかったのは、バー・ローイングを毎日5セットやっていたおかげではないかと思う。

 やがてコンテストもあますところ1週間と迫った。腹囲も74.5cmと、ようやく目標の75cmを切った。これに自信を得て、炭水化物、でんぷん類、糖分を一切摂らないことにした。この時点でのトレーニング・スケジュールは次のようである。

①シット・アップ(角度45°) 20回

②スクワット  100 kg×5回、140kg×2回、160kg×5回、150kg×5回、140kg×5回  計5セット

③シット・アップ(①と同じ)

④ベンチ・プレス 90kg×10回、110kg×7回、110kg×7回、110g×6回、つぎにグリップを狭くして90kg×10回、90kg×9回、90kg×8回、90kg×8回 計8セット

⑤シット・アップ(①と同じ)

⑥チニング(ワイド) 20回から開始して最後は10回くらい 計10セット

⑦プッシュ・ダウン(自転車のチューブによる) 30回から開始して最後は20回くらい  計5セット

⑧バー・ローイング(プレートの手前を握ってゆっくりと)60kg×10回×5セット

⑨シット・アップ(①と同じ)

⑩バック・プレス 35kg×10回×5セット

⑪ダンベル・プレス 10g×10回×5セット

⑫ワンハンド・カール 15kg×10回×5セット

⑬シット・アップ(①と同じ)

[註]休憩はほとんどとらない。これをフルセットした場合の所要時間は約4時間。月・水・金はフルセットとし、火・木・土はこれの約半分とする。トレーニングは昼、夜の2回に分けて行う。

 1週間はまたたく間にすぎ、いよいよコンテストの日を迎えた。

 軽い朝食のあと体重を計ってみると64.5kgまで落ちていた。しかし、鏡で見る自分の腕の太さなどは、以前より4cm近く細くなっているにもかかわらず、まったくそれを感じさせなかった。
42cmあった最高時ほどでないにしても少なくとも40cmはあるように見えたから不思議である。これは多分、デフィニションが良くなったためにそう見えるのだろう。それにしても気持が良いほどウェストがしまって、腹筋の凸凹がクッキリと浮かびあがり、ポージングもスムーズに決まるような気がした 会場に着いて急いで選手控室に行ってみると、すでにみんな思い思いにパンプ・アップに余念がなかった。私もさっそく着替えて他の選手と腹筋を比べてみたが、私よりすごい腹筋の人はいないように思えた。これがそのまま舞台に出れば、なんとか3位以内に入賞できるに違いない。去る7月のミスター・オール・ジャパン(プロの部)の1位、2位が出場しているのだから、3位に入れば上々だと考えていた。

 しかし、結果は1位の飯富君に続いて2位に入った。これは5ヵ月前の沖縄訪問以来、デフィニション獲得だけを目指して行なったハード・トレーニングと炭水化物を極端に制限した食事法がこの成功をもたらしたもので、やろうとする強い意志さえあればなんでも出来るという尊い教訓と自信を得ることもできた。

 こうしてようやく念願のプロの部2位に入賞したといっても、アマ2位の長谷川選手より得点が悪いのである。

(このコンテストでは、アマ、プロを問わず同じ基準で採点し、順位だけをアマとプロに分けて表彰する)次回のコンテストではプロで優勝することはもちろん、得点においてもアマの優勝者を破り、名実ともにNo.1を目指して猛トレーニングを続けていくつもりである。

 われわれプロ・ビルダーは、他の一般の人より練習時間を沢山持ち、なおかつボディビルで生活しているのであるから、常に高い目標に向って頑張らなければいけないと思う。それがひいては練習生の手本となり、ボディビルの正しい普及、発展につながるものと確信している。
月刊ボディビルディング1974年2月号

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