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“日本ボディビル史”
<その2>

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月刊ボディビルディング1975年9月号
掲載日:2018.07.02
日本ボディビル協会副会長 田鶴浜 弘
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ボディビル・ブーム

 ボディビルが,いわゆるブームの様相を帯びて来たのは何時頃から――と云うと昭和30年の下半期あたりからであろう。

 日本の代表的なジャーナリズムが一斉にボディビルを採りあげたことが最大の原因であった。

 スポーツ・ニッポン新聞。

 読売新聞(週刊読売,娯楽読売を含む)。

 朝日新聞(週刊朝日を含む)。

 毎日新聞。

 サンケイ新聞。

 日本テレビ。などが特に積極的な姿勢であったと記憶する。

 ボディビル専門誌のかたちで取り組み,ブームの渦中に投ずることになるのが,プロレス専門誌として発足した私が主宰の“月刊 Fight”で,そうなった発端を,本誌(昭44年2月号)ボディビル風雲録の一節から抜粋しておく。

 “月刊 Fight”も5号を重ね,5月の風が快いある晴れた日の午后だった。八重洲通りに,まだ焼け跡が点在して見えるのを私は編集室の窓から見下ろしながら,敗戦日本人の勇気と斗魂を呼び起す月刊誌――と云うFight誌のキャッチ・フレーズを考えていたとき,その私の心境にピッタリの訪問者が現われた。「オースッ」とか何とかおそろしくデカイ声と一緒に,早大制服を着た威勢のいい奴がヌーッと入って来たのである。眼光するどく威圧感を持ち合わせているのが印象的で,ボルテージの高い非凡な奴だ――と云う直感であった。すると彼は,ギリシャ思想への思慕を情熱的に語り,ボディビルへの燃える抱負をおそろしくデカイ声で弁じたてながら,いきなり上着をかなぐり捨てて素ッ裸になり,すばらしい筋肉を誇示するではないか。そして大胸筋や,二頭筋を怒張させ,マッスル・コントロールをやってのけ,いささかどぎもを抜かされた。はじめは初対面のこの男,偉い奴だか,気違いだか,トッサには判断がつかなかったが,よく話している内に,こいつの思想が私の思念にピッタリくるものがある。然も,この学生は,私がやりたい――と模索している日本民族の体格改良ムーブメントの,その実践部門に現実に取り組んでいるらしいのだ。「なーる程ネ,四等国民のコンプレックスを吹ッとばし,もう一度,一等国民にもどるためには,日本人をまず毛唐共に負けない身体にすることから始めたい――と僕も実はそう思ってるンだよ。多分君の考えも同じじゃないかナ」

 すると彼は,自信を以って昂然と答えた。「その通りです。それに付け加えて云わして下さい。健康な筋肉がすべての文化も思想も生んだのです」こいつは俺の云いたい事を云うじゃないかと思うと,私の脳裡に感動が走り,同時に思わず口走った。「君,それは早大ボディビル・クラブだけじやアいかんネ――もっと広くボディビル協会にまでもって行く可きだ――遠慮も逡巡もすることは無い――天下に広く呼びかけて,国民的ムーブメントを起こそうじゃア無いか。わがFight誌の力で及ばなければ政府を動かそうじやないか」と年甲斐も無く彼の情熱にのせられ興奮して大見栄を切り,事実その方向に動き出させられる次第はあとで書くが,これが,今日の日本ボディビル協会理事長玉利斉氏(彼の学生時代)と,私の初出会いの場面であった。

 月刊Fightは,毎号グラビア誌面を割いて“誌上ボディ・コンテスト”を常設,ひろく応募参加をつのる他,ムーブメント提唱に力を入れることになる。

 
 だが,何と云ってもブーム盛り上げに際立った反響があったのは,日本テレビが7月から8月にかけて,毎金曜日正午の連続ボディビル番組“男性美の創造”放映であった。

 プロデューサーは,当時運動部の加賀昌三氏であった。

 毎回有力なゲストを迎え,川崎秀二厚生大臣,プロボクシングのライト級東洋チャンピオンの金子繁治選手,ハロルド・坂田夫人の千枝子さん等を招いた。

 ボディビル実枝の指導と,ボディビルで鍛えあげた筋肉美を観せたのは,窪田登氏,平松俊男氏,玉利斉氏,林平八郎氏他,当時の早大バーベル・クラブのメンバーなど。

 司会並に解説者が私であり,アナウンサーが,佐土,大平両アナウンサーというキャストであった。

 このテレビ放映は,予想をはるかにこえる大きい反響で,当時のプロデューサーをつとめた加賀氏の談を,月刊Fihgt誌(1956年正月号)「ボディビル・ブームの正体を分析する座談会」記事から抜粋すると次の通り。

 “報道番組として,これほどの最大反響は日本テレビ創立以来,はじめてで,私なんかも一躍名プロデューサーといわれ冷汗ものでした(笑)。初心者の練習方法について,テキストを用意しますから申込んで下さい――と放送したら,いや,来るわ。来るわ,毎日800通以上の申込みが殺倒しましておどろいたり面喰ったりでネ,だからあれから半年もたたないうちに,こんな凄いブームになったわけですネ,謳い文句も男性美の創造だとか,体格改造の民族運動などと名文句だから誰でも飛びつきたくなる。”(以上加賀昌三氏)

 ボディビル・ブームの分析について,その座談会に出席したマスコミ関係の方々の談話の抜粋を,もう少し引用させていただく。

(以下週刊読売の塩田丸男記者のお話)“私の方でボディビルを採りあげて掲載した後,社内で皆がその人気分析して話し合ったら,はじめは,プロレス人気のあおりかと思ったら,あながち,そればかりではない。プロレスは観るものだし,ボディビルは,自分でやれる。こんなところが広く受けたゆえんだと思います。元来,近代文化に毒される日常から,一般に肉体的劣等感に悩む人が多い。そこへ簡単に健康体に改造出来るボディビルというものが現われて大当りをとったのだと思います。私の方で記事を掲載したら,発売の翌日,例の三島由紀夫さんが電話で問い合わせて来て,早速ボディビル入門で,玉利さんの指導を受けることになる。その他,投書や電話の問合わせなど全く引きもきらずの有様で,我々,その反響の物凄さにビックリしたり,電話が鳴ると余り度々なので,受話器をとるのに,いささかウンザリでした。飛びついた人は以上のように肉体コンプレックスに悩む人達です。”

(以下週刊朝日の工藤宣記者のお話)“身体の弱い人ばかりが,飛びついたとは限らず,身体の強健な人にも受けたと思いますヨ。私は,ボディビルはM+Mだとばかり思っていたら,取材のため,あちらこちらを走り廻って見たらM+Wと云う面もあると気付いて認識を直しました。

 ブームの原因は,男性美の創造と云う肉体美に対する憧れと,これによる救いを期待する心理にあったと思いますネ。ボディビル・ブームを心理学的に分析すると逞しくなろう――と云う点は一応M的だが,その心理を掘り下げると,W的な自己愛だ――と云う論もある。近頃,戦后の若い男性は服装の好みにもW的な面が目につき,赤い色のものを好むとかなど,これも女性的性格潜在の証拠だと云うのです。”

(以下娯楽読売の浅田斐彦記者のお話)“私はボディビルには,基本的に,3つの面があると思う。第1は競技的な面,第2には性欲的な面,第3には健康的な面ーだと思います。”

(以下は毎日新聞竹内善昭社会部記者のお話)“ボディビル・ブームは,現代の社会世相に起因してるんじやアないですか。戦争でペシャンコになり,金も無ければ,社会的地位も無し――と云った混乱期に置かれた若い人達が僅かながらでも現実に誇示出来るものは何か――と云ったら,それは自分の身体だけだ。せめて,身体だけでも他人に負けない立派にしたい――と云う願望,肉体コンプレックスを拭い去ろうというわけ。”


 ところで,ボディビル・ブームを盛りあげ,ウェイト・トレーニングを普及させたのは,比較的安価な値段で,誰にでも入手出来るコンクリート・バーベルが販売された事にも原因があったようである。

 30㌔品以内ならば,単価が1,000円台であった。

 コンクリート・バーベルは,スマトラからの引揚者で,戦前明治大学でボクシングをやっていた山中経雄氏と云う人物が商品として創案し,“基礎体育養成運動”と云うガリ版刷りの使用テキスト付きで,はじめは全国の中学校,高校を,3年間に1,000校近くも歴訪して学校体育の補助用具として普及をはかったのが,はじまりであった。

 山中さんもまた,敗戦日本の焦土に裸一貫引きあげて来て,当時の内地の青少年の身心共にみじめになった姿を見て,日本人が立ち直るためには,先ず青少年の肉体を鍛え直す可きだと一念発起したと云うのだ。

 ボディビル・ブームを迎えて,このコンクリート・バーベルが,運動具屋の店頭で引っばりだこの品不足,何週間もの予約申込みで,やっと手に入ると云う需要に追い付けない状態をむかえるまでには,山中氏の苦節の時代が10年も続いたそうである。

 商品化しないつまり手製のコンクリート・バーベルは,戦前からあったようで,日本アマレス創成期の選手たち,ベルリン・オリンピック当時,風間栄一,平松俊男,アレキサンダー・ボロビヨフ選手等,レスリング選手のマッスル・ビルディングに彼等は手製のコンクリート・バーベルで秘かにトレーニングを重ねて怪力を養成したわけだが,その一人である平松俊男氏が戦后の母校早大で身体づくりのウェイト・トレーニングに取り組みはじめたのが,当初はコンクリート・バーベルだったと聞くし,これが早大バーベル・クラブがうまれるキッカケになったようだ。

 山中氏の場合も,平松氏の場合も,コンクリート・バーベルによる身体づくり運動を目指したのだから,戦后の日本におけるブーム以前のボディビルは,このへんが発端であったと云えるだろう。

 今日のように物資が潤沢で無かった昭和30年以前,比較的手軽に入手出来たコンクリート・バーベルが市場にあらわれた事をボディビル台頭の一要素として,重ねて銘記しておきたい。


 所請ボディビル・ブームと云うと、その実態は掴みにくいもので,云って見れば煙みたいなものであるが,その一端の具体的なあらわれと云うと,上記したような新聞,雑誌,テレビ等による反響,運動用具店における用具の需要激増ぶりなどにあらわれている。

 その他,思いつくままに,そのあらわれの一端を拾って見よう。

 私をめぐり“Fight誌”にその紹介を依頼された申込みだけでも主なものを拾って見ると,経済同友会,紙パルプ会館,銀行協会,生命保険協会等があった他,早大バーベル・クラブへの申込みもずい分多かったように聞いている。
 また11月頃から日本ボディビル協会設立に至るまでの,ほんの2ヵ月間におけるFight誌上にあらわれた“ボディビル・ニュース”欄を拾って見ても,当時のボディビル・ブームにのった社会的動向は,つぎのように,目まぐるしいほどの多彩なにぎわいであった。

 昭和30年11月の動き

◇呉羽化学㈱ボディビル・クラブ誕生。平松俊男氏指導の下に総務課の山崎行雄氏を代表として50人のメンバーが練習をはじめた。
◇千代田電話局ボディビル倶誕生。コーチは平松俊男氏。部員40名。
◇サンケイ・ボディビル・ジムがオープン。有楽町に45坪のジムとして。コーチは平松,玉利斉両氏。会員1,000名。
◇ボディビル学生連盟結成の動き。拓大,中大を加え早大が中心。
◇名古屋へルス・センター誕生。
◇映画スターのボディビル・ジムが生る。スポーツマン俳優の佐伯秀男氏が都電三崎町電停付近に創設。コーチは佐伯秀男。鈴木智雄両氏。高橋貞二,沼田,藤木,森繁等のスターがメンバー。
◇中央大学ボディビル部誕生。部員100名。
◇学習院大ボディビル部創設。
◇同志社大ボディビル部生る。部員30名。

 昭和30年12月の動き

◇後楽園ボディビル・センター開設。コーチは鈴木智雄,湊要吉,平松俊男,玉利斉各氏。
◇浅草ボディビル・センター設立。浅草国際劇場前の盛り場のジムとして,蒲田の百万人プロレス道場の姉妹道場。
◇横須賀ボディビル・クラブ生れる。
◇三田ボディビル・クラブがオープン。コーチは平松俊男,玉利斉両氏。
◇動坂ボディビル・センター開く。
◇東京ボディビル・クラブ生れる。中央区富沢町丸十ビル3階。コーチは窪田登氏。
◇東京芸術学院ボディビル科が設けられる。浅草雷門の俳優学校で,学科として開設が注目される。
◇日本ボディビル城北センター設立。うぐいす谷。
◇横浜ボディビル・センターの設立。黄金町電停近く。
◇城北ボディビル・ジム開く。板橋区役所近く。コーチは平松俊男,玉利斉両氏。
◇神戸ボディビル・センター開設。代表者は高野保信氏。
◇東洋ボディビル・ジム開く。日暮里近辺。
◇窪田登著ボディビル入門が小藤書店から発売。
◇大阪ボディビル・センター開設。会長松山厳氏。会員150名。
◇世田谷ボディビル・クラブ開く。コーチは佐藤浩一氏。
◇五反田ボディビル・センター開く。コーチは広瀬一郎,照井進,小林洋介各氏。
◇アサヒ・ボディビル・ジム開設。コーチはプロレスの大坪清隆氏。
◇尼ヶ崎バーベル・クラブ開場。会長谷本昌平氏。
◇セントラル・ボディビル・ジム設立。中央区佃島。
◇チャンピオン・ボディビル・センター生れる。九州熊本市。
◇池の上ボディビル・センター開く。世田谷区北沢。

 以上ざっと拾ったFight誌のボディビル・ニュース欄に掲載された動きだけなのだが,それだけでも一方ならない賑わいがわかるでは無いか。もちろん,上記以外にも動きがあったにちがいないのである。

 街にボディビル・ジムの続出は当分の間あとをたたない。

 パチンコ店だの,卓球場の転業もあったし,この時代の変りだねは場外馬券売場がボディビル・ジムを兼業したのもあった。

 そんな調子だから,やがて最も簡単なのはお手軽なシャワー(夏の海岸なみ)と脱衣設備に,用具はコンクリート・バーベル数本と云う,それこそ,今日のプールの着替え室並みのものまであらわれては消えて行った。


 もう一つボディビル・ブームぶりを象徴するのは,日興証券が,証券投資のキャッチ・フレーズに“マネービル”なる新用語を造語して,間もなくこれが普辺化したが,日興証券社長に興銀から転出されたのが湊さんであり,湊さんは,早くからボディビル・ムーブメントに注目されていた。

 ボディビル・ブーム初期の昭和30年ごろ,私共が経済同友会にお招きを受けて,ボディビル・トレーニングをお目にかけたとき,湊さんも我々をお呼び下さった側のお一人で(当時はまだ興銀であった),熱心にボディビルに取り組まれた事を覚えている。

 “マネービル”造語の創案者が,その湊さんだったと,のちに日興証券の或役員から伺ったとき,フト私は,昭和30年当時のことを思い出して,大変興味深く思うのだ。


 また月刊Fight誌の,“誌上コンテストに応募参加した全国からのボディビルダーは,昭和30年末までに100名を越し,北は北海道から南は鹿児島までに及んでいる。

 この事自体ボディビル・ブームは,もはや全日本的な規模に拡がった事と判断出来るので,私は,ブームの発端になった日本テレビの加賀昌三氏(男性美の創造のプロデューサー)に日本テレビ番組によるミスター日本コンテストの開催方をお願いしたものである。

 また,日本テレビ社主の正力さんに横須賀線でお逢いする毎に(正力さんも私も逗子駅から横須賀線で東京に通勤するので,時にお伴させていただいた),そのお願いを申しあげると,正力さんは,ミスター日本を日本テレビで放映するには,もう少し年期を入れて練習を積み,国際的に通用する水準が来てからの方がいいと云うご意見であった。

 “あせっちやいかんヨ,毛唐共に負けない奴が出来たら,プロレスと併行してやろうじやないか”さすがに正力さんは,当時の日本人ビルダーの実態を見ぬいておられたようである。

 加賀プロデューサーも,果たして時期尚早と云う意見であった。

ボディビル協会設立の気運高まる

 こうしたボディビル・ブーム盛りあがりの社会背景の中で,一方では,ボディビル協会設立を目指す気運が次第に高まってきた。

 本稿の前の方で,私がはじめて玉利斉氏(学生時代の)との出逢いのときのことを書いた。

 日本民族の体格改造ムーブメントという国民運動に発展させるように,政府を動かして取り組む可きだ――と私が大見栄を切ったものである。

 それは,私の単なる無責任な放言じゃア無くて,私なりに,頭の中に閃くものがあったからである。


 当時,スポーツマン出身である若き厚生大臣の川崎秀二氏に,このムーブメントの推進力になってもらいたいしそれが可能――と私は考えたからだ。

 川崎氏は,往年早大陸上競技部の選手兼マネジャーとして日本の陸上競技界で活躍したり,それにスポーツ評論家仲間の北沢清氏だとか川本信正氏,また私共とも親しかった。

 当時川崎氏は,吾々よりは,ずっと若手であったが,“スポーツ評論”と云う月刊の同人雑誌のグループであり,当時社会体育の振興をすでに主張していた。

 従ってスポーツ行政にはすぐれた見識を伴った意欲があるはずだと私は考えたし,その彼が今や,れっきとした厚生大臣就任なのである。

 こうなると,ボディビル・ムーブメントを社会体育の分野として,国民運動の推進のために川崎氏に立ちあがってもらうことこそ,まことに,うってつけではないか。

 私が,あの大見栄を切ったときから閃いたのは,この思念であった。

 私は熟慮を重ねた結果,早大バーベル・クラブの玉利斉氏を同道して,昭和30年6月の或る日,厚生大臣室に川崎厚生大臣を訪問することになる。

 川崎氏に私が提案した要旨は下記のようなことであった。

 日本民族の体格改良ムーブメントとして,正しい社会体育の振興推進を目的とする日本ボディビル協会を設立し,民族の復興運動の一環としたい。

 社会体育は,厚生省が本筋だろうし,また川崎氏本来の識見にふさわしいテーマと思うので,強力なバック・アップと,国としての指導援護による育成をうけたい。

 今日,ボディビルは世にうけている――と云う事は社会的に要請されているのだが,これを単なるブームに終らせる可きでなく,正しい軌道にのせるようにしたい。

 出来ることならば,日本ボディビル協会を厚生省の外廓団体の形にするのがのぞましいとさえ私は考える。

 以上のようなことを私は厚生大臣に申し込べたのである。

 この最初の厚生大臣との会見は好結果であった。日本ボディビル協会設立準備に厚生大臣と云う公式の立場であるかどうかはともかくとして,川崎秀二氏は可能な限りのバックアップ快諾を約束してくれた。

 川崎氏の意見としては,ひろくスポーツ界の識者,またスポーツ医学者の参画の必要なども註文があった。

 川崎氏のアドバイスによって,スポーツ医学の権威である水町四郎医学博士や,スポーツ評論家の北沢清,川本信正両氏なども,ボディビル・ムーブメントの方向づけに幾多の批判と意見をよせられることになるのだ。

 川崎秀二氏は現職の厚生大臣として後に日本テレビのボディビル啓蒙番組である“男性美の創造”にもゲスト出演されたのは,前記した。

 また,議員会館の自室には,早速コンクリート・バーベルを持ち込ませ,政務の間を割いて,国会の一隅でトレーニング・ウエアーに着替え,熱心にトレーニングに打ち込みはじめた。

 さらに,平松俊男,玉利斉両氏をコーチに,松岡松平,山中貞則,桜内義雄,中曽根康弘,勝間田清一各氏等の代議士を,起党派でいざなって“国会議員ボディビル・クラブ”を結成するなど,ボディビル・ムーブメントに積極的な取り組みかたで,日本ボディビル協会設立の気運は,急テンポですすめられることになる。

 昭和30年11月18日午后2時から,衆議員第3議員会館の会議室に,最初の日本ボディビル協会設立準備懇談会が招集された。

 川崎秀二厚生大臣を中心に,スポーツ医学界関係者,関連スポーツ関係者を交え,ボディビル・ムーブメントの主要関係者のほとんど(ただし在京者)が,この呼びかけに集まった。

 結局,協会設立準備をすすめるために発起人会を設けることとして,その世話人に下記の5名をあげることとし,川崎氏が世話人代表となった。

 世話人は,川崎秀二(厚生大臣),田鶴浜弘(ファイト社社長),平松俊男,玉利斉,人見太郎(早大バーベル・クラブ)の5氏である。

 世話人会がうまれると,協会設立準備は軌道にのった。

 ボディビルを国民の健康推進と日本民族の体格改良を目指す一大ムーブメントとして展開させよう――という旗印のもとに,①政界の有志議員(超党派)②関係官庁③財界の有力者同調者④医学及基礎体育関係者⑤アマチュアスポーツ団体及武道関係者⑥ボディビル関係の各代表者⑦マスコミ関係者等の各層にひろく協力を呼びかける。

 日本ボディビル協会の創立総会は12月9日午后1時から衆議院第2議員会館の大会議室において開催された。

 この創立総会には,会議を構成する出席者の他,国会議員多数,文部,厚生両省次官,医学界,スポーツ界,武道界,財界,報道関係等多彩な招待来賓を交えて賑やかに行われた。

 定款の承任,役員の選出。事業計画などの創立総会議案成立後,直ちに早大バーベル・クラブによる実技公開を行うなど,通例の創立総会としては異色であったが,時のブームの渦中にあったボディビルだけに,非常に盛会であった。
(次号は協会発足と第1回ミスター・日本コンテスト開催,その他。)
月刊ボディビルディング1975年9月号

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