フィジーク・オンライン

アメリカで活躍する”三人のミスター日本”
<その2>多和昭之進

この記事をシェアする

0
月刊ボディビルディング1975年11月号
掲載日:2018.07.26
田端ボディビル・アカデミー会長 河合 君次

綿密な調査と準備が成功の秘訣

多和君は高校時代から慶応大学に入学当初までは、水泳部に所属しプールの生活に明けくれていた。ボディビルを本格的に始めたのは大学1年の秋からであった。
生まれつき身長、骨格が優れていた上に、水泳で鍛えた均整のとれた体型は、トレーニングを開始するや、前例のない調和と美しさと逞しさを兼ね備えた理想的な体格となり、早くもトレーニングを開始して2年後の大学3年生の秋には一躍ミスター日本の栄冠を手中に収めた。
1967年に慶応大学を卒業。ロングビーチ州立大学に入学するため、すぐ渡米の準備にとりかかった。
渡米の目的にはボディビルもないわけではなかったが、それよりもむしろ当時、アメリカで注目を浴び始めていた健康管理や体力づくりのための指圧や整体術等を加味した総合治療に興味をもっていた。
さらに、実際にアメリカでの生活を始めてみて、いままで考えてもみなかった多くの問題を体験することができた。
◆多和昭之進君の紹介◆
1963年大阪天王寺高校卒業
1965年(慶応大学在学中)ミスター日本に選ばれる。
1967年慶応大学卒業
1968年ロングビーチ州立大学入学
1972年同大学経営修士課程卒業
1972年ジャパン・ヘルス・クラブ開設。医学物理療法治療所開設
1967年といえば、日本経済の高度成長期の始め頃で、対米輸出もブームでロスアンゼルスには飛躍を夢みる日本の中小企業の視察者や、企業の出先機関で独立のチャンスを狙っている人たちが多かった。
このような人たちが、いかに有望な企画や仕事の経験を持っていても、外国でいざ独立して仕事を初めるとなると、まず言葉の未熟さとか、経済慣習等が障害となって夢の実現は停頓し勝ちで心労が絶えない。
こんなとき、風呂で汗を流し、マッサージで疲労をいやし、心のやすまるところがあれば、在留邦人や日本人の旅行者にきっと喜んでもらえるに違いない。それに加えて、アメリカ人の生活には欠かすことのできない健康治療法の重要性を認識したので、休暇を利用して日本に帰国するたびに専門知識の吸収と開業資格の取得に努力した。そして、当時、日本女子体育大学に在学中だった現夫人と婚約し、彼女にも、将来アメリカで独立するために指圧、整体術の習得を促がした。こうして、彼は大学で勉強のかたわら、着々と事業の調査と周到な準備をしていった。これが現在の彼の成功の基盤となっているのである。まことに感歎のほかはない。
〔1965年度ミスター日本コンテスト。左から3位・遠藤、1位・多和、2位・小笹の各選手〕

〔1965年度ミスター日本コンテスト。左から3位・遠藤、1位・多和、2位・小笹の各選手〕

ジャパン・ヘルス・クラブ開設

1972年春、4ヵ年の大学の経営学修士課程を終えると同時に夫人を招き、ジャパン・へルス・クラブを開設した。事務所はマーケットの一角で、おおよそ80坪だった。
この開設費と当面の運動資金として約2000万円の調達が必要だった。自己資金のほかはすべて現地で調達したという。
すでに在学中から準備をしており、卒業と同時に知人たちの支援でこれだけの莫大の開業資金の目途がついたというから大した信用と行動力である。
外国生活で心身のつかれた人たちは口コミで、彼の事務所を探し当てて集ってくる。
ソフトな当りで人を飽かせぬ応答と、他人の世話をいとわない多和君の人柄、そのうえアメリカの大学を卒業したという学歴が物をいって、いつとはなしに相談や協力を求める人が集まってくる。
彼のちょっとした注告や紹介で成果のあがった例も多く、事業協力の申出も何人もの人からあったという。
私が7月に彼を訪ねたときも、競走用種馬を日本へ輸出する相談を受けていた。
有望な仕事だとは思うが、なにぶん未知の問題だから慎重な調査を要すると彼は語っていた。
ところで、ジャパン・へルス・クラブは順調なすべり出しで、開業して1年8ヵ月で借入金はすべて返済したというから、事業に対する着想と調査、準備も完全であったが、経営手腕も大したものである。
ではここでジャパン・へルス・クラブがどのように運営されているかを紹介することにしよう。
開業当初、会員数は150人を当面の目標と定め年会費を200ドルとした。会員には入浴、トレーニング器具の使用は無料とし、マッサージ料は別に15ドル。ビジターは、練習、入浴、マッサージをセットとして20ドルとした。
クラブの経費は150人の会員で年額合計3万ドルが先取りできるから維持は安泰だ。従業員は多和君と奥さんのほか、日系現地人3人の協力を得て5人編成である。
営業時間は午前11時から夜9時までで、クラブの利用者は1ヵ月平均500人くらいだったという。内訳はアメリカ人60%、日系人40%。
年収は会員の年会費を加算すると推定15万ドルの水揚げである。支出は5人の人件費が主で、原材料が不要だから歩留りの多いことはいうまでもない
〔ジャパン・ヘルス・クラブの前で多和君と私〕

〔ジャパン・ヘルス・クラブの前で多和君と私〕

開業2年後には借入金を返済した上に5万ドルのマイホームも購入した。
私も招待されて彼の自宅を訪れたがなかなか立派な住宅だった。土地は約120坪、建物は木造で50坪。玄関前には芝が15m幅に植込まれ、表通りは15m幅、住宅街だから高い建物はなく,静かな明るい街並である。車庫には夫妻用の2台の自動車があった。仕事の都合上、従業員の居住に備えて6つの個室と食堂と居間が用意されている。
ちよっと余談になるが、50坪の木造住宅は少なくとも1000万円に相当するから、土地代は120坪で500万円。1坪当り4万円ということになる。これがロスアンゼルス市内の相場で、東京の10分の1か20分の1くらいの価格にしかならない。日本の地価がいかに高いかおわかりになると思う。
多和君は治療士の登録と営業の認可を得ているので、無資格の従業員でも彼の指導とサインで治療に従事できるという便宜がある。杉田茂選手と一緒にボディビルの修業を目指して渡米した錠山君もジャパン・へルス・クラブで治療士として働いている。
多和君は、アメリカに渡って仕事をしたいという希望があれば、渡航からアメリカでの生活、修業等、できるだけのお世話をしてくれるとのことだった。
また、ことし中には日本料理の店を出す計画があって、多和君はますます多忙のようだった。すでに新設のマーケットの一部40坪を契約し、内部の造作に着手していた。店の看板にするために、日本からわざわざ直径2mという水車をとりよせて車庫に保管してあった。
アメリカはいまたいへんな日本ブームである。ロスアンゼルの日本街には寿司、刺身、のり茶漬、すき焼、おでん、うどん、そば、おしるこ等の店が並んでいる。味も値段も東京の店と同じくらいで、設備の良いところは日本人ばかりでなくアメリカ人の客も多くどの店も繁昌しているようだ。多和君の信用と手腕なら、この新しく始める事業もきっと成功するに違いない。
月刊ボディビルディング1975年11月号

Recommend