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日本ボディビル史<その4>

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月刊ボディビルディング1975年11月号
掲載日:2018.08.26
日本ボディビル協会副会長 田鶴浜 弘
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第ー期ボディビル・ブームの頂点時代

昭和29年頃にはじまった、いわゆる第一期ボディビル・ブームは、日本ボディビル協会の設立された昭和31年から、組織化されたムーブメントとして一定の方向づけが行われると、ブームのエネルギーはそれに吸収されて、落ち着きを見せはじめたと思う。
いわゆるブームとは、すべてこうしたものかも知れない。
従って、昭和31年と云う年は、第一期ボディビル・ブームの頂点と云っていいのではないか。
この年の主要なボディビル界の動き(これが、ボディビル・ブーム当面の落ち着き先である)を捨っておくことにする。

(年間2回のミスター日本選抜)
まず、この年に限って、一年間に2回のミスター日本コンテストが行われた。
1月14日に前記した協会発会記念のミスター日本コンテストが行われたが、毎年秋に協会恒例の最大行事としてミスター日本コンテストを開催することーーと定めたので、あとに書く10月13日に、昭和31年度ミスター日本コンテストが開催されるのだ。
(国際組織からの呼びかけ)
国際組織とは、後年日本ボディビル協会に明暗の綾を投ずるIFBBからの最初の呼びかけが、協会設立早々の、この年の2月に、次のような奇妙な形で先方から舞い込むのであった。
昭和31年2月12日に協会副会長で〝月刊ファイト社〟社長の筆者のもとにIFBB会長ベン・ワイダーからエヤ・メールの私信がよせられた。
そのいきさつを要約すると、事のはじまりはAP通信東京支社に在籍するワイダーの代理人と称する人物からの持ちかけで〝ファイト誌〟が、かねてからベン・ワイダーの兄であるジョー・ワイダーが主宰する〝ボクシング・アンド・レスリング誌〟との提携の話が進行中であったので、ジョー・ワイダー紹介により、日本ボディビル協会の設立と〝ファイト〟社長の筆者が協会副会長就任を知り、日本ボディビル協会のIFBB加盟方を呼びかけて来た手紙であった。
日本ボディビル協会が自分の(ベン・ワイダーの)組織に加盟するならばおそらく2年後(1958年)のIFBB世界コンテストの東京大会開催も可能だから、自分を日本に招待して欲しい旨の商談をからめた(ジョー・ワイダーの雑誌提携問題も含めている)要望であった。
IFBB加盟問題は協会理事会の議題にしたが、当時筆者としても時期尚早と思ったし、理事全員も同じ意見で見送ったものである。
(関西協会の設立)
大阪・神戸・京都を中心とする関西ボディビル界も東京に次ぐボディビル・ムーブメントのセンターとして盛りあがりの度を高め、2月8日に関西協会設立準備会が開催され、大阪毎日新聞社のバック・アップ(運動部の谷口勝久氏一ー後に日本ボディビル協会副会長一ーが指導的立場であった)を得て設立のはこびとなる。
初代会長には、前関西アマレス協会長、大相撲東西会々長、学生相撲会長、大阪体育連盟顧問の中村広三氏を推載し、以下役員は下記のとおり。
副全長・谷口勝久、理事長・松山巌、理事・吉田誠宏、谷本昌平、綿本昇、岩沢史郎、水口博幸、今西浩、石坂名都夫等の各氏。顧問には杉道助、春日弘両氏等関西財界の両大御所をあおぐ大組織。
(各地方県協会の設立機運)
地方の県協会設立第一号は静岡県ボディビル協会で、2月12日に静岡新聞社において設立準備会を開催、下記の諸氏が理事に決定した。
武藤唯一、吉野道正、山田泰治、伊野一臣、水上益次郎、植松四郎、天野忠司、千須賀忠義、中島邦雄、鈴木良夫、手賀利夫。
昭和31年度の上半期に県協会設立機運がたかまったのは下記のとおり。
千葉県(山村新治郎衆議院議員に会長就任を要請中と伝えられた)
熊本県(チャンピオン・ボディビルジム会長・井上盛雄氏が中心で準備をすすめる)
宮崎具(民主党県連全長黒木勇吉氏が協会設立を提唱)
神奈川県(横浜市の桜井数枝氏が提唱)
しかしながら上記の動きとは逆に県協会設立は意外に手間どり現存する上記各県ボディビル協会は、その後の別の動きによってうまれたものが多いようである。
(ボディビル・ブーム全国を覆う)
地方県協会設立にはいたらないまでも、ボディビル・ブームが日本全国の隅々まで覆いつくし、昭和31年上半期までに九州、四国、東海中部、近畿、山陰北陸、関東、東北の各県にもれなくボディビル・ジムが名乗りをあげた他、地方新聞社主催、後援によるボディビル講習会の開催、また会社、官庁等の職場の他、各大学校等にボディビル部(あるいはクラブ)が続々とうまれた。
ブームによってうまれたものは新陳代謝が目まぐるしく、県協会設立の動きにしてさえも上記したとおりその実現までには幾変遷を見ているし、地方各都市のボディビル・ジムにしてもその例に洩れず、第一期ボディビル・ブーム時代に名乗りをあげた全国のボディビル・ジムは50ジムを越えたが、20年後の今日残存するものは下記の10ジムにすぎない。
日本ボディビル・センター(東京渋谷ーー小寺金四郎代表)、後楽園へルス・センター(東京文京ーー岡村憲佶代表)、ウェイト・トレーニング兼岩道場(静岡市ーー兼岩元城代表)、中日へルス・クラブ(名古屋市ーー中村清代表)、中心体育館(京都ーー小野藤二代表)、神戸ボディビル・ジム(神戸市ーー田近斐代表)、堺ボディビル・センター(堺市ーー佐野誠之代表)、ナニワ・ボディビル・センター(大阪市ーー荻原稔代表)、福岡ボディビル・センター(福岡市ー太田実代表)、大阪ボディビル・センター(大阪市ーー松山令子代表)
協会発足当時の日本ボディビル協会本部事務所は、東京都中央区銀座西3の1日本館内で、月刊の協会報(タブロイド判2ページ新聞型式)を昭和31年5月から刊行することになる。
第2回ミスター日本コンテスト。左から2位・宇土、1位・広瀬、3位・久保の3選手

第2回ミスター日本コンテスト。左から2位・宇土、1位・広瀬、3位・久保の3選手

昭和31年度第2回ミスター日本コンテスト

協会発足の初年度だが、発会記念コンテストがあったので、第2回ミスター日本コンテストと云う事になった。
厚生・文部両省ならびに東京都および産経時事新聞社(今日のサンケイ新聞)後援の下に、10月13日に開催。
午前9時明治神宮外苑競技場で第一次審査ののち、午後1時から日比谷新音楽堂で開催された。
このときの審査方法には、運動能力と筋力テストが加えられた。これは協会設立の旗印である日本民族の体格改良ムーブメントの趣旨を充分に盛り込んだと云う点で、とくに大きい意義があるもので、特筆しておきたい。
この大会の出場選手エントリーの申込み先も、下記全国の協会組織を動員したもので、日本ボディビル協会活動として、ようやく全国的なかたちを採ったと云える。

(出場エントリー申込み先)
東京都は協会本部の他、協会傘下の4ジムが指定される。
関西は、協会傘下の大阪が2ジム、京都と神戸が各1ジム宛で計4ジム。
九州も協会傘下の熊本1、長崎1、佐世保1、福岡1で計4ジム。
東海は、協会傘下の浜松2ジム、名古屋1ジム、計3ジム。
神奈川が横浜1ジム、北陸は福井1ジム、東北は仙台1ジムで、総計で18ジムが指定され、全国からのエントリー数は協会本部推薦を含め40名であった。

このコンテストを前にして、ミスター・ユニバースになった日系米人のトミー・コーノがメルボルン・オリンピックの途次を利用してもらっての立ち寄りを、一頃は期待したが実現出来なかった。

(特徴のあった審査規程)
運動能力ならびに筋力を第一次予備審査として、200㍍疾走、走巾跳、野球用ボール投げの3種目を行い、第二次審査、第三次決勝審査で同点を生じたる場合に第一次予備審査結果の優れた者を上位とすることとした。
当日はあいにく朝から秋雨が降り続いた中を午前9時から明治神宮外苑競技場のトラック・フィールドで、以上の3種目が強行された。

第二次審査は、午後一時から日比谷新音楽堂ステージで、40名の全参加選手を身長順に3組にわけて行うもので

①筋肉発達状况40点満点
②全体の均整度20点満点
③バーベル運動の実技40点満点

バーベル運動実施種目は、ベンチ・プレス(70㌔使用)とスクワット(80㌔使用)で下記により採点する。
両種目とも、連続5回以内が5点、10回以内が10点、15回以内が15点、15回以上が20点。
従って両種目共15回以上連続運動可能なら満点の40点が与えられた。
第三次の決勝審査は、各組から上位の3名宛、計9名に出場権が与えられる。
ポージングによって表現能力を審査する。ポージングは、(a)自由ポーズが2種目、規定ポーズは50㌔バーベルを、スタンディング・プレスの姿勢でポージングするーーと云う特異なものであった。
〔第2回ミスター日本コンテストではポージングの規定種目にスタンディング・プレスが加えられた。挙げているのは2位の宇土選手〕

〔第2回ミスター日本コンテストではポージングの規定種目にスタンディング・プレスが加えられた。挙げているのは2位の宇土選手〕

(審査員の顔ぶれ)
〔委員長〕野口三千三(東京芸大助教授・日本ボディビル協会技術委員長)。
〔委員〕川崎秀二(衆院議員・日本ボディビル協会会長)田原春次(衆院議員・全日本重量あげ連盟会長)雨宮治郎(彫刻家)西田正秋(東京芸術大学教授)小松藤吉(東京都々民室広報部長)田鶴浜弘(ファイト社社長・日本ボディビル協会副会長)平松俊男(日本ボディビル協会理事長)。

以上の8名で、その審査員の半数が日本ボディビル協会役員である他は、いわゆるゲスト審査員であり、ゲストは主として、芸術関係者に集中した感があり、バーベル運動によるウェイト・トレーニング実技の現場からは、僅かに平松理事長只一人。

田原春次氏が、重量あげの学連会長ではあるが、田原氏は本来が柔道家であって、バーベル運動によるウェイトトレーニング現場に近いとは云えない。
従って歴代コンテスト中、このときは異色の性格を持った審査員団が構成されているのが特徴である。
だから、均整の美しさだとか、機能的な肉体が高く評価される傾向が強くなりそうに思われた。

当日語られたそれら異色のゲスト審査員(ゲスト審査員ではあるが、この大会では通常のゲスト審査員とは違って、その審査採点が集計点を構成している)各位の意見を、当時のファイト誌等から引用しておく。
◆おことわり◆
連載の日本ボディビル史〈1〉の前文の中で、ボディビル・ムーブメント以前の動きとして引用した部分で安東熊夫氏より下記のとおり訂正方の申入れがありました。
①安東熊夫氏は内臓圧迫の奇病はなく、現在75才で健在であられること。
②日本におけるバーベル・トレーニングならびに日本重量挙競技連盟のパイオニアは安東熊夫氏であったこと。
(田鶴浜 弘)
<野ロ委員長談>
私の体、それは私の生涯をかけた芸術作品である一ーこのように自信を持って云えるようでありたい。しかも自分の身体は世界中にたった一つしかない、一生涯かかった只一つの作品である。すべての人が今日のボディ・コンテストを一つの機会としてその創作活動を始めて欲しいと思う。
<田原春次代議士談>
コンテスト出場の諸君を見ると、誠に立派の一言につきる。足・腰・胸の調和がとれ、均整がよく、欧米のボディビルダーがとかくおちいり勝ちの奇型が無く、僕の審査の点数は決勝では5点差以上が無い位であった。
<雨宮治郎審査員談>
ボディビルの運動が盛り上ってまだ短期間なのに、肉体の美しさを磨きあげたモデル群像を審査する思いで誠によろこばしかった。

((コンテスト決勝の結果))

◆昭和31年度ミスター・日本(1位)広瀬一郎(20才)協会本部推薦
◆準ミスター日本(2位)
宇土成義(18才) 東京代表
③久保浩(24才) 関西代表
④鈴木邦久(19才) 東京代表
⑤木村均(23才) 中国代表
⑥竹内威(22才) 東京代表

決勝コンテスト(第三次審査は、下記の第二次審査(予選)から9名がえらばれ、ポージングを行なった結果、予選で最高点の宇土選手を抜き去り広瀬一郎選手が栄光の座についたものである。
(第二次審査の成績表)
①宇土(785点) ②広瀬(779点) ③鈴木(770点) ④風間(767点) ⑤久保(766点) ⑥高野(765点) ⑦木村(764点) ⑧前田(764点) ⑨竹内(763点) ⑩矢沢(758点) ⑪重村(750点) ⑫藤原(748点) ⑬平岡(740点) ⑭長峰(729点) ⑮蒲谷(718点) ⑯大沢(709点)
(700点以下は省略する。)

((第ー次審査のベスト6記録))

◆200m疾走
①河村26,2秒、(総合審査成績は684点で第二次予選止り) ②前田26,7秒 ③平岡27,5秒 ④河27,7秒 ⑤木村27,7秒 ⑥大沢28,0秒。(ミスター・日本の広瀬は28,5秒、準ミスター宇土は29,2秒、3位久保は30秒)

◆走巾跳
①前田5,1m(総合成績764点で決勝進出) ②長峰5m ③平岡5m ④竹内4,9m ⑤河村4.9m ⑥新井4,7m。(ミスター・日本の広瀬は4,6m、準ミスターの宇土は4,55m、3位の久保は4,25m)

◆ソフト・ボール投
①矢沢72m(総合成績758点で10位だったが、翌々年のミスター・日本)
②宇土71m(準ミスター・日本) ③長谷川68m ④藤原67m ⑤細川67m ⑥広瀬(ミスター日本)66m。
ソフト・ボール投げは上位入賞者の成績が良いのが目立った。スプリント疾走は女子高校選手にも及ばないし、走巾跳にいたっては小学校の女子並みで、スポーツ選手として成年の水準に達している唯一の種目がソフト・ボール投げであっただけで、上位者の好成績があったのであろう。
3位の久保は52mであった。

上位3名のコメントを当時のファイ誌から抜粋しておく。

<ミスター日本・広瀬一郎談>
半年前の協会発会コンテストからレベル・アップが著しく激戦であったが、得意のポージングで得点をかせいだのが成功でした。

<準ミスター日本・宇土成義談>
東京予選に1位でしたが、そのあとカゼで休み自信が無かったが、広背筋と大胸筋が認められて満足です。

<3位・久保浩談>
第二次審査で5位でしたが、ポーズに自信があり、それで得点をかせごうと思ったのが成功してうれしい。

ミスター日本の広瀬一郎選手は立教大学の学生で、ミスター日本にえらばれたことで、その後、大映からの呼びかけがあり、映画入りかと華やかな話題もあったが、立大卒業と共に南米の新天地に雄飛したようである。
上位3選手の体格表を下記する。
記事画像4
月刊ボディビルディング1975年11月号

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