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日本ボディビル史
〈その5〉

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月刊ボディビルディング1975年12月号
掲載日:2018.03.26
日本ボディビル協会副会長 田鶴浜 弘
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ブームのはかなさ

 日本ボディビル協会設立の昭和31年をボディビル・ブームの頂点として、翌昭和32年になるとブーム時代の反動現象とでも言うものであろう――ボディビル界は沈滞期に入るのであった。

 “ファイト”誌の他、ベースボール・マガジン社刊行の専門誌“ボディビル”以外は、もうジャーナリズムにも、ボディビルの話題は採りあげられなくなった。
 ブームに便乗して、手軽に開業出来て、結構商売になった街のボディビルジムが、一頃は、東京都内だけでも30ジムにも及んだものが、ブームの終りと共に、嵐のように消え去ってゆき、渋谷宮益坂の“日本ボディビル・センター”後楽園の“後楽園へルス・ジム”有楽町の“サイケイ・ボディビル・センター”以下、都内のジムはようやく6ジムと言う状態となった。
 だが、ボディビル沈滞期に入って残存したジムは、むしろ会員数は増加したようだし、また、ボディビルそのものは、国民生活の中に定着して、日常生活に、徐々にではあるが滲み込んでいったようである。
 従って、全国のボディビル人口(正確な数字の把握は出来ない)は、いささかも減ってはいなかったはずである。
 つまり、ボディビル・ブームそのものは、はかなかったが、第二次大戦後の日本民族の生活風俗の中にボディビルがはっきり組み込まれると言う風俗史的に、また文化史的に、ボディビルブームは一つの役割を果たしたと考えていいのではないか。
 やがて数年後(昭和39年)の東京オリンピックを前にしたスポーツ選手強化にマッスル・ビルがクローズ・アップされる風土作りにもなったと思われるし、日本の経済が高度成長時代を迎えた後のレジャー産業にも、欧米なみのへルス・クラブをはじめとするすくなからぬ影響を投ずることになったと思われる。

 一方、日本ボディビル協会の動きだが、設立当時、協会組織は氾濫した街のボディビル・ジムが主たる構成単位になったことも一因となって、設立当初の意気込みにふさわしくない沈滞ムードに巻き込まれてしまう。
 一口に言うと、協会は、たんに年1回の“ミスター日本コンテスト”開催が精一杯で、それが唯一の協会活動と言う状態に追い込まれてしまったのである。
 この頃の状況を象徴的にとらえた昭和33年12月11日号の“週刊スポーツ・ファイト誌”の4頁グラビア企画をここにあげておく。
 見出しが“どっこいボディビルは生きている”とあった。
 カメラは、後年の前衛写真家として高名になったタッド・若松氏(当時はファイト誌カメラマンで本名の若松忠久と署名入り)
 第1ページは、渋谷の日本ボディビル・センターのジム内部を背景に、ボディビルの鬼・平松俊男コーチが仁王立ちの隣にオーナーの小寺会長がならび、会員のベンチ・プレスをコーチしている。
 2~4ページは、華やかなボディビル・ブーム時代の誇り高きコンテスト風景、TVスタディオ風景、国会を背景の議員ビルダー動員ぶりなどに対比したブーム後の残存ジム風景である。
 説明記事の一部を引用すると、ブームの明暗がクッキリしている。
 “……今日のフラフープ・ブームを見ていると昭和30年頃のボディビル・ブームとよく似ている。あのときはあらゆるジャーナリズムがとりあげ、三島由紀夫が熱中したり、川崎厚生大臣が日本民族の体格改造を旗印にして音頭をとり、議員連もバーベルをふりまわす。商魂たくましい街ではパチンコ屋までが急造のボディビル・ジムに早変わり――今は東京に6ジム、その他全国では大阪以下約10ジムに、鳴りをひそめて、ボディビルはどっこい生きている――云々”

ボディビル沈滞期の
ミスター日本コンテスト

 昭和32年、昭和33年、いわゆる“どっこい生きている”と言われた時代に入ると、会場も都心の共立講堂、日比谷新音楽堂等からガラリッ一変して、江の島西浜海水浴場砂浜の特設ステージ、太陽の季節の海辺の群衆の中に舞台を転ずるビーチ・コンテストになるのだ。
 健康ムード礼讃と和製マッスル・ビーチの意味はあるが、同時に経費節減の関係もあったし、万事が手軽るになった。
 サンケイ時事新聞(のちのサンケイの前身)が、夏期の海水浴場行事の一環としての後援をとりつけて開催した。有楽町にあったサンケイ・ジムの山東支配人のあっせん等があったと思う。
 昭和32年の第3回ミスター日本はこの第1回ビーチ・コンテストによってえらばれ、サンケイ・ジムから出場の宇土成義選手であった。

 昭和32年第3回ミスター日本コンテスト(第1回ミスター・ビーチ)は、30名がエントリーし、8月4日に開催。審査員に力道山が加わった他、大会役員として異色の顔ぶれは、大会副会長に衆院議員の田村元氏、参与に三島由紀夫氏、ゲスト審査員として1957年のミス・東京の青松真砂嬢が連らなる。
 “ミスター日本”にえらばれた宇土成義選手は19歳、身長164cm、体重75kg、胸囲122cm、腕囲41cm、腿囲60cm、それまでのミスター日本の体格標準を一段階引き上げる充実した筋肉の持ち主であった。
 準ミスターは、竹内威選手(23歳、176cm、85kg、胸囲122cm、腕囲40cm)の大型。
 第3位が矢沢正太郎選手(19歳、身長173cm、体重78kg、胸囲125cm、腕囲40cm)これもまた大型であった。
 会場は、炎天下の海辺だったし、審査員席の力道山人気も加わって、西浜海水浴場の人気を集めた。

 昭和33年第4回ミスター日本コンテスト(第2回ビーチ・コンテスト)も前年どおりサンケイ新聞後援の下に、江の島西浜海水浴場特設ステージで8月9日に開催される。
 今回も、審査員にプロレスラーの阿部修選手が加わった。
 この年のエントリーは26名、前年第3位だった矢沢正太郎選手(20歳、身長175cm、休重80kg、胸囲129cm、腕囲41cm、腿囲63cm)が、第4代目ミスター日本の栄冠を獲ちとる。
 矢沢は、前年度ミスター日本の宇土にまさる大型であった。
第3回大会、特別審査員として招かれ、あいさつする力道山。

第3回大会、特別審査員として招かれ、あいさつする力道山。

第3回ミスター日本・宇土選手

第3回ミスター日本・宇土選手

第4回ミスター日本・矢沢選手

第4回ミスター日本・矢沢選手

全国TV中継放映の
第5回ミスター日本コンテスト

 昭和34年第5回ミスター日本コンテストに至って、久々で、協会設立初年度の大コンテストに匹適する規模の大会が行われた。
 この大会は、8月1日、大磯ロングビーチで、太平洋の紺べきの海原を背景に、強烈な真夏の太陽の下、近代の竜宮城もかくや――と思わせる壮大な中央飛び込み台を舞台に画期的な構成であった。
 TBSテレビが、日立製作所をスポンサーに、インターバルのアトラクション(シンクロナイズ・スイミング他)を交じえて、実況中継1時間番組として全国にテレビ放映した。
 ミスター日本コンテストの全国テレビ実況中継は、ミスター日本コンテストの歴史の中で、この大会がはじめてであり、その後も今日に至るまで(昭和50年)テレビの実況中継は行われていない。
 実をいうとこの大会を共催した大磯ロングビーチのPRを兼ねていたのだが、曲り角に来たボディビルの盛りあげを目指したのが筆者等のねらいで、TBSともしばしば会合を重ねたし、テレビ・スポンサー獲得のために、大磯ロングビーチの本社である渋谷の日本国土開発を訪れ、堤社長の御幹旋で日立製作所にスポンサーをお願いするまでには、丸の内の日立本社に日参した事が思い出される。

 この大会は、東京放送、毎日新聞、スポーツ・ニッポン新聞、サン写真新聞、週刊スポーツ・ファイト社、日立製作所等各社の後援という大がかりなもので、ゲスト審査員、司会の大物タレント等を、共催タイ・アップした大磯ロングビーチが、豪華な貴賓室に一泊招待という好遇を提供してもらった。
 出場選手は、週刊スポーツ・ファイト誌上コンテスト(過去約2年間)の中から、ベスト20をえらんだ、20名の“ミスター・ファイト”と全国からの公募出場者の合計41名であった。
 公募者中には、白人、黒人の一団も加わり、国際色ゆたかなコンテストだったのも特異である。

 大会の進行ぶりだが、先づ、午後1時、松井翠声氏の司会で予選審査からはじまり、下記のベスト10が、41名出場者の中から選出される。
 ベスト10予選通過者は、◇金沢利翼(底島)◇土門信義(橫浜)◇兄玉親定(大阪)◇河啓一(大阪)◇古川雄一(東京)◇荒川浩夫(宇都宮)◇大山雄特(東京)◇矢沢正太郎(東京)◇ボルトワ(米国)◇竹内威(東京)
 決勝審査は、ベスト・セレクションの10選手によって、午後5時からTBSテレビの実況中継で全国放映の下に行われた。
 審查員は、委員長平松俊男(日本示ディビル協会理事長)以下、田鶴浜弘(日本ボディビル協会副会長)、玉利斎(日本ボディビル協会常務理事)、小寺金四郎(東京ボディビル協会理事長)、菅又貞治(関東ボディビル協会理事長)、以上5名。
 その他にゲスト審査員として三島由紀夫氏(作家でありボディビル実践者であり美の追求者)、藤原あき女史(美容家、風俗文化評論家、NHK私の秘密でお馴染み、翌年は参院議員選挙で、全国区トップ当選)長野隆業氏(彫刻家、二紀会々具)、日比野恵子(映画女優、前ミス・ニッポン)の4氏。ゲスト審査員には、現代日本が求める完全男性像を、ボディビルダーえのアドバイスとして選んでいただきたいと願った。
 コンテスト決勝の結果は次の通りであった。

①ミスター日本 竹内威(東京)497点
②準ミスター 金沢利翼(広島)496点
③ 〃    土門信義(横浜)469点
(註)以上3人の体格表は別表参照のこと。
④児玉親定(大阪)460点⑤大山雄特(東京)454点⑥矢沢国太郎(束京)452点⑦河啓一(大阪)449点⑧古川雄一(東京)448点⑨荒川浩夫(宇都宫)447点⑩ボルトワ(米国)438点。

 なお4人のゲスト審査員の採点も、ほぼこの審査結果と併行していたが、本審査で④になった児玉選手の採点に面白い結果があらわれている。
 まずボディビル玄人すじの三島由紀夫氏は、協会審査員に近似していた。長野氏は余り高点でなかった。
 そして2人の女性ゲストの採点は非常に高点で、特に藤原ゲストは唯一の満点を与えていた。
 だから近代女性の理想像が児玉選手だということになる。
 なおゲスト中3氏の寸評を、当時のファイト誌から抜粋する。

◇三島由紀夫氏◇
 前略――ビルダーのマナーもよくなったし、全体の粒が平均し、且つ大型化したのがいい。この上はポージングにマンネリを脱け出す創意が欲しい――下略
◇藤原あき女史◇
 前略――このコンテストは、白人、黒人も参加し国際的でしたが、日本人のハダが、一番きれいだと痛感しました。日本も、もう、やさ男の時代ではなく、男性が健康な美しさを発揮する魅力を発見しました――下略。
◇長野隆業氏◇
 前略――全体にバランスがとれているが、欲をいうと下半身に力感が不足しているのが物足りない。ポーズの場合でも上半身だけでなく下半身に動きのあるものが欲しい――下略。
第五回ミスター日本コンテスト。左から3位・土門、1位・竹内、2位・金沢の各選手

第五回ミスター日本コンテスト。左から3位・土門、1位・竹内、2位・金沢の各選手

上位3名の体格表

上位3名の体格表

ミスター浜寺コンテスト
関西ではじまる

 ビーチ・コンテストが、江の島西浜ではじまった昭和32年夏には、関西ボディビル協会も、あたかもこれに呼応するようなかたちで、浜寺の海辺でミスター浜寺コンテストがはじまった。
 当時の関西協会の構成は,
 大阪ボディビル・センター。神戸ボディビル・ジム、堺ボディビル・センター、サクラ・バーベル・クラブ、ナニワ・ボディビル・クラブ、ナンバ・ボディビル・センター、京都中心体育館、和歌山ボディビル協会に加えて、九州から熊本ボディビル・クラブがつらなり、西日本の勢力を糾合する大勢力で曲り角に低迷していた東京の日本ボディビル協会本部に一歩もひけをとらない――と言う意気込みであった。
 大阪ボディビル・センターを主宰し関西ボディビル協会の理事長に納っていた松山巌氏(日本ボディビル協会理事)が、大阪毎日新聞のバック・アップのもとに、ミスター浜寺コンテストを関西ボディビル界の恒年行事として登場させたものであって、後年(昭和36年)中央の日本ボディビル協会からはなれて、“全日本ボディビル協会”として別個に設立する素地づくりの役割につながるのである。
 従って、ローカル・コンテストではあるが、のちの全日本ボディビル協会構成につながる“ミスター浜寺コンテスト”の主たる大会役員の顔ぶれをここにあげておく。
 大会会長・中村広三(関西ボディビル協会々長)
 副会長・谷口勝久(大阪毎日新聞)の他、田中茂(大阪毎日新聞事業部長)、南部忠平(大阪毎日新聞運動部長)、なお谷口氏は日本ボディビル協会地方理事であると共に関西協会副会長であった。運営委員長・松山巌(関西協会理事長)
 運営委員・今西浩、小野藤二、吉田誠之、山下浩、佐野誠之、田近竜一、萩原稔、野田忠、山口寿彦、菱川文博
 審査委員長・谷口勝久
 審查委員・田中茂、南部忠平、長沖一、小出三郎、岸本水府等の各氏であった。
 第1回ミスター浜寺コンテストは、昭和32年7月に開催。

  ミスター浜寺  児玉親定
  ②準ミスター  采山寛幸
  ③ 〃     酒井平八
 その他、ミスター・マッスルに児玉親定がえらばれた他、ミスター胸、ミスター腕、ミスター背筋、ミスター脚等の各部分賞がえらばれる。

 翌年の第2回ミスター浜寺コンテストは、昭和33年7月26日に行われ、児玉選手が2年連続してミスター浜寺の栄冠をかちとるのである。
 昭和34年度は、金沢利翼選手が広島から馳せ参じ、児玉の3連覇を封じてミスター浜寺のタイトルを握り、余勢をかって、日本ボディビル協会のミスター日本コンテスト(大磯ロング・ビーチ)に出場、準ミスターになった事は前記した。
 その後ミスター浜寺・コンテストは翌昭和35年度金沢の2連覇を最後として(昭32年から昭35年まで4年間)新たに設立される“全日本ボディビル協会”によるミスター全日本コンテストに統合される事になる。(以下次号)
月刊ボディビルディング1975年12月号

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