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日本ボディビル史<その7>

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月刊ボディビルディング1976年2月号
掲載日:2018.08.03
日本ボディビル協会副会長 田鶴浜 弘
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○協会整備再建運動の拾頭○

日本ボディビル協会の設立によってボディビル・ムーブメントが組織化されて以来、僅かに10年足らずで、大阪を中心に全日本ボディビル協会が、日本ボディビル協会から離れて新しく名乗りをあげ、
東京オリンピックが開催された昭和39年は、事実上は東京が本部の日本ボディビル協会は東日本を、大阪が本部の全日本ボディビル協会は西日本をーーと、東西を2分する形となり、共に協会としてのスケールは小さくなっていた。

 それを一口にいうと、日本ボディビル協会が当初に目指した〝社会体育の振興〟の旗印が中だるみ状態から、ついにははじめの情熱さえ冷却し有名無実、一部のビルダーたちだけの年1回のコンテスト開催団体という状態に低落したのが東西二分の現況をまねいた原因だと思う。

 日本ボディビル協会の活動の不振はもちろん協会運営の当事者たちに責めはああるが、同時に、日本の社会全体が、〝肉体づくり指向〟への共感がきわめてうすかったことも、その反面をなしていただろう。

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 東京オリンピックは、近代オリンピック史上、かつて無いほどの盛会として世界中の注目を集める大成功を収め、対外的にも、また国内的にもいろいろの成果や影響を残したが、折から沈滞ムードのボディビル界には、またとない刺激とチャンスを与えてくれたと思う。

 それというのは、東京オリンピックの成功が、日本人の社会風俗にスポーツを従来以上に滲透させた。そして日常生活の中に肉体づくり思念を芽生えさせ、社会体育の振興が求められはじめるのだ。

 その気運の時流を協会再建に結びつけよう――という動きが、当時の日本ボディビル協会常務理事だった玉利斉氏を推進役として拾頭する。

 初代ミスター日本の中大路和彦氏、1959年度ミスター日本の竹内威氏、佐藤芳哉氏等によって、選手会の糾合をはかると共に、精力的に動きはじめた(選手会設立宣言参照のこと)。

 そして、小寺金四郎理事、平松俊男理事長、遠藤英夫、浅野亮各常務理事副会長の筆者等、
協会設立当初の情熱を呼び覚まされ、再建運動に取り組みはじめる。

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 昭和39年の終りから昭和40年のはじめにかけて、再建のための会議が活発に行なわれた結果、玉利斉氏起草による別項の「日本ボディビル協会白書」が再建のために取り奨められるのだ。

 不振沈滞の反省と、協会再建強化への方向付けを明確にしたこの白書は,昭和40年9月に発表された。

 再建着手には、先ず協会活動の足場となる事務局の設置が必要、9月から当時筆者の事務所(現協会本部)内に設ける。

 9月6日、協会再建に当る新役員陣容について日本電源開発労組事務所で理事会を開催、左記のとおりに決定。

会長・川崎秀二、副会長・田鶴浜弘、理事長・平松俊男、專務理事・玉利斉、常務理事(選手全長)中大路和彥、常務理事(事務局長)浅野亮、常務理事(行事担当)遠藤英夫、理事・北森俊一、小寺金四郎、加賀昌三他。

 財源確保は主として玉利専務理事が精力的に活躍。
協会組織の再検討と整備強化(地方県協会の促進)に当って当面最大の問題は、東西に2分した協会組織の一本化であった。

再建強化運動を推進し、全国ボディビル・ジムへの呼びかけには機関誌の発行が必要なので、浅野常務理事の編集担当により、9月号からタプロイド月刊新聞形式の〝強く逞しく〟が刊行された。

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 協会組織の新しい体系として、再建出発のはじめに選手会の糾合があったが、引続いて同年11月には各会社、官庁の職場クラブに呼びかけて”実業団協議会”の発足を促し、
さらに、バーベル・メーカーに協会後援団体としての〝バーベル連合会〟結成の呼びかけを行なう一方、
関西の全日本ボディビル協会主催の全日本ボディ・コンテスト(9月23日、大阪服部緑地公園で開催)に玉利専務理事を派遣し、一本化に関し関西側の意向を打診した。

 大会終了後、新阪急ホテルで行われた中村会長招待懇談会の席上、玉利氏の一本化提案に対し、
活発な意見交換があった結果、一本化問題は前向きに取り組むことに意見が一致したが、
その時期、方法については相互の立場を尊重し、近い将来無理のない形で実現をはかる方向を見つけるという結論でまず突破口が開かれることになった。

 なお、昭和40年度全日本協会のミスター全日本は、120名の選手が参加し5000名の観衆を集め非常な盛会で、
福岡の小笹和俊選手が二連覇を成しとげ2位は武本宣雄選手(大阪)、3位は東勝選手(三重)であった。

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 昭和40年度の日本協会主催のミスター日本コンテストは9月19日、
日本橋三越劇場において、新体制にふさわしく久々の室内大ホールにおける格調高い構成(向井十九氏演出)のもと、
小野栄一司会で行われ、大観衆を湧かせ大成功を収めた。

その結果、ミスター日本には多和昭之進(神奈川)、2位・小笹和俊(福岡・40年度ミスター全日本)、
3位・遠藤光男(東京)、以下、④後藤武雄(東京)、⑤中村鉄郎(神奈川)、⑥鈴木正広(東京)、
⑦高橋輝男(神奈川)、⑧德弘敏(大阪)、⑨谷川明(東京)、⑩君島一郎(栃木)の各選手。
昭和40・41年とミスター全日本コンテストをに連覇した小笹和俊選手。小笹選手は翌昭和42年には第13回ミスター日本にも優勝した。

昭和40・41年とミスター全日本コンテストをに連覇した小笹和俊選手。小笹選手は翌昭和42年には第13回ミスター日本にも優勝した。

◇協会新体制の意欲的活動◇

昭和40年度は、再建白書発表に伴い力強い、意欲的な動きが活発化するのである。
<選手会設立>7月20日、下記の設立趣意書を発表した。その全文をあげる。
国民の体位向上を旗印にボディビル協会が発足して以来、早くも10年を経ました。
その間、正しいウェイト・トレーニングの指導普及を目的に努力してまいりましたが、
必ずしも順調な発展を見たわけではなく、時には理想と現実の矛盾に悩み、思いがけない障害や誤解に直面しながらも一歩一歩の歩みを絶やすことなく歩んでまいりました。

その10年の歴史にひとくぎりをつけ、日本ボディビル界の更に一層の発展を期し、
ここに協会内部にボディビルダーの集いである選手会を結成することになりました。
協会発足当時は10代の少年であったビルダー諸君もすでに30代前後の社会の中堅に成長しておられます。
選手会の志すところは、全国ビルダー諸君の親陸と研鑽のまとまりの中心となり、あわせて協会の推進力たらんとするためであります。

 現実は、種々の矛盾と障害に満ちておりますが、各々若きビルダーがボディビル練習者の目標とする3つのMすなわちマッスル(逞しい筋肉)、マインド(高い知性)、ムーブメント(行動力)を以て億することなく共に腕をたずさえ一歩を踏み出すならば、夢の実現は必ずしも不可能ではありません。
大方のご賛同を心より請う次第であります。

協会理事長 玉利斉
選手会会長 中大路和彦
      他選手一同
上記の代表者の他に選手会幹事は竹内威、後藤武雄、谷川明の各氏であって、
趣意書にみなぎる情熱が、協会再建をすすめる力強い推進力となるのであった。
昭和40年度第11回ミスター日本コンテスト。左から3位・遠藤光男、1位・多和昭之進、2位小笹和俊の3選手。

昭和40年度第11回ミスター日本コンテスト。左から3位・遠藤光男、1位・多和昭之進、2位小笹和俊の3選手。

<初の記録挑戦会>

のちに協会重要行事のパワーリフティングとなるのだが、昭和40年8月1日、蔵前高校体育館で、ベンチ・プレスとスクワットの記録挑戦会を行った。
 成績は次の通り。

◇軽量級(60Kg未満)
ベンチプレス=①細川孝次115Kg、②鳥海雅治110Kg、③長屋正臣110Kg。
スクワット=①長屋正臣140Kg、②小林淳125Kg、③鳥海雅治105Kg。

◇中量級(75kg未滿)
ベンチ・プレス=①鈴木正広140kg、②本間昭125kg、③後藤武雄120kg。
スクワット=①後藤武雄180kg、②阿部義治160kg、③君島紀一郎120kg。


◇重量級(75kg以上)
ベンチ・プレス=①高橋輝男135kg、②遠藤光男120kg、③高橘幸男110kg。
スクワット=①遠藤光男160kg、②高橋幸男125kg、③高橋輝男120kg。

<初の選手強化合宿>

11月21、22の両日、朝霞の自衛隊体育学校に役員と選手が初の合宿を行い、併せてビルダーの総合体力検定を実施した。
参加者36名。

<アマ規定の整備>

プロ・アマの明確化に着手し、ボディビルの協会アマ規定の原案がつくられた。

<実業団協議会の発足>

 12月18日結成。束芝本社、三菱重工、住友商事、日本電機、電源開発、TBS、キャノン・カメラ、日本タイプ、本田技研、北辰電機、アルプス電機、石川島幡磨重工、専売公社、以上13社加盟。名取(東芝)曽根(TBS)綿平(北辰電機)の各氏が実業団を代表して協会役員となる。

その他、「ジム協議会の発足」「パーフェクトマン・コンテストの企画」「身体障害者のリハビリテーションへの協力問題」等々が協会活動の新しいテーマとしてとりあげられはじめた。


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再建強化に着手した当面の最大課題である東西一本化は昭和41年度から着々と進められる。

日本ボディビル協会白書
〜昭和40年9月発表〜

 昭和31年1月14日、早大バーベルクラブを発火点に燎原の火の如く全国に広がったボディビルの正しい指導普及の為、
日本ボディビル協会を設立。
その記念の第1回ミスター日本コンテストを行なってから今年は丁度10年目になる。
ここに、この10年の歳月を省みて、ボディビル協会白書を発表し、至らざる所は反省し、批判は謙虚に受け入れ、
今後の力強い協会の歩みを生み出して行きたい。
協会は設立と共に、川崎秀二氏(当時厚生大臣)を会長に定款を定め積極的な指導普及活動に入ったのであるが、
出発当初より種々の問題を内外に蔵していた。1つはボディビル練習方法の根幹をなすウエイト・トレーニングに対する医者や体育家、スポーツコーチ等の無理解であり、
かつそれを払拭する協会の啓蒙不足の点であった。2つは急激に発展した為、協会の構成要素である役員が単に賛助者とか理解者である人達が多く、
真にボディビルに情熱をもちその推進者であるべきボディビルダーが少なく、
またいても年少で社会的行動力に欠けていたと言う点である。

3つは協会活動の裏付けをなす財源の確保がなされなかったという点である。
この点に関しては出発当初に於いてはテレビ、週刊誌等のジャーナリズムが争って報道した結果、
空前のボディビル・ブームが現出した為、事業会社が広告価値を認め大会等のスポンサーとして協力してくれた。

しかし其の為協会としてそれらに対する依存度が高くなり、ブームの消滅と共に協力を得られなくなって財源にもことかくようになったことを反省したい。

4つはビルダー(ボディビルを行なう者)を主体とした協会の下部組織の設立が進まず、
勢い協会の実態が営業ジム中心になり協会が広くボディビル練習各層を把握できなかった点である。

5つは協会の事務連営面が弱体な為、協会全体の有機的統一がとれず、種々の会議、行事の実行が思うようにいかず中央と地方がバラバラになったと言う点である。

6つはボディビルに対するマスコミのとり上げ方が男性美とかミスターとか、はなやかなコンテスト面にのみ焦点を合わせた為、ボディビルの社会的認識が浮わついた浅薄なものとして評価される傾向があり、事実ボディビルダーも自覚が足りず、いたずらに筋肉をみせびらかすと言う風潮が無きにしもあらずであった。

7つは協会の設立以来10年、役員が固定化し新進気鋭のビルダーの参加がなかった点である。

以上がボディビル協会の発展を阻害した7つの要因であるが、この他にも種々数えることは出来るだろう。
ともかくこれ等のマイナス要因を克服することが出来なかったという事実はすべて協会役員の力不足と努力の足りなさであったと役員一同深く反省する次第である。

しかしながら一度灯したボディビルの灯を絶やしてはならぬとミスター日本コンテストだけは万難を排して継続して来た。

その間1961年度のミスター日本土門君を米国ロングビーチで行なわれたミスター・ユニバースコンテストに派遣し4位を獲得するという喜びもあったが、
協会としては所期の目標の何分の一かの活動しか行えず、むしろ停滞期ともいうべき状態であった。

けれども冷静に観察してるとボディビル発展期のブーム的様相こそ姿を消したが
上滑りの見てくれのみの練習者や、冷かしの練習者は影をひそめ、
タフネスな肉体こそ激しい社会の生存競争に最重要であることを認識した人々の間に生活に密着したボディビルとして着実に浸透しつつあったのである。

又ボディビルの発展上画期的役割を果した市民体育の場であるボディビルジムも単なる営利本位のものは姿を消し、真にボディビルを理解した経営者よりなるジムが一つ一つ増え現在では全国数十カ所は下らない。

又ボディビル器具メーカーの販売したバーベルの数はここ10年間で4、50万本を下らぬといわれ、如何にボディビルが日本人の生活の中にとけ込んで来たかが認識される。

更に1964年の東京オリンピックを迎えるに当り、
選手の体力づくりにバーベルを使用したウエイト・トレーニングの重要性が叫ばれ、
広くあらゆるスポーツ競技のトレーニングにとり入れられた。

オリンピックの終了後、今更ながらスポーツ競技を全般的に強くする為にはまず国民全ての基礎体力づくりから始めねばならぬことが政府、民間、各界をあげて強調され始めるに及んで、
ボディビル人口は急激に増加し全国的な組織の学生ボディビル連盟も結成されボディビル人口は少く見積っても30万人は下らないと推定され、
今や第二の発展期を迎えつつあるという現状である。
ここにおいて協会としては過去の弱点を克服し、新しい発展向上を期する為今後の方針をしっかりと具体的に確立すべき事が何よりも重要な事であると信じる。

 まず第一に協会の組織づくりである。
 次に明確な事業計画の発表及びその実行である。
 三番目に以上の二つを現実にする所の財源の確保である。
この三つが協会の再建強化上の最も基本的な問題であろう。
以下各々について具体的に述べて行こう。

組織づくりを進めて行く上において最優先する事は協会事務局の設置である。
事務局が運営のかなめとなり種々の会議、行事の推進を計りまた下部や地方組織との連絡をとらなければならぬ。
協会及び事務局はいずれのジムにも従属せず、公正な大局的立場で運営を行う為独立した事務所を持つ必要がある。
それに伴う事務局長の人選と、最低限の経費の確保はもちろんのことである。
次に下部組織への意志伝達と普及の手段として機関紙(月刊)を刊行することである。

協会の会議は定款でうたっている如く、執行部として理事会があり総会として評議員会があるが、
理事会の下に、技術、普及、事業。財務。機関紙、組織等の小委員会を設け、
それぞれ責任者を選出すべきである。

理事を選出する評議員会の構成であるが、これは従来の如く、単に有識者を羅列するのではなく、
ボディビル人口の総意を協会に反映させる為、一般のボディビル練習を中心とする選手会よりの代表と、
ジム経営者の全てと、学生ボディビル連盟のOBの代表と会社のクラブや町の同好会よりの代表と有識者及び協賛者の五部門より選出すべきであろう。

それと同時に下部組織として地方協会の設立を急ぎ、一県一協会主義に徹すべきで、
県協会より理事1名と評議員1名を選出し本部に参画させるべきである。

さらに協会はボディビルの普及は民族の逞しい文化の創造に寄与するとの信念に立脚し欧米に対し
政治、経済、社会のあらゆる面で後進性を持つアジア新興国諸国によびかけ、
まず肉体面からも後進性を脱し力強いアジアの建設の為めの歩みをアジア諸国の青年と共に進むべくアジア・ボディビル協会を設立しミスター・アジアを開催するよう計るべきである。

これ等協会の国際的進出により現存する地方協会の中央への対立意識は自ずから解消し、
一体化に進んで協力することだろう。

協会の行事は東京に於いてのみ行わず、地方への普及と地方協会の組織の強化の為、
時々持回りで各県で行うべきである。


 以上は主にコンテストや記録会を目的としたトップビルダー中心の行事であるが、
協会はボディビルの本義である国民の体位の向上と健康増進の二つにのっとり現在展開されている国民の体力づくり運動に積極的に参加するよう関係各方面へ働きかけるべきで、
その為に協会は講習会や普及会を積極的に行なわねばならない。


更にボディビルダーの社会性を養い品位を高める為研修会や合宿を行い
ボディビルの本質を自覚し合うことも今後の重要な議題である。


 最後に財源の問題に入るが、これは言うは易く最も実行がむずかしい問題である。
しかしながら、これが出来なければ百事空論になるのであるから慎重にかつ現実的に処せねばならない。


 協会の財源は大別して以下のものになるだろう。
第一に会費の徴収、これも理事、評議員、選手、ジム経営者よりそれぞれ額を定め徴収すべきである。
次にボディビル器具、器材の関連メーカーよりの公認料、広告料等である。
三番目に賛助会会員制度を設け会社等にボディビルクラブが有る所や理解者より賛助を受ける。
最後に大会の時タイアップする会社、新聞社等のスポンサーよりの費用が考えられる。

 これ等を細密に立案計画し精力的に実行に移さねばならないだろう。
それと共に協会は会計を明確化し年度始めに評議員会で発表し、
常にガラス張りの運営を行うことが肝要である。


 以上協会白書とも言うべきものであるが、日本人すべてが健康美に輝やく肉体の所有者になり、
明るさと違しさに満ちた文化国家を建設する為に正しいボディビルの普及を如何にしたらよいか真剣に考え、かつ協力して頂きたく心より希望する次第である。
月刊ボディビルディング1976年2月号

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