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日本ボディビル史<その8>

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月刊ボディビルディング1976年3月号
掲載日:2018.07.26
日本ボディビル協会副会長  田鶴浜 弘
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協会の再建中興のかなめ昭和41年

 再建白書による日本ボディビル協会新体制の基礎固めが着々と進められたのは、昭和41年で、日本ボディビル史を顧みると、たしかに、再建中興のかなめの年になるのだ。

 この年の主要な動きを要約すると次の3点であった。

①新しい役員陣によって、面目を一新したこと。
②日本ボディビル協会組織の再編と整備拡充が進められたこと。
③協会事業面の画期的な充実。

八田ー朗新会長就任の経緯

 先ず、新しい役員陣による面目一新の新体制のはじまりは、やはり“再建白書”が原動力になったものである。

 2月の理事会において、協会設立以来理事長を続けた平松俊男氏は、今後は技術面に専念したいので、再建のための行政面担当の中心となる理事長は辞任したい旨の希望があり、再建案への情熱を燃やし、その行政手腕を高く評価される玉利斎専務理事へのバトンタッチを要望した。

 結局、3月の理事会において、全員一致、玉利斎新理事長が決定、平松氏は協会技術顧問となり、執行部は面目一新する。

 前年度から、関西の全日本ボディビル協会に対し一本化問題の火つけ役になった玉利新理事長は、以来、一本化問題を前提に、組織の整備再編に熱心に取組む。

 一本化の促進には、2月14日、田鶴浜副会長、玉利理事長が大阪に赴き、全日本ボディビル協会側の谷口勝久常務理事、松山厳理事長、荻原稔理事、武本選手会長等と具体案を話し合った結果、次のような前向きの大綱が“全日本協会案”として示される。

 一本化の前提として、当分の間、両協会はそのままとし、両協会の上に、両者で“日本ボディビル総連合”(仮称)を設立する。

 総連合の本部は東京におき、対外的には日本ボディビル界を代表し、対内的には両協会が日本全域を東西二分してそれぞれ所管領域とする。

 総連合の会長は新規に適任者を推載し、日本ボディビル協会、全日本ボディビル協会の現会長は対等の立場で顧問となるほか、理事会の役員構成は両協会対等を原則に話し合いのうえ選任する。

 全日本ボディビル協会側からのこの提案を、田鶴浜、玉利は東京に持ち帰り日本ボディビル協会理事会で検討した結果、一応、最終目的の一本化にいたる経過処置としてこれを含んだ上で交渉を進めるという基本姿勢をきめる。
 この話し合いを境として、両協会の一本化を目ざす方向が大阪を支配し、“全日本ボディビル協会”は谷口勝久、松山厳両氏が全日本協会副会長、佐野誠之理事長、荻原稔専務理事と、一本化にそなえた新役員構成の全面改織が行われる。

 東京の“日本ボディビル協会”も最終目的の一本化に備えた受け容れ態勢として、日本アマレスリング協会会長日本体育協会理事、参議院議員八田一朗氏を新たに推載する新会長として5月21日の理事会において満場一致で意向をかためた。

 前年の東京オリンピックで、スポーツ選手の強化には、その素地となる国民の体力作りとして、ボディビルの普及振興論者である八田一朗氏の快諾によって、協会創立以来の川崎秀二会長は最高顧問となり、早くも一本化体制への形をととのえる。

 八田新会長就任祝賀パーティーは7月30日、日本体育協会食堂で盛大に行われ、これによって、まだ両協会の一本化は実現していないが、急速に促進されることとなった。
第1回全日本実業団ボディ・コンテスト入賞者。左から中畑(青年の部優勝)、小笠原(壮年の部優勝)、狩野(青年の部2位)の各選手

第1回全日本実業団ボディ・コンテスト入賞者。左から中畑(青年の部優勝)、小笠原(壮年の部優勝)、狩野(青年の部2位)の各選手

協会組織の整備強化と再編

 当面の最大の懸案である一本化問題は、前項のように一応軌道に乗り、3月には名古屋で双方の意見交換の後、6月に入ってから関西側(全日本)佐野理事長と関東側(日本)玉利理事長間で緊密な連絡が行われる。

 6月19日、佐野氏の上京により、玉利氏との間で具体案がねられた結果、総連合案をさらに一歩前進させ、むしろ最終目的である一本化をただちに目指すべきである――という合意に達する。

 よって東・西の両理事長による一本化原案が作製される。

 その両理事長案を佐野理事長は大阪に持ち帰り、全日本協会理事会にはかるのだ。結局、全日本協会(関西側)理事会も、当初の総連合案に執着するものではなく、大勢は一本化承認ということになる。

 7月3日、関西側(全日本協会)佐野理事長、荻原専務理事が再度上京し東京側(日本協会)玉利理事長、中大路常務理事との四者会談を行なった結果、細目の検討を後日にゆずることとして、両協会の一本化による新しい日本ボディビル協会設立に完全な意見一致がなるのだ。

 よって日本ボディビル協会ならびに全日本ボディビル協会は、連名をもって次の声明書を発表した。
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 結局新しい日本ボディビル協会の設立は翌年度に持ち越されたのだが、懸案の一本化路線がひらけることになる。

 日本ボディビル協会の組織の整備、拡充の手はじめとして、①ビルダー協議会(選手会を拡充強化)、②実業団協議会、③ジム協議会が結成され、それぞれの立場における意志を協会活動に反映させるために評議員および理事を選出する。

 また、全国的なボディビルの普及活動として、府県協会の設立が着々とすすめられた。
第12回ミスター日本コンテスト。左から中村、遠藤、後藤の3選手

第12回ミスター日本コンテスト。左から中村、遠藤、後藤の3選手

 協会事業面の画期的な充実

昭和41年度の協会事業面での充実ぶりは実に目覚しく多彩であった。

◇記録挑戦会

 本年度から新たな協会事業としてはじめられたのは、ボディビルダーの記録挑戦会で、後にパワーリフティング大会として年々発展の一途をたどる。

 第1回記録挑戦会は4月24日、青山のレスリング会館で行われた。優勝成績は次のとおり。
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◇実業団コンテスト

第1回日本実業団ボディ・コンテストは、10月30日、品川文化会館で行われた。参加選手は45名。成績は次のとおり。
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◇ガネホのボディ・コンテストに日本代表派遣

 11月30日、カンボジアの首都ブノンペンで行われた新興国競技会(ガネホ)に多和昭之進選手を派遣。ミディアム・クラスで4位となる。

◇ミスター・ユニバースで小笹和俊選手2位入賞

 9月7日、ニューヨークで行われたミスター・ユニバースにおいて日本代表の小笹選手はショートマン・クラスで2位となる。

◇ミスター日本コンテスト

 11月26日、日比谷公会堂で3000名の大観衆を集め、かつてない大規模のスケールで盛大に行われる。当日はTBSテレビ中継も行われ、全国の選抜選手41名によって競われ、遠藤光男選手(東京)が優勝、2位は後藤武雄選手、3位は中村鉄郎と決定。

 この大会は非常な盛会であり、進行中の一本化に対し気運を盛りあげる役割も果たしたもので、この“第12回ミスター日本”については次稿にも書き加えておきたい。(つづく)
月刊ボディビルディング1976年3月号

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