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男と女の力の比較 <その2>

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月刊ボディビルディング1976年5月号
掲載日:2018.08.16
国立競技場トレーニング・センター主任
矢野雅知
 女性のおもな個々の筋群について,男性と比較してみると次のようになる。
(男性の筋力を100%とした場合)。――首57%,上腕58%,前腕(グリップ)57%,胸57%,腰62%,ヒップと大腿部82%,下腿三頭筋(ふくらはぎ)75%。
 こういった女性のパーセンテージは全般的な筋力では同じ体重の男性の2/3(66.7%)に相当する。また男性の平均体重(女性より25%大きい)と女性の平均体重の場合の筋力を比較してみると,女性は男性の57.5%となる。
 【図1】はベンチ・プレスにおける男性と女性の両方の能力を,全範囲にわたって表わした分布図である。ベンチ・プレスの平均値(男性61.7kg,女性36kg)よりも高い方が,低いものよりもはるかに多く分布していることがすぐに解るであろう。それは,少数の記録保持者と比較して,ベンチ・プレスの弱い者や一般的な力のものが圧倒的に多いために,表にあらわしてみると男女の平均記録が低くなってしまうのである。
 この表において,私はベンチ・プレスで挙上出来る最低能力を通常の女性では18kg,男性では29.3kgとした。そんなことから,最大能力では女性において,恐らく135kgを挙上できるものと仮定して表に示している(アントニナ・イバノーバは114.8kgを行なったといわれている)。男性では,体重157.5kgのジム・ウイリアムスによって作られた303.8kgの記録をもとにしている。
 このジム・ウイリアムスは練習しだいでは少なくとも308.3kgは持ち上げられるものと私は信じているので,男性の最大能力をこの308.3kgとした。
 この表は,大ざっばではあるが平均的な男性と女性の腕と胸の筋力の重要な違いを示している。明らかに男性と女性の記録の間に大差があるということがおわかりいただけよう。
 類似のグラフはスクワットやデッド・リフトのような他のパワーリフト種目でも表わすことが出来た。興味のある人は,このようなグラフを作ってみるとよかろう。
 このようなグラフを表わす上での難点は,女性のウエイトリフターやウエイト・トレーニーの資料が少ないことである。だが,時の流れと共にこの種の資料が豊富に生まれてくることは疑う余地がないので,いずれこの点も解消されよう。
 【図2】と【図3】は,男性と女性の皮下脂肪厚について,最も顕著な相異を示してくれる。対象によって若干の差異はあるだろうが,一般的な身体の皮下脂肪は若い男性よりも女性の方が少なくとも50%は厚いことが,この図でおわかりいただけると思う。
 太腿やヒップのような身体部位では皮下脂肪の厚さは【図3】で示されているように女性は男性の3倍以上である。
 女性において大腿囲の大きさに比して,筋肉の横断面積が比較的小さいということが,女性の皮下脂肪の厚いことを物語っている。これと同じことは【図2】に示すように皮下脂肪が太モモやヒップほど厚くない上腕においてもやはり同じことが言えるのである。女性の身体構造(太さの関係を指す)がこのように男性とは異なっているということから,すでに男性の能力と比較してみてきたように,女性の筋力は構造上,男性の筋力とは当然異なるものであるということに,ここでもまた気付かれるだろう。
 トレーニングによってよく発達し男性では,上腕二頭筋の太さは太モモの2/3の大きさとなる。だが,強さは太モモのおよそ半分までにしかならない。これと対称的に,普通の体をしている女性では上腕二頭筋の太さは太モモの1/2よりもやや大きくなるに過ぎない。この太さの違いが,男性の脚力では腕の強さのおよそ2倍になり,女性ではおよそ4倍になるという結果をもたらすのである。
 このことから女子選手の脚力は,同じ体重の男子選手の腕の1と1/2倍から1と2/3倍の強さということになる。このことが,熟練女性レスラーが足固め(レッグ・ホールド)を用いて,自分と同じかあるいはそれ以上も体重のある男性を,ときたま打ち負かすことの出来る理由の一つだと考えられる。
 女性のウエイト・トレーニングに関して,もっと大切な点をここで少し言及しておこう。
 それというのは他でもない。今だに多くの女性が,激しい体力作り(ウェイト・トレーニング)に取り組んでいると「筋肉質で男っぽくなってしまうのでは?」という懸念を抱いていることである。しかしそのような体力作りをみんなで一緒に行うことは,健康的だし,お互いの親しみをますにもかかわらず,前述したような考え方がダンナ様とかボーイフレンドといった人達と一緒にトレーニングすることから女性を遠ざけてしまっているのである。そういった激しいトレーニングをしても「筋肉質で男っぽい体」になった女性というのは,千人に一人もいるものではないということを認識すべきである。あの激しいアクロバチックな運動をしている女性たちが,あのような素晴らしく発達したからだをもち,スタイルがよいのを考えてもこのことが理解できるというものである。
〔図1〕

〔図1〕

 このように女性が男性ビルダーのような筋肉質で遅しいからだになれるものではないが,かりにごく一部の女性ではそのようなことが起るとしても,それは激しい体力トレーニングによるものではなくて,むしろそれは何かホルモンの失調によるものであろう。
 体育学者で,哲学博士であるパトリシア・コリン・モリスによって1960年に発表された研究によると,3種類の筋力テスト――すなわち握力,背筋力,脚力と形態測値が,164名の女子大学生と150名の女子競技選手との間で比較されている。競技選手達はそれぞれバスケットボール,水泳,ダイビング,テニス,フィールド,ホッケー,ゴルフ,体操,ソフトボール,陸上競技(トラック,フィールド)を行なっている者である。
 彼女達はウイリアム・H・シェルドン博士の「体型学」によって分類された(シェルドンの体型は内胚葉型,中胚葉型,外胚葉型と名づけられた3つの体型からなっている)。
 この方法で人間の体格を分類することに親しんでいない読者のために説明すると,肥満した人は内胚葉型に属し,筋肉と骨の発達が著しい人は中胚葉型に属し,痩せて虚弱な体格の人は外胚葉型に属するというように,3つのタイプに分類されるのである。
 3つの体型に分類されたそれぞれの被験者達は,さらにその中で1から7つのポイントに分けられる。若い男性の「平均」的な体格は3―4―4である。つまり内胚葉型3ポイント―中胚葉型4ポイント―外胚葉型4ポイントということになる訳である。もっとも高い筋肉質型は中胚葉型が強く出ている1―7―1となる。若い女性の平均的なタイプは4と1/2―3と1/2―3である。
このようなことを頭に入れておいてさきの164名の女子大生についてちょっと触れてみると,体型分類の平均タイプは5―3―3で,150名の女性競技選手の平均は5―4―3である。競技選手の方が中胚葉型が少し多いが,競技選手でない一般の女性の体格とだいたい同じような体格であることを示している。つまり,女性は運動をしてもさほど筋肉質型にはならないということが,このことからうかがえるのである。
 競技選手グループの中で,7.0の最大値が内胚葉型で認められたが,中胚葉型,外胚葉型の両者では最大値でも5.5であった。内胚葉型7.0の数値はおよそ千人に1人ぐらいしかないケースと思われる。それも,少なくとも2.5の中胚葉型1.5の外胚葉型を伴っているだろう。しかし,1―7―1とか2―7―1という筋肉質なタイプが女性で認められることは,別におかしなことではない。数千人の中には数十人ぐらいはそのようなタイプの女性がいても,それはむしろ当然だろう。
 そしてそのような女性であっても,からだから最後の脂肪のひとかけらを取り除こうと頑張らない限り,「男のような筋肉質タイプのからだ」にはならないのである。ウェイト・トレーニングは比較的静かな運動だから,そのようなからだを作り上げることはまずないと言ってよい。
〔図2〕上腕断面図(男女とも同身長,同体重)

〔図2〕上腕断面図(男女とも同身長,同体重)

〔図3〕大腿断面図(男女とも同身長,同体重)

〔図3〕大腿断面図(男女とも同身長,同体重)

 むしろ実際には「バーベル運動」は競技選手であろうとなかろうと,女性を最も美しいからだにしてくれるものであり,からだにもっとも美しい色ツヤをつけてくれる運動の1つである。しかも規則正しくこのウェイト・トレーニングを行なうことによって,このストレス過剰の時代を女性がエネルギーとスタミナにあふれて過していけるのである。
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 このように見てくると,ウィロビー氏は女性の筋力はどんなに頑張ろうとも所詮は男性の2/3の力しか獲得することが出来ないと結論している。つまり先天的に女性は男性に「力」では劣っているようになっているのである。だからボーヴォワール女史がどのように哲学しようとも,こと「筋力」の面では女性は男性に本質的に劣ることになる。しかも形態上の相異点も男女間では明確に見られるわけである。この形態上の違いや生理的な相異が,精神活動に影響しないであろうか。

<どちらが優秀か>

 この点について,頭脳の働きという面からやや論理を飛躍して考えてみると―
 脳が人体の中で占める割合はわずか2%に過ぎない。ところが血液の流れ―血流量では実に全体の20%も占めているのである。それだけ脳細胞が活発に働いており,酸素や栄養分を必要とすることになる。
 ところでこの血液の循環がよいというのは,心臓の働きと共に毛細血管の発達がすぐれていなくてはならない。そのためには,心臓を強くして毛細血管を活発にする身体運動をすることが必要になってくる。ということは,一般的に女性は男性に比べて身体活動をしないことが多いので,脳の血液循環効率は男性に劣るのではなかろうか。女性は充分な身体活動をせざるがために,脳の機能を生かしきっていないことにならないだろうか。
 男女共に共通の勉学の場を与えている小・中学校を思い起こしてみても,学問に優れているのは男性の方が多いようである。このことは,男性は,より活発に体を動かしているからに他ならないと考えるのは詭弁であろうか。米国のモアハウス博士は,試験において最後まで高い能率をあげ続けられるのは,頻繁に体を動かす学生に多いと述べている。
 つまり血液循環が良くなるから脳への酸素の供給がよいわけである。おとなしい女の子よりも活発な男の子の方が,頭脳活動において有利であることになる。それに運動しているものは疲労しにくい。ということは,より長い時間にわたって脳を使用出来るわけであり,優秀な成績を示せることになるというものである。
 したがって,頭脳による精神活動の点から男女を比べた場合に,以上の点で活動的な男性に軍配が上がるというのが私の持論である。読者の皆さんはいかがお考えになるだろうか。

<女性の本分とは>

 しかし何と言っても,女性は男性の2/3の力しかないのだし,男性に比べて骨格筋も発達しにくいということは,本質的に動的な男性よりも静的なものなのであろう。ジッと殿方のそばにかしづいている……そんな女性だからこそわれわれ男性は“カワユイ”と思えるのではなかろうか。男性よりも優秀さを見せない(見せられない?)がゆえに,男性は女性をいとおしいと想うに違いない。つまりおのれを主張して「男なんて……」とあまりに強くはねっ返る女性はチッともカワイラシイものではなかろう。
 かつて女性は,男性の領域を浸すものではなかった。国論を闘わすのも政治を語るのもほとんど全てが男性の領域であり,女性には表だった活動の場は与えられていなかった。そういった歴史的背景の中で,日清戦争後の三国干渉によって遼東半島返還を余儀なくさせられたことは,国民意識を屈辱感で燃え上らせた。徳富蘇峰は平和主義から帝国主義に転換しており,日本主義の高山樗牛や井上哲次郎も帝国主義の必要性を説いたのである。
 そんな中で,わが国の近代ウーマン・リブの先駆者(?)たる女傑与謝野晶子は,「君死にたもうことなかれ……」と歌いあげて,まっこうから戦争を否定した。この時点で,男性の領分に女性が一歩足を踏み入れたのである。そのような時代の推移とともに,「新しい女」が問題とされてきた。「青鞜」の平塚雷鳥などが女性解放に立ち上がってゆくが,かの森鷗外は「安井夫人」を発表して,質素清貧に甘んじる美しい日本女性を描くことにより,これこそ女性本来の“姿”であると示した。「新しい女」に対して「古い女」のよさを提示したのである。
 その後,「人形の家」のノラなどが世間を騒がしているが,森鷗外の示した“オシトヤカナ女性”こそ最も素晴しい女性像に思える。
 ウーマン・リブもよかろうが,まず女性本来の特質を十分にふまえたうえで活動してゆくべきであろう。ただ権利ばかりを主張せず,女としてやらねばならないことを改めて認識せよという鷗外の言外の意を感じとってほしいと思う。
 しかしながら,女性も積極的に身体活動を行い,体力作りの必要性に目覚めてくれば,男性もおちおちしていられないということになるのだが,体力作りに取り組めばいまよりもさらに美しい肢体の女性が生まれてくるわけだし,男性にとってはまことに嬉しいことである。だが嬉しがるには,世の男性諸氏は一段とトレーニングに励んで本来の逞しさ男らしさを取り戻さなくてはならないだろう。

<結論は>

 しかし,つらつら考えてみると,台所で采配を振りながらも,男性を影から意のままに操縦しているのは,実は女性であるのかもしれないと思えてくる。そして男性は女性のために死ぬまで身をすりへらして働いており,女性はのうのうと家庭に居すわっている……。だから女性は男性よりも長生きするのであろうか。こうなるとどっちが優秀なのか解らなくなる。そもそも優劣を決めること自体がナンセンスなことなのだろうか……。
月刊ボディビルディング1976年5月号

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