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☆ボディビルと私☆
ボディビルと共に歩んだ二十年 1976年7月号

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月刊ボディビルディング1976年7月号
掲載日:2018.07.19
パワーリフティング全日本フェザー級日本記録保持者
富永義信(税理士)

◇日本腕相撲協会に入門◇

リスト・カールの強いことで有名な小田原市の原田秀人氏に会ったのは昭和35年の夏だった。腕相撲に段位があるのが珍しかったのと力に自信があった私は、その年の秋、原田氏に紹介された日本腕相撲協会々長の山本哲先生をたずねてみた。入口には『山本歯科医院 山本哲』と書いてあった。

腕相撲と歯医者さん、この少々変わった組み合わせに私は興味をもった。玄関に立っていると、白衣の山本先生が出て来られて、「後で君の力を試してやるから、まああがんなさい」といって診察室に戻られた。

君の力を試してやる?力を試す器械でもあるのかと考えながら待合い室で待っていた。

しばらくして診察室から出て来られた先生は、器械ではなく、実際の腕相撲で私の力を試してくれるというのである。内心ではそう簡単に捻り潰されるとは思わなかった。しかし、いざ試合をしてみると、先生の腕はまったく動かない。「君、それでも力を入れているのか」といわれて、顔をまっ赤にして頑張ってみたがビクともしない。全然問題にならないのである。ある程度、力に自信のあった私は、この現実に直面して全身の力が急に抜けてしまった。

これが日本腕相撲協会々長・山本哲先生と私の初めての出合いだった。
【昭和35年当時の私】

【昭和35年当時の私】

◇山本哲先生◇

ずいぶんお若く見えた山本先生は、実際は60歳だった。先生から腕相撲を始められた動機や、スポーツに関するいろいろな面白い話をうかがった。私はこんな素晴らしい先生を知ることが出来たことを原田氏に感謝した。

腕相撲の練習は毎週土曜日の夜8時から山本先生の家で行われた。力に自信のある若者が沢山集まってきて、お互いにその若さをぶつけ合う迫力はすさまじかった。しかし、いったん練習が終わると道場は実におだやかな雰囲気に変わってしまう。

そして、何人かが残って、静かに先生の話をうかがうこともある。ある時先生が1本のタバコを手にされた。タバコを吸わない先生がどうしてタバコなど持つのかと思っていると、そのタバコがアッという間に消えてしまったのである。次の瞬間、今度はその消えたはずのタバコが別のところから出てくる。つまり、手品なのである。先生は日本奇術協会でも有名な方だと知って私は驚いた。

またあるときは、先生の独奏によるマンドリンの音色が静かな夜のとばりに響きわたる。若者たちは先生のマンドリンにじっと耳をかたむけ、練習の疲れをいやすのであった。声楽も本格的に勉強されたと聞かされて、先生のバイタリティに富んだ活動ぶりに驚かされてしまった。

先生の人格をしたって、自然に若者たちが先生のまわりに集まってくる。ボディビル、重量挙げ、柔道、空手。いろいろなスポーツマンが腕相撲の練習に来る。

「さあ、どこからでもいいからかかってこい」と言われる先生に、柔道三段、四段の連中がかかっていく。その瞬間、逆手をとられて動けなくなってしまう。三和無敵流五段、柔道五段と聞いて、私はまたまた驚いた。私は人格の高い山本先生の人柄に引かれ、どんなに辛くとも先生のように立派になるための試練と思って、ボディビルと同様に腕相撲にも励んでいこうと心に誓った。

また、山本先生が精神を鍛えるために”水かぶり”をされたことを聞いて私も早速水かぶりを始めた。冬から始めては体によくないので夏から始めたが、冬の水の冷さは例えようがない。心を磨くために今でも続けているが、それでも冬の水は冷い。

スポーツは、ただその競技力を向上させるだけでは意味がない。その練習をとおして肉体と精神を同時に鍛えて始めてスポーツの意味があると思う。文化の発達した現代では、それほど強い力は要求されないし、また、人間がどんなに強くなろうとも、人間によって作り出された機械には遠く及ばない。スポーツは心身を磨くためにやるものであり、私はこのためにこれからもたゆみなく努力を続けていくつもりである。

この土曜日8時からの練習のとき、途中、お茶の時間があり、その後、全員が正座して精神統一の訓練をやる。私はこの時間がとても好きである。精神的にも経済的にも非常に苦しかった日のことを懐しく思い出す。腕相撲は『礼に始まり礼に終わる』とよく教わった。人生も同じである。「お願いします」「ありがとうございます」この言葉、この態度を決して忘れてはならない。月に1回程度の腕相撲の練習だが、強くなりたいというよりも、心の学びを求めて続けている。
【日本腕相撲協会々長・山本哲先生(昭和45年、当時69才)】

【日本腕相撲協会々長・山本哲先生(昭和45年、当時69才)】

◇腕相撲の思い出◇

腕相撲協会に入門して1年足らずで私は初段を授与された。そしてその翌年二段になった。新聞、雑誌、テレビなどに何回か出る機会に恵まれた私は今度、映画に出ればすべてのマスコミに出たことになるので、そうなれば愉快だろうなあと独りで勝手に想像したりしていた。驚いたことにそれが現実となったのである。

私が二段に昇段したとき『腕っぷし日本一』というタイトルで昭和37年夏ニュース映画として上映された。私は1日中映画館にとじこもって記念の写真を撮った。それから2年後の39年夏にも、大毎ニュース第726号『腕でこい!』と題するニュースに出た。

このときは融通のきかない会計事務所に勤務していたのでどうしても上映期限までに観ることができなかった。そこで、映画館に無理に頼んで、一般のお客さんが帰ったあとで特別にニュースだけ上映してもらった。支配人や映写係の人の親切で、大きな映画館で観客は私ただ1人、気持よく観せてもらった。

映画はいきなり私の大胸筋が画面いっばいに写り、そして日本腕相撲協会の文字の入った腕相撲の台で構え、始めの合図で気合もろとも私が相手の腕を台につける場面だった。

三段になってから、今度は外国の新聞に私の写真が大きく載ったこともあった。こうして腕相撲の思い出はつきないが、しかし何といっても嬉しかったのは、大きなスランプにぶつかり静養のためしばらく長崎に帰ったときのことである。傷心にうちひしがれていた私に、「早く元気になって戻って来てくれ」という会員の寄せ書きと、会員のついた餅(力もち)が一緒に送られてきたときの嬉しさは決して忘れられない。

腕相撲をとおして肉体を鍛え、精神を磨き、さらに人の和を重んじる山本先生の人柄と日本腕相撲協会の素晴らしさをあらためて知った。

◇念願のパワー日本一◇

昭和41年4月24日、青山レスリング会館において第1回ボディビルダー全日本記録挑戦会が行われることになった。すでに外国ではボディ・コンテストと同様にずっと以前から行われていたが、日本ではこれが始めての大会であった。この思わぬ大会開催に私の胸は踊った。

ニュースを知ったその日から集中的にトレーニングに励んだ。この大会は軽量級、中量級、重量級の3階級制で種目はベンチ・プレスとスクワットの2種目で行われた。

大会当日、あいにく朝から雨が降っていた。会場に集まってくるビルダーたちは、さすがにみんな立派な体をしていた。私はただ自己のベストを出せればいい、入賞など考えないように努めた。

しかし競技が進んでいくうちに優勝圏内に残った私は、緊張のあまり全身がだんだん固くなってくるように感じられた。私の番がくるまでに心を落ち着け、悔のない試技をしようと精神の統一に懸命だった。

私の名前がコールされた。私は無我夢中でバーベルを挙げた。幸運に恵まれた私は、この第1回全日本大会の軽量級ベンチ・プレスで137.5kgをマークして優勝することができた。夢にまでみた力の日本一になれたことが言葉ではいい表わせないほど嬉しかった。賞状と日刊スポーツ新聞社より贈られた楯を大切に持ち帰ったことがきのうのように思い出される。
【昭和41年第1回記録挑戦会で優勝して表彰を受ける私】

【昭和41年第1回記録挑戦会で優勝して表彰を受ける私】

◇債権者会議の仲裁役◇

あるとき、私の顧問会社があっけなく倒産した。不渡手形を出したその日多くの債権者が押しかけてきた。

翌日、私はその仲裁役を倒産会社から依頼された。顧問税理士として当然なので引き受けたが、このような経験はいままでに一度もなかった。

早速、債権者会議が開かれた。30名以上の債権者が集まり、厳しい目つきで私をにらみつけていた。そして、私が倒産の経過と現状の説明に入るやざわめきが起こり、最後には私の言葉は聞こえないほどになった。

「何を言ってるんだ。顧問税理士ならもっとはっきり答えろ!誠意がないじゃないか。資産内容はどうなっているんだ」と、あまり人相のよくない者が荒々しく私に食ってかかってきた。この会社は梱包屋で、かなり広い敷地の工場をもっていた。そのだだっ広い所にいくつも折りたたみ式の椅子を置いて債権者会議をしていたのである。それはあたかもパワーリフティング大会の会場によく似ていた。ここにベンチがあり、バーベルがあればパワーの大会の雰囲気にそっくりだ、ふとそんなことが私の頭の中をよぎった。

パワーの大会では緊張に包まれ、非常に神経を使う。大勢の人の前で自己のベストを出すには図太い神経をもたなければならない。ファイトを湧き立たせ、雰囲気にのまれないようにしなければならない。あのパワーの大会と比較して、きようはただ喋ればいいのだから楽なものだ。パワー大会で優勝した者がこんな所で人にのまれてたまるか。相手が30人でも50人でも、逆にこっちがのんでやる。私は急にファイトが湧き、大きな声を張り上げた。

「場内が少々騒がしいのは私の声がすみずみまで通らないからでしよう。それでは大きな声で喋りましよう。只今、債権者のどなたかが言われた資産内容を今すぐ見せろといわれる心境はよく分かりますが、しかしそれは無理です。無理なのです。私はここの専属の事務員ではないんです。それに、私だって皆さんと同じように債権者の1人なんです。そうでしよう、顧問料というものは当然もらう権利のあるものですが、私はいま、それにこだわりなく皆さんの文句を敢て受ける覚悟をしてここに出て来たのです。私の誠意をくんでいただきたい。よし、3日以内に全部まとめましよう。皆さんそれでどうですか」

そう言って私は文句をいいたそうな債権者をにらみつけた。しかしそうはいったものの、3日以内というのは普通なら無理なことであった。しかし体力に自信のある私は、3日ぐらい徹夜してもぶっ倒れない確信があったから強く言えたのである。

「先生も大変ですね。ひとつよろしくお願いします」何人かの人はそう言いながら帰っていった。債権者にのまれず押し切ることができたのは、パワーのチャンピオンからくる経験と自信であった。

◇ケガには勝てず◇

昭和46年春、体の調子は絶好調だった。とくに体調のよかった日、思いきって160kgに挑戦してみた。連続3回完全に挙上できた。よし、これで日本記録をいっきょに10kg更新できると,すっかり気を良くした私は、その夜、寝てしまうのがもったいなく、徹夜で仕事をして一晩中起きていた。160kg3回挙上に興奮したのと、そのときの感じを忘れたくなかったからである。それから数日間は、仕事の合間にもふとそのことが頭の中をよぎり、喜びがこみ上げてくるのだった。

しかし、無心に喜ぶ私の気持は、数日後、無残に打ち砕かれた。スクワットの練習中に、どうしたことかギックリ腰をおこし、そのまま床にすわり込んでしまったのである。

こんな経験は始めてだった。階段の上り下りは手すりをつかまなければ自分では上れない。夜、ふとんの中で寝返りをするたびに痛さがズキンと背中から腰を走り抜ける。大会は日1日と迫ってくる。気持の焦りはつのるばかりである。

こんな悪コンディションで迎えた第6回全日本大会は最低だった。痛みをこらえ、ただパワーに対する執念だけで大会に出場したのだった。そして、ベンチ・プレスこそ145kgを挙げて2位になったものの、総合では問題なく敗れ去った。ケガとはいえ、いいようのない淋しい気持であった。

淋しく引きあげる私に「富永さん、大丈夫?来年からは3種目1回挙上制だから気を取り直して頑張ってください。無理しないように」と優しく声をかけてくださったのが実業団の曽根将博名誉相談役であった。淋しい私の気持に、温い日差しが入ってきた思いだった。

また、恒陽社の西山昌吾氏は私の体を心配して、腰痛に効く電気式の治療器を貸してくれた。そのほか多くの人が何かとアドバイスしてくれた。こういうときの人の親切はとても嬉しいものである。しかしケガにはどうすることも出来なく、私は現役引退を決意した。心の支えに持ち続けたバーベルと離れることは私にとって何よりもつらく淋しいことだった。

大会のとき、無残に敗れ去った私に惜しみなく拍手を送ってくださった観衆の皆さんの温かさがうれしく思い出されてくるのである。

◇執念のカムバック◇

ハリやマッサージに通って治療したが支えなしで歩けるようになるまでにはかなりの期間がかかった。以前のように重いバーベルをかついでのトレーニングなど思いもよらなかった。一度決意したとはいっても、引退することを思うとやるせなくなる。張り合いを失なった心の淋しさは隠しようがなかった。長崎に帰ったときや、あるいはどこかでいい指圧の治療所を耳にしたときなど、すぐその足で飛びこんでいったものである。やはり私の心のどこかに、もう一度カムバックしてやろうという不屈の精神が頭をもたげてくるのであろう。

こうして、曲りなりにもカムバックにこぎつけることが出来たのは、ボディビルに対する情熱以外の何ものでもなかった。ただ練習不足からくるバーベルのこわさはなかなかぬぐいされない。それでも腰をかばいながらボツボツ練習できるまでに回復した。この年の大会から体重も7階級制となり、私は6kg減量して再スタートすることにした。

昭和48年の第7回日本ボディビル実業団パワー選手権大会は三重県四日市市で行われた。

無理な減量で前日は一睡もできなかった。空腹で喉がカラカラにかわき、胸が苦しくなってくる。家だったらへルス・メーターがあるので体重を計りながら水分の補給ができるが、旅館ではどうしようもない。東の空が明るくなってもどうしても寝つかれず、ついに我慢できなくなってひと口だけ水を飲もうと部屋を出たが、足がフラフラで危うく階段からころげ落ちるところだった。

きょうの試合は果たしてどうなるのだろう?急に不安になってきた。もう少しの辛棒だ。朝9時に検量がすんだら食べたり飲んだり出来る。俺は負けんぞ、誰にも負けんぞ。

こういうとき、私は物凄くファイトが出てくる。負けん気がとことん強い自分になってしまう。誰も練習相手のいない孤独のトレーニングに耐え忍んで得た不屈の根性かも知れない。雪の日も、嵐の日も、何の囲いもないベランダの下で自分との孤独の闘いを続けようやく獲得したチャンピオンの座である。もう一度、どうしてもカムバックして、第6回大会のとき、温かく励ましてくれた人たちに晴れの姿を見せなければならない。

30分ほどトロトロとしただけで大会の朝を迎えた。洗面所の鏡に写った自分の顔を見て驚いた。類はコケて目がくぼみ、そのやつれ方はまるで別人のようだった。早く検量したい。検量さえすめば、思いきり水が飲めると思うと、いても立ってもいられない。一層喉のかわきが我慢できなくなった。夜中から時々起こっていた胃のけいれんは、朝になってぶっ続けに起こって止まらない。空腹と喉のかわきはもう限界ぎりぎりである。

9時検量。体重はリミットを大幅に下まわっている。減量の失敗である。検量が終わったので食事を摂ろうとする頃、厳しい減量からくる胃のけいれんはますますひどくなり、試合どころの問題ではなくなった。根性だけではどうにもならない。すでに体がきかなくなっている。

食べ物をひと口食べては少量の水を飲み、2〜3分休んではまたひと口食べる。私の出場までにはまだだいぶ時間がある。なんとか少しでも早く回復をはからなければならない。30分ほどかかってようやく弁当の3分の1ほど胃の中に入れた。胃のけいれんも次第におさまり、午前10時の試合開始の頃には普通なみに動けるようになった。

入場行進曲が高らかに鳴り響き、選手入場である。入場行進曲を聞いた瞬間、さっきまでの苦しさはどこえやらファイトがムラムラと湧き出し『よしきょうは日本新記録を出して優勝して帰るぞ』と強気の我に返った。

減量の失敗でベストが出せないというのは、結局は実力がないからだ。実力のある者なら、いつでも、どこでも記録が出せるはずである。私は自分の根性を試す絶好の機会をもったことを内心喜んだ。そして、きょうの成績が楽しみでもあった。

日本ボディビル界の名司会者として有名な山際昭氏がきょうもアナウンサーを務めてくれることが私にはとても嬉しかった。山際氏はさすがに自分もボディビルの経験者だけに、競技者の呼吸をうまくとってくれる。会場の盛りあがりも名司会者によって最高潮になる。選手と観衆、その息の合い方がこの名司会者によってうまく保てるのである。パワーリフティングの人気上昇にとっても非常にありがたい。

こうして、私は生まれて始めての厳しい減量に打ちかって日本記録を5kg上まわる新記録で優勝することができた。優勝トロフィー、楯など沢山の賞品を受けた。そして特別賞として努力賞が授与されたときは、感無量で喜びが心の底から湧き出てきた。四日市市を後にして満員の新幹線の中でも、私は満足感と喜びに満ちていた。
(つづく)
【昭和43年6月、全日本選手権大会】

【昭和43年6月、全日本選手権大会】

月刊ボディビルディング1976年7月号

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