フィジーク・オンライン

☆女性の脚線美からポージング芸術論まで☆

この記事をシェアする

0
月刊ボディビルディング1976年9月号
掲載日:2018.07.27

“南海先生の独り言”

国立競技場トレーニング・センター主任 矢 野 雅 知

ボディビル界のヤジ馬評論家

どんな世界にもヤジ馬はいるものである。無責任なことを言いたい放題にしゃべりまくって、ひとり本人だけが悦に入っているのだからどうにも手におえない。だが、そんなヤジ馬でも、ときには「なるほど!」と感心させられることをおっしゃるものである。

ここにボディビル界のヤジ馬評論家を自認する御人がいる。かりにその名を南海先生としておこう。今回はこの南海先生に登場ねがって、言いたい放題のことをつれづれなるままに語っていただこうというわけである。

以下、南海先生のとりとめのない独り言である。


「ウナジがしっとりと濡れて……」などと、古来、女性のウナジは色気を発散させるところであると言っておるが、ワシが思うには女性の色気はなんといっても、その脚の形である。

女性のチャーム・ポイントはその脚線美である、とする通人もはなはだ多いと聞く。風に吹かれてフワリと舞いあがったスカートの下から、チラッと太モモでも見えようものなら、ゾクゾクしてその日は夜遅くまで寝つかれないところである。

 ワシのようにしつこく世を生き続けているものでもそう思うのだから、若いビルダーなんぞは鼻血でも出そうというもんじゃろう。 もっともこれが、0脚ガニ股で特大のダイコン足なら、その日は明けがたまで悪夢にうなされてしまうところじゃのう。

女性のベスト・レッグとは

 まあ、そんなことはどうでもよい。とにかく、これほどまでに男性の心理を激しく揺さぶり続けている女性の脚とは、一体どのようなものをして〝ベスト・レッグ〟とするのであろうか。むろん、こんなことは主観の相違がはなはだ大きいに違いないじゃろうが、一般にはファッション・モデル嬢たちの脚線美が受け入れられているのではないだろうか。

 一般大衆が、「こいつァいい、美しい」と感じるからモデル業がつとまるのだろう。でも、そういえば彼女たちに名誉毀損、営業妨害で告訴されそうな意見を吐く奴がおったのう。たしかA・トーマスという人で、彼はなかなかの識者で、そのするどい感覚に感心したことがある。

 トーマス氏に言わせると、「いまのようなファッション・モデル嬢たちの脚線美が、モテはやされる時代は終わりつつある」ということになる。そして、「ファッション・モデル嬢たちの脚なんて、鍛えたモノじゃないので発達していないし、バランスもとれていないし、おまけにシマリがない。つまり欠点だらけである。だから、それを隠して少しでも美しく見せようと、斜めに足を置いたりして、たえず足の位置を意識せざるをえないのである」
なかなか手きびしい意見ではないか。

 では、トーマス氏はどのような脚をベストとするのであろうか。「モデル嬢と違って、競技選手の脚の形は、鍛えてあるのでしまっていて美しい。これこそ機能的な美しさを持つ脚なのである」つまり、競技選手のような脚がベストというのである。

 さらに続けて「これからは、女性も積極的に脚を鍛えて、形を整えていかなくてはならないだろう。モデル嬢の脚と女子競技者の脚を比較してみればよくわかるが、同じ太さの脚であっても、競技者の脚はしまっていて美しいと感じるだろう。彼女らの脚ならば、どんなポーズをとってもよい。ファッション・モデル嬢のように、意識して欠点を隠すようなポーズをとる必要などまるでないのである。

 まあ、このようにいわれてみると、確かに走高跳びやバレー・ボール、バスケット・ボール選手などのしまった脚は魅力的である。それはまた機能的でもある。〝通〟の目からすると、これこそベストな脚ということなのであろう。

 もちろん、ワシもこの意見にはまったく賛成である。ただ、これにもう少し付け加えておくと、競技者でなくとも、ビューティ・トレーニングを行なってプロポーションを高めていけば、また一段と魅力的になると思うが、どうじゃろうか、ワシの意見は?諸君はどう考えるかナ―。

 まあ、いずれにせよ、今後もこういった美学が一般に浸透してゆけば、女性もトレーニングせざるを得なくなろう。それにトレーニングに励めば、その魅力が永持ちするものだし、ワシのような老骨の目を楽しませてくれるというものである。

女と男のホルモンの違い

 ところが世の中には、運動などまるでしなくても、フルイツキたくなるほどチャーミングなプロポーションをもつ女性がいるものである。それは、先天的な素晴らしい肢体をしており、女性ホルモンの分泌が盛んな、花も恥じらう、うら若い年代の娘である。もちろん、それにトレーニングをすればもっと素晴らしくなり、いつまでも美しくいられるであろうが、トレーニングしなくてもそんな娘にはゾロゾロと男が群がってくるものである。

 つまり、女性のからだというのは、もって生まれた体型などに大きく左右されるように思う。このからだに、さらにトレーニングをして、もっと体型を整えていけばよいのだが、若いときなら女性ホルモンが活発に働いて、女っぽい、チャーミングな体ツキにしてくれるから、ついそのままで頑張りとおしてしまうのである。

 それでは男性はどうかというと、男性ホルモンがどんなに盛んに分泌されようと、なんにもしないで遊びまわっていたのでは、筋肉隆々のスポーツマン・タイプのからだなんぞにはなりっこない。男の美しさ、逞しさというものは、疑いもなく自分で汗を流して作り上げなくてはならない。男の肉体美は、いかに優れた素質を持っていようとも、鍛えあげていかねばならんのである。ここにボディビルディングの原点がある。

 そういえば、その昔、三島由紀夫氏はムネの筋肉をピクピク動かして「これぞボディビルの原理なり」といったそうだが、なかなかウマイことをいったものである。筋肉をコントロールすることは、すなわち肉体をコントロール出来ることである。つまり、ボディビルディングは、自分の肉体を知るための手段となるのである。なかなかどうして、こうなるとボディビルディングの持つ価値は実に大きいものと思わざるを得ないのである。

男性肉体美の理想像

 ところでワシは、つねづね男性の肉体の美学には、これといって決まったパターンがないように思っている。
 
 女性の体型ならば、ミロのビーナス像に代表されるように、ふくよかなバスト、細くくびれたウェスト、盛りあがったヒップというように、絵に描いたようなまろやかな体型美のパターンというものがある。

 ところが、男性の肉体美観となるとそんなものはないようである。セルジオ・オリバのような、マンガにでも登場して、ひと暴れしそうな感じの体つきのものや、アーノルド・シュワルツェネガーのように大きいながらも、バランスのとれたノーマルな感じのタイプもある。かといえば、スティーブ・リーブスのようにスラリと美しいタイプの肉体美もあるわけだ。

 上腕ひとつをとってみても、ボイヤー・コーのような腕もあれば、アルバート・ベックルスのような腕もあるというように千差万別である。そこが均一化されたような女性の体型美とは違って、男性の肉体には個性が強く出てくるので興味深いところである、とワシは考えておる。つまり、ポディビルダーが同じようなトレーニングをしてもそれぞれ異なった個性的な肉体美が生まれることになる。このように考えていくと、面白いものだのう、ボディビルディングというのは!

男性美とポージング

 だが、いかに自分なりの独特のからだをつくりあげても、それを表現できなくては個性は十分に発揮されないことになる。そこでポージングということが必要になってくるのだ。人にはみな自分のからだに適したそれぞれのポーズがある。ポージングによって、そのボディビルダーの個性は生かされもし、またその反対の結果を生むことにもなるのである。

 かのジョン・グリメックは、リラックスして立っているだけならば、歴史に名を残す大ビルダーというイメージは浮んでこないだろう。だが、彼がひとたびポージングに移るや゛マッスル・ダムの帝王。の名に恥じないフィジークにかわるのである。ポージングをとるからこそ、ミスター・エブリシングが表現されるのである。だからこのポージングはひじように大切なものである。

 なんだかワシはこのポージングについてしゃべってみたくなってきた。諸君はもう少しガマンしてワシの面白くもない話を聞いてくれるかナ……。まあよい、ワシは勝手にしやべるまでじゃ!

 スポーツとは、そもそも競技性をもったもののことをいう。つまり、身体運動によって相手と競技することである。だから、体操競技の床運動などの演技もスポーツであるならば、フィジーク・コンテストで覇を競うこともまたスポーツということになろう。また「スポーツとは、競技に勝つために人が肉体を鍛えることであるとするならば、ボディビルディングはまさしくスポーツである」と定義づけるものである。

 だが、これに対して、ボディビル界の大御所ジークモント・クラインは、「ボディビルディングはスポーツなどではない。それは純然たる芸術の完成である、と私は信じている」と述べている。なかなかの名言ではないか。ボディビルディングとは芸術である、という深遠な境地に達するとは、さすがジークモントおじさん! という気がするのォ。

 そういえば、この芸術についてアリストテレスは「芸術とは、終わりなき自然を完成させるものである。芸術家とは、理解しつくせない大自然の知識を我々に与えてくれるものである」とか申しておる。すると芸術家と定義されうるボディビルダーとは、大自然のよき理解者ということになりますなァ言ってみれば、ボディビルディングの究極は、つまり、その……実に高尚なものである、ということになるではないか。エーこれに異議をとなえるビルダーはおらんじやろう、ウン。

 ところで、この高尚なるボディビルディングも、いかに美的に見せるかというところに芸術性が生まれ、スポーツ性があるのだとワシは思っておる。クジャクにしてもオスがメスよりも数段美しく華麗だが、それは羽を大きく広げてみせるからこそ、美しいと感ずるのである。ボディビルダーもポージングをしてこそ、より強く、より逞しく、より美しくみせることができるのである。

〝ポージングの職人〟フランク・ゼーンは次のように述べておる。

 「ボディビルディングのポージング・フォームとバレエのフォームは共通した面をもっているように思う。だから私はバレエを見て。その動きを研究してずいぶん自分のポージングに取り入れたものである。あるとき、私がワイフと一緒にバレエを観にいったときのことだが、彼女はバレエに大きな関心を示して、その動きが私のポージングにかなり影響しているように感じたそうである……」

 そう、バレエはスポーツではない。これはいってみれば芸術である。人間の躍動感にあふれた芸術である。からだの美しい線を、美しい音楽にのせて美しい動きで表現するものである。そのバレエに共通性を見出して、ミュージックに合わせてポージングをするフランク・ゼーンこそ、まさに芸術的センスをとり入れている数少ないボディビルダーの1人であろう。これこそジークモント・クラインの提唱する「ボディビルディングとは芸術である」という思想をそのままに示したものであると思われる。

 だから、バレエが女性美を芸術の域にまで高めるものであるならば、ボディビルダーのポージングは男性美をもっとも芸術的に表現しているものである、とワシは考えておる。
〔セルジオ・オリバ〕

〔セルジオ・オリバ〕

〔A・シュワルツェネガー〕

〔A・シュワルツェネガー〕

 エド・コーニーとゼーン

 ワシは女性美より男性美の方が個性的で興味深いといったが、スティーブ・ミカリックもワシと同じようなことを言っていたなァ。彼もなかなかスルドイ意見をいう男よ。たしかこんなことを述べておったと思う。

 「私は男性の肉体美に興味を持っている。私はミュージックに合わせてポージングする。それは時にはかがんだり、時には上体をひねったりして、それはまるでジャングルの中を駆けめぐるライオンのように見える! ライオンや馬やシカなどの動きは実に美しいものである。私はこういった動物たちの動きを、私のポージングの中に取り入れようとしている。ライオンのように激しく、サラブレッドが走るように優美に、あるいはシカのように躍動的にポージングするのである。

 あまりにすさまじい血管が浮き出るような、筋肉タイプのポージングよりも、男性的なからだつきの中にも美しさを見い出すようなポージングを私は求めている。というのは、男性のからだは女性のからだより美しいと思うからである。だから私は『より美しいポージング』を主張するのである。

 ライオンにしてもクジャクにしてもオスの方がメスより逞しく、そして美的である。私は女性を愛している。女性が好きだ。だが、女性を美しいと思うよりも、男性の方がもっと美しいと感じるのである」

 やはりトップ・ビルダーは、自分のポージングについてよく研究しておるし、なかなかのセンスを示してくれるものだ。ことのついでにもう一人紹介しておくかのーーション・グリメック直伝の名ポーザーであるビル・パールは次のように述べておる。
 
 「私は一日一時間を、コンテストにそなえてのポージング練習に当てている。私のポージングはどんなものでもミュージックを用いている。ミュージックに合わせて、まるでダンスのステップでも踏むかのようにポージングするのである。だから、ミュージックは私のポージング・ルーティンでは大切な構成要素である。それにライティングも大切なものである。
 ポージングとは、あたかもエド・サリバン・ショーに出演しているかのように、芸術的に行なわなくてはならない。私はプロの芸術家である、という意識を強くもってポージングをしているのである……」

 このように一流といわれるボディビルダーは、ポージングを芸術的に演じようとする人が多いようである。

 まあ、ポージングの名手となると、大方の人はフランク・ゼーンを筆頭に挙げるであろう。ところが意外と忘れられている名ポーザーに、エド・コーニーがいる。彼のポージングは抜群であるという。

 窪田教授は以前から、「エド・コーニーのからだは実によくバランスのとれた発達をしている。もっとトレーニングをしていけば、かなりのビルダーになるだろう。とくに彼のポージングはよく決まっている」と言っておられたナ。マイク・カッツも、コーニーの欠点のないバランスのとれたからだと、その群を抜いてうまいポージングをベタホメしている。

 このコーニーとゼーンは、 1975年のミスター・オリンピア・コンテストで顔を合わせて、華麗なポージング合戦を演じたということである。ミスター・オリンピア・コンテストは知ってのとおり、数あるフィジーク・コンテストの中でも最高のレベルにあるものだろう。この時は、 200ポンド以上のクラスでは、やはりアーノルド・シュワルツェネガーが強く、期待のルイス・フェリーノはサージ・ヌブレにも破れて第3位となっている。
 200ポンド以下のクラスでは、ファンタスティックな筋肉のフランコ・コロンブが勝って、コーニーは第2位となっている。ゼーンは体重不足で第3位のアルバート・ベックルスにも破れて第4位となってしまった。このコンテストの観戦記で、アチレス・カーロス氏は次のように述べている。

 「フランク・ゼーンのからだは美しく均整がとれている。完璧ともいうべきプロポーションをもっている。私はエド・コーニーをみるまでは、フランク・ゼーンこそ過去・現在を通じての最も偉大なポーザーだと思っていた…。私がエド・コーニーにはじめて会ったのは、 1970年のミスター・アメリカ・コンテストの時である。彼は全体的によくバランスのとれた発達をしていた。そして、なによりも素晴らしいのは彼のポージングである。コーニーのポージングは、この世界で際立ったものである。私は過去に何人ものポージングを見てきた。そんな中でも彼のポージングは最高のものである、と思わざるをえないのだ」

 しかし、そうはいってもポージングではなかなか優劣がつけがたい面もある。全体の形が美しい体つきのボディビルダーなら、ポージングによってひときわ冴えわたるものだろうし、指先ひとつでもおろそかに出来ない完壁のポージングが要求されよう。ところがセルジオ・オリバのような怪物が、フランク・ゼーンのようなポージング・ルーティンを用いても適するわけがない。オリバはオリバらしく、ただその圧倒的な迫力を誇示するような、大胆きわまりないポージングをするからよいのである。

 やはり、ポージング芸術は規定できないところにいいところがあるのかもしれん。こうなるとポージングは何がよいのか、ワシにはまるで解らなくなってしまう。ま、こんなことは深く追求することではないじゃろう。そんなことより彼らコンテスト・ビルダーは、雌雄を決するポージング台上ではいかなる心理・態度でのぞもうというのだろうか。2人のミスター・オリンピアに語ってもらおう―。まず、フランコ・コロンブから。

「私はステージの上にいるときは、観客をのみこんでしまう。自分自身、とても落着いて観客の反応を確かめることが出来る。観客が私のポージングをみて拍手喝采しているときには、次のポージングのことを考えている。そして次のポーズは、もっと激しく、もっとダイナミックにしてムードを盛り上げるのである。

観客は私を観ている。私のポージングを観るために高い金を払って観にきてくれている。だから、彼らがキャーツと声をはり上げて声援して、たんのうするまで自分のあらん限りのポージングをみせるのである」

 アーノルド・シュワルツェネガーは次のように言う。
 「ふだんの自分とステージの上に立っている自分は、まるで人がちがう。どんなに親しい友達だろうと、ステージ上で勝敗を争うときには、ただひたすら相手を打ち負かすことだけに専念してポージングするのである。
私がフィジーク・コンテストに生きている限り、勝たねばならないのは当然である。フランコ・コロンブは私の大の親友である。だが、ステージの上にいる限り彼は敵であり、彼を蹴落すべく私は闘うのである」

 2人とも実にプロビルダーらしい考え方をしている。世界の最高峰に君臨し続ける彼らの面目躍如たる心意気を示しているではないか。ただ、シュワルツェネガーの言葉から考えてみると、強くスポーツ性が打ち出されているように思う。そうすると、芸術としてのポージングは、ゲスト・ポーザーなどの方が強く出せるのではないかとワシは思うのだが……どうだろうか。
〔フランク・ゼーン〕

〔フランク・ゼーン〕

 [ビル・パール]

 [ビル・パール]

ボディビルディングの魅力

 スポーツだろうが芸術だろうが、ボディビルディングはスバラシイものである。これに取り組むようになったのは、一体どんなキッカケがあったのだろうか。男が強さに憧がれて逞しさを追求するものであるならば、ボディビルダーを見たことが大きな動機となるだろう。ビルド・アップされた逞しいからだを眼の前でみせつけられれば、自分もそうなりたいと思うだろうし、グッと印象づけられるというものである。

 スティーブ・リーブスがスターダムにのしあがるや、ボディビルディングの魅力にとりつかれた人が多くなったという。現在のトップ・ビルダーの中でもリーブスの映画を観てその比類なく美しいフィジークに憧がれてボディビルディングを開始したという人が多いという。また、いろいろのスポーツを体験して、その結果ボディビルディングの真価を知ってヤミツキになったというボディビルダーも少なくない。

 シュワルツェネガーも紆余曲折した結果、ボディビルディングに光明を見出したという一人である。
 「たしか10才ぐらいの頃だったと思う。何か、これこそ自分にとってベストのものであるというのをやってやろうと決心した。そして、まず水泳を始めたのである。水泳ではすぐチャンピオンになることが出来たが、これは私のベストのスポーツではないという気持があった。そこでスキーに熱中したが、自分には向いてないと気づいて、次にサッカーをやってみた。だが、やはりこれも好きになれなかった。チーム・スポーツのような、自分一人では練習に打ち込めないものでは満足できなかったのである。

 そこで私は、他のスポーツの補助で行なっていたウェイトリフティングを行なってみたのである。それで、はじめて私は満足するスポーツを見出したと思った。1964年にはオーストリアのチャンピオンになった。ところが、ウェイトリフティングをするには、私はあまりにも身長が高すぎた。それが結局、私をボディビルディングに走らせることになった。2年後、ついにこれこそ私の求め続けていたベストのものである、と確信するにいたったのである」

 シュワルツェネガーのように、ボディビルディングをベストのものと考えている人も多いであろう。健康なからだにはなるし、見た目にも逞しく美しくなるのだから、ケッコウづくめである。シュワルツェネガーはまた、このようにも言っておる。

 「ボディビルディングを実践して、逞しい体格になることはとってもイイもんである。たとえば、小さなBMWのスポーツカーでも持っていれば、こいつでいっちょうすっ飛ばして、ほかの車を驚ろかせてやろうと思うだろう。というのは、 BMWなら時速110マイルぐらい軽くだせるからである。ところが、フェラリーやランボージェなどのスポーツカーが走っているのを見れば、時速60マイルぐらいでおとなしく走ることになる。フェラリーやランボージェなら、アクセルを踏み込めば170マイルぐらい出せることを知っているからである。どんな世界でもこれと同じである。自分よりスゴイ奴には誰も手だしはしないのである」

 たしかに、筋肉隆々の巨体をゆすぶって歩くような人のそばを、背中とおなかの皮がくっつきそうなヤセッポチが威張って歩けるものではない。コッケイに見えるだけである。ところが、世の中にはそんなボディビルダーに対して、つっかかってくる者もいるものである。いわば、ちっこいポンコツ車で、でかいスポーツカーに挑戦してやろうと考える人だ。これはコロンブに語ってもらおう。

 「ある時、私が海辺にいたときのことだが、私のソバを女性を連れた男が通りかかった。その女性が『ねェ見て!すごいからだをしてるじゃないの』と言ってるので、私は『サンキュー、ベリーマッチ! 』と、ニンマリして答えた。すると男の方が、『オー! 冗談じゃない。こんなのはチッとも強くなんかないんだ。弱っちょろい筋肉なんだゼ』と私に聞こえるように得意になって彼女に言っているので、私はムカッとなってその男のところへ行ってこう言ってやった。

 『なんでアンタはそんなことを言うんだ! オレはアンタよりズッと強えんだゼ。なんなら強いところを見せてやろうか。オレはアンタより重いものは持ち上げられるし、体操選手がやるようなことも出来るんだが、アンタは出来ねえだろう。まア、こっちへ来いよ! 見せてやるから……』

 こうなると相手の男はオタオタして『わ、わかった! 申しわけない』とアヤまるので、『よく聞け! 二度とそんな口をきいたら……』と一段と口調を強めて言っていると、つれの女性が『わかったワ、もうカンペンしてあげて!』とアヤまったものである」

 実にコロンブらしいではないか。ボディビルディングをこよなく愛する一人として、武勇伝をとくとくとして述べる彼に、拍手を送りたい心境になってしまうのう。ワシとてボディビルディングをけなす者がおったら、ムナぐら掴んでグイグイ締めあげてやるところだワイ……だいぶしゃべったナ。どれ、ここらでひと休みするかのう──それじゃァ諸君、また会おうサラバじゃ!

 南海先生は、しゃべるだけしゃべると、高イビキで寝てしまった。いつかまた、目が覚めたらこちらが聞きもしないのに、一人でしゃべりはじめるだろう。その時は、再び酒でもぶらさげて拝聴しにまいろうと思う。では又!
月刊ボディビルディング1976年9月号

Recommend