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180kgの体重を、なんと半分以下の82kgに落としてミスター・ユニバースになった男の話
プルース・ランダール

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月刊ボディビルディング1976年10月号
掲載日:2018.07.09
国立競技場指導係 矢野 雅知

奇躍のチャンピオン,ブルース

AAUのミスター・アメリカ・コンテストやNABBAのミスター・ユニバース・コンテストは,数あるフィジーク・コンテストの中でも古い歴史と伝統を誇っている。NABBAの長い歴史は数々のドラマを生み,偉大なボディビルダーを輩出してきた。
すでに40才を超えていた,かのジョン・グリメックの優勝にはじまり,7年ごとに3回優勝したレジ・パーク。ついに40才を超えていながら4度目のミスター・ユニバースの座を勝ち得たビル・パールらが,NABBAコンテストの歴史にその名を残している。
このコンテストではもう一人、特筆されるミスター・ユニバースがいる。彼の名はブルース・ランダール。1959年コンテストの覇者である。彼はおよそ180kgの体重を,何と98kgも減量してコンテストにのぞんだのである。彼の演じた奇躍は、ただの急激な減量だけではない。その前には、やはり急激な増量があったのである。彼はいかにして体重をコントロールし,かつミスター・ユニバースのタイトル・ホルダーになるほどのボディ・ラインを形づくったのか,実に興味のあるところである。そこで今回は、彼のこの驚くべき変貌についてこれから物語ってゆきたいと思う。
現在のブルース・ランダールは、今でもトップ・コンディションを保っており、学校やアスレティック・クラブなどでバーベル・トレーニングについての講演であっちこっちと飛び回っているそうだ。
ブルースは、その道のベテラン諸氏が「とてもそんなことは不可能だ。信じられん!」ということを実際に演じてみせた。彼はあまりに早く体重を増やしたので,「中身がふくらみ過ぎて異常にヒフが引っぱられてへンテコなハダになったに違いない」と言われたが,彼のヒフはキメがこまかく完壁なものであった。また,あまりに早く体重を減らしたので、「彼のヒフはヒダになって、だらしなく垂れ下がっているにちがいない」とも言われたが、彼のヒフはピンと張ってなめらかであり、非常によくトレーニングされた競技者のようであった。彼は言う『自らハード・ワークを喜んでやれるような人ならば、自分で自由にからだをコントロールすることが可能なはずだ』と。
以下,ブルース・ランダール自身に語ってもらうことにするが、この論文を書いたのは,ロンドンのミスター・ユニバースに参加する前のことであった。

ボディビルディングとの出合い

ボクは21才と6カ月までウェイト・トレーニングの世界には一歩も踏み込んだことはなかった。むろん、そういったものがあるということは知っていたのだが,学校ではフットボールや射撃に熱中してそんなものをやるヒマなどまるでなかった。
学生時代は,夏休みになると多種多様のアルバイトをやった。商船に乗って材木を運搬したり、ペルシルバニアで石炭抗夫になって汗にまみれたりした。後年、ボディビルディングと結びついた食事の大切さを学んだのは、貨物船にのって航海していた時であったと思っている。貨物船でバイトをしていたときは,規則正しい食事とスイミンを摂った。海の新鮮な空気とハード・ワークとグッドな食事のコンビネーションが,58日間でボクの体重を74kgから86kgに増加させたのである。このときボクは17才であった。
夏休みが終わって学校が始まると,またフットボールに熱中する生活を続けたので,卒業するまで83kgの体重に落ちたままであった。
卒業後は海軍に入隊した。ノーフォークの海軍基地で軍服を身につけたとき,ボクは余暇に何かやってやろうと決めた。そして数カ月間というもの,ボクは射撃に集中した。そんなとき,ボクの運命を変えてしまう一大発見をしたのである。
海辺の兵舎を出てブラブラ散歩していたら,海軍のすばらしいウェイト・トレーニング・ルームが目についた。このトレーニング・ルームの監督は下士官のウォルター・メツェラーで,彼は素晴らしいコーチであった。
1953年1月3日。ボクはここでトレーニングを始めることになる。このとき体重は91kgであった。

効果絶大だったウェイト・トレーニング

ボクはフットボールの基礎体力をさらに高めるために,100kgの体重にしてやろうとまず目標をたてたのだが,フットボールのスプリング・トレーニングの間に,100kgの体重にするには食物の摂取量を増やさねばならないことに気がついた。
そこで食事のたびごとに,普通の食事以外に特別に厚切りの肉,ミルク1杯,パンその他を摂ることにした。毎度このような食事を続けていたのでボクの胃袋は食物をたくさん摂れるように適応して,ふくらんだように思う。消化吸収能力や他のからだの働きも,それにつれて活発になったようだった。
体重を増やしたいという人は多いが,胃袋をふくらませて一度にたくさん食べられるようにするような方法は,ボクは人にすすめられない。やはり,ウェイト・トレーニングを同時にやらなくてはならないと思う。ボクがどうやってウェイト・トレーニングをやりながら体重を大巾に,しかも早く増やしていったのかを述べてゆこう。
ボクが初めにやったトレーニング方法は,腕の運動が中心になったものであった。トレーニングをはじめて気がついたのだが,ウェイト・トレーニングは,ボクが以前の夏休みにやったアルバイトの力仕事とは,まるで違ったタイプのものである。学生時代には大木を切り倒して川に流し込むという仕事が好きだった。この力仕事はからだにとってたいへんすばらしいトレーニングであった,と信じている。それにもかかわらず、違しいからだと大きな筋力を発達させるには,ウェイト・トレーニングに優るものはない,と思わざるおえなかった。それほどウェイト・トレーニングの効果は大きなものであると実感したのである。
記事画像1

ベストのトレーニング法は自分で見い出さなくてはならない

ボクの初期のトレーニングは,次のような6つの異なったタイプの運動からなっている。

ツー・ハンズ・ミリタリー・カール
50kg 6〜8回 3セット
コンセントレーション・カール
22.5kg 6〜8回 3セット
フレンチ・プレス
32kg 6〜8回 3セット
ベント・オーバー・トライセプス・エクステンション
16kg 6~8回 3セット
インクライン・ダンベル・カール
18kg 6〜8回 3セット
ダンベル・アイソレーション・カール
20kg 6〜8回 3セット

このスタート時のものよりも,トレーニングが進むにつれて使用重量はもちろん増えていった。1セットあたりの繰り返し回数も,当初はやや一定していなかったが,ほぼ先のようなもので行なっていた。セットあたり6回の3セットをあつかえる重量でスタートして,それが楽になると5kgつけ加えて,セットあたり6回の繰り返し回数にもどすというトレーニング法であった。この繰り返し回数は種目によって異なってはいるけれども,ボクのルーティンのほとんど全てがこのシステムを採用している。
 驚くべきことは、ボクの場合,腕のトレーニングはほとんど毎日行なっても発達するということがわかった。これは,ボクの腕の回復能力が特別すぐれていたからだと思う。一晩の休養で全体の力が回復されてしまい,次の日にはエネルギーが充満しているように感じられるのである。
「腕のトレーニングは毎日やってもさしつかえない」という私の考えに対して,まっこうから反対する素晴らしい腕の持ち主も中にはいる。彼らは「腕のトレーニングには,まる1日の休息を与えなくてはならない」と主張する。だが、これに対してボクは言いたい。『だれでも人はそれぞれ異なったからだを持っている。だから、自分にもっとも適したルーティン、セット数、繰り返し回数、使用重量、トレーニング頻度等を見い出すために、自分で体験して自分なりに自分のベストの方法を見つけ出さなくてはならないのである』と。
ただし,胸のような大きな筋肉グループでは,このことは適当ではないということに気づいていた。大きな筋肉部位のトレーニングでは,長い休息期間がどうしても必要である。それ故,毎日同じ筋肉部位をトレーニングしていたのでは、ボディビルディングでは成功できるものではない。
記事画像2

重くひびいた師の言葉

ボクはこのルーティンを用いた6週間のトレーニングで、体重は91kgから100g以上にも増量して、腕も4㎝ほど太くなった。最初の目標体重の100kgに早くも達してしまったので,113kgを次の目標体重とした。これも同じようなトレーニング方法ですぐに達成してしまった。ますますこのトレーニングに熱中していった。
この間に,ボクは最も尊敬する素晴らしい2人の人物にめぐり会った。1人はすでに述べたチーフ・トレーナーのウォルター・メツュラーである。ノーフォークのトレーニング・ルームでトレーニングできたのは,ボクにとってはひじょうに幸運なことであった。とカタク信じている。
彼の熟練した指導は,たいへん貴重なものであった。彼はボクのことを,ボク自身よりもよく知り抜いていた。除隊してノーフォークを去る時など,このうえもない悲しみに襲われたものである。
ボクに感銘を与えたもう1人の指導者に,スティーブ・マシオスがいた。彼もまた,ひじょうに素晴らしい男で,彼の死はボクだけでなく他の人にとっても大きなショックであった。もし現在でも彼が生存していれば,おそらくトレーニング界では偉大な指導者の一人になっていただろう。世界チャンピオンのリフティング能力と,比類なく美しい体格とを合わせ持っていた数少ない人物であった。
フットボールのスプリング・トレーニングが始まった。ボクの体重はおよそ120kgにもなっていた。それに伴って筋力も強くなっていた。そんなボクにチーフのメツェラーは,「フットボールを忘れろ、ウェイト・トレーニングに集中せよ!」と主張した。ボクにとってメツェラーの言葉はつねに重く響きわたる。ボクはそれ以後,フットボールを忘れて,ウェイト・トレーニングに集中することにした。「力をつけるには体重を増加しなくてはならない」という原則にしたがって,さらにトレーニングをおし進めていった。
[左は体重180㎏当時のブルース。右は1959年ユニバース優勝当時]

[左は体重180㎏当時のブルース。右は1959年ユニバース優勝当時]

驚くべき食いっぷり

ここでボクが強調しておきたいことは,脂肪を得て体重を増やしても強くはならないということである。重い重量を挙上できるよう,体重を増やすための食事,トレーニングのルーティン,生活習慣,その他すべてもろもろのことは,筋肉で体重を増やすように適切にやらなくてはならない。
言葉を代えて言えば,使用重量を増やしてゆけば,最後の結果は筋力の獲得ということになる。これはもちろん,筋力を得るばかりではない。筋肉を太く大きくすることにもなる。ボクはこの原則を用いて,強い筋力と太い筋肉を造りあげたのである。
この頃,ボクはトレーニング・ルーティンを次のようなものに変えた。

ダンベル・ベンチ・プレス
54kg5〜8回3セット
デクライン・ダンベル・ベンチ・プレス
59kg5〜8回3セット
インクライン・バーベル・プレス
113kg5〜8回3セット
グッドモーニング・エクササイズ
133kg5〜8回3セット

 使用重量はボクがはじめに用いたものである。また,このルーティンを終えたあとで,気分によってはいくつかの運動を行なうようにした。トレーニング効果が現われるにつれて,セットあたりの繰り返し回数が増えて8回ぐらいに達すると,再び負荷を大きくして5回繰り返せるように調整していったのである。
ボクはどのセットでも全力を出しきってトレーニングするために,セット間の休息は十分にとるようにした。言うまでもないことだが,筋力を得るために体重を増やすには,食物の摂取量を増やさなくてはならない。野菜や肉その他のものもなんでもよく食べたがなかでもとりわけミルクを多量に飲んだ。おかげでミルクのためにえらい出費であった。
海軍では食事を実に豊富に与えてくれた。実際,ボクが食事をするとコックや囲りの人を驚かせるほどよく食べたものである。朝食は約2300ccのミルクとパン一包,そして28個の玉子焼きを食べるというのも,まれなことではなかった。ミルクを飲むほかは,間食を一切せずに,1日に4回食事をした。
いつも朝食は6:30にとり,昼食は11:30にとっていた。そして晩食は4:30に食べてしまい,寝る前の9:30にまた食事を摂った。ミルクは1日に平均9.100ccから11.400ccと多量に摂取して,玉子は平均12個から18個も食べていた。ボクは普通の食事に加えて,1日に2万2千ccのミルクを飲んだことがあったし,1週間で朝食に171個の玉子を食べたことがあった。
ある日の昼食を今でもよく憶えている。ボクの体重はその時,約149kgであった。食堂のホールのテーブルの上には,中国製のサラに豚肉入りのイタメゴハンがのっており,そこから各自が盆に取って食べるようになっている。
そこでボクは,できるかぎりイタメゴハンを取って,うず高く盆に積みあげた。あまりに多すぎてサラのはしっこからこぼれ落ちそうになったので,スプーンで押さえて注意深くバランスをとりながら,テーブルにはこんだ。このときホールにいた水兵のすべての視線がボクに注がれていた。テーブルに座って、さて食べようと一口味わってみると、まだ米が完全にたけていない。シンが堅くて,口の中で水分がみんな吸収されてしまって食べずらい。そこで、水を何杯も飲んでこれを解決したのである。水と米を一緒にして,ガブ飲みにしてしまうのだ。(食物を無駄にするのは許しがたい罪である。以後、これが食事の鉄則となった)。
こうしてボクは、イタメゴハンを全部たいらげることができた。「奴ははたして全部食べられるだろうか?」と興味シンシンでジッとボクを見守っていた連中に対して,ニッコリ笑ってボクは席を立ったのである。
もっともそのあとが大変であった。兵舎にもどると、胃の部分が重苦しくおかしくなってきた。ニッコリ笑う余裕などまるでありゃしない。これはいかんとベッドにもぐりこんで,深く息を吸うと胃が苦しいので,あえぎあえぎ呼吸をするはめになったのである。これ以後,イタメゴハンはよく火を通すようにさせた。

リフティング大会で優勝する

話は変わるが,ボクがトレーニングをはじめてだいぶたった頃に,「強い力をつくり上げるのに大切なエクササイズは一体何であるか?」と友達にたずねたところ,彼の答えは「スクワット!」ただこれだけであった。
しからば,このスクワットをやってみようと,さっそくラックからバーベルをかついでしゃがんだところ,何となさけないことには立ち上ろうとしても立ち上がれない。バーベルの重量は86kgで,ボクの体重は92kgである。それほどボクの脚は弱かったのである。バカげたことだが,自分でトレーニング・ルーティンにはスクワットを取り入れないように決めていたのである。
スクワットをやるようになったある日,そのときは体重が110kgだったが,出来ようが出来まいが135kgに挑戦してやろうとやってみると,何なく成功した。数カ月ののちには,126kgの体重で182kgのスクワットが出来るようになった。
92kgの体重で86kgのスクワットも出来なかったのが,体重を増加させるためにしょっちゅうスクワットをやっていたので,160kgの体重で306kgのスクワットをこなせるようになっていた。この間,ボクのスクワットに大きな影響をもたらしたエクササイズが一つあった。それはグッドモーニング・エクササイズである。ボクはこの種目で180kgが出来るようになったら,それ以上のウェイトを背負ってやるには正確な動作では行えない,ヒザを曲げなくてはならないということがわかってきた。ボクはこの方法で,上体を床と平行になるまで倒すグッドモーニング・エクササイズでは,303kgができるほどになった。一度などは,338kgをやったことさえある。
ボクは夏から秋にかけて同じルーティンを続けていった。ボクがトレーニングを始めてから11カ月目,すなわち1953年の12月に,はじめて州のリフティング競技会に参加した。そのときはプレス135kg,スナッチ104kg,クリーン・アンド・ジャーク142kg,トータル381㎏で楽々と優勝することができた。
ボクはめったにこの3種目のトレーニングをやってなかった。というのは他の重いバーベルを使う運動で,ほとんどの時間を費やしていたからである。だから,この種目にもう少し時間をさいていれば,もっと記録は向上していたかもしれない。

ボクのリフティング記録

トレーニングを開始してから一年後すなわち1954年1月には,ボクのルーティンは次の種目から成っていた。

インクライン・プレス
160kg3〜5回3セット
1/4フロント・スクワット
455kg3~5回3セット
ダンベル・ベンチ・プレス
92kg3~5回3セット
ダンベル・デクライン・プレス
88kg3〜5回3セット
グッドモーニング・エクササイズ
254kg3〜5回3セット

ボクはへビー・ウェイトのプレスを向上させるには,1/4フロント・スクワットが効果的であると思う。このエクササイズは効果絶大である,とボクは信じる。1954年3月11日に兵役免除になるまで,ボクのからだは大きく発達し続けた。
ボクのトレーニングでは重い重量をよく用いるが,慣れていたこともあるし,ジムのトレーニング仲間がまわりにいて気楽に行えたせいでもあるのだろう。
ボクのリフティングは,記録会で作ったものよりも,ジムでやる方がいつもよかった。体重171kgのときに作ったリフティング記録がある。これは公認されたものではないし,「間違いなくボクはやったんだ!」といきりたって主張しようとは思っていない。まあ,参考のために照介してみると...

プレスー164kgで2回,169kg1回スクワットー306kg,グッドモーニング・エクササイズ・ウィッズ・レッグス・ベント(床と平行になるまで上体を倒す)ー308kg,デッド・リフト329kgで2回
347kgで1回
カールー103kg
ダンベル・ベンチ・プレス一片手で99kgを2回
ベンチ・プレスー217kg
デクライン・ダンベル・プレス一片手で99kgを1回
インクライン・クリーン・アンド・プレス(45度)ー171kg,一度185kgに成功
1/4フロント・スクワット一945kg

筋力とは精神のパワーである

ボクはトレーニングを続けた。体重も180kgを超えた。
重いバーベルを持ち上げるには,筋肉のパワーは言うまでもないがこそれ以上に精神のパワーが大切であると,カタク信じている。頂点をきわめるには,この精神のパワーをさらにみがかなくてはならない。
パワーリフティングもウェイトリフティングも肉体を駆使するのと同じだけ精神力が使われる。筋肉の強さと,精神力で決定される、とボクは思う。誰れでもこんなことを幾度となく聞いているだろう。
ー『オレにはこんな重いのは持ち上げられない』と考える。だから持ち上げられないのである。『オレなら持ち上げられる』と考える。それならヤツは持ち上げられるだろう。『できる!』と思い込むから,強い自信に裏付けられた精神のパワーが発揮できるから,デキルのだ!ー簡単に申せば,強い精神力がなければ何にもできない。逆に,強い精神力があれば,できないものはない。”精神一統なにごとかならざらん〟のである。
記事画像4

ボクはこうして減量した

ボクが減量しようと決心した理由はいろいろあったし,この気持を持つに至るまでにはかなり複雑な葛藤があった。ただ簡単に言ってしまうと,ボクは体重を増やして筋肉をつけ,より重いバーベルを持ち上げようというリフティング界を第三者的に見つめてゆこうと思ったのである。
「減量しようと思う」と話したところ,多くの人は「そいつァいい」と賛成してくれたのだが,リフティング界の親ダマ達は反対した。彼ら権威者は「ダメだ!』とそっけなく断を下していた。つまり,減量などはそんなに簡単にできるものではない,というのである。
しかし,ボクに関する限りそんな言葉は無用であり,単なる「ウェイト・リフターのブルース・ランダール」の形容詞だけで終わらせたくないと答えた。ボクは思う。彫刻を創り出す芸術家は,ハンマーとノミでぶかっこうな大きな岩を自分の思い通りに削ってゆくが,ボクにとってハンマーやノミはバーベルでありダンベルである。これでただやたらに大きなボクのからだを削りとる。自分がもっとも美しいと思うからだに創りかえるのである。
それにまた,ボクは彫刻家がもっていないボク独自のものがある。それは食事だ一ただ単にバーベル,ダンベルだけでなく,食事の摂取法で体形を変えることができるのである。だから,ボクはギリシャ彫刻を生みたした調刻家のような気持で,体重を減少させはじめた。
1958年8月2日,ボクは181kgの体重であった。減量のためにはトレーニング・ルーティンを変えなくてはならない。トレーニングだけではない。減量の根本は食事である。増量に専念していたときのものと,すべての逆のことをしなくてはならない。食事の量をまず減らした。以前のように,メチャクチャに食いまくることはできない。パンやポテト。その他肥満を助長する炭水化物は大巾に減らした。同時に,ハイプロティン,青野菜,フルーツなどを中心にして,バランスのとれた食事をするように心がけた。
減量のためのトレーニング・ルーテインでは,使用重量を減らして,セット数とセットあたりの繰り返し回数を増やした。それまでは3〜5回の3セットをやっていたが,12〜15回の4〜5セットにした。ルーティンは20種目以上から構成されており,1日に6〜7時間ものトレーニングに明け暮れることになる。
ボクの減量トレーニング法は,減量したいという人のよき参考になると思う。中心となるエクササイズは,ランニングである。足首,カーフ,大腿,腎部などのサイズがしまって,小さくなってくるし,心肺機能も高まるのであるから,ランニングは減量には不可欠なものである。
だが,すぐにランニングを始めたわけではない。最初の2週間は歩いた。そして歩く距離を徐々に伸ばしてゆき,1カ月のちにはウォーキングとジョッギングを交互にやり始めて,ついにボクのトレーニング・ルーティンでは,毎日3~5マイルのランニングをやるようになった。ジムの中だけでのトレーニングでは充分な減量は期待できなかったかもしれない。ランニングの効果が加わって、一段とスタミナが増していった。
ボクの当時の典型的な食事内容は次のようなものからなっていた。


<朝食>
ゆで玉子2個,スキム・ミルク600ccオレンジ・ジュース,コップ1杯リンゴ1個

<昼食>
サラダ,ヤシの実,ナッツ類

<タ食>
ステーキ,野菜,ゼラチン
スキム・ミルク1200cc

プロティン容量を高めるために,パウダー・ミルクとスキム・ミルクを一緒にしたのを用いた。ボクの食欲は人一倍旺盛である。この食欲を減少させるためにコーヒーを飲んだ。トレーニング・ルーティンは規則的に変えたけれども,だいたい次のようなもので構成されていた。

ジット・アップ          50回 5セット
レッグ・レイズ          25回 5セット
レッグ・レイズ・オン・チンニング・
バー               20回 5セット
ヒンズー・スクワット       20回 4セット
レッグ・カール        34kg25回 3セット
レッグ・エクステンション   45kg25回 3セット
ベンチ・プレス        60kg20回 4セット
ラテラル・レイズ
             11kg(片手)15回 4セット
チンニング            15回 3セット
ディップ             25回 5セット
ツー・ハンズ・カール     45kg15回 5セット
ベント・オーバー・ローイング 
               60kg12回 5セット
アップライト・ローイング
                   40kg 10回 3セット
シーテッド・ダンベル・プレス   34㎏(片手) 10回 3セット
インクライン・プレス      
                   72kg 15回 5セット
シット・アップ             50回 4セット
レッグ・レイズ             25回 4セット
レッグ・レイズ・オン・パラレルバー
                    20回 4セット
 トレーニングのおわりには,気の向いたエクササイズをよく行い,減量中にはジムで多くの時間を過したものである。一度などは,2日間で実に27時間ものトレーニングをしたことがある。1週間で81時間ものトレーニング量に達したこともあった。トレーニングしない日は,きわめて少なかった。27日間もぶっ通しでトレーニングに明け暮れたこともある。こうした規則的で,なおかつ厳しいトレーニングはからだの余分な脂肪組織を減らす効果を生み出してくれた。
1956年の新年を迎えた時の決心を,今だにボクは覚えている。規則的な毎日のトレーニングとランニングに加えて,新年当初の15日間に,1日5000回のシット・アップをやってやろうと決めたのである。それは厳罰そのものであった。苦しかった。だが,ボクは15日間で75000回というシット・アップをやり遂げることができた。ボクのウェストが83.8cmに減ったのも,この苦しいシット・アップを続けた産物であったのだろう。
ボクは着実に自分のゴールを目指した。具体的に言うと3週間という目標を決めたら,その3週間のうちに6kgの減量をして,腕やウェストを数センチもしめてしまうのである。このように目標を作って,その目標達成のために努力するという方法は、ボクが増量してより強い筋力を得ようとしている時に,よく用いたものである。
ボクはプレスやデッド・リフトのように重い重量を扱う種目などで,「いついつまでに,これだけのものを持ち上げてやる」と自分自身で決めたら,それに向ってひたすら挑戦する。この挑戦することが,ボクはたまらなく好きだ。ボクのトレーニングはチャレンジにはじまり,チャレンジにおわる。これがあったからトレーニングを続けられたのかもしれない。
1956年3月20日の朝,体重計の針は82kgを指していた。じつにこのこときまでに,32週間で98kgもの減量をしたことになる。ボクの減量については人は「あまりに早すぎる」と思っていたようだ。しかし,ボクは人が考えていたような苦痛や気分が悪いといったようなことは,まるでなかった。181kgの体重のときも,82kgのときも,コンディションはきわめてよかったのである。

参考までに、ボクの体位の変化を示しておこう。

1953年1月3日一体重91kg
 腕囲41cm 胸囲114cm 腹囲79cm 
 大腿囲58cm 下腿囲40cm 
1955年8月2日一体重181kg
 腕囲59cm 胸囲155cm 腹囲147cm
 大腿囲89cm 下腿囲56cm
1956年3月20日一体重82kg
 腕囲43cm 胸囲124cm 腹囲74cm
 大腿囲61cm 下腿囲43cm

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彼の手記はここで終わる。このあと彼は体重をやや増やして,1959年度NABBAミスター・ユニバース。プロの部で優勝したのである。
月刊ボディビルディング1976年10月号

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