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ボディビルに国境はない
日韓親善ボディビル大会に参加して

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月刊ボディビルディング1977年1月号
掲載日:2018.07.03
小野幸利(大分)
【ゲスト・ポーズを見せる私】

【ゲスト・ポーズを見せる私】

 9月4日、前日の雨がうそのような秋晴れの朝、雨森団長、石田監督、益田コーチ以下10名の日本選手団一行は予定どおり午前10時、福岡国際空港ロビーに集合。案内係の西山さんの手慣れたガイドで、スムーズに塔乗して一路ジェット機は青空の中をソウルへ向けて飛び立った。

 初めての海外コンテスト参加に、私の胸は期待と不安が交錯し、心のたかなる思いでいっばいだった。

 翼下の景色に目を奪われて1時間あまり、もう目の前に金浦空港の大きな文字が見えてきた。

 ソウルも残暑がきびしく、背中を流れる汗に、しっかりと荷物をかかえて空港に降りたのが3時近くだった。韓国ボディビル協会の役員・選手が温かく迎えてくれる。さっそく車でホテルに直行。夜、連盟主催の歓迎会が用意されているので、それまでホテルで2時間あまりの休養をとる。

 6時過ぎ、力道連盟会長の承氏を始め多数の関係者が出席されて歓迎会は盛大に行われた。とくにこの夜の料理は豪華で、何十種類という山海の珍味が並べられ、自分の好みと体のコンディションに合わせて食べられるように配慮されており、日頃栄養にうるさいビルダーにとって、これほどありがたいことはない。

 翌日のコンテストに備え、この心温まる楽しい歓迎会を2時間ほどで切りあげ、全員ホテルに戻って充分睡眠をとることにした。
 明けて5日午後1時、1976年度ミスター・コリア大会が催される文化体育館に到着。

 私がそこで先ず驚いたのは、会場の素晴らしさと、観客の数と層の幅広いことだった。子供から老人、そしてアガシ(お嬢さん)が、2階の観客席まで埋めつくし、まさに立錐の余地がない超満員なのである。

 吹奏楽団による国歌演奏の後、韓国テレビ放送のアナウンサーによるスマートな司会により、えんえん5時間に及ぶコンテストはアッというまに終ってしまった。それほど韓国のボディビルのレベルが高く、演技する選手、応援する観客、それらがまさに一体となって時間の経つのを忘れさせてしまうのであろう。

 こんな選手と観客のコミュニケーションの素晴らしさを、私はいままで日本の大会でも見たことがない。目を閉じていても、拍手の数で、それがしっかりと伝わってくる。
 コンテストは学生の部から始まり、一般の部の3クラスがそれに続く。総勢70名の選手が力一杯ポージングし、観客もまたそれに力一杯応援する。

 最初の学生(中学・高校)の部を見て驚いたことは、なんといってもそのレベルの高いことだった。とくにポージングとデフィニションは日本の一流選手と比べて少しも見劣りがしない。聞くところによると、ボディビルが学校の正課に組み込まれていて、この大会の成績が学校の成績にも影響するので、みんな一生懸命演技しているのだという。

 私はこの学生たちの予選審査を見ていて、ふと日本の10代の若者たちのことが頭をよぎった。そして一瞬、恐ろしい気さえした。丸刈りで文武に励んでいる韓国の若者に対して、いまの日本の若者たちはどうだろう。10年後これらの若者たちが成長した時のことを思うと“恐ろしい”と感じたのは私一人ではなかったに違いない。
 超満員のホールは観客の熱気とテレビ放送のライトで蒸し風呂のように暑く、そんな中で5時間もの間、微動だにせず、しっかりと採点しているジャッジにはほんとうに敬服する。
 予選審査が終ったところで高橋威、中村司郎、平野勝美、そして私の4人がゲスト・ポージングを披露した。未熟な私たちに送られた割れるような拍手とプラスバンドによるアリラン民謡は、たんに大会のゲストに対する声というよりも何かジーンと胸のあつくなる、人間と人間とのつながりを強く感じさせてくれた。
 一般の部の3クラスのチャンピオンは、いうまでもなくキレの良いカットとバルクの持主だった。とくにデフィニションは日本選手とは一味違った素晴らしいものをもっていた。

 1976年度ミスター・コリアには季選手が選ばれた。多くのトロフィーや楯を前にしてとる季選手のウイナー・ポーズは力に溢れていた。割れるような嘆声と拍手はいつまでもなりやまなかった。

 つづいて各クラスの入賞者が発表されると、花束をもった観客がステージに飛びあがってプレゼントする。花束は小さくても、本当に心から入賞を祝福している美しい情景だった。

 日本のボディビルも正しく国民の中に浸透し、今よりもっともっと多くの人々に愛好される日が、1日も早く来て欲しいものだ。
【開会式に出席した日本選手団】

【開会式に出席した日本選手団】

【上位入賞者と記念撮影】

【上位入賞者と記念撮影】

 コンテストは18時に終り、19時から交歓パーティーが催された。そこには国を越えて同じ目的を志ざす者同志の温い友情があふれていた。

 翌6日は市内観光とジム見学。私たちが訪問したジムは、一流ホテルの地下にあり、実に素晴らしい設備のジムだった。ステンレス・バーベルを始めとする近代的なトレーニング器具、それにサウナ、広々としたロビー、それらが衛生的に管理されており、まったくうらやましいばかりだった。とくに印象的だったのは、フロアーの周囲がランニングできるようにジュータンが敷きつめてあったことだ。
 アッというまに3日間が過ぎ、4日目は京釜高速道路をバスで釜山へ向って出発した。原野を切り開いてつくられたハイウェーの旅は、窓から吹き込むそよ風と美しい風景が昨日までの疲れをいやしてくれた。

 途中、古都慶州を見学し、釜山の近くの東萊温泉についたのは夕方6時頃だった。ここでもまた、'71~'73ミスター・コリアの申選手が出迎えてくれ、夜、歓迎会を催してくれた。申選手はすでに現役を退いているとのことだったが、どうしてまだまだビルダーとして一流の体を維持していた。

 このとき私がふと感じたのは、申選手ばかりでなく、こちらに来て会った多くの元選手たちが、40代、50代になっても一様に素晴らしい体をしていることだった。これはたんに体質とか。食べ物の関係ではないように思えた。何人かの話を聞いたが、それぞれ自分の環境に合った独自のトレーニング法をしっかりと身につけ、それを実行しているというのである。これこそほんとうのスポーツであり健康管理というものではないだろうか。

 明けて8日、今日が旅行の最終日である。ちようど韓国の旧盆で、家族が久しぶりに故郷で逢う風景に、なんともいえない情緒を感じた。

 台風によるあいにくの雨の中を釜山空港から飛び立った飛行機の中で、目まぐるしかった5日間を思い出しながら、素晴らしかったコンテスト、それにもましてうれしかった友情に、私は国際親善の意義がわかったような気がした。またいつの日か、どこかの国の空の下で、世界のビルダーと固く手を握りあえる日を夢みるのだった。
月刊ボディビルディング1977年1月号

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