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JBBAボディビル・テキスト㊶
指導者のためのからだづくりの科学
随想「逞しさ」について

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月刊ボディビルディング1977年2月号
掲載日:2018.07.08
日本ボディビル協会指導員審査会委員長 佐野匡宣
歳月のたつのは早いもので、第1回の原稿を48年8月に掲載以来、ことしで4年目を迎えることになる。

栄養についての項が一段落したところで、ちよっと趣向を変えて、ボディビルに関する文章や会話の中でよく使われる「逞しさ」ということについて考えてみたいと思う。

ボディビルによってつくりあげられた身体が、あまりにも逞しく、見事につくりあげられるため、いまだに形態的な面のみに焦点をあて、皮相的に批判されたり、誤解されたりしている傾向が感じられる。わが国でボディビルが本格的に行われ出してから、すでに20年が経過したというのに、なぜ、正しく評価されないのだろうか。そこでこの「逞しさ」というものについて私なりの分析を試みてみた。読者の皆さんもこの問題について一緒に考え、逞しさについての錯覚や誤解を一掃していただきたいと思う。

①逞しさの概念の分析

「逞しさ」という意味を辞典で調べてみると、「いさましい・勢いが盛んである・がっしりしている」とでている。また「逞しゅうする」という意味は「思う存分にする・ほしいままにする・こころよくする」と説明があるように、「逞しさ」とは、本来が肉体的な次元の表現用語であり、体格がいいことであり、はりきって強いとか、勇ましさを意味しており、それらは男の属性であることが判然としている。

故に「男の逞しさ」というような言葉の使い方は、重語法的表現で、たとえば「頭が痛くて頭痛がする」というようなものである。

「男」と「逞しさ」は本質的に同意語であり、決して「女」と「逞しさ」が結びつくものではない。しかし現在では、本来的な意味ではなく、いろいろな意味をこめて使われているようである。

“逞しく生きる女”等という表現は現在ではあまり奇異に感じられなくなっているが、それは「逞しさ」という意味の中に、体格的な、あるいは外面的なことだけを意味するのではなく、内面的な精神的な要素が加味されてきたからであろう。

だが、逞しさという語感からは、分厚い胸、がっしりとした肉体、勢いにのった奔放なふるまい等々、力と量感に溢れた充実感としてのイメージがそこに生まれてくる。このように「逞しい」という単語から、いろいろのイメージをたどってみると、男性そのものとなり、さらにその男性の周囲にある仕事や、スポーツ、セックス等々に拡散していく。

「がっしりしていて、いかにも頼り甲斐がある」とか、「意志強固で勢いが強いから、これに追従してもよさそうだ」とか、「思うままに行動したうえで、どのような結果が生まれてくるか楽しみだ」といったように、期待感がわきあがってきたり、そこはかとなくロマンを感じるものである。

このように考えると、イメージにこだわるようであるが、「逞しさ」イコール「男性的」、すなわち男は逞しくなければならないというような方程式が自然に成立してくるようだ。

一般に男性の逞しさというと、へラクレスやへルメスの像に見られるような肉体的タイプを先ず思いうかべるであろう。つまり、これが本来の意味である。

歴史をふりかえってみても、男は妻子を外敵から守り、妻子に衣食住を保証しなければならない。そのためには丈夫な身体と行動力が必要になる。すなわち、逞しくあらねばならなかったのである。

さて現代では、すぐれた肉体的能力だけを意味するのではなく、社会の分野でよい仕事をし、生活の上での確固とした能力を意味するようになってきた。たんに頑丈な身体であればよいというのではなく、知・情・意の様々な様相において、現代の男の逞しさは構成されてきており、それが男の魅力の絶対的必要条件だといっても決して過言ではない。

昔は、男は家族を養い、これを守るために、筋骨隆々、力が強く、敵をやっつけることの出来る男が最も素晴らしい男であったろう。

しかし、世の中が進歩し、時代の変遷と共に生活様式が変わるにつれ、逞しさの本来の持っている意味が次第に死語化し、生活力、勇気、理性等々、逞しさにつながる要素は次第に多くなり、また、その価値感によっても異なってくる。

自分に都合のよいパターンに合わせて考えるようになると、当然、ここに逞しさに対する誤解や錯覚が生まれてくる。

たとえば、女性に男の中にどのような逞しさを望むかを尋ねてみると、人それぞれによって、いろいろな答えがかえってくる。日く、「頼もしさ」日く「力強さ」日く「包容力」日く「決断力」……等々と、「男はこうあってほしい」あるいは「こうあらねばならない」、さらには「こうあってくれたほうが自分に都合がよい」等々の、それぞれのサイドのはかなくも虫の良い願望を示している。

これら女性の答に対して、いちいち云々する前に、われわれ男性は、男性なりの反省が必要ではなかろうか。われわれも自己本位なパターンで逞しさの意味を錯誤していないだろうか。

筋骨逞しい男らしさというものは、見ていても雄々しく、力強い男の特質に違いないだろう。しかし、そのような外見上の形態をした男が、心の中にまで同じような逞しさを持っているかとなると、これは別のようである。まずおおむね関係ないようである。

筋肉の逞しさが容易に結びつくのは粗野というあまり感心できないいま1つの特質である。

もし、精神的にも外見以上の逞しさに似たものを秘めているならば、それは粗野という表現ではなく、必ず奥ゆかしさ、または優雅さというべきものを媒介しているはずである。

書店には、スポーツ・コーナが設けられるようになり、いろいろな健康に関する書籍がおかれている。これは健康に対する関心が定着しつつあることを示している。そして、実際的な方向として考えられるものは、丈夫な身体づくりであり、逞しさの探求ではなかろうか。

健康の問題は日常生活に結びついた密接な関係がある。それなのに「逞しさ」ということになると、コンプレックスによる願望の反逆なのか、それぞれ異なった反応を示すことが少なくない。このような面からも、われわれボディビルに関与している者は、くれぐれも粗野な言動をつつしみ、誤解されることのないように注意しなければならない。

②逞しさとスポーツの関係

スポーツや運動は、丈夫な身体をつくるとともに、団結力・協調心・忍耐力等々の精神力の涵養に有効だとされている。また、世間ではスポーツをやった人は志操堅固で団結心に富み、忍耐力もあってファイトにあふれていると評価している。

だが、はたしてそうだろうか。確かに運動やスポーツはわれわれの体力を高め、精神力を涵養するであろう。そのことから「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という言葉でスポーツの有効性をとなえる人も多い。

しかし、一般にこの言葉を「健全な身体をつくると、自然に健全な精神が養われる」と誤解している人が多いように思われる。それが大変な誤訳であることを指摘する人も多く出てきている。すなわち、身体が健全でなければ健全な精神を持続することは困難であり、また、健全な精神を有効に社会生活に生かすことができない、と解釈している。

しかし、私はこの言葉を「健全な精神を持った人ほど健全な身体が必要であり、また、健全な身体を持っている者ほど健全な精神が必要である」と表裏一体として解釈したい。

いかに高邁な精神をもっていても、それを具現化する体力がなければ、充分にその精神を発揮できないであろうし、また、いかに強健な身体をもっていても、精神が正常でなければかえって害をもたらすだけで、強健な体力は正しく活用されないであろう。本能の命ずるままに行動するのであれば、動物となんら異なるところがなく、弱肉強食の野獣と変わりない。

ただ方法論として、その過程において心・身どちらの面より入っていくかの違いはあっても良いのではないか。人によって入り易い方から入っていくのが得策であろう。

肉体を意志の下に屈服させ、肉体をさいなみ、肉体を使う訓練に重点を置くスポーツが、訓練の過程で人間の精神に様々な影響を与えないはずはないであろう。

スポーツは肉体を中心にして構成されている。肉体は微妙なものであり、外界のわずかな変化(気温、湿気、風の流れ、グランドの状態、接触する人間)によって左右されると同時に、本人の感情や生理的な状態によっても著じるしく左右される。このように、肉体とはたえず変化しているものなのである。

スポーツ選手の肉体とは、実は最少限、そのスポーツをするのに必要な身体の適応を求めており、そのスポーツをするのに必要な(最も有利な)身体の枠を求めている。それぞれのスポーツによって、その身体の適応はそれぞれ異なるものであり、外界のいろいろな変化に耐えるためには丈夫な枠が必要になる。ここに基礎体力の必要性が生まれてくる。

運動選手は、常人以上に神経が繊細で、官能が鋭敏であり、皮膚感覚がとぎすまされている。故に、これらを完全にガードするためにも、頑健な肉体が必要となってくる。

一般にスポーツマンには、逞しさとか、雄々しさとか、凛々しさを求めているが、それはあくまでも男性の表面を飾る肉体からくる印象にすぎない。そして、そのように逞しく、凛々しく見える肉体は、実はスポーツマンの内面をおおっている鎧の役割ぐらいしかはたしていないのが普通である。

スポーツといってもいろいろあり、それぞれの発生原因や発達の経過も異なる。また、スポーツにより筋肉面の適応も異なり、それによって自然と外面的な身体の適応も違ってくる。ただ共通していえることは、スポーツマンシップが涵養されるという1点であるが、しかし、これも勝負にこだわりすぎると、本来の意味を見失いがちとなってしまう。

以上のように考えると、スポーツによる逞しさ、または逞しさをささえる根は何であるのだろうか。様々な試練にたえながら、少しでも上達したい、少しでも良い記録を出したい、少しでも上位に入りたい、と願いながら、ナニオッと頑張るやる気、すなわち根性ではなかろうか。精神的な逞しさとは、この「やる気のあるなし」で決まるのではないか。

克己とは自分に勝つことである。これはどの世界に入っても通用することである。「好きでやっている」アマのときも、趣味やレクリエーションとして実施しているときも根性は必要であろう。とくにプロの世界においては、この根性(やる気のあるなし)が決定的な要件となる。

なぜならば、プロの場合は根性が成績につながり、成績が直接生活につながるからである。スポーツを趣味やレジャーの1つとして「好きでやる」のは誰にでもできる。しかし、それでは嫌気がさせばすぐに止めてしまうかも知れない。嫌気がさしても、1つのプロセスとして何クソッと頑張るところに根性が生まれてくる。雑草のように踏まれても踏まれても、なお息をふきかえす生命力、忍耐力、これが逞しさの根をささえるものであろう。

スポーツが人間の行為である以上、その行動には自分とかかわりのあるあらゆる人や、プレーの相手との心理的洞察やかけひき、また憶測や観察がいる。すなわち、極端な表現かも知れないが、そのスポーツマンの還境如何が関連してくる。一見豪放に見えるスポーツマンも、生理的に、神経的に、生活的にと、一般の人には想像できない複雑な屈折した神経や生理感覚をもっているものである。

また、勝負が直接自分の生活に結びつくプロ・スポーツマンの逞しさは、それが必ずしも健康的であるとは限らない。栄光と富を得るためには、自分の健康はおろか、生命までもかけることがある。プロの場合、プレーそのものが商品であり、自然と勝敗にこだわらざるを得なくなる。その結果、生理的、心理的、生活的に無理に無理を重ねていく。そこに一般の受けとり方と違った不健康さが根ざしてくるものである。

「逞しさ」とは顔つきや、体つきのイメージからくる表面的の底の浅いものではない。それに内面的なものが加わって自然ににじみ出てくる「重みのある逞しさ」「味のある逞しさ」が必要であろう。それは逞しさというよりは「人間らしさ」「人格」と表現されるものであるかも知れない。

そのためには単なる練習(技術の修得)だけで養われるものではないだろう。我が国には古くから練習という言葉ではなく稽古という言葉が使われてきた。

稽古とは「物事を学び習う」とか、「昔のことを考え調べる」とかの意味があり、単なる練習とは異なる。練習に練習を重ねることを稽古をつむというように用いている。また、稽古をつむことを修行するとも表現している。

本来、修行とは、学問や道徳を修めみがくという意味があり、「修」には正しくするとか、ととのえるとか、学ぶという意味が含まれている。

この修業により培われた肉体を対象として「健全なる精神は健全なる身体に宿る」と用いるのであれば、これは誤訳ではなく、1つの新しい諺と考えて間違いではなかろう。

現在のスポーツに、この修行の意味が加味され、練習が修行としてなされているかどうかにより、それによって養われる「逞しさ」も異なってくるのではなかろうか。

③現代的な逞しさ

現在では、逞しさについても複雑な要素が加味され、男性が自分自身を逞しいと自覚する点と、女性が男性を逞しいと見る条件とに一致するところと不一致のところがあるのに気づかれるはずである。

たとえば、女性が男性を逞しく感じる条件とでもいうべきものを考えてみると、「判断力の良さ」「行動力の早さ」「論理性」「包容力」「義理を重んずる」「友情にあつい」「健康的で体力がある」「ファイトがある」……等々があろう。そして、これらの諸条件は、おおむね女性にとって不得手なもの、つまり実行しがたいものが多く含まれているようである。

イタリヤの古都、フィレンツェを訪ねた女性は、誰しもミケランジェロの彫刻像“ダビデ”を前にしたとき、思わずため息をもらすとか。それは、理想的な「逞しさ」を備えた男性の肉体の見事な具現化をそこに見るからだ、と何かの本で読んだことがある。

女性が男性に望む要素に「逞しさ」は不可欠なものであろう。しかし、それは常にダビデの像にみる肉体美を意味するものではなく、現代的な解釈による、各自のパターンによる逞しさを求めているところに問題が含まれているようであるが、この点について私は「困難から逃げ出さず踏みとどまる気力と、自分の生き方を貫き通す姿勢」に内面的、精神的な「逞しさ」をつかみたいと常に試行錯誤している。

イギリスではエリートの資格として第一に「すぐれた体力があること」をあげ、青白きインテリーなどはエリートの資格がないということを、何かの本で読んだことがある。また、イギリスにおける学校教育の基本方針は、どんなきびしい逆境にも耐え抜く精神カと体力をはぐくむことであるという。

心とからだは決して別々のものではない。すぐれた精神力の働きのささえとなるものは、やはりすぐれた肉体だと考える。われわれはもっとみずからのからだ、すなわち肉体について考え大切にすると共に、本来の意味における逞しさを養わねばならないと考えている。
月刊ボディビルディング1977年2月号

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