フィジーク・オンライン
  • トップ
  • スペシャリスト
  • ついにやった!念願の世界新記録樹立(ベンチ・プレス155kg) ☆第6回1976年度世界パワーリフティング選手権大会出場記☆

ついにやった!念願の世界新記録樹立(ベンチ・プレス155kg)
☆第6回1976年度世界パワーリフティング選手権大会出場記☆

この記事をシェアする

0
月刊ボディビルディング1977年2月号
掲載日:2018.07.10
フェザー級 富永義信(税理士)
〔ヨーク・バーベルの前に立つ私〕

〔ヨーク・バーベルの前に立つ私〕

世界選手権、日本代表に決定

1976年度世界パワーリフティング選手権大会の日本代表選手選考会が9月19日、クニタチ・トレーニング・ジムで行われた。私はスクワット180kg、ベンチ・プレス155kg、デッド・リフト180kg、トータル515kgでフェザー級の日本代表に決まった。

スクワットとベンチ・プレスはいいとして、デッド・リフトが180kgというのが私にとっては不満足の記録だった。

日本代表選考会に出場申込みをしたものの、それまではアメリカでの世界選手権大会に出場するという、はっきりとした決意はついていなかった。というのは、税理士にとって11月は最も忙しい月であり、2週間という海外旅行が果たして可能かどうか、非常に不安だったからである。

ところが、この選考会でデッド・リフトの記録が意外に低調だったことが私の闘争心をわきたたせ、逆に世界選手権への出場を決意させたのだった。

選考会では、デッド・リフトの第1回目180kgからスタート、第2回目は195kg。もちろんこの重量はふだんの練習のときでも成功しており、自信は十分にあった。しかし私のシャフトを握る手幅が極端に狭いために、ローレット(シャフトのぎざぎざ部分)に手がかからず、持ち挙げている間にズルズルとバーベルが手から滑って失敗した。第3回目、今度はローレットに手がかかるように手幅を広くしたが、今まで狭い手幅でしか練習していなかったので力が入らず、これも失敗。

大会まで後ひと月しかない。足幅を狭くすれば手幅は当然広くなる。それで足幅が広い方がいいのか、狭い方がいいのか、全く分らなくなってしまった。デッド・リフトは完全にやり直さなければならなくなった。代表選手10名を選出するのに、競技が終ってから1時間以上かかった。その間、今終ったばかりのデッド・リフトのフォームを私は一生懸命研究していた。デッド・リフト195kgの失敗は私にとって大きなショックであり、非常にくやしかった。もう一度力をつけて世界選手権の檜舞台で自分の力を試してみたい。こうしてアメリカに行くことが自分の気持の上ではっきりと決まった。そしてもちろん、ベンチ・プレスに世界記録を作ってくる事が私のアメリカ行きを決定的にした。

翌日から私は猛烈な馬力で仕事にとりかかり、またトーレニングにも励んだ。公式試合でのデッド・リフトは実に3年半ぶりである。家のバーベル・シャフトは古くなっているので握った手は決して滑らない。ところが新しいシャフトのローレットのない部分はツルツル滑る。もっともローレットを利用する事はパワーリフターの常識である。単に握力強化ならそれは必要でないが。

多忙な仕事との両立を考え、独りでトレーニングを行う事、しかも試合経験の少ないデッド・リフトの種目は私には大きなハンディであった。私は焦った。疲れても疲れてもデッド・リフトの練習を行なった。私がもしベストを出せないようなら、日本パワーリフティング協会、並びに日本ボディビル協会を裏切る事になる。精神的な辛さが日一日と重苦しく私に覆いかぶさってくる。足腰の筋肉は疲れ切って、ごく軽いバーベルさえも私には重く感じられた。

クニタチ・トレーニング・ジムに約5時間の交通時間をかけて練習に行った。僅か2回ではあったが、仕事と渡航準備に追われる私には他のトレーニング・センターに通っている時間はほとんどなかった。クニタチ・トレーニング・ジムに行ったのは、ここの関二三男会長が日本チームのコーチを受け持ってくれるからであった。関コーチに私の特徴をよく掴んでもらう事も決して欠かす事のできない大切な事だと考えたからだ。

世界記録目指しての猛トレーニング

私は無我夢中に、そして真剣に、世界選手権に備えてトレーニングに励む自分の姿をみて、大学時代をなつかしく思い出した。疲れた体に鞭打ち、自分をとことんいじめぬき、じっとそれに耐えようと懸命に頑張る自分の姿を思い出した。あの頃と現在では環境は大きく変っている。しかし、一つの事に無心に打ち込む男の闘魂は全く変っていない。

練習では本当の世界選手権の試合を頭にえがき、これを挙げれば世界記録だと自分自身にいいきかせて練習した事もあった。それは世界記録の重圧からくる精神的負担に負けない自分自身の根性を作るため、自分なりの努力であった。

何が何でも力の世界一になりたい。フェザー級ベンチ・プレスの世界記録は152,5kgである。私は選考会で155kgに成功した。(しかし、このときは体重がオーバーしており公認記録とはならない)そしてさらに157.5kgを狙おうと思ったが、断念した。大会1と月前に高記録を出すと他の外国選手にマークされる事。それに、世界記録をあの大きな大会に初出場で出したかったからだ。それが達成できた瞬間、自分の人生に深い思い出が刻みこまれるに相違ない。私はこう思ったからである。
〔大会を前に緊張の日本選手団。ヨーク・バーベルの前にて〕

〔大会を前に緊張の日本選手団。ヨーク・バーベルの前にて〕

ハリスバーグに到着

11月2日午後4時20分、我々日本選手団は元気に羽田空港を飛び立ち、サンフランシスコに向かった。

羽田を飛び立ってから8時間、日本時間の夜12時になると空が明るくなる。それから1時間後、日本時間11月3日午前1時10分を17時間戻し、11月2日午前8時10分にサンフランシスコに到着した。アメリカに着いたという実感よりも、いよいよ闘う時が近まったという気持であった。

入国手続を済まして、バスでサンフランシスコ市内見物をした。アメリカ人は非常に陽気で、町はお祭りのように賑やかだった。僅かの時間ではあったが、試合という重圧から解放された気分になれた。ホテルに着いてすぐ新聞社訪問に出掛ける。

翌11月3日午前8時サンフランシスコ発、12時10分を2時間進め、午後2時10分にシカゴ着。午後3時15分シカゴ発、4時を1時間進め午後5時にピッツバーグ着。機内で1時間の待合わせ、午後6時ピッツバーグ発、6時40分待望のハリスバーグに到着した。

空港にはIPFの役員の方が迎えに来られていた。緊張がだんだんほぐれていった。審判は選手に失敗を与えようとしているのではない、できる限り成功にしたいのだ。スポーツマンに対する理解は深い筈である。この好意に対するお返しとしても、私は自己のベストを尽し世界選手権大会を盛り上げる一員になろうと心に誓った。

ヨーク・タウン・ホテルに到着したのは夜7時30分だった。ホテルには沢山の外国選手が集まっていた。

ホテルでは市丸選手と相部屋で、床に就いたのは12時だったが、朝方5時までいろいろ語り合った。試合の事はもちろん、人生論、同じ趣味をもち合う者同志の話はつきず、話に夢中になり、遂に朝方5時まで話し込んでしまった。日本選手団とはいっても試合の時は会場で会うだけで試合が終るとそれぞれに別れて帰っていく。ゆっくり語り合う事はほとんどない。

市丸選手は向学心にあふれ、よく本を読んでいた。日本を代表するトップリフターがこれからも今まで以上に勉強していくという向学心に私はすっかり嬉しくなった。

体を鍛え、精神を磨き、バーベルを通じて大切な友を得た事だけでも、私にとって大きな収獲だった。しかし世界記録を出す事を数年前に私の心に刻みこんでしまった現在、それが如何に苦難な道であろうが、意志を貫徹したい私の心は決して揺るがなかった。

いよいよ試合開始

11月6日午後4時、フェザー級出場選手の紹介が行われた。日本時間7日午前6時、時差のハンディ、慣れない外国での大試合。しかし私の心は妙に落ち着いている。今までの緊張もどこにとんでしまったのか、心の底から闘志が湧いてきた。スポーツマン精神にのっとり正々堂々と、凄まじい闘志で闘うんだ。闘う日本男児の魂のかたまりを必ず発揮してみせる。私はもう何にも怖くなかった。そして誰も怖くなかった。

昨日は遂に一睡もできなかった。そして1時間前におむすび4個食べたきりで、昨日の昼から一昼夜、何も食べていない。しかし、それは関係ない事である。むしろハンディが大きく苦しみが深いほど、私はメチャクチャに闘志が湧いてくる。練習よりも試合がやり易い。それも大きい大会ほど、そして大勢の人がみているほど、気合が入る。

いよいよ私の出番がきた。まずスクワットからである。「ヨシノブトミナガ!ジャパーン、160kg」私はコールされた。日本の試合と同じように、独特の凄まじい気合でバーベルに突進した。試技は主審が「スクワット」の号令をかけてからスタートする。バーベルをかついだ感じは非常に軽い。肩にがっちりとくいこんで滑る事もない。ところが私がバーベルをかついでしゃがみだすと、それにつれ主審は中腰になり、私をのぞきこむようにみる。主審が目に入った私は、バーベルを挙げる事よりも深くしゃがむ事に気をとられてしまった。それで立ち上る時、危うく途中で止まりそうになったが、ここで潰れてなるかと奮起した。白ランプ3つで成功。思わずほっとする。第2回目167,5kg。そして第3回172,5kgに挑んだ。白2つ赤1つできわどく成功だった。

次はベンチ・プレスである。フェザー級で私以外の選手はもう誰も残っていない。120kg台で全選手の試技は終っている。この種目に限っては完全に私の一人舞台となった。気持は非常に落ち着いている。やるんだという凄まじい気迫だけは体中に満ちあふれていた。第1回目140kgに成功後、2回目に世界新に挑戦するつもりだった。しかし、世界新記録に挑む時は世界記録に10kg以内に達していなければならないというので、150kgに申し込んだ。

もちろん150kgは自信があった。ところが、バーベルをラックからはずしてもらったのはいいが、いきなり両サイドの補助者がバーベルから手を離したために、私はまだ準備ができていなくて左右に大きくベランスを崩した。もう一度やり直す訳もいかず、うまく言葉が使えないために補助者の力も借りれず、自分でやっとバーベルのバランスを整えてからスタートにかかった。シャフトが胸について完全に静止しなければならない。主審の手拍子で力強く挙げたものの、最初もたついたので相当力を使っている。途中でバーベルが止まりそうになった。ちようど半分まできたところで、もうだめかと思った。しかしこの時、もしここで潰れれば世界記録は夢で終ってしまう。この150kgは何が何でも挙げておかなければならない。世界記録に挑むための絶対条件なのだ。僅か1秒足らずのほんの瞬間に、私はそんな事を思った。すると物凄い力が湧き出てきた。止まりそうになったバーベルは力強く差し挙げられた。凄まじい気合であった。「ダウン!」私はあわてて審判の判定を見た。白2つ赤1つ、きわどかったが成功であった。
〔フェザー級ベンチ・プレス155kgの世界新記録達成の瞬間〕

〔フェザー級ベンチ・プレス155kgの世界新記録達成の瞬間〕

ベンチ・プレスに念願の世界新記録樹立

150kgがこんな調子なら、とても155kgは自信がない。私は153kgにトライして、世界記録を狙う事にした。関コーチも同意見で153kgと申し込んだ。ところが153kgは第4回目の試技とみなすのでトータルにはさっき成功した150kgしか入らないとの事である。つまり、増量は2.5kg刻みでなければ3回目の試技は棄権したものとみなし4回目の特別試技になるという。関コーチも言葉の足りなさを、153kg、155kgと紙に書き、後は手真似を交え交渉してくれたが、これは規定があってどうすることもできず、結局、少し無理かと思いながら、世界新と共にトータルにも結びつくように155kgに挑戦する事にした。

150kgはいままでどんなに調子が悪い時でも私はスムースに挙げている。それが今の試技では途中で潰れそうになった。世界記録もはかない夢で終るのか。しかしこの時、私の闘魂が心の底から湧いてきた。あきらめない、155kgは絶対に挙げるのだ。私は土壇場になると物凄くファイトが湧いてくる。覚悟を決めた私は、気持の動揺も何にもなかった。あるのは凄まじい闘志のみである。

「制限時間1分30秒前、準備して」関コーチが私に声をかけた。私はステージに姿を表わし、両サイドの補助者に「アンバランス、ノオー、アンバランスノオー、バランス、バランス、オーケー」と手真似を交えて真剣に話しかけた。頼む。本当に頼む。しっかりと私の呼吸に合わせてバーベルをとって欲しい。関コーチも補助者に何回も伝えてくれた。

私の片言の英語も、真剣な手真似で補助者に十分通じたとみえて、「オーケー」と云った。準備OKだ!あとは自力に頼る他はない。必ず挙げてみせる。「ヨーシコイ!」凄まじい気合がかかった。私が「オーケー」と云うと両サイドの補助者は静かにバーベルをラックからはずして、すぐに手を離そうとした。ここでバーベルを離されてはたまらない。私は大きな声で「ジャストモーメント、ジャストモーメント」と2回繰り返した。補助者は離そうとしたバーベルをしっかりと持ってくれた。それから足を固定し、背筋に力を入れ、肩の位置を決めた。私はもう一度「オーケー」と云った。バーベルは離された。私は大きく息を吸った。

スタート。シャフトが胸についた。主審の合図がはっきりと聞こえた。あとは無我夢中でバーベルを挙げた。ちようど途中までバーベルがくると、これでやれる、間違いなく世界記録達成はできる。そう思ったと同時に一層力が入った。あとは必死にバーベルを挙げた。「ダウン!」確実に合図を聞いてから、バーベルをラックに戻した。私は成功を信じた。しかしすぐに判定のランプを振り返った。

白ランプ3つが目に入った。眩しく目の中に入り、心の奥深くはっきりと光った白ランプであった。私は「やった!ついに世界記録をつくったんだ」と思った瞬間、嬉しさがこみあげてきた。こんなに嬉しい事はない。私は大観衆の前で飛び上がって喜んだ。何度も飛び上がって、体中で喜びを感じとった。関コーチの顔が見える。「有難う。お陰様で……」そう云って関コーチと握手して私はまた飛び上がって喜び勇んだ。

すぐ審判員が私の所にやって来た。審判員は私のベルト、ツリパン、靴を調べ「オーケー、ベリーグッド」と云って世界記録公認を役員に伝えた。私は審判員の手をとり、握手して何度も「サンキュー」を繰り返した。審判員はあまりの私の喜びに終始笑顔を浮かべていた。それからすぐに私はステージに戻り、声援してくれた観衆にお礼の挨拶をした。心から感謝して、深々と頭を下げた。第2回目の150kgが重くて絶望的だっただけに、私にとってこの世界新記録樹立の喜びは全く感無量であり、深い喜びであった。
〔フェザー級の表彰式。左端が私。中央が1位のベングリー(英)〕

〔フェザー級の表彰式。左端が私。中央が1位のベングリー(英)〕

トータル第2位に入賞

いよいよ最後の種目デッド・リフトである。ベンチ・プレスの世界新樹立を喜んでいる暇は全くない。靴を履き替えるとすぐに私はコールされた。第1回目180kgがビシッと決まったので、第2回目はちゅうちょなく195kgに申し込んだ。「ナイス・デッド・リフト!決まっている。その意気だ。195kgに成功すれば3位入賞の望みが大きくなってくる。195kgは絶対にいける。落ち着いて」関コーチは終始私のそばにいて励ましてくれたり、また私のコールは何番目かアナウンサーに呈示された記録表を見て、私のベストが出せるようにいろいろアドバイスしてくれた。

私は195kgが成功すれば3位になるという事は全く眼中になかった。180kgの重量からみて195kgはやれると思い。そして日本での選考会の屈辱をここで晴らす事で私の心は一ぱいだった。私は気合いを入れて195kgにトライし、そして成功した。精神的にうんと楽になった。第3回目200kg。少しベルトがきつすぎる。ベルトをゆるめようと思って大時計を見るともう時間が迫っている。しょうがない。そのままバーベルに向かった。時間にかきたてられ、あわただしい最後のデッド・リフトは失敗に終った。9回の試技を通じて初めての失敗である。

しかしこれで終ったんだと思うと、何とも云えない心の安らぎを感じた。私のトータルは522,5kg。順位はまだわからない。外国の選手はデッド・リフトが強く、まだこのあと何人もの選手の試技が残っている。もう何位になってもいい。私は自己のベストを尽したのだ。闘い終った安堵の心がよぎり、私はしたたる汗も拭かずジュースを飲んだ。飲んでも飲んでも喉が乾く。大変な大会であった。関コーチと私、それにライト級、ミドル級の日本選手が地下のトレーニング場にいた。そこにある大きい黒板には私のあとで試技をするフェザー級の選手のデッド・リフトの記録が書き込まれていく。終った選手はトータルが記入され、順位がつけられていった。私は6位になり、5位になり、次々に順位が上っていく自分を見て、初めて入賞を意識したのは4位から3位になる時であった。表彰は3位までで、3位までは表彰台に立てるからである。

私の3位以内が決定した。私は胸に迫る熱いものを心に感じた。舞台裏で最後の選手のデッド・リフトを見ていると、私が2位になったらしいという情報が入ってきた。半信半疑だったがやはり私は2位に入っていた。表彰台では幾度もカメラのフラッシュを浴びた。微笑ましく、誇らしく、眩しくカメラのフラッシュを浴びた。素晴らしい大会であった。私の人生に忘れ難い思い出を深く刻みこんだ大試合であった。

勝負の世界は人生のドラマと同じである。ある者は記録を出して飛び上がって喜び、またある者は失敗してくやし涙を流す、様々である。

翌日、全試合が終って役員、選手、それに関係者が集まり午後11時からヨーク・タウン・ホテルでレセプションが行われた。出席者は200人位だっただろうか。皆で歌を歌い大変なお祭り騒ぎである。食べ放題、飲み放題、実に和やかなレセプションであった。国籍を問わず、人種を問わず、世界中、みな友である。全く平和そのものである。素晴らしい。この喜びをトレーニングに苦しい汗を流す多くのビルダーに味わってもらいたかった。

日本では想像できないが、パワーリフティングを観るには4ドルの入場料を払い、そして家族連れの観客が沢山いた。若い女性も子供も沢山観に来ている。それに競技の内容を観客はよく知っている。世界記録を出した私に「オー!ストロング・ベンチ・プレス!ナイス・ベンチ・プレス!」と云って、親しみ深く握手して祝福してくれる観客。そして一緒に来た自分の友に私を紹介すると、その友も「オオ!ベリー・グッド」と云ってニコニコして私の手を握り締める。そばで見ていた観客の一人はそういう私に「サイン」と云って紙とペンを差し出した。観客も選手もみな友であり、一体である。私は2日間の世界選手権大会を振り返り、あまりにも嬉しくて一晩中眠れなかった。

次の日、思い出のハリスバーグを後にニューヨークに向かった。みな、試合から解放され、どの顔も和やかであった。誰もが、言葉に出さなかったが、世界選手権の重荷は隠しようがなかった。それほど重圧感のある大きな大会だったのである。ラスベガスではグランドキャニオンを見物し、ロサアンゼルスの町、ディズニーランド、最後、ハワイに寄った。

日本選手団として共に行動した14日間、非常に苦しく、また楽しく、この思い出はいつまでも私の心に残る事であろう。

大きいスランプを脱出した時ほど、大きな前進がみられると思う。人間大成するために大切な事は、決して体力だけではないことを痛感した。体力は無論不可欠のものである。しかし忘れてはならないのが精神力である。

バーベルで体を鍛え、精神を磨き、そして多くの友を得た。それを今後の人生に生かしていきたい。そして少しでも大きな人間に成長していきたい。夢のある人間が一番幸せかも知れない。人間の遅い足であっても、何時間も、何日も、何年も根気よく歩き続ければ、どんなけわしい山の頂上にも到達できるのである。

どんなに遅くとも、私は確実に、力強く、一歩々々歩んでいきたい。大きな目標に向かって。
〔デッド・リフトの3回目、200kgに挑んだが、これは失敗。〕

〔デッド・リフトの3回目、200kgに挑んだが、これは失敗。〕

月刊ボディビルディング1977年2月号

Recommend