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☆ビルダー・ドキュメント・シリーズ☆①
JBBA特別賞に輝く宮畑 豊

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月刊ボディビルディング1977年3月号
掲載日:2018.08.17
健康体力研究所 川股 宏
宮畑 豊
昭和16年8月21日生 36歳
妻和代さんと長女裕華ちゃんとの3人暮らし(6月に第2子誕生予定)。くろがね工作所勤務。
ボディビル歴12年、1976年度ミスター日本4位、ミスター東日本チャンピオン大会優勝。赤羽トレーニング・センター所属。柔道三段、空手三段
過去10年連続ミスター日本コンテストに出場。日本ボディビル協会では、その功績をたたえて彼に“特別賞”を贈る。この異例ともいえる賞を手にした“宮畑 豊”とはどんな男なのか。

◇病魔を克服、再出発◇

ボディビルを始める動機は、とりも直さず“素晴らしい肉体美”と、そして、その結果としてもたらされる“健康”に対するあこがれから始まる。しかし、あこがれは1つであっても、そのときの体の状態には2とおりあるといえる。

1つは健康な一般人が、もっと鍛えて「よりたくましくなりたい」という場合と、普通以下の体力の持主が、劣等感を克服するために「せめて人並みの体になりたい」という場合がある。宮畑の場合、立場こそ後者に入るが、「劣等感を克服してやろう」などという、なまやさしいものではなかったのである。

柔道と空手が共に三段、負けん気の強いイメージを受ける現在の宮畑選手からは、とても想像することが出来ないボディビルとの出合いであった。

くろがね工作所に入社して数年後、宮畑は、突然、足や腰がまったく動かなくなってしまったのである。体をちょっとでも動かすと、腰に激痛が電流のように走り、立っていることさえできない状態だった。「脊椎分離症」という難病にとりつかれてしまったのである。

その当時をふり返って宮畑は、「そうですね。あのときは下半身不随だったんですよ。身動き1つできず、はずかしい話が“下の用”もたせず、看護婦にやってもらったんです。つらかったですね」と淡々と語る彼の表情は、「健康って幸せだなあ、あの苦しみからみたら、まるで夢のようだ」という顔にみえてくるのである。

半年の闘病の末、退院。その時1人の医者は「スポーツなんてとんでもない、コルセットをしてだいじをとりなさい」といい、もう1人の医者は「脊椎を支える筋肉強化のため、多少運動してもかまいませんよ」という。

宮畑は迷ってしまった。だが、小さいときから親しんだスポーツの汗のにおい、高校時代によく出場した柔道や相撲(県大会優勝)の思い出。彼はどうしてもスポーツを忘れることはできなかった。

「ようし!少しずつリハビリテーション・センターに入ったつもりで体力をつけていこう。柔道や空手はむりだが、何か社会に出てもずっと続けられるスポーツはないものかなあ」と心の中で決心した宮畑は、当時、会社に“バーベル・クラブ”があることを知った。

さっそくクラブに入り、はじめは腰に負担のかからないカールを、一番軽い1.25kgのプレートを2枚つけておそるおそるやってみた。「病気になったときは、運動どころか、満足な体に戻るかどうか心配しましたが、少しずつでも体を動かすことができて、本当にうれしかったですね」と回想する。

ダンベルによる運動は1年続いた。そして、驚くほどの成果となって現われてきた。筋肉や筋力が目に見えて大きく強くなってきた。やがて、トレーニングはダンベルからバーベルへと移り、その年の秋の会社の重量挙大会では110kgを挙げられるまでになった。この成果は、病魔を克服した宮畑に大きな自信とやる気を起こさせた。そしてこれがやがてハードなトレーニングに耐える肉体に改造する引き金となったのである。
[特別賞のトロフィをかかげて観衆に挨拶する宮畑選手]

[特別賞のトロフィをかかげて観衆に挨拶する宮畑選手]

宮畑の特徴ともいえる「ねばりと根性」はこの当時から培われてきたのであろう。筆者は「根性」とは「欲望と意志力」が結び合った状態からつくられ、鍛えることによって、それはどんどん強く成長するものであると信じている。これは宮畑の動機と成果からも十分に理解できる。
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◇自分自身を知る◇

宮畑は「ボディビルは私にとっては“宗教”なんです。この体を作ってくれたし、また逆に、ボディビルをやっていれば、いつも健康で充実した社会生活をおくることができる。そんな宗教なんです」という。このように、自分なりの宗教を信じ、強い信念をもって、この十数年間、宮畑はボディビルに打込み、ボディビルと苦楽を共にしてきた。

数年間、あるいは十数年間にわたってボディビルを実施してきた人は沢山いる。筆者もその1人である。しかし一流のコンテスト・ビルダーとして十年間以上もその体を維持し続けているところに宮畑の偉さがある。

これは前にも述べたように彼の「ねばりと根性」がそうさせたのだろうが宮畑のボディビルを始めた動機が、逆境を利用したものだけに、“自分自身をよく知っている”点が成功につながった原因の1つだと思う。彼は「私は人まねをせず、自分自身を大切にしてきました」

さらにつづけて「私はトレーニングに入る前に、昨年の今頃はこんな体だった。そして今年はこの部分をさらに鍛えて、こんな体にしようと、鏡を見ながら自分で目標を決めるんです。そして、一度目標を決めたらつねにそれを頭にえがいてトレーニングするんです。寝る前にもそれを思って寝ます。他人との競争もさることながら、自分自身との戦いが先ですよ。川股さん」という。

ボディビルに限らず、自分自身をよく知ることは大切なことだと思う。読者の皆さんもメーテルリンクの“青い鳥”の話を知っているでしょう。チルチルとミチルが“幸福を呼ぶ青い鳥”を探し求める話です。結局“青い鳥”は自分の家の中にいたというのです。この童話と同じように、いたずらに人のことに気をとられず、まず自分自身をよく見きわめ、自分自身をよく知ってそれを土台にして一歩、一歩着実に目標に向って進んでいくことが成功につながるのです。いきなり身分不相応の高い目標を選んだのでは、必ず途中で坐折することになる。

「私の好きなビルダーはサージ・ヌブレ(1976年度NABBAミスター・ユニバース・プロ優勝)ですが、それはあくまでも“夢”というか“偶像”なんです。決して現実の私の目標ではないんです」と淡々と力まず宮畑はいう。彼は自分の体形や長所、短所を十分知っていて、そこから自分の最高を求めて努力しているのである。

また、36才で依然として日本のトップ・ビルダーの座にある宮畑は、意外なことをいう。「私が永年やってこれたのは、ボディビルと会社勤め、それに家庭生活との両立が難しく、いつも“今年が最後”“今年が最後”という気持で私なりに最善の努力をしてきたからだと思います。しかし、3年ほど前から、よーし、こうなったら死ぬまでやるぞ!という気持になってきました」と語っている。

宮畑の語る言葉のはしはしに、自分を知り、自分を大切にする、こんな姿勢が彼の人生観に一貫して通っているのである。

◇よき先輩、友人との出会い◇

2月号の本誌グラビア「杉田茂アルバム」をみていただきたい。杉田、重村、木本、武本、吉村、徳弘。このうち、いとこの重村を始め、4人までが同じ大阪ニュー・ワールド・ジムの仲間である。そして、この全部の人たちが、いまだに「おい、お前」の仲なのである。筆者は何か、その昔、日本を動かした吉田松陰の熟生を思う。

なぜなら、この全部がそろって一流ビルダーになっているからだ。世界を制した杉田をはじめ、それぞれ日本のトップ・ビルダーとして名をなしている。

「私は友人に恵まれていました。杉田君との出合いなんか、バスの中ですよ。向い側に、半ソデからニョッキリ太い腕を出した男が坐っていました。きっとなんかスポーツをやっていると思って話しかけたのが杉田でした」と出会いを語るとき、まるで恋人にでも出合ったときのように、うれしそうに良き友を得たことに感謝している。

「私が大きく伸びてきたと感じたのは、大阪の南海ジムで荻原会長にしごかれときでした。当時、ジムには私と同じくらいの年代のライバルが何人かいて、お互いに競争したものです」と大先輩に対する恩や友人のありがたさを忘れない。

ボディビルで一流になるためにはいろいろな要素がある。トレーニングや食事の方法は、もちろんその1つである。しかし、内面的で目には見えないが、「友人の影響」も以外な力となるのです。ライバルが足の引っ張り合いをするのではなく、お互いにはげまし合って競争していくところに、進歩とほんとうの友情が生まれてくる。

◇練習は集中力を重視◇

自分をよく知り、人まねをしない姿勢は練習にもよくあらわれている。

「私は集中力を大切にします。1つ1つの運動を慎重に精神を集中してやるんです。だから、自分で納得がいけば、あらかじめ作っておいたスケジュールにはこだわらないんです。3セットの予定が1セットで終ることもありますし、逆に5セットになることもあります。とにかく、精神を集中して充分パンプ・アップするまでやります。この場合、一番苦労するのは適切な重量の選定です」

彼はコンテストの4カ月前から、トレーニング、食事、すべてについて計画をたてる。つまり、この4カ月が本格的なシーズンであり、そのほかはごく平凡な日常生活を送る。

食事についても、オフシーズンはビール、甘いもの、ごはん、めん類、なんでも食べる。来るべきシーズンにそなえて、タンパク質にせめられる内臓を休めるための、内臓レイ・オフなのだ。シーズン中の無理なトレーニングと食事法による過労とシーズンオフの休養のつかい分けが大切なのを身をもって知っているからである。

「年がら年中では体がまいってしまいますよ。コンテストの4カ月前からはトレーニングも相当ハードになりますし、プロティンなども沢山つかいます。体脂肪を落としてデフィニションを出すためには、当然、減量をしなければなりませんが、プロティンを使っていると、体重が減ってもパワーが落ちないんです。私はシーズン中、120キロのベンチ・プレスが10回完全に挙上できるかどうかで体調を判定しているんです」という宮畑は、決して盲目的にボディビルにふりまわされているのではなく、冷静に自分を知り、健全な社会生活を営みながら、それでいて肉体的にも年々着実に発達し続けているのである。

「コンテストが終ると、塩水や、あるときは下剤を飲んで、一度、腸をからっぽにするんです。腸はよろこびますね。それから普通食に戻すんです。もちろんトレーニングもです」とこれもまた宮畑らしい一味違う体調維持法である。

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ボディビルは「見せかけだけの筋肉だ」とか「柔軟性や敏捷性に欠ける」等の誤解を受けることがよくある。だが、健康作りの根本は、運動、栄養、休養の3つであり、これを最も合理的に科学的にとり入れているのがボディビルであることを一般の人に理解してもらわなければならない。

この点、このことし36才の宮畑選手の、難病を克服し依然として逞しい肉体と健康を誇っているこの事実が、ボディビルの本当の姿を証明している。これからも、現役ビルダーとして、またよき先輩、指導者として活躍していただきたい。
(敬称略)
月刊ボディビルディング1977年3月号

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