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JBBAボディビル・テキスト43
 指導者のためのからだづくり科学
各論Ⅲ(栄養について)

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月刊ボディビルディング1977年4月号
掲載日:2018.08.23
日本ボディビル協会指導員審査会委員長 佐野匡宣

はじめに――本質をみきわめる思考カ、判断力をつけよう

 急激に発達した現代文化生活は、自然の法則を無視する事によって、現在の様相を育ててきた感がある。

 衣、食、住をはじめ、我々の生活環境は次第に人工化され、急激な経済成長に基づくひずみ、自然破壊、資源の浪費等、限度を越えた自然無視を呈しているようで、その結果がどのようであるかを考えれば明らかである。

 健康の問題にしても全く同じで、科学万能のように考え、薬品の乱用、添加物の多い食品の過食、冷暖房、さらには各種作業の機械化等々、人工化すればする程自然から離れ、何か科学は人間のためにあるのではなくなり、健康を失わせる役目をする事が多くなってゆくようにさえ思われる。

 このように人工化され、細分化された複雑な社会機構や環境で生活してゆくためには、それに応じた知識がなければどうにもならなくなる。若しその知識が間違っていたら、どうなるのだろうか。発達した現代のいろいろな文明の利器も使えないし、快的な充実した生活も送れない。

 このような環境において、我々は知らず知らずのうちに誤った道を歩ゆんで来たのではないだろうか。誰もが健康を望みながら、実生活においては、多かれ少なかれ逆の方向に歩んでいたようである。

 これらは、各個人個人が進んで来たと言うよりは、近代社会の大きな流れに流されて来たと考える方が適当かも知れない。ほとんどの人が、科学の進歩が人間の健康増進や維持に大きな役割を果して来たように思っているが、はたしてそうだろうか。何か錯覚を起しているのではないだろうか。

 近代文明に囲まれた生活様式の変化は、始めのうちこそ便利便利ですぎてゆくが、やがて体調に狂いを感じはじめる。10年、20年、いやもっと昔の人も、現代人も、身体的にはなんら進歩していない事に気付く。

 例えば、保育器や人工栄養、抗生物質等の発達や発見により、一昔前であれば助からなかった未熟児や虚弱児が発育成長するようになったり、細菌性疾患や、一部のビールス性疾患が激減し、昔は手当のほどこしようもなく死んだであろう生命を救った医療面等、人間が自然淘汰を受ける機会を極めて少くして来た事は事実であり、科学が人間に与えた功績の大きなものの一つである。このような点に関する限りは、科学は確かに大きな貢献をしたと言える。

 しかし、ここで考えたい事は、科学は人間の身体そのものを本質的に改善するような力をもっているのかどうか、と言う事である。他面では、無数の成人病患者や不健康な人をつくる事に手をかす矛盾を犯して来ている。現在、文明病といわれる身体的疾患を考えると、その点では科学は無力である。

 すなわち、自然の法則を無視した人工化により、偏よったり誤まった生活環境によって、長い年月を経て徐々に発病したものに特効薬等がないのが当然である。

 このように思いを致せば、我々は公害や資源の問題と同様に、いな、それ以上に失われつつある健康を取り戻すために、科学を良い方に活用し、自分の手で健康を創ってゆかねばならない必然性に迫られているのが現実ではなかろうか。

 それは単なる目先的な健康だけでなく、我々の生涯を通じて長期的な観点から、健康の問題をじっくり考え、対処すべき事が絶対に必要であり、生涯的な健康を得るためにはどうすればよいのか、健康をつくる原点はどこにあるのか、この2点を良く考えるべきである。

 要は「バランスのとれた食餌を適量に食べ、鍛える人」だけが、健康ですごせるように自然の法則が出来ている。「滋養のあるものを沢山たべて、無理をしない事」が健康になる条件だと言うような、現代の迷信は打破すべきである。現実をありのままに見つめる事による以外、その本質を知る事は出来ない。また、その本質をつかむ事なしに、根本的な解決の糸口を見出す事も出来ない。現実をよく見つめる事が先決であろう。

 現代社会は、あまりにも巨大化し、機械化され、また細分化され過ぎたため、時代の変化と共に益々複雑となり、物事を遂行してゆく上に最も大切な「現実をありのままに見つめて、その本質をとらえる」と言う事が困難になって来ている。この事は健康に関する問題だけでなく、あらゆる面についても同じ事が言えるようだ。

 では何故に、本質を見極める正しい思考や、判断力が充分に発揮されないのであろうか。その原因と考えられるものについてのべてみる。

 第ーに、我々を取り巻く生活環境が極度に人工化され、身体的な作業や行動が減少し、それによって人間が動物として持っている機能が鈍化して来ていること。

 第二に、人間の欲望に対する弱さが何かにつけて安易な方に進み勝ちなこと。例えば、朝寝坊をする、夜ふかしをする、冷暖房した部屋にこもる、酒を飲みすぎる、煙草を吸いすぎる、食べすぎる、近い所でも車を利用して歩かない等々、健康に悪い習慣はすぐに身につく。一度習慣となると、治すためには大変な苦労を必要とし、仲々なおらない。その一方、健康に良い習慣はよほどの努力と、それなりの期間をかけなければ身につかない。

 すなわち、健康によい習慣を身につける事の出来る者だけに、健康で暮せる自然陶汰の法則が見られる。

 第三に、社会の細分化、分業化が、それぞれに附随する学問、経済産業等の専門化、細分化に進み、その部分、分野にのみ重点が置かれ、全体としての中に位置づけがおろそかとなり、その結果、物事が本質で語られ、論じられ、処理されるのではなく、その部分においてのみ、時には枝葉未節の事だけが誇張して論じられる傾向になって来ている。極端な場合には、本質と部分がすりかえられ、社会をまかり通る現象が起きてくる。この本質と末梢を混同する誤ちが、現代の大きな特質のようであり、あらゆる面に見られる現象である。

 第四に、あまりにも情報が多すぎる事である。毎日我々の耳や目に入ってくる無数の情報のほとんどが、その事柄についての本質的なものではなく、部分的なまたは枝葉末節的なものが多く、時にはコマーシャル的であったり、作為的なものまであり、余程の判断や思考力を持っていない限り、情報洪水に巻きこまれて、その時、その場だけの情報に右往左往させられてしまう。

 これら四つが、単独、あるいはからみあって、本質と枝葉末節とを混同させている。例えば「米は健康によくない、パン食がよい」と言う事を誰かが言うと、この情報は巨大な流れとなってたちまち日本中に流れ、これに迎合する一部の人たちがさらにこれに拍車をかける。

 しかしこれは本質をついていない情報の典型である。確かに精白米の過食は害があるだろう。しかし、過食の害はパン食でも同様である。両者を栄養学的にその本質を見た場合、何の優劣もない筈である。

 我が国のような米産国では、パン食よりむしろ米食の方が経済的であり、米には胚芽米として簡単に良質に出来る点もあり、貯蔵等も楽な点ではパン食より勝っているとも考えられる。また、重湯とか、玄米スープとか、白粥等その利用面でも栄養面でも、パン食よりは便利、有効な面もある。だが、これらの利点も、食事全体や、健康や、主食としてのいろいろのものとの見地から見れば部分的な事である。

 テレビ・新聞等の料理番組などで取りあげられる健康食、スタミナ食、自然食等々と言われるものの料理を見てみても、数字と科学的な表現に重点がおかれ、実際の効果とか、実行性と言う点から疑問に思われるものも多々ある。特に健康食などと言うものを考える場合、1日や2日食べるものではなく、原則として半永久的に続ける所に意義があるものである。

 その内容が何であれ、やたらと数字や科学的な表現をしないと、聞く方が納得しない傾向があり、いつのまにかマスコミに洗脳されてしまって来ている。

 要は、今までの食生活の中で、ただその量を、また質を、時には両方を少し訂正すればよい健康食を生みだすもので、何も特別な献立表をつくる必要はない。

 「健康をつくる栄養の本質は、栄養的バランスの取れた食事をし、それを過食しない事」と言う、実に分り易い事である。「科学や医学が進歩し、栄養も豊富になり、平均寿命も延びている」しかし、環境汚染、自然破壊、栄養過剰、ストレス、運動不足等々、不健康につながる要素があまりにも多く、いつの間にか不健康になってしまう可能性が多い。


 そこで、健康を保っていくためには正しい知識とその実行が必要、かつ欠かせないものとなってくる。

 健康がすべてではないと言う人があるかもしれない。しかし健康が何より大切になって来ている事だけは確かであり、これを否定する人はない筈である。このような世相の中で、ウェイト・トレーニングを中心とした体力づくりを指導する者は、自己のおかれている立場の位置づけや、身体運動に関するいろいろな科学的研究の成果を、部分的でなく全体としてとらえる事を心掛け、実際の指導面に役立ててゆかなければならない。

 そのためにも自己の生活や体験について反省し、自分の身体について考えると言った主体的で健全な身体観を持ち、単なる運動技術だけでなく、運動を通して健康なからだづくりに対する意欲と、目的意識を育てると共に、科学的、合理的な技能、知識や考え方を学びとり、諸科学を基礎とし、実証的に実践を進めてゆく事が必要である。

 つまり、単なる個々の運動技術のコーチでなく、身体運動文化の推進者のー員としての自負と努力が求められる。

運動文化の本質とは

 合理的な運動の実践や、心身の健康についての理解を深め、健康の増進、体力の向上を図り、社会生活に必要な行動のしかたを追求する事が本質である。ーロで表現すれば「心身の健康の追求」である。

 この本質を構成する基本的な骨組は

①基礎体力の追求――適切な運動によって、身体的発達や行動力を高めていく事項
②身体的活動の技術の追求――身体運動における動きの技術の合理的追求
③社会的な態度の追求――運動実践面における行動のしかたの追求
④運動処方の追求――健康、安全等の知識の追求
 これら4つに大別出来、その内容をさらに細分すれば次のようになろう。


①の事項に関しては――
 イ:身体を動かす力としての筋力に関する問題。
 ロ:身体運動をコントロールする要因としての敏捷性、巧緻性、平衡性、柔軟性等に関する問題。
 ハ:身体活動を持続させる要因としての筋持久カ、全身持久カに関する問題。
 これらの3つの要因について、身体の働きを維持し、または向上させ、その能力を高める事を直接の目的として、徒手あるいは器具等を用いて実施するように、人為的につくられた運動を通じて養われるものである。


②の事項に関しては――
 歩く、走る、投げる、泳ぐ、跳ぶ等の運動や、連けい動作、協同動作、操作技術等の要素をもった、生活に必要な基本的動きや、自分の身体を自由に動かせる能力に関した内容をもったもので、人間の基本的な欲求から自然発生的に発達して来た、いわゆるスポーツであり、これも個人競技的なもの、集団的チームプレーを必要とするもの等、運動を取り巻く環境により、社会的な行動のしかたが体得されるものである。

 また、自己表現の欲求から発生した創作活動もあり、感情や考え等をリズミカルに、またテンポある動きで、あるいはタイミングよい動きにより、身体活動で表現するもので、踊りとかダンスと言われるものも含まれる。ボディコンテストにおけるポージングはこれに当ると考える。


③の事項に関するものは――
 スポーツ活動をする事によって、仲間が出来、連帯感が培かわれる等、運動実施への参加の態度とか、運動成果をあげていくために他との協調性とか、計画性とか、貢献性とか、正義感、責任感等を内容とした、継続的に定着するような活動を推進する事を、どのようにとらえているかの問題。


④の事項に関するものは――
 運動やからだについての科学的知識とか、安全に実施するための傷害防止等に関する知識の追求。

 以上、これらの骨組みをふまえた上で必要な知識を自分のものとして消化し、各種運動がどの体カ要因に関係したものであるかを、その運動の特性として捉えてゆく事が必要である。

 運動の体力増強に対する効果は、その行い方によって変るものである。故に、運動を体力的な側面から特徴づける事も意味のある事で、これらの知識を身につける事は運動を処方する上で大きな要因である。

 ΧΧΧΧΧΧΧΧ

 以上の様に考えてくると「丈夫な身体をもっていると言う事と、身体をうまく使うと言う事は別であり、身体をうまく使うと言う事と、身体について知っていると言う事もまた別である」と言う意味や、「運動やスポーツが上手に出来ると言う事と、運動やスポーツを正しく理解し説明出来ると言う事も別である」と言う意味が理解出来よう。運動やスポーツを論じ、運動やスポーツを考えると言う段階になると、いろいろな基礎理論や、運動やスポーツの歴史的な変遷を抜きにしては考えられない事に気づくはずである。

 実際に運動やスポーツを実施する側と、これを研究する側との交流があって、はじめて奥深い真理を求める事が出来、実際に役立つものとして真の価値が見出されるものである。

 指導するに当り、一人ー人の練習者に望ましい変化を与えるためには、練習者が、どのような欲求にもとづいて練習しようとしているのか等、一人ー人について理解し、どのような運動処方をなすべきかについて、指導者の科学的知識の綜合的な判断が要求されるもので、ここに科学的知識と実際面における体験とが結びついて、はじめて良い指導が出来るものである。

 練習しようとする者は、健康づくり、競技者としての基礎体力づくり、または、コンテストやパワー大会におけるチャンピオンを目指してとか、自己の競技の記録向上のため等々、各々目標が違うはずである。故に指導に当る者は、体力づくりや健康づくりとしての運動と、競技としてのけじめをはっきりとつける事が必要である。それぞれに応じた運動の処方なり、指導の要領が必要になってくる。

 何年間経験があるのだからとか、ボディコンテストで優勝したからと言うだけでは不充分である。もちろん経験は大切である。しかし必ずしも年を重ねた経験が多いと言うだけでなく、その経験が、どれほど的確性を持っているかと言う所に問題点がある。これは経験の量の問題でなく、質の問題である。即ち、経験を如何に研究的に、常に処理しているかに依って決ってくる内容の問題である。

 練習しようとする者は、目標は常に現在より高いレベルにある。そこにむけて、無駄な活動を少なくし、出来るだけ能率的な活動をさせなければ指導者とは言えない。何が無駄であり、どのようにすれば能率的になるのか、それには普遍的な科学的法則に照した知識と、豊かな経験をもった綜合的な判断がなければ充分と言えない。

 即ち、練習者が期待し、受け入れるような内容の指導が必要である。ここに指導技術とか、説明技術とか、人間的なふれ合いが必要になってくる。

 しかしこれらの事は簡単に身につくものではない。だが一つ一つ実行にうつしてゆく事により、体験しながら、その正しさを実感してもらいたい。指導と言うものは、様々な要因が重なり合った全体的なものである。各要因だけとか、または単なる要因の寄せ集めではない。各分野における科学的研究が如何に進歩し、それらの知識を持っていても、それを実際面に活用適用しなければ意味がない。

 このような意味で、指導者のみならず、健康に向って、体力づくりに真剣に努力している人が、その途中においてこのテキストが何らかの役目を果たしてくれるなら私にとって望外の喜びである。次回より運動生理とトレーニング理論を噛み合せてのべていく。

知っていると有利
 ☆腹八分目に食べよう☆

 よく間違いやすいことだが、腹いっぱい食べれば体が大きくなる、と無理に食事を食べる人がいる。母親が子供に強制している風景もよく見られるが、われわれの栄養は、ある程度以上の食いだめはできないのでたくさん食べても、その多くが排便されて無駄になってしまう。

 それだけではない。不思議なことに、胃腸はゴム風船のように伸び縮みが自在なので、いつも満腹になるまで食べている人は、食べ物が胃にいっばい詰めこまれないと食べた気がしない。反対に少食の人は、少しの食事でも満足できる。

 胃の中をいっぱいにして、腹が出っばるほど食べると、脳の働きがにぶり、気分が悪くなる。長命の人に聞くと、若いときから腹八分目を守ってきたと答える。食べすぎない注意も必要だ。


 ☆中性脂肪☆
 砂糖やぶどう糖、あるいは果糖をとりすぎると「中性脂肪」に変わり肥満をおこしたり、成人病になったりするといわれる。カロリーをとりすぎたときに、この化学変化がおこるのは事実である。誰でも一度はカロリー計算をしてみる必要があるが、激しいトレーニングをする選手にはこんな心配はいらない。食べたらすぐにエネルギーに変わるからである。

 中性脂肪とは、脂肪酸とグリセリンがエステル合成してグリセライドとなったもので、ふつうは脂肪が体内で分解されて腸壁をとおり、ふたたび血管で中性脂肪に変わる。エネルギー消耗とカロリーのバランスがうまくいっているときは気にしなくてよい。


 ☆1目に何度も食事をしよう☆
 「やせたい」という人からよく質問を受けるが、朝食抜きはあまり効果がないばかりか体にも悪い。われわれの体は活動する、しないにかかわらず、つねに変化している。朝食を抜くと、夜7時から翌日12時まで、ほぼ17時間何も補給しないことになる。そして7時間後に再び夕食ということになる。このように不規則な波ができてはならない。発育のめざましい赤ん坊や子供のように、空腹になることに少量ずつ食べるのが最上だ。

 中国では主な食事と間食を入れて4~5回の食事が珍らしくない。上流社会では7~8回になることもあり、長夜の宴という言葉も事実だといわれている。


 ☆まるごと食べよう☆
 魚の中でどこに栄養があるか?まず魚の皮には、カロリーの高い脂肪のほかに、ビタミンA・B2・D・Kなどがたっぷりある。また内臓には体の発育に必要なアミノ酸・ビタミン類・ミネラル類が多い。骨にはりんやカルシウムが含まれていて、丈夫な骨格や歯をつくるほか、気分のイライラをなくしてくれる。魚の肉は筋肉なのでタンパク質は約20%含まれているが、この部分にはビタミンやミネラルはあまりない。

 魚ばかりでなく、米も、ぬかをとらない玄米のほうが栄養が豊富。りんごやトマト、じゃがいも、さつまいもなども皮ごと食べたほうが、ミネラルやビタミンが多い。あずきやそら豆、ピーナッツなども皮までバリバリ食べるのがよい。
(健康体力研究所・野沢秀雄)
月刊ボディビルディング1977年4月号

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