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☆ビルダー・ドキュメント・シリーズ☆②
“驚異の人” 石田秀夫

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月刊ボディビルディング1977年4月号
掲載日:2018.08.20
健康体力研究所 川股 宏
 石田秀夫?そんなビルダー聞いたことないなあ。雑誌の新人紹介にでも出てた人かなあ?おそらく、読者の皆さんは始めて聞く名前であろう。

 その彼が、どうして?雑誌に紹介されるのか?その理由は、彼が読者の皆さんに紹介されるのに十分な体験と資格のある人物であるからであり、ある意味では超一流ビルダーと呼べる人かもしれない。

 「ボディビル」それは立派で見栄えのする体形を作るばかりが目的ではなく、より健康で壮健な体力を養うことも目的のはずである。

 ここに、医者から「あと3年ぐらいの命」といわれ、地獄の底からはい上がった男、石田秀夫の足跡を紹介してみたい。
 石田秀夫 昭和12年10月23日生れ。妻光枝さんと二人暮し。京都銘板株式会社勤務。体重78kg、腕囲44cm、ベンチ・プレス180kg、スクワット230kg。

 「片肺無し、片方の腎臓もまた無し」

 ◇呪われた青年期◇

 石田は子供をみると、苦しかった少年の頃を想い出す。「今の子供はなんて幸せなんだろう。食べたいものがなんだってあるじゃないか!着ているものだって、きれいで、つぎはぎなんか一つもない。それに比べ、俺達の子供のころは太平洋戦争の真最中で、昼夜の別なくB29が攻撃をくり返し、真暗な防空壕の中では、食べ物もなく、子供は、ただ母親の手にきつく抱かれていたっけ。指の先にちょっとついた砂糖の味を知った時、世の中に、こんなにおいしいものがあったのか!と、今考えると夢でしかない。悪夢だったのだ!」と想う。

 その頃、貧しい食糧事情のあおりを受け“肺結核”がまんえんしていた時代であった。しかも、現代ではなんともない結核も、当時は“死神”として恐れられていた。結核患者をみると、親達は「あそこの家に近づいたらダメだぞ!肺病の死神がおるぞ!あそこの空気を吸うな!」と子供に教えたものだ。人々が恐れるのは当然で、死亡率ではガンをしのぐ不治の病の代名詞であった。

 コンコンと咳きこむ口に手をやった時、手は真赤な血でぬれていた。死神が石田少年にとりついたのである。

 「その頃、私は今でいう“病気”になったという感じより、ああ、死神にとりつかれたと思いましたよ。ちょうど、中学3年でしたが、それで少年期の淡い将来の夢もふっとんだ感じでした。それに私のような悪病神を持った親が、かわいそうな気がしてなりませんでした。悪いクジに当ってしまったような絶望感を味ったのも、その時が最初でした」

 鹿児島の田舎でのこと、気がついた時の石田の病状は手遅れ寸前まで進んでいた。「片肺が蜂の巣みたいに結核菌にやられている。むずかしいが、手術してみよう」と医者が言った時、石田は貧しい家庭のことを考え、子供心にも自殺すら考えた。「何度も歯を舌にくいこませました。かみ切ろうと思ったんです!」

 1チイ……2イ……3ン……15……

 だんだん意識が遠くなっていく。手術台の上で数をかぞえていた。エーテルのこの世の臭いとは思えないいやな臭い。気がついた時、石田の片肺はもぎとられていた。

 肉体的ハンディを背負いながらも、石田にも一人前の若者としての青春が訪ずれた。奇跡的に助かった石田が、「大病のあとは、病気はしないという諺だってあるじゃないか」と青春を謳歌していたその時である。

 「心ならず、顔にむくみがきているし、なんか小便も少ししか出ない状態になってしまったんです。最初、疲労かなあと思っていたんです。なんせ疲れるんです。ちよっと動いても疲れる。結核の再発かなあ?とも思ってみたんですが、その内、小便に血が混りだしたんです」

 医者にかけ込んだ石田に「腎臓が相当悪化してますよ。どうして今までほっといたの?手遅れかもしれないよ!すぐ入院して、手術だ!」頭をハンマーでなぐられたような思いがした。このとき石田の心をよぎったものは、「俺は呪われている!」

 再び金属性の冷たいメスの音を手術台の上で聞きながら過ごした数時間後に、石田の片方の腎臓もまたえぐり取られていた。「石田さん、大切にしなさいよ、無理するとあんたの体は3年もたないよ!」と医者はいう。この頃、石田は世をはかなんで自殺を真剣に考えた。「こんな体で生きていてなんになると言うんだ?」その頃、同じ病院で知り合った女性と自殺や人生についてよく語り合ったという。やがて退院。「もし、お互い生命があって生きていたら、3年後、三条大橋で合おう」とその女性と約束したという。その時の石田の体重は47kg位だった。

 ◇ダメでもともと◇

 20代前半の若人である石田は、半ば人生の希望をなくした精神的年寄だった。「あと3年……あと3年……」医者の言葉が耳について寝れない。そんなある日、いきつけの食堂でちょっとテレビに目をやった。……とそこには、石田とは別な人類がいたのだ。

 「いや、びっくりしましたね。筋肉は隆々、100キロ以上のバーベルを軽々とあげていたのがオリンピック金メダルの三宅選手(兄)だったんです。目にやきついて離れない。あんな体を持った人って幸せだろうなあ、と自分の胸に手をやると、ザックリ胸も腹も刀で切りとられた跡があるんです。でも、ようし!死んでもいい、ダメでもともと、どうせすてた命、やってみよう!」と石田はトレーニングすることを決心した。

 自分の持っているあるだけの金で石田はバーベルとダンベルを買った。これがボディビルとの最初の出合いであった。

 弱った体力に軽いバーベルもダンベルもない。たまに訪問するジムの中でやっている人達は別な人種だ!おそるおそる軽く足や手を動かすような運動から始めだした石田は、全然効果がでてこないトレーニングを何度も止めようと思った。その上、20~30分体を動かすと、口もきけないほどクタクタに疲れてしまうのだ。そのころのことを石田は「苦しみました、あの苦しみは言葉や文では言い表わせません」という。

 それでもトレーニングを続けていると、やがて少しずつ、少しずつではあるが次第にパワーがつきだした。体もよくよくみると変り出した。体重もついてきた。

 ◇人生が変った!◇

 朝起きると石田は今日も頑張るぞ!と心に言いきかせる。食べ物を口にするたびごとに、この栄養は腕に行け!この栄養は胸に行け!と、祈りながら食べた。ねむりにつく時も、自分の未来のたくましい姿がはっきりとまぶたに映るようになってきた。本当に人生が変ってしまったのである。死の淵から出発した石田にとって、ちょっとした体力の向上も敏感に感じる。喜びの感動が人一倍だった石田は、喜びが喜びを生む階段を一段一段昇ることになる。

 生きることだけの“どん底”を経験し、健康のありがたさを知った石田の強み、そこには甘えや妥協はない“生きる!” “生きてみせたる!”の一語が石田の心を支配してきた。
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 ◇3年後、三条大橋◇

 体重65kg、腕囲32cm。彼女は全然気がつかない。「こんにちは!石田です。お互いに生きていましたねェー」「はあ?あなたは?そういえばどこか似てますが?弟さんですか?」とその女性は石田の変化を信ずることができなかったのである。

 今日の石田の体は冒頭のようなサイズとパワーを誇る。この陰には3年間にわたる自分の身体を克服するための血みどろの努力があった。また、彼を励ました友人達がいた。最初テレビで見た三宅選手とは「今でも親しく交際やら文通させてもらってます」といっている。また吉村選手や宮畑選手には「そりゃもう太一ちゃんのボディビルに対する打込み方は他人にはちょっとまねできません。私には良き先生でした。宮畑さんは同じ鹿児島出身で、お互いの身の上を知った時、同県人同志、ようやるなあ、と友情を確かめ合ったものです」と良い友人の力のお蔭にも感謝している石田である。

 ◇真のボディビル◇

 新聞や雑誌の闘病記や克服記を読むと「私はこうして病魔を克服した」とか「○○療法の効果の実態」とかを目にする。この人達の成功例も勿論、目をみはる驚異的なものに違いない。節制と精神力と努力を積み重ねて健康を獲得した人達だ。

 石田はボディビルのトレーニングを通じて病魔を克服した。そして体力も一般人を越え、体形もビルダーらしくなった。そして現在、ベンチ180kg、スクワット230kg、腕囲44cm、パワーもサイズもついに一流ビルダー並みに到達したのである。

 読者の中には「世の中広いさ、なかにはそんな奴もいるさ!」とか、「練習時間に余裕があるんだろう?」とか言う人もいる。だが、よ~く考えてみよう。片肺、片腎臓の男が!「君がやれるならやってみたまえ!」と……。

 石田は言う。「私はボディビルを運動とは思ってません、神事です!と同時に、意欲や精神力、感動は完全に体のギャップを克服する力を持っています!奇跡は欲望や精神力が変化し具体化したものを言うんですね。私は身をもって体験しました」

 もちろん、この成果は精神力だけではない。トレーニングの方法、食事の方法、休養など、総てにバランスが取れなければ超人的な成果は望めない。一般に体力というと、筋力、スタミナ等、運動に必要な行動的体力を意味しがちである。だが一方に忘れてはならない体力がある。“丈夫”という言葉でいわれる強い内臓、あるいは毒物、感染などを防ぎ健康を保つ体力である。これがミックスされたものが真の体力ではなかろうか!

 ボディビルは、ともすれば、前者の体力作りの手段と考えられ、体形作りの愛好者と誤解を受けがちである。しかし、この主人公、石田英夫はみごとにボディビルの真価を証明し、ボディビルで総合体力を作り「改造人間」に変身したのである。

 「私はボディビルは最高の運動方法だと思いますね。ただし精神力と一緒になることが条件ですが……。私はボディビルディング誌をむさぼる様に読みます。いろんなヒントや刺激、知識が得られますよ」と心から石田はボディビルに感謝しているのである。

 ◇精神力の秘密◇

 行動の対象は、どんなことでも、結果的には成功と失敗に区別される。そして失敗も成功も、なにかしら精神力というものに大きく左右されていることがわかる。

 成功を分析してみると、そこには一つのパターンがあるように思われる。石田を例にとり、その秘密を探ってみよう。


 <成功のパターン>
①動機=三宅選手のイメージが、「あんなになれたらなあ」と、弱い体質の石田に強烈に焼きついた。
②欲望=「健康になりたい!」
③行動=「死ぬよりましだ。ダメでもともと!やってみよう!」
④成果=「うれしい!少しずつ体が変って来た」
⑤計画=「やればやれるんだ!ようしもっと効果をあげるために、実行できる確実な計画を立てよう!」
⑥熱中する=1日中、ボディビルのことが頭から離れない。他人が「あいつは朝から晩まで、ボディビル、ボディビル、何を言ってもボディビルだ!と言う。どんな成功者にもその目的に対して「きちがい扱いされた時代」が必ずあるものだ!とにかく熱中せよ。

 私は、こんな体験をした石田はある意味で幸せだと思う。体作りの体験に酔うことなく、一生通じての仕事を大きく開いていく事を望む。そして必ず、どんな難関でも突破し成功へ変える力のある男だと信ずる。(敬称略)
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月刊ボディビルディング1977年4月号

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