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ボディビルと私〈13〉
"根性人生"

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月刊ボディビルディング1974年5月号
掲載日:2018.08.29
東大阪ボディビル・センター会長
元プロレスラー 月影 四郎

 愛弟子門屋君が大阪協会理事長に

 この原稿の筆をとり始めたとき,突然,私のジムに電話がとび込んできた去る3月9日のことである。この日開かれたJ B B A大阪協会の理事会で,武本現大阪協会理事長辞任に伴う役員改選で,私の道場主任コーチ・門屋君が全会一致で新理事長に推挙され,私に了解を得るための滝川コーチからの電話だったのである。もちろん,私の愛弟子が理事長という重要なポストに推挙されたということは,人格,識見を見とめられたからであり,私としても異論があろうはずがない。

 武本現理事長のボディビルに対する研究と実績,情熱あふれる指導力は,大阪のみならず日本ボディビル界にとってもかけがえのないものであったが武本氏が将来をかけて,かねてからの計画を実行するため,どうしても辞任したいとの強い希望で,佐野大阪協会会長をはじめ関係者だちからの慰留もむなしく,借しまれつつこのたび辞任されることになった。

 さて,こうした協会の理事会報告を耳にして述懐したことを今回は記してみたい。

 東西二大協会時代

 今日のような信頼される立派な協会が出来るまでには,多くの屈折と困難があった。資金面,普及面ともにいろいろな問題をかかえる協会の運営は,役員の方々の並々ならぬ努力と,個人の仕事や生活を犠牲にした献身的な活動によって支えられてきた。

 ふりかえってみると,私が国際シネマでレスリング教室に専念していた昭和32年に,当時毎日新聞運動部長だった谷口勝久氏,大阪ボディビル・センター会長・松山厳氏,それに初代会長に就任した中村広三氏等によって関西ボディビル協会が設立され,その年,第1回浜寺コンテストが行われたと記憶している。

 その後昭和37年までこの浜寺でコンテストが行われ,昭和38年には服部緑地公園へと会場を移した。そして,昭和39年,関西ボディビル協会も,協会活動自体を全日本コンテストに合わせて,全国組織として活動すべく発展的解消して全日本ボディビル協会として新たな一歩を踏み出した。

 こういった経過も文章にナればごく簡単なようであるが,その過程においてはいろいろな運営上の問題,日本ボディビル界の将来の問題等,幾多の困難を乗り越えてこられた関係者の苦労は大へんだったと聞いている。

 東西一本化ついに成立

 さて,こうして全日本ボディビル協会が正式発足し,にわかに日本のボディビル界という大きなテーマを踏まえて,新たな構想のもとにいろいろの企画が立てられた。そして,昭和39年度のミスター全日本コンテストでは,前号でもふれたように,かつて見たことのない大規模なコンテストとなったのである。

 一方,関東勢はどうであったか。別表に示したチャンピオン年鑑を見ていただければわかるように,着々とその規模を拡大し,すでに12回ものミスター日本コンテストを閧催していた。

 こうして東西二大協会は基礎を固め西側においてはミスター日本よりも,東側においてはミスター全日本よりもという自負と,互いに良い意味でのライバル意識が盛りあがって,その活動も一層活発になった。

 しかし,日本で本格的にボディビル運動が始まってやっと10年を過ぎたばかりであり,さらにこれを全国民的な運動にまで盛りあげるにはどうしても東西二大協会を一本化し,より強力な組織をつくりあげる必要があった。私自身,協会の役員でもなく,どちらかといえば野次馬的立場であり,いまごろ何を申すかと,おしかりを受けるかも知れないが,このような客観状勢の生まれてきたことはよく理解できた。

 こうした動きに支えられて,東西一本化に対する具体的な話合いが進められていった。そして昭和42年1月19日日本ボディビル協会側から田鶴浜副会長,玉利理事長,浅野,遠藤両常務理事,全日本ボディビル協会側から松山副会長兼理事長代行,小野,河,松本各役員が出席し,名古屋にて第1回会談が実現した。その後数回におよぶ会談を重ね,ついに同年7月3日,毎日新聞大阪本社において八田一朗,中村広三両会長の一本化の共同発表となったのである。そして,名称を日本ボディビル協会とし,会長には参議院議員八田一朗氏が就任した。

 以上,門屋君が新しく大阪協会理事長に就任するにあたり,日本ボディビル協会の歴史にはこうした重みのあることを,あらためて認識していただきたいと思い,これまでに書いたことと重複する部分もあったが,あえて記した次第である。

 一段とスケールの大きくなった第5回全日本コンテスト

 話が前後するが,前号に引き続いて1965年度(昭和40年)第5回ミスター全日本コンテストの思い出に移ろう。

 この大会は,9月のよく晴れた秋分の日,毎日新聞社,大阪府,大阪市,豊中市,そして豊中市教育委員会後援のもとに行われた。

 昨年の第4回大会には百名余というかつてない多数の出場選手だったが,この大会もまた,日本各地から集まった選手の数は120余名を数え,大阪府警音楽隊の演奏する勇壮なマーチと,五色の風船とハトの群,晴れ渡ったのどかな青空にはアドバルーンをあげ,これから始まる120余名の熱戦を待ちかまえる数千の観衆の熱気,スケールは昨年よりさらに一段と大きいものになった。

 また,この大会には新しい趣向がこらされていた。その1つは,身長によりタイガー・クラスとドラゴン・クラスに分け,それぞれのクラスから3名ずっを選出し,その6名によって最終審査を行なったことである。外国のコンテストでショートマン,ミーディアムマン,トールマンとに分けて審査している方法を採用したのである。

 そのほか,当時の役員たちが,いろいろ外国の運営方法や技術をよく研究し,少しでもボディビルが一般阯会人に受け入れられるようにと努力したことが,このコンテストを通じても随所に見られた。

 第1次審査が終わり,24名が第2次審査に勝ち進んだ。この中には小斉平('71ミスタ・一日本7位),徳弘('70ミスター日本7位),金沢,小笹,中尾 ('68ミスター日本3位),市丸(パワーリフティングL・ヘビー級チャンピオン),鈴木正広('67ミスター日本7位),磯部(本誌゛チャック・サイプスのすべて″の訳者),武本,東,後藤各選手のように,その後も長く活躍しているなつかしい顔ぶれがいた。

 決勝に進出したのはタイガー・クラスでは小笹,東,坂田の3選手,ドラゴン・クラスでは武本,金沢,後藤の3選手であった。結果は,前年に引続きデフィニション抜群の小笹選手が栄冠を獲得,2位には前年3位の武本選手。3位は金沢選手と同点決勝のすえ東選手が選ばれた。
日本ボディビル・チャンピオン年鑑

日本ボディビル・チャンピオン年鑑

 タイガー・クラスで決勝に残った坂田勝彦選手は,大阪で板前をしていた異色ビルダーだったが,そのあとで,若くして命を自ら手で散らした有名な事件を起こしたが,この日に見た逞しい元気な彼の姿からはとても信じがたい出来事だった。

 努力と研究でその地位を築いた 武本蒼岳選手

 前年度の第4回大会で3位となり,この大会で第2位を獲得した武本選手についてちょっとふれてみたい。

 武本選手は当時,今里ボディビル・センターのコーチとして会員を指導しながら,自らもコンテスト・ビルダーとして活躍していた。とくに,トレーニング技術の研究と抜群の指導法は全国に知れわたっていた。外国の文献などもよく勉強し,しかもそれを自分自身で体験するという,実行型本格派のビルダーとして早くから私も知っていた。

 その中でも,とりわけ彼の脚のトレーニングには定評があった。この大会でも,その見事な脚は他の追随をゆるさなかった。もちろん,彼は1968年度のミスター・ワールド・コンテストでベスト・レッグ賞をとり,世界一の脚として認められたのだから,当時の日本選手で彼に対抗できるはずはない。

 当時,武本選手は競輪選手の逞しい脚からヒントを得て,荷台の大きな頑丈な自転車に乗って大阪中をかけ廻ったり,ときには古タイヤを引きずりながら坂道をこいだりして脚を鍛えたという。

 天性の素質に加えて旺盛な研究心と努力の成果は着々と実を結び,翌年の第6回全日本コンテストでは優勝,そして1970年には念願のミスター日本となったのである。
[人格・技術・身体の三拍手そろった武本蒼岳選手]

[人格・技術・身体の三拍手そろった武本蒼岳選手]

 もちろん彼は,自分自身の体を日本一にしたばかりではない。後輩の指導にもすぐれ,さらに,日本ボディビル協会常任理事,大阪ボディビル協会理事長という運営面においても抜群の手腕を発祥した。とかくボディビルダーは黙々と自分一人の練習に走りがちで若い人を寄せつけない人が多いが,武本選手はこういった点でも極めて優秀な指導者である。彼のように人格,技術,身体の三拍子そろったコーチを私は見たことがない。

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 こうして協会一本化を前にした第5回ミスター全日本コンテストは,規模においても選手の質においてもいままでにない充実した大会であった。それと同時に,ボディビルそのものが一般大衆に浸透し,愛好者の底辺が拡大されつつあることがこの大会を通じてよくわかった。

 これを期に、私は自分自身の道場をさらに飛躍させ、社会体育の一翼をになうべく夢を走らせたのである。
(つづく)
月刊ボディビルディング1974年5月号

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