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★ビルダー・ドキュメント・シリーズ★
中尾達文のパワー人生
―――努力と汗の足跡―――

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月刊ボディビルディング1977年9月号
掲載日:2018.05.01
<川股宏>

◇苦節八年,ついに世界新◇

たまたまパワーリフティング大会の会場に来て見学していた空手女優として今や人気絶頂の志穂見悦子さんに,ボディビルが健康や体力づくりに素晴らしい効果があることを体験や実技をまじえて話している自分自身に,中尾は体の芯からファイトが燃えてくるのを感じた。
 「体調も申しぶんないし,今日はすごい記録が出そうだ! だがまてよ,体調が絶好調で,一発,大記録を狙ったときに限ってあまり成功したためしがない。落ち着け,客ち着け!」 と,はやる気持を押えた。
 この美人女優と話し合っている休憩時の少し前, 中尾はスクワットで227.5kgのミドル級日本新をマーク,
後半のベンチ・プレスとデッド・リフトに闘志をかきたてていた。
一一去る5月29日. J PA主催第6同全日本パワーリフティング選手権大会の行われた, スポーツ会館でのことである一一一
「ミドル級中尾選手。中尾選手は4回目の特別試技でベンチ・プレス183kgの世界新記録に挑戦します一一」遠藤光男氏のアナウンスが流れた。場内は一瞬水を打ったように静かになり,全員が中尾選手の一挙手一投足に注目する。
 中尾選手はいつもの癖で両脚を手でピシャ! ピシャ!とたたいてやる気を確かめ,ジーッと静かに目をとじる。
「ここ数カ月,この大会の晴れがましい自分の姿を想像してトレーニングに励んできた。そしてようやくつかんだ世界新記録達成のチャンスだ。この一瞬のために,たったこの一瞬のよろこびと感激のために,俺は頑張ってきたんだ。絶対にこの一発を挙げよう。誰のためでもない,自分の青春と人生のために必ず挙げてみせるぞ!」 と,最後の自己暗示を心に言い聞かせ,中尾は静かにベンチに横たわった。手幅を決め,大きくひと呼吸し,バーベルを握る。グッとくい込むような重量感がある。長年の経験で,この一瞬の感触で成功か不成功かはだいたいわかる。「しめた,いけるぞ!」 あとは夢中で全身のカを上体に集中していっきに押し上げた。白旗が3本,サットが挙る。「やった!やった! 世界新だ!」 観客席からいっせいに拍手と歓声が起こる。
「よかった,今まで何度かくじけそうになったが,その苦しさに負けずにやってきてよかった!」と中尾の脳裏をいくたの思い出がスクリーンに映し出された映像のようにかけめぐった。
「この健康と勝利のよろこびをもっともっと多くの人に分けてあげよう。そして, どんなに経営が苦しくとも高松トレーニング・クラブのオーナーとしてやり抜こう」と,中尾は決意を新たにした。
去る5月29日、JPA主催全日本パワーリフティング選手権大会で183キロのミドル級ベンチ・プレス世界新記録を樹立した瞬間

去る5月29日、JPA主催全日本パワーリフティング選手権大会で183キロのミドル級ベンチ・プレス世界新記録を樹立した瞬間

◇負けず嫌いの少年◇

よく世間の人は"カが強い" というと「あああれは生まれつきさ」というように,いとも簡単に努力やトレーニングの重要性を無視しがちである。あの有名な江戸時代の力士,雷電為右エ門は,生まれて間もなく石ウスを引きながらハイハイしたなどと語り伝えられているように,とかく日本人は傑出した人に対して"生まれながら的見方"に片よる傾向がある。
 では,現代の世界的カ持ち中尾は,どうだったろうか。彼の生い立ちから紹介することにしよう。
中尾は昭和23年3月14日,徳島県那賀郡鷲敷町大字仁宇で生まれた。阿波踊りで有名な徳島市から山奥へ50キロも入った小さな山村である。彼の生家はそこで木炭の商売をしていた。
 中尾は小学校,中学校,高校を通じてスポーツらしいものは何ひとつやったことがないという。ごく普通の小柄な平凡な少年だった。
 ただ「私は相撲は強いほうでした。性格としては子供の頃から負けず嫌いだったですね」と言うが,小さな山村で相撲が強かった程度だから,将来,世界的な力持ちになるなんて,おそらく中尾自身も想像すらしたことはなかったにちがいない。
 中尾の"世界新"をつくった裏には彼の性格が大きく影響しているように思える。その性格とは,まずねばり強いこと。一度目標を決めたら,とことんやり抜く。また,目標も漠然としたものではなく,あくまでも現実的なものを選ぶ。この性格は,まさにボディビルにはぴったりである。私は心の底から納得しないかぎり,自分の信念を曲げたりしません」と彼もはっきりいっている。

◇名城大学に入学 ボディビル同好会創立◇

高校を卒業した中尾はその年の大学受験に失敗した。苦しい敗北感と腎臓炎という病魔を克服して1年後,名城大学法学部に入学した。しかし,晴がましい入学時の心境もつかの問,現実の学生生活はそんな楽しいものではなかった。
「当時の我が母校"名城大学"は悪名高き"花の応援団"顔まけのバンカラ応援団や空手,拳法,ボクシング等の硬派クラブが幅をきかせていたものです。
"新入部員募集""若人よ来れ! 我が空手部へ"といったポスターが派手にはられ,新入生を盛んに勧誘していた。いまと違って身長163cm, 体重50kgそこそこの小柄な弱々しい私を,どういう風の吹きまわしで感違いしたのか『おいお前, ちょっと部室へ来てくれ!』とボクシング部へ強制連行されてしまった。『ようお前! いいアゴしとるのー,そんなアゴがボクシング用のアゴちゅうんだ。サンドバックより強そうやでェ。早よう入部のサインせんかい』とおどされたり,すかされたりして勧誘されたんです。
 結局,その部室に8時間ほどとじ込められましたが,私の心は決まっていたのでサインしませんでした。そしてついにテキをあきらめさせました。理由は,どういうわけか格闘技の中でもレスリング,相撲,柔道といったような体力が必要で組技のある運動は好きだったんですが,体力よりも, どちらかといえば技を重視するボクシングや空手は嫌いだったんです。
 それに当時は学費の仕送りも充分でなく,アルバイトと奨学金でやっていかなくてはならなかったので,部活動に精を出すことはできなかったのが実情です。また,坊主頭で長目の学生服を着て"先輩オース!"なんていうのにも違和感をもっていました。
 しかし,大学へ入ったら何か1つ運動をしようと以前から考えてはいたんです。できたらレスリングか相撲がいいと思いましたが, 50kgそこそこの小柄な体では劣等感が先に立って自分からすすんで入部もできず,そうかといって,向うから目をつけてさそわれるほど目立った学生でもありませんでした」
 学校生活にもようやく慣れたころ,中尾にとって好都合のアルバイトが見つかった。養鶏場の仕事である。朝起きてすぐエサをやり,卵を集めて学校に行き,午後学校から帰ってきてまたエサをやって卵を集める。しかも寝起きする部屋までついているのだ。中尾にとって願ってもないアルバイトであり"助けの神"であった。
 そればかりではない。この"助けの神"の隣に"福の神"もいたのである。そしてこの"福の神"は中尾の人生をあらゆる面で大きく変えてしまうことになる。「やはり七福神は一緒にいるものなんだなあ。それにしても俺はどうしてこう燃料と関係があるんだろう」
 中尾がこう考えるのも無理はない。中尾の生家が木炭商であり"福の神"というのが,養鶏場のすぐ近くにある燃料店に関係があるのである。
 燃料店には中尾と同年代の青年がいて,よくバーベルで運動していた。何か手ごろの運動をしたいと考えていた中尾は,さっそく「一緒にトレーニングさせてください」と申しこんだ。バーベル運動は1人でやるよりパートナーがいたほうが何かにつけて好都合である。中尾の申込みは,もちろん二つ返事で受け入れられた。
 しかし,さっきの"福の神"とはこの青年のことをいったのではない。実は,この青年には美しい姉さんがいたのだ。この人こそこの人こそ後に中尾の伴侶となる克子さんで,この姉さんが,つまり"福の神"である。中尾はせっせと燃料店にかよってトレーニングした。しかし,ほんとうはトレーニングよりも"福の神"に会いたくてかよったというのが真実らしい。
 そんな時も時,ボディビルに関心をもっていた学友の1人が「ボディビル同好会をつくって組織的に練習したいんだが一緒にやらないか」と中尾にもちかけてきた。
 「よーし,やろうじゃないか。部長は鈴木正之先生(現日本ボディビル協会常任理事)にお願いしよう」と話しがまとまり,昭和45年2月,名城大学にはじめてボディビル同好会が発足した。そしてこの時から恩師鈴木先生との師弟関係は続くことになる。
「当時,すでに鈴木先生はベンチ・プレスで150kgを挙げ,私たちは驚異的な目で見ていたものです。私の今日あるのは鈴木先生のおかげです」
 その頃の中尾の体格と記録は,身体163cm,体重50kg, 胸囲88cm, 上腕囲29cm ,大腿囲45~46cm。ベンチ・プレス55kg×2~3回,スクワット80kg×1回という,いまの中尾からはとても想像できないさびしいものだった。そして1年後には早くもベンチ・プレスで132kgを挙上している。この1年間の記録の伸びからみて,中尾の熱心な練習態度と素質のなみなみならぬことがわかる。
〔名城大学に入学当時の中尾〕

〔名城大学に入学当時の中尾〕

中尾の恩師,名城大学の鈴木先生はいまもパワー大会やボディコンテストに現役として出場している

中尾の恩師,名城大学の鈴木先生はいまもパワー大会やボディコンテストに現役として出場している

◇中尾選手のパワーリフティング成績表◇

◇中尾選手のパワーリフティング成績表◇

◇体格と筋力の推移◇

現在の中尾のサイズとパワーの記録は次のとおりである。

身体164.5cm,体重72kg (最高77kg)胸囲105cm,上腕囲42cm,大腿囲60cm,ベンチ・プレス183kg, スクワット227.5kg,デッドリフト232.5kg。

 7年半前の体格と筋力の伸びはまさに驚くべきものである。しかもこの伸びが1年1年着実に伸びているのだ。表を見ればわかるようにベンチ・プレスは5年目の5kg以外は毎年10kgずつ記録を更新している。スクワットは6年連続10~20kg ずつ更新している。このような点からも中尾のどこまでもやり抜く信念の強さがわかる。

◇ジム経営を決意◇

話をもとに戻そう。燃料店の小町娘克子さんとの愛情は順調に芽ばえていった。直情型の中尾にとって,義務と責任をもった真剣な恋であった。その証拠に,昭和46年3月12日に名城大学を卒業し,10日後の3月21日には早くもも結婚式をあげて人生の第一歩をふみ出した。聞くところによると中尾のパンプ・アップは人一倍早いそうだが,ラブ・アップもまた早かった。
 良き人生の伴侶を得て社会に出た中尾は,鹿島建設の子会社である鹿島道路に就職した。2カ月の本社勤務のあと,高松支店に配属された。生まれ故郷に近いせいもあって,中尾は水を得た魚のように高松での生活はいきいきしたものだった。
 卒業式, 結婚式,職就,転勤とめまくるしかったこの2カ月間,ボディビルのトレーニングどころではなかったが,ようやく格ち着いてくると,自然に体がむづむづしてくる。どこかトレーニングするところはないかと探してみたが高松には見あたらなかった。
 そこで中尾が目をつけたのが会社の屋上である。ある日,思いきって中尾は「支店長,会社の屋上の一部を貸してください。退社後,ボディビルのトレーニングをやりたいんです。新入社員のくせになまいきですが,どうかお願いします。決して会社にご迷惑はかけません」と頼み込んだ。
 スポーツに理解のあった支店長は,心良く屋上を使うことを許可してくれた。早速,少しばかりの器具を運び込んで中尾は1人でトレーニングを開始した。
 これを見て,会社の同僚や近くの若者たちが集まってきた。「よーしひとつ同好会をつくってやろう。何人かで励まし合って練習したほうが効果もあがるだろう。そしてもっと若者に呼びかけてみよう」と, 46年9月に正式に同好会として発足した。
 たちまちのうちに会員は20人近くなり,夕方から会社の屋上はトレーニングする若者でにぎわった。しかし,これがかえってアダとなってきたのである。会社の上司ははっきりいわなかったが,新入社員の分際で,会社の屋上を無料で借りて, 連日トレーニングしていることに対して, きっと心良く思っていないに違いない, と中尾は考えた。そうかといって,いまさら同好会を解散することもできないし,だいいち中尾自身の生活の一部にボディビルは完全に組み込まれてしまっている。「会社をとるか,ボディビルをとるか,なあ克子。俺はどうしてもボディビルを捨てることができん。この際,同好会の気の合った仲間とジムをつくって独立したいと思うんだが, どうだろう」と心境をうちあけた。
 しかし,このときにはすでに中尾は心の奥深くジム開設の決意を固めていたのである。
(つづく)
左の写真は,ボディビルを始めて2~3ヵ月後に写したもの。右は鹿島道路高松支店の屋上で一人で黙々とトレーニングしていた頃。

左の写真は,ボディビルを始めて2~3ヵ月後に写したもの。右は鹿島道路高松支店の屋上で一人で黙々とトレーニングしていた頃。

月刊ボディビルディング1977年9月号

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