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★ビルダー・ドキュメント・シリーズ★
“ボディビル・コーチのパイオニア”
照井 進

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月刊ボディビルディング1977年11月号
掲載日:2018.08.01
川股 宏

◇礎の上の今日◇

 「歴史は成功と失敗をくりかえして発展する」という。文化、科学はいうに及ばず、我々の目にふれるすべてのものが、成功や失敗をくりかえしながら今日に至っている。そして、あるものは栄え、あるものは衰退していく。
 目に見ることの出来ない心でさえ、その浄化のために転生輪廻(生まれ変り)をくりかえすという。まして肉体をきたえ、逞しい筋肉と強い体力をつくりあげるボディビルにおいても、当然〝今までの礎〟があったからこそ、今日の隆盛があるのである。その技術や器具はもちろん、食事法にいたるまで、考案され、受け継がれ、改良されて現在のものになっている。
 ボディビルが日本に入ってきたばかりの頃の外国誌にのっている一流ビルダーの写真を見て「なーんだ、この程度なら、俺だって」という人もかなりいると思う。確かに写真で見るかぎりの比較では、それは正しいかも知れない。そして、その何人かは、もしかしてスティーブ・リーブスさえ追い越しているかも知れない。
 が、ここで重要なことは、20年前と現在との時の経過を無視して単純に比較してはならないということである。その当時のパイオニアといわれる先頭に立って進んだ人たちは、試行錯誤をくりかえしながら、研究し、努力し、当時としては目を見はる逞しい肉体を築きあげたのである。その礎があったからこそ、今日の水準が得られたのである。
 昭和20年代に、〝フジヤマのトビウオ〟といわれた古橋選手が出した2000メートル自由型の記録は、いまでは女子選手にさえ破られている。だからといって、古橋選手の水泳界に残した足蹟が消えるものではなく、これからも長く後世に語りつがれていくにちがいない。
 そんな意味で、今回は、日本におけるボディビルの初期と今日とを比較しながら、トレーニング方法の移り変わりや、当時の記録などをふりかえってみることにしたい。
 語ってくれる人は、ボディビル・コーチのパイオニア的存在で、昨年まで日本パワーリフティング協会(JPA)の理事長をされておった照井進氏(昭和5年8月生、現在、モルガン銀行勤務)にお願いした。

◇重量挙時代◇

 私が重量挙を始めたのは昭和24年9月でした。当時、やっと米軍から日本に返還されたばかりの東京・神田のYMCAで何人かの同好者が集まって始めました。今から28年前ですね。私が19才のときです。
 練習は、もちろん重量挙の競技種目であるジャーク、スナッチ、プレスが主でした。しかし、当時でもボディビルディングの基礎種目であるベンチ・プレスやスクワットのトレーニングがあったんですよ。
 ベンチ・プレスは今は大胸筋の運動として用いられていますが、そのころは、プレスの補強運動として、三角筋や三頭筋を強くするために行なっていたわけです。重量挙の練習ですから、とくべつ大胸筋を大きくする必要はなかったわけです。ですから、バーベルの握り幅は狭くて、いまのパワー競技のようなワイド・グリップは用いませんでした。まあ、プレスやジャークの〝息ぬき程度〟に練習していたものです。
 プレスの仕方もいまのようなバーベル・ラックのついたベンチはありませんでしたから、まず、フラット・ベンチに腰かけて、床からバーベルを大腿部にあげ、それからあお向けに寝て、腹の上から胸の方へ自力でバーベルを移動させて、それからようやくプレスを行うというわけです。だから、いくらベンチ・プレスが強くても、大腿部から胸のところまで自分で移動させられる重量までしか練習できないというわけです。
 スクワットも、現在のような専用スタンドがありませんでしたから、まずバーベルをクリーンして、頭の上を越して肩で受けとめ、それからスクワットをするわけです。もちろん、終ったあとはその逆の動作でベーベルを元の位置に戻すわけですから、使用重量は自分がクリーンして頭の上を越えて肩にかつげる重量が限界でした。
 当時の私の記録は、たしかべンチ・プレスが115kg、スクワットが110kgくらいだったと思います。私は生まれつき脚が悪かったのでスクワットの練習はあまりしませんでした。
 その頃の一般的な練習方法としてはいまと同じように一日おきが主流をなしていました。ただ、その理由が、現在のように超回復の理論にもとづいて1日おきに練習するのではなく、毎日続けて練習していると筋肉が堅くなるといわれていたんです。
 しかし、私はとてもそれでは満足できず、まるで何かにつかれたように月曜日から土曜日まで週6日、かなりハードなトレーニングをつづけたものです。当時、駐留軍のボイラーマンをしていたので、仕事も相当きつく、そのうえ連日のトレーニングですから、いま考えると、よく頑張ったものだと自分でも感心するくらいです。
 力もだいぶつき、第7回四国国体にフェザー級で出場し、3位に入りました。そのときの記録は、たしかプレス95kg、ジャーク110kg、スナッチ80kgだったと思います。
皆さんもよくご存知の早稲田大学の窪田登教授がまだ早稲田の学生で、全日本ライト級のチャンピオンだった頃です。それから25年、研究と指導にあけくれ、自からもトレーニングを続けている窪田教授には頭が下がります。
第7回四国国体にて。左から二人目が照井進氏

第7回四国国体にて。左から二人目が照井進氏

◇ボディビル開花時代◇

 昔から日本人の美的感覚というのはデップリと太った福々しい姿にあこがれていたようです。その典型が、大きな大鼓腹で威風堂々としている力士です。七福神のほていや大黒天もその例です。大黒天などはもともと武神で、もっと精悼だったのを、江戸時代にアレンジして、あんなにお腹の大きい福々しい神様にしてしまったといわれています。
 犬も西洋的なシェパードやボクサーのようなシャープさより、こま犬に示されるように丸味をおびた動物が日本人の好みに合っていたようです。
 ところが、敗戦の結果、サングラスにパイプタバコをくわえたスンナリ長身のマッカーサー元帥が日本の統括者になるや、日本人の美的感覚も一変し力士型からへラクレス型へ、柳腰からボイン型へと移ってきたようです。それに輪をかけたのが力道山によって始めて日本人の目にふれた凄絶なプロレスです。逆三角形の大男たちが死闘を演ずる様を見て、ボディビルはいっきょに開花しました。
 昭和32年頃から雨後のタケノコのようにボディビル・ジムがオープンされどのジムも入会希望者であふれるという第一次ボディビル・ブームが到来しました。

◇新職業ボディビル・コーチ◇

 昭和32年、私は駐留軍のボイラーマンから建設会社に転職し、ブルドーザーの運転をしていましたが、その間も好きで始めたバーベル運動はもちろんつづけていました。かなり筋力も強くなり、筋肉もついてきました。
 前述のようにボディビル・ジムは雨後のタケノコのようにオープンしたがコーチがいない。すでに8年近くウェイト・トレーニングをやってきた私にぜひコーチにきてくれないか、という誘いがいくつかのジムからきました。三度のメシより好きなボディビルのコーチが職業として成り立つならこんないいことはないと、コーチを職業としてやっていくことにしました。
 昭和32年11月に、パチンコ屋さんが経営する五反田駅前のボディビル・センターのコーチに就任したのがその第一歩です。
 ボディビル・ブームはさらに加熱しどこの軒下にもコンクリート・バーベルやダンベルが目立つようになりました。その頃、知人のすすめで、私も新宿にジムを開設し、さらに東中野駅前のジムのコーチも引き受けて、3足のワラジをはく忙しい身となりました。この頃の専門のコーチとしては、現在渋谷の日本ボディビル・センター・コーチの平松さんと私くらいだったと思います。その他、アルバイト的にコーチをしていた人はほかに何人かいたと思います。いずれにしても、ジムはどんどん開設されるのに、会員を指導するコーチとなると、経験者が少なく、ジムの経営者はコーチ探しに一生懸命でした。
 その頃のジムの設備は、現在のそれと比べると貧弱なもので、バーベルにダンベル、それにフラット・ベンチぐらいのものでした。そのバーベルにしてもプレートの一番重いもので15kg、ほとんど10kg以下のものでした。その後、いろいろ工夫して、木製のスクワット台などを作りましたが。レッグ・カール・マシーンだとかプーリーなどはずっとあとになって備えられたものです。だから、ジムといっても実に殺風景なものでした。
昭和31年当時の照井進氏

昭和31年当時の照井進氏

◇今なお活躍する当時の人々◇

 私の知っているのは、おもに東京近辺に限られますが、その頃、ボディビルに関係していた人たちは非常に熱意があったように思います。そしていまも第一線で活躍している人がたくさんいます。
 現在の日本ボディビル協会設立に尽力した田鶴浜副会長、玉利理事長、平松技術顧問などは協会設立以来20余年にわたって、ボディビルの普及発展に熱意を注いでこられました。当時、田鶴浜氏は〝ファイト〟という雑誌を主宰されており、玉利氏は早稲田大学に日本で始めてバーベルクラブをつくって、ウェイト・トレーニングによる健康と体力づくりを提唱してきました。また平松氏は、ボディビル・コーチのパイオニアとして、一貫して技術指導に貢献してきました。さらに前述の早稲田大学の窪田教授は理論的な指導者として活躍され、著書の数も数十冊におよんでいます。
 私が日暮里ボディビル・センターのコーチをやっていた昭和34年頃、世はまさにプロレス・ブームで、力道山の登場するテレビの前はどこも黒山の人ざかりで、中には失神したり、心臓マヒを起こして死亡した人もいたくらいでした。
 その頃、この日暮里ジムで練習していたのが現NE協会指導部長で、このボディビルディング誌のQ&Aやその他寄稿で有名な竹内威さん、そして本誌7月号で紹介されたプロビルダーの大久保智司さんなどです。竹内さんは昭和34年度のミスター日本、大久保さんは昭和36年度のミスター全日本に選ばれました。とにかく2人ともよくトレーニングしていました。
 それより少し前になりますが、神田のYMCAでは初代ミスター日本の中大路さん、第2代のミスター日本、広瀬さんなどが毎日トレーニングに汗を流していたのがきのうのように思い出されます。
 今、この人たちがボディビル界の第一線で指導的立場として、あるいは現役のプロビルダーとして脈々と活動し続けているこの情熱と努力は、やはりいまトレーニングしている若い練習生も見習ってよいのではないかと思います。

◇当時のトレーニング法◇

 前にも述べたように、当時はジムといっても、フラット・ベンチに軽量のバーベルとダンベルがあるくらいでしたから、トレーニングといってもごく基本的な種目しかできませんでした。
 変わったトレーニング法としては、〝寝ざし〟という床に寝た状態で胸のところまでバーベルをころがしてきてプレスする、いわばフロア・プレスをよくやりました。いまならどこにでもベンチがありますから、ベンチ・プレスをやりますが、その頃はバーベル・ラックのついたベンチがありませんでしたからこんな運動をやっていたんです。
 肩のトレーニングにしても、フロント・プレスが主で、バック・プレスなど時たま人によってやる程度でした。もちろん、インクライン・ベンチもプーリーもなく、ましてマシーンと名のつく器具などありませんでしたから、採用種目としてはフロント・プレス、フロア・プレス(寝ざし)、スクワット、ベント・ロー、カールといった程度で、フレンチ・プレスとかサイド・ラタラルなどといったトレーニング法などはなく、実にオーソドックスな、単純な運動だけでした。しかし、練習に関してはすごく真剣で、がむしゃらにやったものです。
 それにつけても思い出すのが若木竹丸先生のトレーニング法です。当時、私も若木先生が戦前に著わした「怪力法並に肉体改造・体力増進法」という本を見ましたが、よくもあれだけ研究されたものだと感心しました。器具は手造りでも、理論的には現在のトレーニングのやり方と全く同じです。必要は発明の母といいますが、日本一、いや世界一の怪力と肉体美を目ざした若木先生が、自から実験し、研究し、あみだした数々のトレーニング法は、立派に今日も生きているのです。
 食事法などについてもそんなにこまかい神経はつかいませんでした。プロティン・パウダーなどもちろんなく、また、経済的にも肉や魚をたくさん摂るということはできない時代でした。うんと練習して、なんでも量をたくさん食べれば大きくなるといった具合で力士そこのけの食事法だったですね。だから筋肉の量では、いまのビルダーに負けないような人もいましたが、デフィニションの面ではずいぶん落ちますね。だいたい、デフィニションなんて言葉が使われ出したのはずいぶんあとになってからです。
 現在と昔のビルダーの違いは、練習法より食事法の違いの影響の方がはるかに大きいと私は思います。

◇力をつける練習法◇

 私は最初から力強さに憧れていたせいか、まず、力を強くする練習をせよというのが持論です。力が強くなればおのずとそれに見合った筋肉が得られると信じています。
 ですから私がコーチしていたときはある程度パワー・ビルダー的な練習をすすめていました。このやり方は今でも正しいと信じています。
 たとえば、ベンチ・プレスなら、自分の最高記録の80%を連続3~4回×3セットできたら、重量を5~10kgふやし1~2回×3セットに挑戦する。休息は長くても2分以内。
 そして1週間に1度はチャレンジ・デーを設け、自分の最高重量に挑戦する。1度失敗しても、クソーッという気持で3発はチャレンジする。こんな練習法が力をつけ、筋肉をつくったのも事実です。とにかく自分で目標を立て、それに向って努力していくうちに自分に合った練習法というものが必ず生まれてくると思います。

◇野性味を持て◇

 今の世の中を見ていると、一般的にいえることかも知れませんが、野性味に欠けていると思うんです。
 ボディビルについても、教えられたことはきちんとやるが、自分で研究したり、ためしてみたりするパイオニア精神が足りないと思うんです。理由はトレーニング法でも食事法でも、情報過多で、苦労して自分が汗を流し、その中から手さぐりで何かを得るということがないのではないでしようか。
 若い人だから、そんな情報を無視して、がむしゃらにトレーニングしてみたらどうでしょう。そりゃ基礎的な知識は必要ですよ。でも解剖学者や生理学者じゃないんだから、自分の体で感じるままにやってみるのもいいと思います。
 知識や理屈からは情熱は生まれません。がむしゃらにやって壁にぶち当り意気消沈し、そしてまた立ち上がる。そんな情熱から、やり抜く根性がふつふつと生まれてくるんです。それも若いからできるんです。若者の特権なんです。素直に力に憧れ、遅しい肉体に憧れていいと思います。
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 バーベル運動をはじめて28年、ことし47歳になる照井進さんだが、実に若々しい。それにもまして考え方がフレッシュだ。ボディビルによって自からの心身を鍛えるとともに、後輩たちの成長を心から願っている照井さんの心意気にうたれつつ、この対談を終った。
月刊ボディビルディング1977年11月号

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