★ミスター・ボディビルディング★
アーノルド・シュワルツェネガー栄光の記録<その1>
月刊ボディビルディング1978年7月号
掲載日:2018.03.29
国立競技場指導係主任 矢野雅知
1965 ジュニアMr.ヨーロッパ
1966 ベスト・ビルトマン・オブ・ヨーロッパ
〃 Mr.ヨーロッパ
〃 国際パワーリフティング選手権大会優勝
1967 NABBA(アマ)Mr.ユニバース
1968 NABBA(プロ)Mr.ユニバース
1968 ドイツ・パワーリフティング選手権大会優勝
1968 IFBB・Mr.インター・ナショナル
1969 IFBB・Mr.ユニバース
1969 NABBA(プロ)Mr.ユニバース
1970 NABBA(プロ)Mr.ユニバース
1970 Mr.ワールド
1970 IFBB・Mr.オリンピア
1971 IFBB・Mr.オリンピア
1972 IFBB・Mr.オリンピア
1973 IFBB・Mr.オリンピア
1974 IFBB・Mr.オリンピア
1975 IFBB・Mr.オリンピア
これは、NABBAミスター・ユニバース優勝4回、IFBBミスター・オリンピア優勝6回という、不滅の大記録をうちたてたアーノルド・シュワルツェネガーの栄光の記録である。
ユーゼン・サンドウに始まる近代ボディビルディングの歴史はシュワルツェネガーのパーフェクトな肉体によって、ひとつの完成をみた、といえるのではないか。
以前、窪田登早大教授は、三大ビルダーとしてサンドウ、グリメック、リーブスの名を挙げていたが、現在、歴史に残るボディビルダーとして四大ビルダーを選ぶとすれば、当然、これに彼の名が加わるであろう。
そのシュワルツェネガーが引退してすでに3年になろうとしている。映画"パンピング・アイアン"の成功で、今では筋肉だけでなく、札束でふところもふくらんでいるらしい。しかし、彼も述べているように『ボディビル界から完全に引退したのではない。コンテストに出場しないだけである。』ということのようだ。
というのは、いずれ40代、50代になってもフィジーク・コンテストに出場して、数十年間にわたってミスター世界の座に君臨しようという腹づもりかもしれない。
なぜなら、彼が心服し、崇拝し、理想像とした大ビルダーが、20年間にわたってミスター・ユニバースになるという偉業を達成できなかった悲願---すなわち、レジ・パークが7年ごとに3度ミスター・ユニバースとなったが遂に4度目のユニバースの栄冠は手中に収めることができなかった。だが、シュワルツェネガーなら、この野望を受けついで、これを成しとげる可能性があるからだ。
シュワルツェネガーは、レジ・パークを偶像としてトレーニングにはげんだ。大多数のボディビルダーが、スティーブ・リーブスの肉体に理想的なイメージを求めるが、彼は『私はリーブスは好きじゃあない。レジ・パークこそ私が追い求め、あこがれた、たった1人のビルダーであった。』という。
シュワルツェネガーは、3人のビルダーに敗北を喫している。つまり、コンテストで2位になったのが3回あるということだ。2位でもたいしたものだと思う。それもミスター・ユニバースのような国際コンテストなのだから当然であろう。しかし、彼にとっては2位だろうが、3位だろうが、優勝以外はすべて負け。クラス優勝したところで、総合優勝できなければ、敗北以外のなにものでもない、というのがシュワルツェネガーなのだ。
彼は言う。『今や、世界にミスター・ユニバースの名のつくものは1つだけではない。つまり何人ものミスター・ユニバースが毎年誕生している。だから、これらのコンテストすべてに勝ち、しかもズーッと勝ち続けてこそ、真のワールド・チャンピオンなのだ。小さな地方コンテストで優勝するなんてことは、まったくチッポケなことでこんなことは何の価値もない、とるに足らないことサ』
たとえ小さなコンテストであっても優勝は優勝。そのために、大きな犠牲を払ってトレーニングに明けくれるビルダーも多いはずだ。それを『こんなことは何の価値もない』と言いきるシュワルツェネガーとは、いったいどんな男だろうか。そして、彼はどうやって"ミスター・ボディビルディング"の座を獲得してきたのだろうか。彼の著「Education of Body Builder」などを参考にして、彼の考え方、たどってきた道を紹介していこう。
1966 ベスト・ビルトマン・オブ・ヨーロッパ
〃 Mr.ヨーロッパ
〃 国際パワーリフティング選手権大会優勝
1967 NABBA(アマ)Mr.ユニバース
1968 NABBA(プロ)Mr.ユニバース
1968 ドイツ・パワーリフティング選手権大会優勝
1968 IFBB・Mr.インター・ナショナル
1969 IFBB・Mr.ユニバース
1969 NABBA(プロ)Mr.ユニバース
1970 NABBA(プロ)Mr.ユニバース
1970 Mr.ワールド
1970 IFBB・Mr.オリンピア
1971 IFBB・Mr.オリンピア
1972 IFBB・Mr.オリンピア
1973 IFBB・Mr.オリンピア
1974 IFBB・Mr.オリンピア
1975 IFBB・Mr.オリンピア
これは、NABBAミスター・ユニバース優勝4回、IFBBミスター・オリンピア優勝6回という、不滅の大記録をうちたてたアーノルド・シュワルツェネガーの栄光の記録である。
ユーゼン・サンドウに始まる近代ボディビルディングの歴史はシュワルツェネガーのパーフェクトな肉体によって、ひとつの完成をみた、といえるのではないか。
以前、窪田登早大教授は、三大ビルダーとしてサンドウ、グリメック、リーブスの名を挙げていたが、現在、歴史に残るボディビルダーとして四大ビルダーを選ぶとすれば、当然、これに彼の名が加わるであろう。
そのシュワルツェネガーが引退してすでに3年になろうとしている。映画"パンピング・アイアン"の成功で、今では筋肉だけでなく、札束でふところもふくらんでいるらしい。しかし、彼も述べているように『ボディビル界から完全に引退したのではない。コンテストに出場しないだけである。』ということのようだ。
というのは、いずれ40代、50代になってもフィジーク・コンテストに出場して、数十年間にわたってミスター世界の座に君臨しようという腹づもりかもしれない。
なぜなら、彼が心服し、崇拝し、理想像とした大ビルダーが、20年間にわたってミスター・ユニバースになるという偉業を達成できなかった悲願---すなわち、レジ・パークが7年ごとに3度ミスター・ユニバースとなったが遂に4度目のユニバースの栄冠は手中に収めることができなかった。だが、シュワルツェネガーなら、この野望を受けついで、これを成しとげる可能性があるからだ。
シュワルツェネガーは、レジ・パークを偶像としてトレーニングにはげんだ。大多数のボディビルダーが、スティーブ・リーブスの肉体に理想的なイメージを求めるが、彼は『私はリーブスは好きじゃあない。レジ・パークこそ私が追い求め、あこがれた、たった1人のビルダーであった。』という。
シュワルツェネガーは、3人のビルダーに敗北を喫している。つまり、コンテストで2位になったのが3回あるということだ。2位でもたいしたものだと思う。それもミスター・ユニバースのような国際コンテストなのだから当然であろう。しかし、彼にとっては2位だろうが、3位だろうが、優勝以外はすべて負け。クラス優勝したところで、総合優勝できなければ、敗北以外のなにものでもない、というのがシュワルツェネガーなのだ。
彼は言う。『今や、世界にミスター・ユニバースの名のつくものは1つだけではない。つまり何人ものミスター・ユニバースが毎年誕生している。だから、これらのコンテストすべてに勝ち、しかもズーッと勝ち続けてこそ、真のワールド・チャンピオンなのだ。小さな地方コンテストで優勝するなんてことは、まったくチッポケなことでこんなことは何の価値もない、とるに足らないことサ』
たとえ小さなコンテストであっても優勝は優勝。そのために、大きな犠牲を払ってトレーニングに明けくれるビルダーも多いはずだ。それを『こんなことは何の価値もない』と言いきるシュワルツェネガーとは、いったいどんな男だろうか。そして、彼はどうやって"ミスター・ボディビルディング"の座を獲得してきたのだろうか。彼の著「Education of Body Builder」などを参考にして、彼の考え方、たどってきた道を紹介していこう。
[シュワルツェネガーとて、はじめはごく普通のビルダーであった。左は1965年ジュニアMr.ヨーロッパに優勝した頃の写真。]
ボディビルディングをやって変人扱いされた初期のころ
シュワルツェネガーは小さいときから水泳、スキー、サッカーと様々なスポーツを体験してきたが、どれも熱中するほど好きになれなかった。だが、はじめてバーベルを握りしめた瞬間、『これこそ自分の求めていたものだ。これにすべてをかけよう』と決意したという。そして、このときすでに『オレは世界で最も発達したからだの男になる!』と誓っているのである。
我が国にも多くのすぐれたビルダーがいるが、バーベルを始めて握ったときに『オレは世界一になる』と誓ったものがいたであろうか。世界はおろか『日本一になる』とさえ誓ったものは少なかろう。それどころかあまりにやせているので、せめて人並みのからだになりたい、と思って始めた人のほうが多いかもしれない。
日本のみならず欧米にも、はじめから世界一を目指してトレーニングしたビルダーはめったにいないだろう。すなわち"ミスター・ボディビルディング"と他のビルダーとでは、すでにスタートの心構えから違っているのである。この心構えの大切なことは、彼自身も指摘している。
ボディビルディングに熱中しはじめたころ、母親は怪訝な顔をするし、仲間たちからも『なんでボディビルディングなんてバカげたことをやるんだ』と変人扱いされたものである。変人といっても、女性が死ぬほど嫌いで、そばに近づくと鳥肌がたつなんて変人ではない。ボディビルディングに熱中する以外は、まったく普通の青年だったのである。だから、年頃の彼は、女の子を追いかけまわして、しつこくデートに誘ったりもしたが、まるで反応なし。彼女らは、シュワルツェネガーの逞しいからだに嫌悪感をいだいていたのだ。ボディビルディング、イコール変人と映っていたのである。ボディビルディングはからだに悪い、という迷信が、オーストラリアの彼の故郷グラッツェにも根強く生きていたことも影響していたのであろう。
男連中に『変人!』と言われても、『奴らはオレのからだに劣等感をいだいているからだ』と考えれば、さほど気にもならない。しかし、好きな女の子に変人扱いされたら、まずたいがいの男性はかなりショックを受けるはずだ。ときには、人生を賭けたボディビルディングでさえ放棄するかも知れない。しかし、シュワルツェネガーは『世界一になる』という大きな目標のために、くじけるどころか、ますますトレーニングに打ち込んだのである。
我が国にも多くのすぐれたビルダーがいるが、バーベルを始めて握ったときに『オレは世界一になる』と誓ったものがいたであろうか。世界はおろか『日本一になる』とさえ誓ったものは少なかろう。それどころかあまりにやせているので、せめて人並みのからだになりたい、と思って始めた人のほうが多いかもしれない。
日本のみならず欧米にも、はじめから世界一を目指してトレーニングしたビルダーはめったにいないだろう。すなわち"ミスター・ボディビルディング"と他のビルダーとでは、すでにスタートの心構えから違っているのである。この心構えの大切なことは、彼自身も指摘している。
ボディビルディングに熱中しはじめたころ、母親は怪訝な顔をするし、仲間たちからも『なんでボディビルディングなんてバカげたことをやるんだ』と変人扱いされたものである。変人といっても、女性が死ぬほど嫌いで、そばに近づくと鳥肌がたつなんて変人ではない。ボディビルディングに熱中する以外は、まったく普通の青年だったのである。だから、年頃の彼は、女の子を追いかけまわして、しつこくデートに誘ったりもしたが、まるで反応なし。彼女らは、シュワルツェネガーの逞しいからだに嫌悪感をいだいていたのだ。ボディビルディング、イコール変人と映っていたのである。ボディビルディングはからだに悪い、という迷信が、オーストラリアの彼の故郷グラッツェにも根強く生きていたことも影響していたのであろう。
男連中に『変人!』と言われても、『奴らはオレのからだに劣等感をいだいているからだ』と考えれば、さほど気にもならない。しかし、好きな女の子に変人扱いされたら、まずたいがいの男性はかなりショックを受けるはずだ。ときには、人生を賭けたボディビルディングでさえ放棄するかも知れない。しかし、シュワルツェネガーは『世界一になる』という大きな目標のために、くじけるどころか、ますますトレーニングに打ち込んだのである。
コンテスト初出場で優勝
兵役についてシュワルツェネガーは暇をみつけてはトレーニングを続けていった。それに規則正しい生活がプラスして、グンとからだは発達した。少し自信をつけた彼は、この軍隊時代にこっそりとジュニア・ミスター・ヨーロッパ・コンテストに参加することにした。もちろん、コンテストと名のつくものに出場したのはこれがはじめてである。
出場すると決めたものの、これまでポージングなどまるでやったことはない。コンテストへ向う列車の中で、あれこれ考えたが、彼の脳裏に焼きついているのはレジ・パークの写真だけである。すべてレジ・パークのポーズをまねて、おまけにポージング・トランクスまで借りての出場という、あわただしい初出場だったが、あっけなく優勝。ミスター・ボディビルディングはこうして幸先よく初陣を飾ったのである。
このウワサは、またたくまに軍隊に広まり、彼はちょっとした英雄となった。また、このコンテストでジャッジをつとめた1人の男が、シュワルツェネガーに大いに興味を示していた。
彼は『君は素晴らしい素質をもっている。ぜひ私のところへ来なさい』
とすすめてくれた。しかも、
『君はミスター・ユニバースを観たことがある?ないだろう。私のところへ来たら観につれていってあげよう』
とまで言った。"ミスター・ユニバース"これこそシュワルツェネガーの目標とするコンテストだ。
『観たいです!ぜひつれていってください』とたのむのがふつう。だが、彼はちがう。
『観るだけ?』
『そうだ。観につれてってやるんだぞ!』
『それはウレシイけど、観るだけじゃあなくて、ボクは出場したい』
『no!no!no!・・・・・それはダメだ。ユニバースに出てくるようなのは、みんなものスゴイからだしているんだ!君はまだダメだ』と笑われた。
出場すると決めたものの、これまでポージングなどまるでやったことはない。コンテストへ向う列車の中で、あれこれ考えたが、彼の脳裏に焼きついているのはレジ・パークの写真だけである。すべてレジ・パークのポーズをまねて、おまけにポージング・トランクスまで借りての出場という、あわただしい初出場だったが、あっけなく優勝。ミスター・ボディビルディングはこうして幸先よく初陣を飾ったのである。
このウワサは、またたくまに軍隊に広まり、彼はちょっとした英雄となった。また、このコンテストでジャッジをつとめた1人の男が、シュワルツェネガーに大いに興味を示していた。
彼は『君は素晴らしい素質をもっている。ぜひ私のところへ来なさい』
とすすめてくれた。しかも、
『君はミスター・ユニバースを観たことがある?ないだろう。私のところへ来たら観につれていってあげよう』
とまで言った。"ミスター・ユニバース"これこそシュワルツェネガーの目標とするコンテストだ。
『観たいです!ぜひつれていってください』とたのむのがふつう。だが、彼はちがう。
『観るだけ?』
『そうだ。観につれてってやるんだぞ!』
『それはウレシイけど、観るだけじゃあなくて、ボクは出場したい』
『no!no!no!・・・・・それはダメだ。ユニバースに出てくるようなのは、みんなものスゴイからだしているんだ!君はまだダメだ』と笑われた。
世界の檜舞台へ登場
除隊後、シュワルツェネガーはさっそく彼のすすめによって、片田舎のチッポケな村をあとにして、ドイツのミュンヘンに出てくるのである。生まれてからずっとシュワルツェネガーは、旧家で城のような家で育ったが、都会での生活は一度もなく、ミュンヘンに来て、車の多いのに驚かされる田舎っぺであったようだ。
ミュンヘンに来て1年間、本格的なトレーニングをつんで、翌1966年、ミスター・ヨーロッパ・コンテストに出場して楽勝。すでにそのとき彼は注目に価するブットイ腕をつくりあげていた。全出場者の中で、彼の腕はズバ抜けて太かったという。
ミスター・ヨーロッパになって意気あがるシュワルツェネガーは、いよいよ念願のNABBAミスター・ユニバースへ出場するためロンドンへ乗り込んだ。
崇拝するレジ・パークが、世界で初めて上腕囲20インチ(約50.8cm)に達したが、完全に20インチを超えたビルダーは、NABBAミスター・ユニバース史上、シュワルツェネガーしかいない。コンテストの前夜、宿舎のロイヤル・ホテルで彼を見た選手たちは、この19才の青二才の太い腕、圧倒的なバルクに一様に驚き、口をそろえてほめたたえた。
こうなると、青二才はズンズン自信をつけ、もはやジャッジの前に並ぶ以前に、史上最年少でミスター・ユニバースの栄冠を手中にしたと考えたとしても当然かもしれない。しかし彼の確固たる自信が根底から崩れ去ったのは、ホテルのエレベーターで、チェスター・ヨートンに出くわしたときだ。
シュワルツェネガーは、ヨートンのからだを見て愕然となった。たしかにバルクでは自分のほうが優っている。だが、ヨートンは他のビルダーが持っていない何かを身につけている。デーブ・ドレイパーらと映画にも出演しているスターでもあるヨートンは、他のビルダーとは一味違った雰囲気があった。しかも、からだにキレもあり、ポージングの呼吸、脚の位置、視線と、ビルダーとしてのすべてを身につけている。
シュワルツェネガーはトールマン・クラスの中でも最も背が高く、ポージングは最後にやるはずであった。しかし、ヨートンはサイズを大きく見せかけて、最後にポージングをやった。これが彼の、いやアメリカ流のコンテスト・テクニックである。すなわち、最後のポージングが、ジャッジには最も強い印象を与えるからだ。
こうして、シュワルツェネガーは、ヨートンに負けるべくして負けた、と自らも認めており、初の一敗を喫したのである。
ミスター・ユニバースに初出場で第2位になったのだから立派な成績である。ミュンヘンに戻ると仲間たちが祝賀会を開いてくれたのだが、彼はとてもそんな気になれない。その足でジムへ行き、翌年のミスター・ユニバースに向けて早くもトレーニングを開始したというエピソードが残されている。
その頃である。偶像レジ・パークに会ったのは。そして、一緒にトレーニングをして、多くのアドバイスを受け、大いに刺激されたという。
レジ・パークから『カーフが弱い』と指摘されると、懸命にそこをトレーニングする。三角筋がまだ十分でないといわれると、そこを集中的にトレーニングする。ポージングの練習もよくやった。
つづく
ミュンヘンに来て1年間、本格的なトレーニングをつんで、翌1966年、ミスター・ヨーロッパ・コンテストに出場して楽勝。すでにそのとき彼は注目に価するブットイ腕をつくりあげていた。全出場者の中で、彼の腕はズバ抜けて太かったという。
ミスター・ヨーロッパになって意気あがるシュワルツェネガーは、いよいよ念願のNABBAミスター・ユニバースへ出場するためロンドンへ乗り込んだ。
崇拝するレジ・パークが、世界で初めて上腕囲20インチ(約50.8cm)に達したが、完全に20インチを超えたビルダーは、NABBAミスター・ユニバース史上、シュワルツェネガーしかいない。コンテストの前夜、宿舎のロイヤル・ホテルで彼を見た選手たちは、この19才の青二才の太い腕、圧倒的なバルクに一様に驚き、口をそろえてほめたたえた。
こうなると、青二才はズンズン自信をつけ、もはやジャッジの前に並ぶ以前に、史上最年少でミスター・ユニバースの栄冠を手中にしたと考えたとしても当然かもしれない。しかし彼の確固たる自信が根底から崩れ去ったのは、ホテルのエレベーターで、チェスター・ヨートンに出くわしたときだ。
シュワルツェネガーは、ヨートンのからだを見て愕然となった。たしかにバルクでは自分のほうが優っている。だが、ヨートンは他のビルダーが持っていない何かを身につけている。デーブ・ドレイパーらと映画にも出演しているスターでもあるヨートンは、他のビルダーとは一味違った雰囲気があった。しかも、からだにキレもあり、ポージングの呼吸、脚の位置、視線と、ビルダーとしてのすべてを身につけている。
シュワルツェネガーはトールマン・クラスの中でも最も背が高く、ポージングは最後にやるはずであった。しかし、ヨートンはサイズを大きく見せかけて、最後にポージングをやった。これが彼の、いやアメリカ流のコンテスト・テクニックである。すなわち、最後のポージングが、ジャッジには最も強い印象を与えるからだ。
こうして、シュワルツェネガーは、ヨートンに負けるべくして負けた、と自らも認めており、初の一敗を喫したのである。
ミスター・ユニバースに初出場で第2位になったのだから立派な成績である。ミュンヘンに戻ると仲間たちが祝賀会を開いてくれたのだが、彼はとてもそんな気になれない。その足でジムへ行き、翌年のミスター・ユニバースに向けて早くもトレーニングを開始したというエピソードが残されている。
その頃である。偶像レジ・パークに会ったのは。そして、一緒にトレーニングをして、多くのアドバイスを受け、大いに刺激されたという。
レジ・パークから『カーフが弱い』と指摘されると、懸命にそこをトレーニングする。三角筋がまだ十分でないといわれると、そこを集中的にトレーニングする。ポージングの練習もよくやった。
つづく
月刊ボディビルディング1978年7月号
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