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★ビルダー・ドキュメント・シリーズ★

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月刊ボディビルディング1978年7月号
掲載日:2018.03.29
調布トレーニング・センター会長、JBBA副理事長
温井国昭,この道を行く

<川股 宏>

◇壁にぶつかる◇

「今やっている仕事が、はたして自分にふさわしい仕事なんだろうか。もっと自分にしか出来ない仕事があるような気がする。何か分からないが俺の天職はきっとあるにちがいない」と毎日曇り空のようにスッキリしない心のゆううつの中で自問自答した。
 一度なりとも、心の中に1粒でも疑問の芽が出ると、すべてのものが疑問となり、不平不満で心は一色にぬりつぶされる。
 会社という組織は生きものだ。社長個人の物でもなく、従業員のものでもない。そこに人間の織りなす複雑な人間模様がくりひろげられる。コツコツ仕事をする社員もいれば、いつも調子よく泳ぎまわる奴もいる。「販売実績が人格だ」といきがる人もいる。
 これが誰がみても当然と思われる評価なら何も問題は起きない。時として調子の良い奴、自己中心主義のガリガリ亡者がえてして出世する。そして管理職になったとたんにやたらと威張りちらす。高校出たての警察官が「オイコラ!」というに等しい。権力と人格は別ものなのに。
 今までのサラリーマン生活を反省しながら、そこに問題がある、と温井は思った。それもそのはずである。というのは、スポーツ一瞬一瞬、真剣に勝負してきた温井にとっては、これまでのサラリーマン生活で血がたぎるような想い出はない。感激がないのだ。すべてを燃焼して仕事に熱中したという満足感がまるでない。
 満足感どころか、組織の中では、燃焼することが、時として善とは限らない。つまり、1人だけが張り切って独走することは、組織を乱すことになりかねないからだ。協調性、悪い言葉でいえば自分を殺すことが出来なければ浮き上がってしまう。
 そんな心境の中で、もんもんと日を過していた矢先、「おい、温井、2人で有線放送の会社をやらないか。場所は船橋だョ。あそこはいま急激に発展しているし、これから有望な事業だと俺は思うなァ。人に使われるより、一度は自分が経営者になって一国一城の主にならにゃ男がすたるゼ。一緒にやろう温井」と友人からさそわれた。
 人が好いとうか、寂しがりやというか、人から頼りにされたりすると断りきれない男っ気の温井は、自分の天職かどうか、あまり深くも考えずに「よし!やろう」と友人と有線放送を始めることになった。
 しかし、これもよーく考えてみたら熱し易いものはさめ方も早い。「これは男が生涯を賭ける仕事ではないようだ」と思いつつも時は過ぎた。
 それでも船橋での生活は割合充実していたのだ。というのは、近くに船橋警察があり、暇をみつけては中学・高校時代に熱中した柔道の練習ができたからだ。柔道しているときは、なぜか仕事では味わえない満足感が得られるのだ。やはり、温井は根っからのスポーツマンだったからであろう。
 そんな時も時、東京オリンピックが開かれた。晴れの檜舞台で活躍する猪熊や岡部の活躍ぶりを見て「もっと以前から柔道にも体重制があったら、あるいは俺も全く別の人生を歩んでいたかも知れない」と考えた。そして、金メダルを目指して自分の好きな柔道に没頭できる選手たちをうらやましく思ったものである。
「アナトール・フランスも言ってたっけ"ひとつの生涯に入る前には他の生涯において死なねばならない"と。たしかに、世界的な芸術家、発明家といわれるような人は、自分の専門分野以外にはまるで無頓着な人が多い。要するに、それくらい何か1つのことに執着できる目標をもったからにほかならない。俺も出来たら、人生を賭けても悔いのない何かを見つけたい」と温井は真剣に考えた。
「そうだ!子供の頃から親しんだスポーツやボディビルでつくり上げたこの逞しい体を見本にして、弱々しい一般社会人に対する指導が、職業として成り立つなら、これこそ俺の天職ではないか」と考えたのである。
[昭和52年柔道五段に]

[昭和52年柔道五段に]

◇ジム開設を前に父の死◇

 温井は久しぶりに、父に自分の心境をつつみかくさず話した。反面、一度社会に巣立った大の男が親に泣きつくような行動は、あまりカッコいいものではないが、ジムをつくるとすれば、まず先立つものは金である。温井は素直な気持で自分の考えを話した。
「よし、お前もいろいろ苦労してきたはずだ。その結論がそうなら、思いきってやってみろ。出来るだけの援助はしてやる」と父親は心よく応じてくれたのである。そして、ちょうど京王線・柴崎駅前に父の所有地があり、そこにジムを新築してくれることを承知してくれた。この点、温井は大へん恵まれていたことはたしかである。
 昭和42年のことである。
 温井はさっそくあちこちのボディビル・ジムを見てまわり、ジム経営の実態を探った。そして出た結論は、「まだまだ今の日本では、ジムだけでは経営が苦しい。ジムをやりながら、もう1つ、何か利益のあがる商売をすることだ」ということだった。
 そこで温井の考えたのは、1階をジム、2階を焼肉店、3階を自分の住いにするという青写真ができた。どうして焼肉店を思いついたかと言えば、温井は肉類が大好きで、とくに焼肉には目がなかった。船橋にいた当時、よく食べに行っていた焼肉屋のマスターと仲よくなり、商売のコツなどを教わったこともあったからである。それに、食べ物商売は日銭が入ることも魅力だった。
 今のジムの2階の応接間に行ってみると、何ヵ所も換気扇用につくった窓がある。つまり、焼肉屋につきものの煙を出すための名残りである。が結局焼肉屋はせずに終った。安い料金で多くの人にトレーニングしてもらおうとの温井の奉仕精神と、熱心な指導ぶりがうけて、開設当社からまあまあの会員が集まったからである。
 話を少し前に戻そう。
 こうして設計図ができ、工事にとりかかった。そして昭和43年8月20日、"むね上げ式"の日である。温井は朝から工事現場に来て、せわしく動きまわっていた。建物も大方できあがり、希望に胸がふくらんでくるのだった。"好事、魔多し"のたとえどおり、温井にとって、天国から地獄へつき落とされるようなことが起こったのだ。
「おい国昭、おやじが急に倒れたんだ。すぐ家に帰ってきてくれ」と家から知らせがきた。それから数時間後、父親は帰らぬ人となってしまった。
「泣いて帰ってくる奴があるか」と叱った父であったが、半面、やさしい心の持主だった。いざというときには頼りになる父であった。自分のためにジムをプレゼントしてくれた父親が、こともあろうに、むね上げ式の当日に倒れるなんて、世の中に神も仏もないのだろうか、と温井の目から涙がとめどなく流れた。それからしばらくの間、放心したように、自分が生きているのか死んでいるのか分からないような日がつづいた。
 それでも、工事は着々と進み、やがてジムは立派に完成した。
「おやじ、一目見て欲しかった。俺はおやじの恩に報いるためにも、立派なジムにしてみせる。草場の影からそっと見ていてくれ」と誓った。
ジム創立十周年記念パーティーで挨拶する温井国昭会長夫妻

ジム創立十周年記念パーティーで挨拶する温井国昭会長夫妻

◇独特の風貌、タレント性◇

 温井は気がよく、学生時代からつき合いのよいせいか、いろいろの分野で活躍する友人が多い。
 ジプシー・ザンパーの時もそうだ。このザンパーという人、大学時代のレスリングの友人だが、社会人になって一生、会社にしばられるのをきらい、自慢の筋肉や強靭の肉体を使った、いわゆる"スリル・アクション"を業としている人だ。
 ある時「おい温井、こんど"万国ビックリショー"というのがあるんだが、俺のパートナーになってくれ、お前だったら最高だ。力といい体といい商売になる。どうか頼む」とザンパーがいってきた。
 このショーで温井が演じたのは、写真のように、腹の上に板をのせ、レスラー・ブリッジをした上を自動車を走らせるというものだった。これは大へんな荒業である。温井の体はボディビルだけでなく、柔道やレスリングでも鍛えただけに、柔軟で、しかも隅々まできたえられているのが、一般のビルダーとちょっと違うところだ。
万国ビックリ・ショーに出演。左側でブリッジしているのが温井会長

万国ビックリ・ショーに出演。左側でブリッジしているのが温井会長

 ちなみに、温井の他の競技歴を記すと、調布市民運動会で砲丸投げで1位、円盤投げで2位という成績をあげている。
 また、テレビ映画にも何回か出演している。役はだいたい悪役が多い。主役のいい役は本職の俳優がやることに決っており、アルバイトの温井が殺され役をするのは止む得ないは、それにしても、あちこちから出演の話がもち込まれるのも温井にタレント性がありまた、何でもやってやろうという積極的な精神があるからだろう。
テレビ映画の一コマ。中央でピストルをかまえているのが温井会長

テレビ映画の一コマ。中央でピストルをかまえているのが温井会長

 また、これはごく最近のことだからテレビで見た人も多いと思うが、国際プロレスのレフリーをしている。いまは錦糸町ボディビル・センターの遠藤光男会長に変わったが、その前の1シリーズだけレフリーとして全国各地を巡業した。これについての一部始終を温井は次のように語っている。
「ことしのはじめ、プロ・スポーツ祭りのパーティーの時でした。国際プロレスの吉原会長と会ったんです。この国際プロレスには浜口、井上、ムラサキといったビルダー出身者も沢山おり日本ボディビル協会の玉利理事長も重役に名を連らねているんです。
 ちょうどこの頃、前溝レフリーが辞め、後任を物色中だったんです。それで吉原会長が『温井さん、あんたひとつレフリーをやってくれんか。あんたなら体もいいし、タレント性もあるからピッタリだと思うんだがな』といわれたんです。
 もともとプロレスは大好きだったもんだから2つ返事でOKしちゃったんですよ。ところが、よく考えてみるとこりゃたいへんな仕事なんです。女房や親戚が集まって大反対なんです。
 みんなの言うことも、もっともなんです。シリーズになれば1ヵ月以上も家を空ける。ジムのこともあるし、子供の教育もある。よ~く考えたあげく吉原会長に謝ったんです。結局、1シリーズだけやって、あとは遠藤光男さんにやってもらうことにしてもらいました」

◇資格を取ろう◇

 温井は一見、豪放のように見える。しかし、よく話してみると、実に着実に物事を分析する力を持っている。やはりジム経営を境にして生き方を変えたのだろう。
 そのよい例が、彼の資格を取る熱意だ。このことは若いビルダーの良い指標にもなると思うので紹介しよう。
 温井はまず身体均整師の資格をとった。これには次のようなわけがある。長女の利絵ちゃんが生まれたとき、脱きゅうしていたのだ。これを温井自身が見よう見まねで治してしまった。柔道をやっていたので脱きゅうなどについては多少心得もあり、親戚に指圧にくわしい人がいて、以前、教えてもらったこともあり、それが幸いしたというわけだ。
 こんなこともあって、薬を用いないで体を治す指圧や身体矯正に関心をもった温井は、2階の焼肉屋計画をとりやめ、将来、そこを治療院にしようと計画したのである。
 そして、昭和47年に身体均整学校を卒業して身体均整師の資格をとり、つづいて昭和50年には早稲田鍼灸学校を卒業して鍼灸師の資格をとった。そして現在、計画どおりあの換気窓の多い2階で治療院を開業している。
 また、昭和52年には柔道五段を取得、その他、日本体育協会の1級トレーナー、スポーツ判定員、日本ボディビル協会の公認審査員と、健康に関するものなら、なんでも勉強してやろうと次々と資格をとっている。
 またこれは資格とはちがうが、昭和46年の東京パワーリフティング大会ではベンチ・プレスで170kgを挙げて重量級のこの種目で優勝している。
 最後に温井の生活信条を箇条着きにしてこの項を終りたい。
①強くなりたかったら、体をつくることが一番
②力強く生きたかったら、資格をとることが一番
③心を作りたかったら、情熱をもつことが一番
④良い家庭を築きたかったら、女房を大切にすることが一番
⑤世間を広くしたかったら、友人と心を分かつことが一番
 という温井は、いまや、前の自分は死んで、現在のジム経営、治療院で頑張っており、この道で心が完全に燃焼することを自覚した。
 ビルダーの皆さん頑張りましょう。自分の好きな道で!
(おわり)
月刊ボディビルディング1978年7月号

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