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★ビルダー・ドキュメント・シリーズ★
'75'76'77 IFBB 全日本チャンピオン 磯村俊夫 努力で切り開いた人生

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月刊ボディビルディング1978年10月号
掲載日:2018.06.29
川股宏

◇静かな情熱◇

 真夏のうだるような猛暑をふきとばしてくれた夏の高校野球。大づめの決勝戦、高知商ーPL学園。

 テレビを食い入るように見ている人々の目の前で“奇跡”が起こった。しかも、準決勝につづいて今大会2度目の奇跡が。

 9回裏のドタン場、2-0、PL学園の打撃が爆発。2-3とものの見事に逆転優勝を果たした。選手も監督も応援団も感激のあまり、キラリと目に涙が走る。

 青春にかける若人たちの情熱が、広い甲子園のグランドから、テレビを通じて全国の何千万人という人たちへとその感動が波及する。

 心なしか、感動で心中に熱いものがグッとこみあげてきた磯村は、ボディビルに賭けた自分の情熱を確かめるように、今日までの人生をふりかえってみた。

 甲子園でくりひろげられる高校野球は、確かに全国的に大きな感動を呼ぶが、この晴れの舞台に出場するまでの過程では、華やかで、燃えるようなカッカした情熱ではなく、地味で苦しい努力を積み重ねて培かった技と静かな闘志が、この檜舞台で爆発したにすぎない。

 そんな意味では、世間からアッとさわがれるような人気のないボディビルダーのトレーニングこそ、地味で、静かな情熱が大切なのだと思う。これは人生においても同じである。ジックリ目標に向ってコツコツ努力を積み重ねて進む、そんな生き方こそ成功する。一流ビルダーの姿をみると、それがよくわかる。一朝一夕にして、あの逞しい肉体は生まれてこない。

 人生には、いろいろの節目というか転機がある。その節目、節目をうまく良い方向へと導いてくれるのも、常日頃から養なったこの静かな情熱と努力だ。磯村もここにきて転機を迎えた。高校を卒業してから、お兄さんの経営する鉄材会社に勤めていた彼は、ついに今年のはじめ、小岩トレーニング・センターを開設し、ジム・オーナーとして新たな情熱を燃やしている。

 こんなになろうとは、磯村自身、夢にも思わなかった。が、それが結果だとすれば原因はなんだったのだろう。それは、いろいろと仕事は変わってもつねに変わらなかったのがボディビルに対する情熱と努力だったのではないだろうか。
磯村俊夫 昭和18年9月28日生れ 35歳。

17歳でボディビル開始。

1973年JFBB全日本パワーリフティング選手権ライト・ヘビー級でトータル562.5kg(ベンチ・プレス155kg、スクワット192.5kg、デッド・リフト215kg)をマークして優勝。

1975年から1977年まで3年連続IFBBオールジャパン・チャンピオンシップス優勝。

現在、小岩トレーニング・センター会長、IFBB東日本連盟会長。

◇後悔なんかしてないぜ◇

「あんな筋肉のバケモノ、気持ワルーイ」という人もいる。人がなんと云おうと、ボディビルが好きだからしょうがない。そして、出来ることなら、もっともっとバケモノになって世界大会に出たいとビルダーは思う。

 なぜ好きなのか、と問われても答えようがない。ごはんや水のように、日常生活の中にすっかりボディビルが溶け込んでしまっているから、とりたてて説明できないのかも知れない。つまり、好きだというより、もう、ボディビルのない人生なんて考えられないといったほうがいい。

 そんな磯村をみて、中には「磯村の奴、いくらボディビルが好きだからといって、大金かけて、なにも儲からないジムをやることはないだろう」という人もいる。

 これに対して磯村は、「じゃあ、云うけどね、まず、やってみなけりゃわからないだろうってね。最近の若者に多いのは口先ばかりの理屈屋さんだ。自分の好きな道に人生を賭ける。そして悩み、苦しみ、失敗してもまた立ち上がる。これがほんとうの人生だと思う」という。だからボディビルに関しては決して後悔したりあきらめたりすることはない。ただ情熱をもって前進するだけだ。

 人は磯村は根性がある、という。それに対して彼は「自分じゃ根性だなんて思ってはいません。好きなことを冷静に計画を立てて、着々と実行しているだけです。それを根性と呼ぶなら呼ぶとして、どこで養なわれたかというと、やはり、子供の頃、家が貧乏だったこと、それに、すべてに素質があるほうじゃなかったから、ついつい努力するくせがついたんじゃないかな」と冷静に自分を分析する。

◇万年補欠◇

 「私の生まれたところは、東京都中央区の月島です。NHKの〝おていちゃん〟に出てくる浅草のように、人情の厚い東京の下町です。生まれて間もなく第二次世界大戦がひどくなって、神奈川県の御殿場へ疎開して、小学校3年までいました。

 なんでそんな古い話を持ち出すかというと、想い出、それもつらい想い出があるんです。

 というのは、おやじがひどいバクチ好きでね、終戦後、小さな駄菓子屋をやっていたんですが、ただでさえ食うや食わずだというのに、ちょっとお金ができるとすぐにバクチですよ。最後には家具から衣類まで全部バクチのかたにとられて、夜逃げ同然で母の実家のある押上に引越してきたんです。

 それに、私の兄弟は6人もいたんで母はずいぶん苦労したと思いますよ。夜逃げなんかは、人の心を委縮させますからね。当時、子供心にも、男は真面目に努力しなきゃあいかん、とつくづく思ったものです。

 その後、中学は曳船中学、高校は向島商業へと、まあまあ順調に進みましてね。高校に入ってすぐ野球部に入りました。別に素質があって引っ張られたというわけじゃないんです。だから輝やかしい実績はまったくなく、ずーっと万年補欠で卒業しました。

 でも、努力は人一倍やりました。自分でいうのもなんですが、私は当時からコツコツ型でハデさはないんです。しかし、高校時代の万年補欠は、私の人生にとってプラスになったと思います。誰だってカッコよくやりたい盛りの年頃に、ガマンして耐えることを学んだんですから。

 これは、のちにボディビルを始めてからも同じでした。私が確か21才のときでした。後楽園ジムで本格的にボディビルを始めた頃、遠藤光男さん、後藤武雄さん、飯富幸雄さんたちがいましてね、同じようにトレーニングしているのにみんなはどんどん発達していってコンテストに入賞するのに、私はどういうわけかほとんど発達しないんです。でも、高校時代の万年補欠で慣れていますから、あきらめたり、止めようなんて考えたことは一度もありませんでした。

 当時、ウソもかくしもなく、私は将来必ずチャンピオンになれる、と素直な気持で確信していました。高校は3年で卒業だけど人生は何十年とある。だから努力さえしていけば必ずいつかみんなを追いこせると思ったんです。

 ジムもそうです。まだ経営は苦しいが、ジックリ努力して、将来はきっと立派なジムに育てようと思っているんです。私は自信も情熱もあるつもりです」
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◇ボディビルとの出合い◇

 「話は前後しますが、高校時代、野球部に籍を置きながらも、心のどこかに、力強さや、立派な体に対する憧れがありました。また、団体スポーツより自分1人の力を試すスポーツに憧れてていたことも事実です。

 プロレスのはなやかなころで、レスラーの逞しい体に、まず兄貴が影響されましてね。どこから探してきたのか、コンクリート製のバーベルでトレーニングを始めたんです。私が高校3年のときでした。

 私も見よう見まねでやってみたが、ほとんど効果らしい効果は見られませんでした。しかし、インスピレーションというか、何か自分の性格に合った運動のように思えました。

 やがて高校を卒業し、兄貴がはじめたばかりの鉄材会社を手伝うことにしたんです。鉄材会社といっても最初は鉄屑屋です。そのうち、高度経済成長の波にのってだんだん手をひろげ、建築用の鉄材や鋼材を扱うようになったんです。とにかく忙しく無我無中でした。なにしろ扱うものが鉄ですから、かなり体力も使いますが、やはり、仕事とトレーニングは違ってボディビルのかわりにはなりません。ひまをみてはボツボツとコンクリート・バーベルでトレーニングを続けていました。

 商売の方も慣れたし、だいぶ安定してきたので、なんとか本格的にボディビルをやってみたくて、21才のとき、前述した後楽園ジムに入会しました。とにかくびっくりしました。みんなへラクレスか仁王様に見えるんです。ようし、俺もああなってやるぞ、と時間のゆるす限りトレーニングに励みました。ところが、1年たっても2年たっも、私の体は良くならないんです。でも私はあきらめませんでした。高校時代から万年補欠には慣れていましたから」

―つづく―
[1973年度全日本パワー選手権にて]

[1973年度全日本パワー選手権にて]

月刊ボディビルディング1978年10月号

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