フィジーク・オンライン

-44歳にしてまだ発達をつづける!!-
ポージングの芸術家 エド・コーニー
〈その2〉

この記事をシェアする

0
月刊ボディビルディング1978年12月号
掲載日:2018.07.03
国立競技場指導係主任 矢野雅知
 エド・コーニーは、1933年にハワイはホノルルで生まれた。したがって今年で44才ということになる。44年間、すべての情熱が、ボディビルディングに向けられたわけではない。当然のごとく、ハワイにそだったコーニーは、サーフィンに熱中していた。毎日のように浜辺に行っては、サーフ・ボードをかかえながら、波に突進していったのだろう。
 彼が14才の頃のことである。例によって砂浜でねっころがってゴロゴロしているとき、ヒョイと見上げると“モンスター”がノッシノッシとこっちにむかってくるではないか。
 「出たァァ!」
 ガバッと身を起して目をこすってみれば、その怪物はまぎれもなく人間にちがいない。しかし、どうみても人間というよりは、筋肉のバケモノといった方がよい。
 たしかに、知らない人にはこのときのリーブスとアイファーマンがバケモノと映っても当然であったかもしれい。もっとも、こんなことでビックリしているようでは、夜道でセルジオ・オリバあたりがニュッと現われて、あの顔つきで迫ってくれば、まず若い娘さんなら腰を抜かしても不思議じゃないだろう。
 え――、ともかくこれが、彼がボディビルダーというものの存在を意識した最初の体験であった。
 だが、このときの体験はそのまま意識の底に沈んでしまい、高校を卒業するまで、ボディビルディングについてはまったく忘れていた。その後、船の乗り組み員となって4年間を過すと、カリフォルニアのアラマダに移った。
 そんなある日のこと、彼はボディビルダーのチームとバレーボールの試合をすることになった。「奴らはやたらと筋肉をつけているが、あんなもんはぜんぜん役に立たない。まったくもってムダな肉をつけたもんだゼ」と、コーニーは思い込んでいた。そして、コーニーがジャンプしてスパイクを決めれば、ボディビルダー達はほとんど動くこともできずに、鈍い動きで口だけパクパク開けて白旗をかかげるハズであった。
 ところが、ここに信じられない光景が展開された。彼らの打つスパイクは強烈であり、ジャンプすればはるかに高いところまで手が伸びてくる。「そんなバカな。何でムダ肉しかついてない奴らが、こんなにパワフルで動きがいいんだ?」
 信じられないおももちでゲームをやっていたコーニーは、顔面にイヤッというほどボールをたたき込まれて気がついた、というわけでもなかろうが、このときの衝撃が、結局彼をボディビルディングに走らすことになる。そして、「コーニー、君もボディビルディングをやりたまえ」と彼らにすすめられて、心は決まったのである。
 当時、コーニーは、体重64kg、身長168cmの標準レベルの男性であった。彼は今の64kgぐらいがちょうどよいと思っていたが、もっと筋肉をつけて大きくしても、少しもスピードが落ちないということがわかったので、ただちにアメリカン・ヘルス・スタジオに行った。そこで説明を聞き、デッカイ男たちがトレーニングしている姿を見るや、「オレもあんなになれるゾ」とひとりでに興奮してきて、ただちに入会届にサインしたのである。
 このヘルス・スタジオには、ビル・パールを撃破してミスター・ユニバースとなったジャック・デリンジャーやアラン・ステファンといった、一流ビルダーが来ていた。こういったドデカいビルダーが、重たいバーベルを持ち上げて、筋肉をピクンピクンと動かしているその横で、10キロのダンベルでインクライン・カールをやっているコーニーとでは、まったく大人と子供ほどの違いがある。
 「彼らに比べて、あまりにも私は貧弱だった。オレはいったい何をやってんだろう?」と嘆くこともあったそうだが、“ネバー・ギブアップ”コーニーはコーチから与えられたプログラム通りにトレーニングをやった。デリンジャーやステファンといったビックマンを目の前にして、自分のからだがひどく貧弱に見えたことが刺激となって、彼をしてボディビルティングに熱中させたことは確かであった。トレーニングの効果が現われてきて、徐々に体も大きくなってきたが、それでもフィジーク・コンテストに出場しようなんてことは、まったく考えていなかったようだ。
 ともかく、こうして26才のエド・コーニーは、ボディビルダーとしてのスタートを切ったわけである。


このあとは、再びサマー氏のインタビューをもとにして、他の資料をおりまぜ、ややアレンジしながら彼に語ってもらうことにしよう。



――26才でボディビルディングを始めて、最初にコンテストに出場したのは何年後?


コーニー
 10年後だ。


――ということは、36才のときか?


コーニー
 イエス。


――なるほど、ふつうのコンテスト・ビルダーなら、もうボツボツ引退しようかナという年令になって、ようやくコンテスト・ビルダーとしての人生を歩みはじめるとは、めずらしいケースだ。で、最初のコンテストはどうだった?


コーニー
 あれは確か、1967年のミスター・フレモントだった。私の体重が72kgのときに、トレーニング・パートナーと一緒に出場したところ、ワン・ポイントの差で私が優勝、パートナーが2位だった。すると仲間の1人が「なぜ、もっと大きなコンテストに出ないんだ?」というのでそれでは、とAAUのミスター・カリフォルニアに出てみた。すると第4位に入った。これで気をよくしてますますハードなトレーニングをやり始めたのだ。


――そのあとは?


コーニー
 次の年、私は技術屋として海外に行っていたので、コンテストには出られなかったが、すでにボディビルディングは私の生活の一部になりきっていたので、韓国、日本、ベトナムとまわっているときにも、トレーニングは欠かさなかった。
 翌年、海外からもどってきて、本格的にウェイト・リフティングをやり始めた。


――ほほう、37才頃からウェイト・リフティングをやるなんて、やはり珍しいケースだ。


コーニー 
 それで、私の筋力はグングン上昇していったので、ウェイト・リフティングとフィジーク・コンテストの両方をやってやろうと、89kgの体重で北カリフォルニアのコンテストに出場した。


――結果は?


コーニー
 トータル620kgを持ち挙げたが入賞まではいかなかった。だがフィジーク・コンテストでは第2位になった。このコンテストの結果が私の転換期となった。


――それはどうして?


コーニー
 ウェイト・リフティングとボディビルディングは、明らかに両立できないと分かったからだ。トレーニングではそれぞれ違ったタイプの練習をやらなくてはならないので、一方に集中すれば、他方がおろそかになってしまう。
 ウェイト・リフティングでは筋力だけを要求されるが、フィジーク・コンテストではカットを出さなくてはならない。どちらかに集中しなくてはとても勝てないとわかったので6ヵ月後にあるというAAUミスター・カリフォルニアを目指して、すべてボディビルディングに集中することに決めた。
 その結果、6ヵ月で体重を17kgも落して、ベストのシャープとなり、72kgの体で、97kgのサイ・ヤングと激突して、部分賞を含むすべてのタイトルを独占して、1971年度のミスター・カリフォルニアとなった。


――ミスター・カリフォルニアを獲れば、次は当然、その上のコンテストを狙うと思うが、もちろんAAUのミスター・アメリカにうって出たんだろう?


コーニー
 イエス!私はヨークに行って、ミスター・アメリカにチャレンジしたが、結果は第4位であった。その年は、ケイシー・バイターがタイトルを獲得した。


――確かそのときは2位がピーター・グリムコースキー、3位がビル・セイント・ジョーンだったと思うが。


コーニー
 そうだ。しかし、私は実際には第2位になって当然だと思った。


――そんなことがあって、IFBBの方に移っていったの?


コーニー
 そういうわけではないのだが……。
 そう、私がボディビルディングを開始した1957年頃は、ブルース・ダンラール、レジ・パーク、スティーブ・リーブスなどがスターであったが、私がコンテストに出るようになって、新しいコンテスト・ビルダーを見るようになった。つまり、ラリー・スコット、セルジオ・オリバ、デープ・ドレイパー、チャック・サイプスなどである。
 その頃からアーノルド・シュワルツェネガーが、めきめき頭角を現わしてきた。私がアーノルドと初めて会ったのは、カリフォルニアのコンテストだったが、私は彼を見て「少し脂肪がのっている」と思ったが、彼もまた、私を「脂肪ののった奴だナ」と思ったらい。
 ともかく、この頃から彼とは親しくなって、すでにIFBBに所属していた彼のすすめで、AAUからIFBBに移ることになったのだ。


――最初のIFBBのコンテストはなんだった?


コーニー
 それはロスで行われたミスター・アメリカだった。まず、ミスター・ウェスタン・アメリカを獲って、ミスター・アメリカに出場したが、第3位であった。
 優勝はケン・ウォーラーだったがボイヤー・コー、ビル・グラント、ピーター・カプトといった一流のボディビルダーと闘ったのかと思うとよく第3位に入れたものだと我ながら驚いたものである。
 そのあと、ニューヨークで行われたIFBBミスター・USA・コンテストに出場したが、あの偉大なハロルド・プールがいた。私はミディアム・クラスで勝ち、彼はトールマン・クラスで勝ったので、オーバーオールのタイトルを賭けてポージングすることになった。
 ハロルド・プールといえば、私の憧れのビルダーの1人であったが、私は彼を抜いてミスター・USAとなった。このときは自分自身でも信じられない気持であった。
 この時、同時に開催されたミスター・ワールドでは、フランコ・コロンブが優勝して、グッドの小男がグッドの大男を破ったことで大きな反響を呼んだ。


――ところで、君がコンテストでグングン頭角を表わしてくるにつれて、人々は君のポージング・ルーティンに注目するようになってきたが、何か特別の練習でもしたの?


コーニー
 特別に変った練習をしたというわけではないが、幸運にも、もとからポージングのセンスがあったようで、すでにこの頃からベスト・ポーザーをとるようになっていた。
 私のポージングは、いかにして自分自身を強調するかということであるが、試行錯誤をくり返しながら、何度も何度もポージングの練習をして、いろいろのことを身につけていった。


――そうして1972年になるわけだが、この年は君にとって記念すべき年だったのでは?


コーニー
 そう、1972年は最高の年だった。私はアーノルドと一緒にドイツに行ってトレーニングしていたが実にグッドなフィーリングだった。というのは、ある日私は「必ずミスター・ユニバースになる」という確信が芽生えたのである。これはどんなチャンピオンでも一度は体験しているのではないだろうか。とにかく私には、ミスター・ユニバースの栄光の座がすぐ近くまで来ていることをはっきりと感じとれたのである。
 この年、私はニューヨークでのIFBBミスター・アメリカ・コンテストに出場して優勝。再びスモールマンがオーバー・オールのタイトルを獲れるということを証明した。
 このときマイク・カッツはミスター・ワールドとなり、それで私と彼の2人が、バクダッドで行われるミスター・ユニバースのUSA代表となった。ケン・ウォーラーは450kgのレッグ・プレスをやっているときに負傷して、出場できなくなった。
 その頃、チャールス・ゲインとジョージ・バチュラーは、ボディビルディングの本を出そうとして、我々と同行することになった。彼らはボディビルダーというものを、できるだけリアルにとらえようとして、すべて我々と同じように行動した。


――それであの“パンピング・アイアン”の本ができたわけだが、これは意図的に撮られたものだったのか?


コーニー
 いや、それはジョージ・バチュラーの仕事だったが、彼は実にうまくシャッター・チャンスをものにする男で、すべてありのままに撮ったものばかりだ。だからあの本が大きな反響を呼んだのだと思う。


――そのバクダッドのコンテストではどうだった?


コーニー
 マイクと私は、すでにプレジャッジのときから、それぞれのクラスで勝てることを確信していた。彼はトールマン・クラスで、私はミディアム・クラスで勝利を握り、我々はオーバー・オールのタイトルをかけて争うことになった。
 彼は体重108kgの大男で、私は72kgしかない。しかし、私は彼を破って念願のミスター・ユニバースになった。


――そのときの気持は?


コーニー
 確かにうれしかったが、それだけではなく、何かとても複雑な気持でもあった。
 以前、アーノルドが初めてミスター・ユニバースに勝ったとき、彼は私に向って「オレはユニバースにも勝った。こうなれば他にあと何が残っているというんだ。オレはみんな勝ってしまったんだゾ」と言った。
 たしかに、目標を達成してしまうと、再びハードなトレーニングを続けていく意欲がなくなってしまう。私もアーノルドと同じような気持になった。
 「私はユニバースになったんだ。パーフェクトなオーバー・サイズに勝ったんだ。大きな男をすべて破ってきた。私はもはやトップの座に達したのだ」と。
 しかし、よく考えてみれば、まだまだ真のトップではない。もっともっと闘って、勝ち抜かなければほんとうのトップではないと思った。
 その後も私はずっとアマチュアを続けて、ミスター・ワールド、ミスター・インターナショナルといったコンテストで2年間闘ってクラス優勝したが、ミスター・ユニバースに比べたら、そんなタイトルは小さなものだし、それに、実力的にもほとんど伸びていなかった。
 ある日、アーノルドと一緒に映画を見に行ったとき、「ワールドやインターナショナルも大きなタイトルだが、バクダッドのユニバースを目指していたときのように、いまの君は燃えていない。いっそのことプロフェッショナルになってミスター・オリンピアに出たらどうか」と彼に言われた。そうすりゃ、再びコンテスト目指して燃えあがるだろうというわけだ。
 それで私はミスター・オリンピアを目指すようになったのである。


――なるほど、ところでもう一度“パンピング・アイアン”にもどりたいのだが、私はこの本を読んだり、映画を見たりして、大きな感動を受けた。なぜ、ゲインとバチュラーは君を表紙に使ったのだろう。


コーニー
 多分、彼らのイメージに私がぴったりだったからだろう。
 彼らは本を出版したあと、次はそれを映画でやろうと計画して、南アで行われた1975年のミスター・オリンピアに向けてカメラを回わしていた。そのために、彼らはボディビルディングについてかなり勉強していたようだ。


――確かチャールス・ゲインは、他にもボディビルディングの本を書いてそれは“スティ・ハングリー”という映画になったはずだ。残念ながら私はこの映画は観てないが、君も出演していたの?


コーニー
 おお、イエス。他にも多くのビルダーが出演しているが、スターはもちろんアーノルドだ。撮影は“スティ・ハングリー”の方が少し早く、我々はこれを撮り終えたあとすぐ“パンピング・アイアン”の撮影に入った。


――それはたいへんだった。で、“パンピング・アイアン”の撮影はどうだった?


コーニー
 我々は南アのミスター・オリンピアに向けて、トレーニングに集中していた。バチュラーはできるだけリアルに撮るために、我々がトレーニングしているときは、リハーサルはいっさいやらずに、そのままフィルムに収めた。カメラは我々を忠実に記録していくため、うまくセットされていたが、トレーニングのじゃまはしないようにしていた。

(つづく)
記事画像1
月刊ボディビルディング1978年12月号

Recommend