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ヤブにらみスポーツ講座8
極真空手とパワー・トレーニング

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月刊ボディビルディング1981年4月号
掲載日:2020.05.11
国立競技場〈矢野雅知〉
 南海・亜窟両先生の「スポーツと年齢」についての論議は、いつしか武道論、極意論へと進んでしまい、私などの理解を超えたレベルになってしまった。
 そこで、一般のスポーツ競技者のみならず、武道家の基礎トレーニングとしても重要な位置を占めるようになってきたウェイト・トレーニングに、再び焦点を合せてゆこうと思う。とくに今回からは、机上の空論としてではなくて、極真空手家のウェイト・トレーニングについて、その事実にもとづいて稿を進めてゆきたいと思う。
 それというのも、亜窟先生の「若い空手家のトレーニングに対する姿勢は今の若手ビルダーの参考になるであろうし、ひとつの警鐘にもなる。彼ら空手家の意欲・根性たるや、そこらのビルダーではとてもお目にかかれないほど、凄まじいものだ」という言葉に、私も同意し、ぜひその実体を知ってほしいと思ったからである。
 今回はフィクションではなく、ありのままの空手家のウェイト・トレーニングを伝えるために、亜窟先生としてではなく、本名の阿久津秀雄氏として登場してもらう。

パワー・アップに着目した空手の佐藤勝昭選手

 話は今から約5年ほど前にさかのぼる。国立競技場トレーニング・センターに、骨太でガッシリとした体格の男が入ってきた。身長1m80、体重90kgの巨漢である。誰れの目にも常人とは異なって映った彼は、周囲を威圧するというのではなく、30歳になるには、まだ2~3年はあろうというのに、すでに武道家としての風格がただよっていた。かなりの修練に耐え抜いてきた精神的な深さ、意志の強さといったものが、その表情、態度から読みとれた。彼の名は佐藤勝昭。“地上最強のカラテ”として有名な極真会館のパワー空手の代表格である。
 その佐藤師範は、全日本の覇者となるほどの実力を備えておりながら、自分のパワーにはまだもの足りなさを感じていた。師の大山倍達館長からは、基礎体力、ことにパワーの重要さは、十分に教えられていたはずである。だが、本部道場で本格的なウェイト・トレーニングをやるには十分な器具がそろっていなかったし、本格的にウェイト・トレーニングを指導するものもいなかった。
 それでも、以前から窪田登教授のトレーニング関係の書物を読みあさっていたので、日本人のパワー不足を充分に認識しており、ふだんでも鉄ゲタをはき、自分なりのパワー・トレーニングを行なっていた。そのため、極真空手家の中でも随一のパワーを誇っていたのである。
 そして、1974年の全日本選手権では予想通り二度目の優勝を果した。だがこれは、翌年秋に行なわれる第1回世界選手権の、いわば前哨戦ともいえた。すでに海外支部にも指導に行っており、外人勢のパワーの強さは認識している。世界大会では、外人の強豪にも、まずワザでは負けないだろう。だが、パワーでは彼らにまだ水をあけられている。だから、パワーでも彼らと同等、いや、パワーでも強豪外人勢を打ち破らなくてはならないという使命を、この全日本の覇者はもっていた。
 そこで、本格的なウェイト・トレーニングで、窪田教授の直接のアドバイスを受けるために、教授が指導主任をしている国立競技場のトレーニング・センターに入会したいというわけである。
 「それだけの体格をしているのだから、鍛えればまだまだパワー・アップできるし、またそれだけの素質があると思う。とくに肩が重要だから、もっと肩を強くしなさい・・・」
 窪田教授のアドバイスはまさに的確だった。そのため、わずか数ヵ月間で驚くべきパワーの向上がみられた。

阿久津先生と佐藤選手の出会い

 この頃である。若手ビルダーの育成に情熱を注いでいた阿久津秀雄氏とめぐり会い、佐藤師範は阿久津先生の心意気にうたれ、阿久津先生もまた、佐藤師範の人格の深さに魅了されて、肝胆あい照らす仲となる。
 佐藤師範が世界大会に向けて全身全霊を打ち込んでトレーニングする姿を見て、「ハードな練習で緊張しっぱなしでは、かえってトレーニングに集中できなくなってくる。練習後のリラクゼーションも、ときには必要である」というような、精神面でのアドバイスを阿久津先生は行なっている。ハードトレーニングを終えたあとなどに飲みに行っては、
“男心に男が惚れて、意気がとけ合う赤城山・・・”
 と、肩を組んで歌ったりしている。窪田教授や私もよく同席したが、猛練習を続けてゆくには、こうした精神的にリラックスできる機会を持つことはやはり必要なことなのだろうと感じたものである。
[リング・サイドで激をとばす阿久津先生]

[リング・サイドで激をとばす阿久津先生]

佐藤選手、ついに世界を制す

 こうして第1回の世界選手権大会の開催となった。
 私はリングサイドで観戦していた。やはり、強豪とされる選手は順当に勝ち残ってきていた。その中に、ワザの切れ味では極真随一といわれた優勝候補の一人に、二宮城光選手がいた。四国の芦原英幸ケンカ十段の教えを受け、アメリカで生活をしている。この二宮選手が「あわや・・・」というところまで追い込まれた。たしか準々決勝の前であったろうか。「はじめ!」の合図とともに早大の三瓶選手がダッシュして、アッという間に空手着は引き裂かれて、二宮選手は心の平静を取り戻す余裕もないまま、大乱戦となった。
 とにかくすごい試合であった。二宮選手は勝つには勝ったが、そのあまりの戦いに疲労が激しく、次の試合では時間順延の措置がとられたほどであった。このときの猛烈な闘いぶりに、私は「三瓶啓二」という名を強く印象づけられた。
 佐藤勝昭師範はこの大会で優勝し、初代世界チャンピオンとなった。阿久津先生をはじめ、窪田教授等をまじえて幾度も祝勝会をやったが、その頃である。佐藤師範は阿久津先生に「この男は見込みがあるんです。面倒をみてもらえんでしょうか」と引き会わせたのが、当時はまだ早大学生であった三瓶選手である。阿久津先生は回想していう。
「佐藤は、パワー・トレーニングを本格的にやれば、まだまだ伸びる底知れない素質をもっていたが、自分がアレコレと言うこともないほど、体力のみならず、全体にかなりのレベルにまで到達していた。だが、三瓶は気性は激しいが、からだはまだまだできあがっておらず、基礎体力を養成するには、かなり厳しくやらなくてはならないと思った」
 そして、世界大会の翌年、1976年の全日本選手権では、世界大会で佐藤勝昭師範と名勝負を展開した佐藤俊和選手が、念願の初優勝をとげた。
 翌1977年の全日本選手権大会では、三瓶選手の早大の先輩で“東北の雄”東孝選手が、外人勢が最も恐れるローキックを武器に優勝した。
 東選手のローキックの破壊力はスゴかった。第1回の世界大会のとき、極真の天才児といわれた東谷選手が、ウイリーウィリアムスと並ぶアメリカの巨人チャールスと闘った。さしもの天才児も、チャールスの前では畏縮して、自分の攻撃間合にとび込むこともできないほどであった。だが、身長175cmの東選手は、こんな長身の強豪とぶつかっても、平然と前にでてローキックでメッタ打ちにし、相手は戦意を喪失してギブアップしてしまうほどであり、私の目にはこの破壊力が焼きついていた。
 阿久津先生は、この東選手や三瓶選手を伴って、若木竹丸先生の庵に出向いている。
 言うまでもなく、極真空手の総帥大山倍達館長は、若い修行時代、戦後の焼け野原の中で、若木先生から「怪力法」の指導を数日間にわたって受けている。この訓練が、世界のマス・オーヤマとなる基礎となったのである。
 若木先生のトレーニングにのぞむ態度は、ときに常識はずれと思えるほどの話が飛び出してくる。いわく―
「1日2時間ぐらいのトレーニングでは、一人前になるには十年かかる。だが、3年で事を成すには、1日10時間のトレーニングが必要である」
「これ以上やったら、もはや肉体が破壊されてしまうというところ、そうなったところから本当のトレーニングが始まるのだ。肉体の限界とは想念のはるか上にある。日本一になりたい、ということでは決して大成できん。常に世界一を目指す意気込みがなくてはこうした真の意味での怪力法は続行できん!」
 こういった一つ一つの言葉の重みを実際に理解しているのは、地上最強を誇る極真空手でもチャンピオン級の選手であろうし、彼らを指導しようという阿久津先生等そう多くはないであろう。
「若木先生は、我が国におけるボディビルディングおよびパワーリフティングの先駆者である。怪力法は当時の競技者や武道家に多大の影響を与えたが、一般的なレベルでボディビルディング、つまりはウェイト・トレーニングをポピュラーに発展させていったのは窪田先生である。窪田先生が、科学的、理論的にわが国に照介し、普及させたのである、その功績はひじょうに大きい。だから自分は窪田先生を尊敬しているので、先生の理論を彼らのコーチに生かそうとした」
 このように、阿久津先生は語っている。だが、これから詳細に紹介してゆく三瓶選手達にやらせたトレーニング法は、若木先生の主張する「実際の肉体の限界は、想念のはるか上にある。そこに到達するには、理論をも超えた精神の力以外にはありえん!」という言葉に集約されている、と私には思えるものであった。
[第2回世界空手選手権決勝。中村と三瓶(手前)]

[第2回世界空手選手権決勝。中村と三瓶(手前)]

パワーの大切さを知った三瓶

 1978年、すなわち第2回世界選手権大会の前年には、規則的に阿久津先生のコーチを受けてきた三瓶選手は、グッと地力をつけ、全日本を狙える存在となってきた。ところがここに、身長185cm、体重100kgをゆうに超える巨漢が立ちふさがってきた。本部道場の地獄の猛稽古を経てきたこの男は、ただ体力にまかせたパワーだけに頼っているのとはワケが違う。基本が身についた巨漢なのである。これが中村誠選手であった。
 決勝で両者は激突した。勝敗は決せず延長戦にもつれ込む。しかし、ここでわずかな差が出はじめてくる。中村選手の巨体から繰り出す突きは、並みの選手なら一発でぶっ飛ばすほどの破壊力がある。決定打が出ないまでも、ジリジリと三瓶選手は押されて、ついには中村選手の優勢勝ち。全日本チャンピオンとなる。
「三瓶はワザやスピードで敗れたのではない。強大なパワーに敗れたのだ」
 リングサイドで激をとばし、たえず指示を送っていた阿久津先生は、中村選手の底知れないパワー空手を、いやというほど見せつけられた。
「来年は第2回世界大会だ。今のままでは中村に勝てん。基礎からやり直しだ」あらためて阿久津先生は、パワー・アップのトレーニング・プログラムを再検討して、帰ることにした。
 その真意は、「並みのことをやっていては、並みの奴には勝てても、それを超える相手には勝つことが出来ない。さらにその上をゆくことをやらなくてはならん」ということにつきる。
 トレーニングはさらにハードなものとなり、腹筋運動などは、カウントを数えている方が疲れてしまうほどこなすようになった。
 こうして第2回の世界選手権大会を迎えることになった。
 この頃、週刊誌でウイリー・ウィリアムスの超人的な強さが世評をにぎわしていた。黒人特有のしなやかなバネに加えて、トレーニングで鍛え込んだ鋼鉄のような肉体はとび抜けていた。なにしろ“熊殺しウイリー”である。
 予想通り、世界大会でのウィリアムスの強さは群を抜いており、秒単位で相手をKOしてしまう。たった一発の攻撃で相手はもんどりうってしまうという凄まじさである。各国から集まってきた強豪が、ウィリアムスの前ではまるで赤ん坊のごとき存在になってしまう。恐ろしいまでの強さであった。
 一方、全日本の覇者となり、今大会の優勝候補の一人に数えられていた佐藤俊和選手も好調で、ある外人選手などは、彼にキッとにらまれただけで震えあがり、手も足も出さずに逃げ回っていたほどである。佐藤選手とウィリアムスは、準々決勝で激突した。
 映画や週刊誌で見知っている人も多いであろう。佐藤選手のローキックがウィリアムスに効いたのであろうか。脚を攻撃されないようにして、突きの連続攻撃に切り換えてきた。延長戦にもつれ込みはしたものの、さしもの佐藤選手もアバラを折られて一本負けとなった。

三瓶、熊殺しウイリーを破る

「ウィリアムスの前に立ちはだかる選手は、はたして存在するのだろうか?」
 すぐ目の前でこの壮絶な試合を観戦していた私は、そう思わざるをえなかった。だが阿久津先生は、
「たしかにウイリーは強い。だが三瓶ならあれぐらい打たれてもだいじょうぶ。奴はそれだけのトレーニングをやってきたのだから充分に勝機はある」
 そう言っていた。
 準決勝のウイリー・ウィリアムス対三瓶啓二選手の対戦は、ウィリアムスの突然の態度の硬化(少なくとも一般にはそう映ったハズである)で、反則負けとなった。このときウィリアムスは、野生の本能を見せ、反則覚悟で三瓶選手の空手着をつかんで蹴り倒そうとした。それまでの対戦相手なら、もんどり打って倒れたであろう。だが、阿久津先生のいう通り、三瓶選手はビクともしなかった。トレーニングの効果がハッキリと示されたのである。
 結局、ウィリアムスは反則負けとなりながらもガッツポーズをとり、不可解なあと味を残したが、ともかく前年の全日本大会に続き、中村誠選手と三瓶選手の両者で優勝を争うことになった。
 やはりハッキリした勝敗がつかず、延長戦にもつれ込み、さらに延長を重ねたが、さすがに体力、パワーにまさる中村選手が優勝となり、二代目の世界チャンピオンとなった。
「まだダメだ。中村を破るには、今のトレーニングをさらに強化しなくては、どたん場になってスタミナが切れてパワー負けしてしまう」
 再び阿久津先生は、中村選手の底知れないパワー空手の力を認めざるをえなかった。はじめは互格に打ち合っていても、体格でひと回りもふた回りも大きい中村選手と対戦していると、スタミナの消耗が激しく、結局パワーが衰えて守勢にまわってしまう。
「こうなったら、何としてでも中村を破って、三瓶を日本一にしなくてはならん」
 阿久津先生の決意はきびしかった。
(つづく)
月刊ボディビルディング1981年4月号

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