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重量挙と共に歩んだ60年
バーベルこそ我がいのち

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月刊ボディビルディング1981年5月号
掲載日:2020.05.20
語る人・・・井口 幸男  ききて・・・玉利 斉

中学時代から強い体力に憧れを

玉利―先生、どうもごぶさたしております。今日はひとつ、日本の重量挙げを世界の重量挙げにまで育てられた先生の体験談を忌憚なく語っていただきたいと思います。その間、何十年という悪戦苦闘の歴史がありまた、先生も大いに血と汗を流されて来たわけですが、そんな赤裸々なお話が、同じバーベルを握るボディビル界の人達にもいい刺激になるでしょうし、重量挙げの人達にも、そういった先輩たちの苦労、努力があって、はじめて今日の栄光があるんだというかとがわかると思います。
 いずれにしても、重量挙げ、ボディビルディング、パワーリフティング、すべてバーベルを主体としたこれらのスポーツが、ガッチリ手を握り合って、これからの日本人の体位の向上、体力の増強に貢献していきたいという願いをもって、今日は先生にいろいろお話していただきたいと思います。
 まずはじめに、先生が日本で最初に重量挙げを始めようとしたキッカケというか、動機についてお話しください。
井口―古いことから申しますが、私は岡山県の勝山という島根県に近い中国山脈のふもとに生まれたんですが、小さいときからワンパクというか、負けず嫌いでした。そして、県立勝山中学校に通った5年間というものは、とにかく体を鍛えることに夢中でした。
 というのは、当時から私は背が低く、いつも小さい方から1~2番でしたが、これは生まれつきですから仕方ありませんが、自分の努力で強くなれる体力では、誰にも絶対に負けない実力をつけようという気持で頑張ったものです。
 まず朝は、どんなに寒くても、起きるとすぐ井戸水で冷水摩擦をしたあと、自分で庭先につくった鉄棒で懸垂をして朝食、それから雨や雪が降らないかぎり中学校までの約20kmの道を自転車で通ったものです。
 学校では陸上部に入っていましたから、放課後は砲丸投げ、槍投げ、鉄棒などを、連日、日が暮れるまでやっていました。
 だから、中学の5年間で自分でもびっくりするくらい体力がつきまして、当時の力自慢の若者がよくやった腕角力、押し棒、ねじ棒などでは学校でも、村の青年団の人達でも、私に勝てる人はいなくなりました。それで、ますます体を鍛えるということに興味をもったわけです。
[井口幸男氏]

[井口幸男氏]

[玉利斉氏]

[玉利斉氏]

体操学校で重量挙げに興味を

玉利―先生が将来、重量挙げをライフ・ワークとしてやっていこうとお考えになったのはその頃ですか?
井口―いえ、もっとあとです。その頃は、まだ日本では重量挙げは誰もやっていなかったんです。
 当時、高等女学校に行っていた姉が、何かの雑誌に載っていた力技家でサーカスにいたジョン・ケンテルや、牛と対決したことで有名な女性力技者、アネダ・グージーの写真を見せてくれたんです。それを見て、人間は鍛錬すれば必ず強くなれるんだ、という確信を抱いたんです。
 そして、よし、それではもっと本格的に体を鍛えてやろうと思って、昭和6年に、日本体育会体操学校に入ったんです。
 この学校は全寮生だったんですがたまたま私と同室になったんのがゲン・キトクという朝鮮出身の人で、この人は朝鮮で重量挙げのチャンピオンだったんです。
 当時、朝鮮では盛んに重量挙げが行われており、オリンピックにも出場していました。その他、中学校では鉄アレイなんかも広く教えていたんですね。これは日体大の大先輩であるジョ・ソウテンという人が中心になって何人かの指導者を養成して体位・体力の向上の手段として体育の時間にやっていたんです。
玉利―現在も韓国では高校・大学でウェイト・トレーニング、いわゆるボディビルを正課としているそうですが、もうすでに、当時から競技としての重量挙げと、体を鍛えるための手段としてバーベル運動をとり入れていたわけですね。
井口―そうです。さっきのジョ・ソウテンという人が、ボブ・ホフマンのボディビル雑誌などを取り寄せて研究していたんです。そして、最初に“力技”つづいて“現代体力増進法”なんていう本をあらわしていたんです。私も読みましたが、図解入りで19種目ほどの運動法が紹介してあり、全種目を5回ずつ連続して出来たら、重量を1ポンド増やせ、なんて書いてありました。
玉利―いまの、どの種目を何回、何セットというやり方ですね。
井口―そうです。話が少し横道へそれましたが、その朝鮮チャンピオンに重量あげ3種目を教えてもらいながらやってみたところ、彼にほとんど負けないんですね。教えてくれたゲン君もびっくりしていました。

若木竹丸氏の筋肉の凄さに驚く

玉利―向うは重量挙げを専門に何年間もトレーニングした選手で、先生は全くの自己流だったんでしょう。
井口―そうです。私は俵や石をかついだり、押し棒、ねじ棒なんていう昔からの力比べしかやったことはなかったんです。それが正式にトレーニングした人に負けないんです。体格もフェザーにいったりライトでやったり、私とほぼ同じくらいだったんです。
 それで私も大いに自信がつき、興味をもったわけです。当時、ゲン君がもっていた鉄アレイは確か16ポンド(約7.2kg)くらいだったんですがこれでは軽すぎて効果がないので、九段の健康堂という運動具店で、16貫(約60kg)の鉄アレイを15円で購入して、朝、晩はもちろん、昼休みや自習時間にもやるという具合に、猛烈にやりました。
ちょうどその頃、キングという雑誌に、若木竹丸さんのことが載ったんです。確か、鉄アレイで物凄い筋肉と怪力をつけたということを、頭山満翁が推奨されて、お2人の写真が載ったわけです。
 その雑誌をゲン君が学校の休みに朝鮮に持って帰ったところ、向うでも大きな反響をよび、ひとつ朝鮮に招待しようということになり、ゲン君が朝鮮日報から旅費として80円預かってきて、私とゲン君で、当時、湯島に住んでおられた若木さんをお訪ねしたわけです。これが若木さんとの最初の出会いなんです。
[選手時代の井口幸男氏]

[選手時代の井口幸男氏]

玉利―それは昭和何年ですか?
井口―確か昭和7年です。それから2~3回、若木さんをお訪ねしたことがありますが、なんといっても一番驚いたのは、ダンベルの大きさでした。私の持っていたのが60kgでしたが、それよりずっと大きいんですね。それになお鉛をつけて重くしてあるんです。
 おそらく重量は70貫(約260kg)か75貫(約280kg)くらいはあったと思いますが、それで、“寝ざし”をやって見せてくれたんです。私も今まで力では人に負けたことはなかったんですが、世の中には強い人がいるもんだ、上には上があるもんだと思いました。
 それで私が「どうして鍛えたんですか」と聞くと、「僕はこのダンベルで1日数時間トレーニングするほか、階段をのぼるのにも腕でのぼった」というのです。
玉利―つまり、腕を脚にしたというわけですね。
井口―そうです。そのとき神田川徳蔵(本名・飯田徳蔵)さんという方がたまたまやってきましてね、この方は体重が90kgくらいあって、“石あげ”の日本一といわれた人ですが、若木さんが「ひとつ、ほんとうに力の強いところを見せてやろう」といって、寝て腕を伸ばした両手に徳蔵さんをのせて、ぐっと頭上に持ち上げてしまったんです。
玉木―いまでいうストレート・アーム・プルオーバーですね。バーベルのように握るところもない90kgの人間をプルオーバーするとは驚きましたね。
井口―またその体がもの凄かったですね。三角筋は“お供え餅”のように段がついてもりあがっており、大胸筋はぐっと張り出して、脇の下の気が広背筋と大胸筋の奥の方にチラッと見えるという凄さでした。私はほんとうに化け物を見たという感じでしたね。
玉利―とにかく若木さんといえば、重量挙げ界、ボディビル界を問わず伝説的な方ですからね。
井口―話が少しそれましたが、結局若木さんと飯田徳蔵さん、そんに徳蔵さんの甥の一朗君の三人が朝鮮に招待されたんです。結果は、3種目のトータル1位は飯田徳蔵さんで、若木さんは上半身が発達しすぎていて、筋肉がじゃまをして、バーベルを持った腕がうまく上がらなかったということでした。
玉利―若木さんは力は抜群だったが正規のバーベルで競技としての重量挙げの練習をしていなかったということですね。その点、徳蔵さんの場合は得意の“石あげ”のやり方が、いくらか重量挙げのスタイルに似ていたから有利だったということはあるでしょうね。
井口―その頃、朝日、読売、毎日といった一流新聞に力技者のことがよく掲載されましてね。九州の北畠という人はこんなことができる、岡山の平川という人はこんなことができると、写真入りで紹介されたものです。
 そしてあるとき、体操学校にも髪のうんと長い大河原という力技者が来ましてね、講堂で力技を見せたんです。15貫(約56kg)の鉄棒を剣道の竹刀のように振りまわしたり、コンクリート・ダンベルを上げて見せたりしたんですが、最後に、誰か出来ると思う人がいたら、ここに出て来てやってみろ、というんですね。
 それでみんなが、私に出ろ、出ろというので、出てやってみたんですが、いとも簡単に出来たんです。コンクリート・ダンベルが90kgくらいでしたから、こんなのをプレスするのは私にとってはどうということはなかったんです。それで、力技者といっても、それほど大したことはないと、ますます自信を深め、また刺激にもなりました。
 ところが、体操学校では、体育理論からみて、力技のような怒責作用のある運動で鍛えた体は、ヘラクレス型になり持久力がないからダメだというんです。その点、陸上競技などで鍛えたヘルメス型は、柔軟性もあり、持久力もあるから、これが理想的だというんですね。だから私達がいくら力説してもぜんぜん通らないんです。
 若木さんなどが「何を馬鹿なことを言ってるんだ。ヘルメス型をもっと鍛えていけばヘラクレス型になるんだ」といって反撃したんですが、なかなか理解してくれなかったんです。
 しかも、体操学校を卒業して全国の学校の体操の先生をしている人がみんなそういうふうに教えられているんですから、どうにもならなかったんですね。
玉利―それは昭和何年ごろのことですか?
井口―昭和7、8年のことです。
玉利―それと全く同じことを、ちょうどそれから20年後の昭和27~28年に我々がボディビル協会を設立しようとしたときにやられていますよ。体育関係者や医者などから、やれ怒責作用がよくないとか、やれ筋肉が固くなってダメなんて、いやというほどけなされました。
[特別注文で作らせたバーベルで練習する慶応教師時代の井口氏]

[特別注文で作らせたバーベルで練習する慶応教師時代の井口氏]

日本で最初の公式バーベル

井口―学校を卒業した私は、郷里の岡山に帰って小学校の先生になったんですが、どうしても重量挙げのことが忘れられず、トロッコの車輪を持ち込んで朝晩練習をやったものです。しかし、私の心の奥底には、私が人生を賭けて、世のため、人のために出来ることは、重量挙げの全国組織をつくり、これを普及すること以外にはない、せっかく親から授かったこの頑丈な体を資本にして、がむしゃらにやるしかないという考えがあったんです。
 それで先生をやめて東京へ出て来て、文部省の体育研究所に就職したわけです。
玉利―つまり、ずっと以前から鉄アレイなどで体を鍛えていた人はいたけれども、組織もなく正式な競技会もなかったので、その人たちは個人としていわゆる“力比べ”とか“筋肉づくり”に終始したんだが、先生の場合は、体育の専門学校を出られただけに、バーベル・トレーニングを教育的価値、体育的価値という面で取組まれたということに意義がありますね。
井口―私が体育研究所に入ったのが昭和8年ですが、ちょうどその頃、1940年(昭和15年)のオリンピックが東京で開催されるということになり、その準備としてオーストリアから競技用のバーベルを購入したんです。そして、これをサンプルとして日本で何組かつくりました。そのうちの1組をいまも私はもっていますよ。
玉利―貴重品ですね。それは何kgぐらいのものです?
井口―157kgです。あとはほとんど戦争で焼けただれたりしてないと思います。
 まあ、こうしてバーベルはそろったが、今度は、正式の重量挙げの競技規則というものがわからないんですね。そこで八方手をつくして、やっとフランスから取り寄せて研究を始めたわけです。
 それまで私達は、ゲン君から教わっていましたから、だいたいのことは分ったんですが、スナッチだけはどうにも困りました。前後開脚のときに膝をついていいのか、わるいのか、サポーターをつけたりしてずいぶん苦労しました。
 そして、東京オリンピックの前のベルリン・オリンピックを目指して猛練習をつんで、よし、いよいよオリンピックの予選会を開いてもらいたいと、当時としてはかなり無理なお願いをしたところ、それではと、体操連盟の一部門として昭和11年5月、第1回重量挙選手権大会が行なわれることになりました。
玉利―そうすると、重量挙げは最初体操連盟に所属していたんですか。
井口―そうです。そしてこの大会で私はフェザー級で優勝し、これでやっとオリンピック出場の夢がかなえられるぞと喜んだんですが、結局は行けなかったんです。当時の体協の平沼会長に直訴したりしたんですがまだ組織もなく、競技人口も少なかったので、体協の中に重量挙げを理解してくれる人もほとんどいないという状況だったので、いま考えてみれば止むを得なかったんですね。
 そして、昭和12年に関東重量挙選手権が行なわれまして、このときも私は優勝しました。
[軍隊時代も石臼に丸太棒をとおして練習していた]

[軍隊時代も石臼に丸太棒をとおして練習していた]

慶応普通部の体育教師に

玉利―そのときはもう重量挙協会はできたんですか。
井口―まあ一応はありましたが、同好の士が集まったという程度でしたから、大会などは、選手自身が準備から運営、すべてをやらなければ、他の役員たちは重量挙げそのものをほとんど知らないんですから。
 それから昭和12年に召集令状がきて中国に渡ったんです。昭和14年まで軍隊にいたんですが、その間は、バーベルなどはもちろんないですから、真中に穴のあいた石ウスの石に丸太棒をとおして暇をみては1人で練習していました。
 召集解除になって、昭和15年に慶応普通部の体育の先生になるんですが、私は、中学生の体を鍛えるには重量挙げが一番いいという信念がありましたので、全国で始めて慶応に重量挙部をつくったんです。
 そして、普通部主任の橋本先生に重量挙げの用具を買っていただきたいとおそるおそる申し出たんです。とにかく当時はバーベルは特注しなければないんですから値段も高いんです。確か320円でした。
玉利―当時の大学出の初任給が50~60円の時代でしょう。ずいぶん高かったんですね。
井口―ところが、それをふたつ返事で買ってくれたんです。それで、私の持っていた1台と合わせて2台そろったわけです。そして、何とか全校生徒に重量挙げの良さを知らせる機会はないものかと待っていたところ、たまたま講堂にみんなが集まる機会があったので、演壇で実演して見せることにしたんです。ちょうど飯田徳蔵さんの息子さんが明治大学に在学しており、重量挙げをやっていたので来てもらって模範演技をしてもらいました。
 これで部員も相当集まるんじゃないかと期待していたんですが、これが期待はずれで、一向に集まらないんですね。
 翌昭和17年には満州建国10周年記念の東亜大会がありまして、私はこれにぜひ参加させてくれと申し込んだんですが、組織もなく加盟団体でもないのでダメだとすげなく断わられたんです。そこで、三島通陽会長に直接会ってお願いしたところ、よし、行かせてやろうということになり、旅費や用具の運搬費として300円くれました。
 それで慶応の用具を荷造りしてはる新京まで行きました。
玉利―その大会には重量挙げとしては何人参加されたんですか?
井口―私1人ですよ。とにかく重量挙げを普及したいと思っても、頼る人がいないんです。競技の運営でも組織でも、何でも自分がイニシアチブをとってやらなければ、何ひとつ進まないんです。
玉利―大へんなご苦労でしたね。創生期には何でもそうですね。
井口―そのうちに米軍の空襲がはげしくなってきまして、私も命より大事なバーベルをどうして守ろうかと悩んでいたとき、安藤組の社長の息子さんが、「先生、うちには立派な防空壕があるから、そこに保管しておいてあげましょう」と言ってくれましてね、早速、あずけたんですが、それで僕のバーベルは焼けずにすんだんです。これが、戦後、日本でバーベルをつくるときの見本になったんです。(つづく)
月刊ボディビルディング1981年5月号

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