★ビルダー・ドキュメント・シリーズ★
勇気ある旅立ち
月刊ボディビルディング1979年12月号
掲載日:2018.09.25
1979IFBBオールジャパン・ミドル級3位
増淵 聖司
増淵 聖司
---川股 宏---
[ボディビル開始前の増淵選手]
◇少年時代の苦境◇
現在のその人の姿を見ると、そこには必ず過去にその人が歩んだ苦しさ、楽しさの年輪がくっきりと刻まれている。
人間の一生という未知への旅は、人それぞれ幾多の危機やチャンスが訪れては去る。その危機を乗り越え、チャンスをつかんで、前向きに一歩一歩進むことができるかどうかで人生の幸、不幸がきまる。とくに、少年時代に訪れる危機や転機が、その後の人生に最も大きな影響を与える。
少年時代、苦境の中で、好むと好まざるとにかかわらず鍛え抜かれた忍耐力こそ、事を達成させる源といえる。
ここに紹介する増淵聖司の子供の頃の苦境から得た貴重な体験と、そこから培われた忍耐力が、人生の目的達成ばかりでなく、ボディビルという肉体美を競うスポーツにおいてすら大きな影響力を与えている実例である。
“お花見”・・・・・誰でも一度や二度は両親とつれだって見にいったほのぼのとした想い出があるにちがいない。増淵は、この楽しいはずのお花見やみんなが喜々として楽しむ運動会等、人の大ぜい集まる場所を見ると、きまって想い出すことがある。
しかし、それは決して心うきうきするような楽しい想い出ではない。増淵は、物心がつく4才の頃から、手押し車に、ゆで玉子や駄菓子をつんで、母と一緒に人の集まる遊楽地で物売りの行商をしたことが頭に浮ぶのだ。
1個売っても雀の涙ほどのもうけにしかならない商いだったが、子供なりに一生懸命になって母の手助けをしたものだった。それにまた、増淵が当時住んでいた神戸の新開地からは、六甲山や宝塚といった人の集まるところがたくさんあり、行商にはうってつけの場所だった。
これでわかるように,増淵の家庭が貧しかったことは事実としても、第二次大戦の敗戦によってこういう状態になってしまったのであり、世にいう母子家庭や生活保護家庭だったというわけではない。心から尊敬する父や、仲のよい弟や妹もいた、ごく普通の家庭であった。
増淵の祖父にあたる佐平さんは、若い頃、海外に大きな夢と希望を持ち、この狭い日本から飛び出してシンガポールに移住した。若さにみなぎるバイタリティと情熱に育てられた祖父の能力は、たちまち開花し、現地シンガポールはもちろん、本国、日本においても有名になった人物であった。小型ジョン万次郎である。
その子として生まれた父、陽二氏は子供の頃から何不自由なく育てられ、成長するにしたがい、父に似て、その夢を大いなる海へとはぐくんだ。そして、祖父の期待と自分の夢とを、外国航路の高級船員としてつないだのだ。
当時、陽二氏のとった舵は順風万帆、羅針盤の上を一寸のくるいもなく進むかに見えた。が、しかし、日本を囲む世界の情勢が少しずつ変化を見せ、ついに第二次世界大戦へと突入していった。
そして増淵が生まれた昭和19年当時は、敗戦の暗雲が日本全土を真黒におおいかくし、ついに昭和20年、無条件降伏という無残な終結をみた。
祖父佐平氏は、営々辛苦してシンガポールに築いた全財産を没収された。そして自分の人生の夢、ここに期すと悟ったのか、日本刀で縦横十文字に腹をかき切って、波乱万丈の生涯を閉じた。
そして父は、乗る船を失ない、失意のどん底につき落とされた。海外雄飛に人生を賭けてきただけに、そのショックは大きく、立ち直れないまでの痛手を負ってしまった。まさに岡に上がったカッパであった。このことが、死ぬか生きるかのすさまじいあの終戦時の生存競争が増淵一家を人生の修羅場におとし入れた理由である。
明けても暮れても海を相手にして生きてきた父が、船を失なったからといって、急に商売替えできるものではない。当時、すべてが統制経済で、法の目をくぐって商売ができるほど彼の父は器用ではなかった。父も大いに悩んだが、どうしようもないほどの環境の変化であった。
こうして、増淵の幼年期は“焼け跡の生活”という人生の試練をいや応なしに味わうことになる。だが、このことが、あとで人生を歩む上でプラスになるなどということが理解される年令ではなかった。
人間の一生という未知への旅は、人それぞれ幾多の危機やチャンスが訪れては去る。その危機を乗り越え、チャンスをつかんで、前向きに一歩一歩進むことができるかどうかで人生の幸、不幸がきまる。とくに、少年時代に訪れる危機や転機が、その後の人生に最も大きな影響を与える。
少年時代、苦境の中で、好むと好まざるとにかかわらず鍛え抜かれた忍耐力こそ、事を達成させる源といえる。
ここに紹介する増淵聖司の子供の頃の苦境から得た貴重な体験と、そこから培われた忍耐力が、人生の目的達成ばかりでなく、ボディビルという肉体美を競うスポーツにおいてすら大きな影響力を与えている実例である。
“お花見”・・・・・誰でも一度や二度は両親とつれだって見にいったほのぼのとした想い出があるにちがいない。増淵は、この楽しいはずのお花見やみんなが喜々として楽しむ運動会等、人の大ぜい集まる場所を見ると、きまって想い出すことがある。
しかし、それは決して心うきうきするような楽しい想い出ではない。増淵は、物心がつく4才の頃から、手押し車に、ゆで玉子や駄菓子をつんで、母と一緒に人の集まる遊楽地で物売りの行商をしたことが頭に浮ぶのだ。
1個売っても雀の涙ほどのもうけにしかならない商いだったが、子供なりに一生懸命になって母の手助けをしたものだった。それにまた、増淵が当時住んでいた神戸の新開地からは、六甲山や宝塚といった人の集まるところがたくさんあり、行商にはうってつけの場所だった。
これでわかるように,増淵の家庭が貧しかったことは事実としても、第二次大戦の敗戦によってこういう状態になってしまったのであり、世にいう母子家庭や生活保護家庭だったというわけではない。心から尊敬する父や、仲のよい弟や妹もいた、ごく普通の家庭であった。
増淵の祖父にあたる佐平さんは、若い頃、海外に大きな夢と希望を持ち、この狭い日本から飛び出してシンガポールに移住した。若さにみなぎるバイタリティと情熱に育てられた祖父の能力は、たちまち開花し、現地シンガポールはもちろん、本国、日本においても有名になった人物であった。小型ジョン万次郎である。
その子として生まれた父、陽二氏は子供の頃から何不自由なく育てられ、成長するにしたがい、父に似て、その夢を大いなる海へとはぐくんだ。そして、祖父の期待と自分の夢とを、外国航路の高級船員としてつないだのだ。
当時、陽二氏のとった舵は順風万帆、羅針盤の上を一寸のくるいもなく進むかに見えた。が、しかし、日本を囲む世界の情勢が少しずつ変化を見せ、ついに第二次世界大戦へと突入していった。
そして増淵が生まれた昭和19年当時は、敗戦の暗雲が日本全土を真黒におおいかくし、ついに昭和20年、無条件降伏という無残な終結をみた。
祖父佐平氏は、営々辛苦してシンガポールに築いた全財産を没収された。そして自分の人生の夢、ここに期すと悟ったのか、日本刀で縦横十文字に腹をかき切って、波乱万丈の生涯を閉じた。
そして父は、乗る船を失ない、失意のどん底につき落とされた。海外雄飛に人生を賭けてきただけに、そのショックは大きく、立ち直れないまでの痛手を負ってしまった。まさに岡に上がったカッパであった。このことが、死ぬか生きるかのすさまじいあの終戦時の生存競争が増淵一家を人生の修羅場におとし入れた理由である。
明けても暮れても海を相手にして生きてきた父が、船を失なったからといって、急に商売替えできるものではない。当時、すべてが統制経済で、法の目をくぐって商売ができるほど彼の父は器用ではなかった。父も大いに悩んだが、どうしようもないほどの環境の変化であった。
こうして、増淵の幼年期は“焼け跡の生活”という人生の試練をいや応なしに味わうことになる。だが、このことが、あとで人生を歩む上でプラスになるなどということが理解される年令ではなかった。
[1979IFBBオールジャパン・ミドル級3位入賞の増淵聖司選手]
◇運動に明け暮れた少年期◇
『ちょっとした困難にぶつかると、すぐに夢や希望を失なってしまうのは小さいときから甘やかされて育ち、欲しいものはなんでも周囲から与えられてきたからである。そして困窮に耐えさせられた経験も少なく、日ごろ激しく鍛えられた経験も持っていない。だから、ちょっとしたことで挫折しまうのです』と心理学者はいう。
たしかに、夢や希望は他人から与えられるものではなく、自分自身で描きそして長い期間にわたって努力して獲得しなければならないものであろう。
その点、増淵は、幼年時代は敗戦による悲惨な状態を経験し、そして少年期になってからは先輩から激しく鍛えられるという貴重な体験をつんだ。
ザァー、体中の神経が麻ひしたような、もうろうとした体に冷たい水がかけられる。「チクショウ!負けてたまるか!」やっとの思いでフラフラと立ちあがる。ザァー、再びバケツの水をかけながら仁王立ちの先輩の叱咤がとぶ。「立て!そんな根性でどうする。立って走るんや!」
こんなスパルタ特訓が、増淵が中学生時代に籍を置いた“兵庫中学陸上競技部”の毎日であった。
「なにしろすごかったですね、いま想い出すと......。私は中距離ランナーを目ざしてトレーニングしていたんですが、その練習というのが無茶苦茶で倒れるまで走らせるんです。そして、水をかけて、フラフラなのをまた走らせる。一番きびしかったのは、練習の最後にやる部員同志の競争で、これにビリにでもなろうものなら、そりゃ大変です。校庭を10周というような罰があるんです」
ともあれ増淵は、幼時期の苦しさによる抵抗力や、夢を追う若獅子のような祖父の生き方を受けついだのか、やり始めたら途中で止めるのが大嫌い、むしろ、途中で止めることが罪悪とさえ思う性格となっていたし、のめり込んだら最後、物にしなければおかないというファイトの持主に育っていた。
こんなスポーツを愛し、スポーツに明け暮れていた増淵だが、その反面、絵に対する素質も並々ならぬものがあった。小さい頃から紙とエンピツで時と場所を選ばずよく絵を書いた。そして小学生から中学生にかけて、展覧会に出して賞をもらったことが度々あり、大きくなったら画家になりたいというほのかな希望をもつようになった。
スポーツと絵、変な組み合せのようだが、とことんそれを追求するガン固さに、祖父の海外、父の海へのあこがれ以上のものがあったのは、この血筋のせいかも知れない。
陸上と絵に熱中した中学時代も終り神戸市の神港高校へ入学する。
高校へ入学しても、依然として絵とスポーツという二本柱は変わらなかったが、その合間をぬって、好きな絵を生かしてデザインのアルバイトを始めたのもこの頃である。
陸上も高校へ入ってからハードルに転向したが、2年生になって間もなく体に異常が出はじめたのである。
「今でもその理由は判りませんが、おそらく、ハードルを飛び越すとき、体全体をねじるので、そのときのゆがみからくるのでしょうか、肩が痛くてしょうがないんです。ショックでした、ほんとうに。そのことが原因で陸上はあきらめざるを得なくなってしまったんです。
それにもう1つショックが重なったのは、私は小さい時、結核の一歩手前といわれる肺しゅんじゅんを患ったことがあるんです。それを中学時代のスパルタ訓練で克服したことが、私に大きな自信をつけてくれたんですが、その自信もガラガラとくずれてしまったんです。そのあげく、少しヤケになりほんの一時ですが不良仲間に入ってケンカをして歩いたりもしました。
が、すぐその舵も進路を修正して、今度は持てる情熱とエネルギーの発散の方法として応援部に入ったんです。「オッス!三三七拍子 ハイ、チャッチャッチャツ」と励んだ結果、押されて今度は応援団長になってしまった。その当時を想い出して彼はいう。
「そうですねェ、やっぱり甲子園での応援が一番想い出されますね。それが縁で、高校時代に大型捕手としてならした現在巨人軍の吉田君とはいまでも交際していますよ。彼は後輩ですがね......」その当時、硬派としてならした彼と、今の彼とはとても同じ人とは思えない。
やがて高校も最上級生となり、自分の進路を決めなければならない時期がきた。
1枚のキャンバスに、自分の体の中にギュウギュウつめ込まれている自分独特の色や形、そして心も思いきり描きたい。夢も希望も、そしてこのほのぼのとした気持さえもぶつけて描いてみたい。ふり返えれば、今までの自分の中に想い出として残るのはスポーツと絵画だけ。その絵画を、自分の人生へ賭けたとしても不思議ではない。
が、世の中が現実的、金銭的な表面に現われている物を追い求める時代感覚のときに、“絵”などに人生を賭けるのは、変わり者として見られてもまた不思議ではない。
その頃は、父の心の傷も回復し、経済的にいくらか余裕も生じ、将来の絵かきを目指して芸大受験への急速なダッシュがはじまる。子供の頃に味った貧乏や、スパルタ・トレーニングによって養われた不屈の根性が、受験、いいかえれば絵かきになりたいという希望に集中されてきた。
目ざすは東京芸大か大阪芸大---しかし、昨日までスポーツと三三七拍子ばかりやっていた増淵にとって、この難関を突破するのは大へんである。いくら芸大といっても、少しぐらい絵が得意だからといって合格できるものではない。ふだん、他の受験科目などほとんど勉強していなかったのだから無理はない。こうして、にわか作りの受験生へと変身するハメとなった。
たしかに、夢や希望は他人から与えられるものではなく、自分自身で描きそして長い期間にわたって努力して獲得しなければならないものであろう。
その点、増淵は、幼年時代は敗戦による悲惨な状態を経験し、そして少年期になってからは先輩から激しく鍛えられるという貴重な体験をつんだ。
ザァー、体中の神経が麻ひしたような、もうろうとした体に冷たい水がかけられる。「チクショウ!負けてたまるか!」やっとの思いでフラフラと立ちあがる。ザァー、再びバケツの水をかけながら仁王立ちの先輩の叱咤がとぶ。「立て!そんな根性でどうする。立って走るんや!」
こんなスパルタ特訓が、増淵が中学生時代に籍を置いた“兵庫中学陸上競技部”の毎日であった。
「なにしろすごかったですね、いま想い出すと......。私は中距離ランナーを目ざしてトレーニングしていたんですが、その練習というのが無茶苦茶で倒れるまで走らせるんです。そして、水をかけて、フラフラなのをまた走らせる。一番きびしかったのは、練習の最後にやる部員同志の競争で、これにビリにでもなろうものなら、そりゃ大変です。校庭を10周というような罰があるんです」
ともあれ増淵は、幼時期の苦しさによる抵抗力や、夢を追う若獅子のような祖父の生き方を受けついだのか、やり始めたら途中で止めるのが大嫌い、むしろ、途中で止めることが罪悪とさえ思う性格となっていたし、のめり込んだら最後、物にしなければおかないというファイトの持主に育っていた。
こんなスポーツを愛し、スポーツに明け暮れていた増淵だが、その反面、絵に対する素質も並々ならぬものがあった。小さい頃から紙とエンピツで時と場所を選ばずよく絵を書いた。そして小学生から中学生にかけて、展覧会に出して賞をもらったことが度々あり、大きくなったら画家になりたいというほのかな希望をもつようになった。
スポーツと絵、変な組み合せのようだが、とことんそれを追求するガン固さに、祖父の海外、父の海へのあこがれ以上のものがあったのは、この血筋のせいかも知れない。
陸上と絵に熱中した中学時代も終り神戸市の神港高校へ入学する。
高校へ入学しても、依然として絵とスポーツという二本柱は変わらなかったが、その合間をぬって、好きな絵を生かしてデザインのアルバイトを始めたのもこの頃である。
陸上も高校へ入ってからハードルに転向したが、2年生になって間もなく体に異常が出はじめたのである。
「今でもその理由は判りませんが、おそらく、ハードルを飛び越すとき、体全体をねじるので、そのときのゆがみからくるのでしょうか、肩が痛くてしょうがないんです。ショックでした、ほんとうに。そのことが原因で陸上はあきらめざるを得なくなってしまったんです。
それにもう1つショックが重なったのは、私は小さい時、結核の一歩手前といわれる肺しゅんじゅんを患ったことがあるんです。それを中学時代のスパルタ訓練で克服したことが、私に大きな自信をつけてくれたんですが、その自信もガラガラとくずれてしまったんです。そのあげく、少しヤケになりほんの一時ですが不良仲間に入ってケンカをして歩いたりもしました。
が、すぐその舵も進路を修正して、今度は持てる情熱とエネルギーの発散の方法として応援部に入ったんです。「オッス!三三七拍子 ハイ、チャッチャッチャツ」と励んだ結果、押されて今度は応援団長になってしまった。その当時を想い出して彼はいう。
「そうですねェ、やっぱり甲子園での応援が一番想い出されますね。それが縁で、高校時代に大型捕手としてならした現在巨人軍の吉田君とはいまでも交際していますよ。彼は後輩ですがね......」その当時、硬派としてならした彼と、今の彼とはとても同じ人とは思えない。
やがて高校も最上級生となり、自分の進路を決めなければならない時期がきた。
1枚のキャンバスに、自分の体の中にギュウギュウつめ込まれている自分独特の色や形、そして心も思いきり描きたい。夢も希望も、そしてこのほのぼのとした気持さえもぶつけて描いてみたい。ふり返えれば、今までの自分の中に想い出として残るのはスポーツと絵画だけ。その絵画を、自分の人生へ賭けたとしても不思議ではない。
が、世の中が現実的、金銭的な表面に現われている物を追い求める時代感覚のときに、“絵”などに人生を賭けるのは、変わり者として見られてもまた不思議ではない。
その頃は、父の心の傷も回復し、経済的にいくらか余裕も生じ、将来の絵かきを目指して芸大受験への急速なダッシュがはじまる。子供の頃に味った貧乏や、スパルタ・トレーニングによって養われた不屈の根性が、受験、いいかえれば絵かきになりたいという希望に集中されてきた。
目ざすは東京芸大か大阪芸大---しかし、昨日までスポーツと三三七拍子ばかりやっていた増淵にとって、この難関を突破するのは大へんである。いくら芸大といっても、少しぐらい絵が得意だからといって合格できるものではない。ふだん、他の受験科目などほとんど勉強していなかったのだから無理はない。こうして、にわか作りの受験生へと変身するハメとなった。
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