44歳にしてまだ発達をつづける!
ポージングの芸術家 エド・コーニー〈その3〉
月刊ボディビルディング1979年1月号
掲載日:2018.09.09
国立競技場指導係主任 矢野雅知
ボディビルディングに関する初めての本格的な映画ともいえる〝パンピング・アイアン〟は、前号でコーニー自身に語ってもらったような経過をたどって完成された。そしていよいよ映画が公開されるわけだが、そのときの反響などについて、もう少しコーニーに語ってもらうことにする。
――映画のパンピング・アイアンの舞台となった1975年度のミスター・オリンピアはどうだった?
コーニー
そう、私はかなり上位に接近して優勝戦線にくい込んだが、コロンブを打ち破ることはできなかった。
200ポンド以下のクラスには、アルバート・ベックルス、フランク・ゼーン、ビル・グラントといった強豪もいたが、私はこのクラスでのポージングではすべての人を破ってトップであった。しかし、コロンブと私が並んでの比較審査では、コロンブのバックの厚みが大きくものをいって、私は遅れをとり、トータルとしてコロンブに2~3ポイント差で破れ去った。
オーバー・オールのタイトルは、もちろんアーノルドがとったわけだが、この模様はパンピング・アイアンの映画に美事におさめられおり、これが映画のクライマックスとなって、あの傑作が生まれた。
――あなたは映画スターでもなく、オリンピアの優勝者でもないのに、映画のパンピング・アイアンのポスターは、アーノルドではなくてあなたの写真が使われた。これはどうしてだろう?
コーニー
私自身も驚いた。それで、彼らはどうして私を選んだのか尋ねたところ、ありきたりのマッスル・ポーズを好まなかったので、1972年に私がミスター・アメリカになった直後に撮影した写真がいいということで採用したのだと言っていた。
映画がニューヨークで公開されたとき、彼らは5000枚ものポスターを街中に配ったが、それを見た人たちは、ポスターの写真をアーノルドだと思ったらしい。それで私が街を歩いているとき、よく「あッ!アーノルドだ。サインしてくれ」なんて言われたものだ。
――映画がニューヨークで公開されたとき、その反響はどうだった?
コーニー
あれにはびっくりした。映画館はいつも超満員だった。ロードショーだったので、私もプロモーションを手助けするために、ニューヨークに8週間ほどとどまって、映画と一緒に1日4回ものショーをやった。興行的にも大成功だったし、ボディビルディングの普及発展のためにも大へん効果があったと思う。
――1日に4回のショーというのはきついスケジュールだ。しかしその反面、楽しかったんじゃあない?
コーニー
そう、たしかにハード・ワークだったが、面白かった。私は食事を厳格にして、ミッド・シティ・ジムで規則的にトレーニングしてコンディションを調整した。それで映画に魅せられた多数の観客の前でポーズすることに、十分に満足感を覚えていた。
とくに公開初日の夜の観客はものすごかった。多くの有名人が顔をみせ、美しい女性もかなり来ていた。公開1週目には、ボディビルダーのほとんどが映画館に姿を現わしたようだった。それから一般の男性がやってくるようになり、そのあとは、彼らのガールフレンドといった女性が一緒にくるようになった。そしてこれはいいと評価になって、家族づれで来る人や、もう一度観にくる人も多かったようだ。ジャッキー・オナシスなども息子を連れて観に来ていた。
――そういった様々な観客が見に来たわけだが、彼らはどんな反応を示した?
コーニー
観客の中には、それまで一度もボディビルダーというものを見たことがない人がいて、私がポージングをしても、どうしたらよいのかわからないものもいた。しかし、映画がボディビルディングに対する意識をかなり高めたようで、最後には私のポーズも理解できるようになったみたいだ。また、観客からいろいろの質問があった。私は質問に答えたり、写真にサインしたりした。
――ニューヨークでの8週間を終えたあと、どうした?
コーニー
私は次のコンテストの準備のためにカリフォルニアに戻った。映画はその後も大きな反響を得たようだ。アーノルドはカンヌ映画祭に行って人気を博し、パンピング・アイアンは最優秀作品となった。
――そのあと、1976年のミスター・オリンピアとなるわけだが、これはどうだった?
コーニー
この年のコンテストは、まったく期待はずれに終ったといっていい。打倒コロンブを果すべく、再びアーノルドとパートナーを組んでトレーニングをやろうと思ったら、彼は引退してしまった。
そこで自分なりに冷静な判断でもって、「今度のオリンピアでコロンブと闘ったら、勝てるか?」と自分自身に問うてみたら、その答はイエスであった。そこで、私は今までにないほどのハードなトレーニングをして出場したがダメだった。結局、コロンブがオーバー・オールのタイトルを獲り、2位がフランク・ゼーン、3位がボイヤー・コー、そして私が4位であった。
そのあと、なぜ私は敗れたのか分析してみた。今以上に進歩し、次のコンテストで雪辱を果そうと思うなら、どこがよくなかったかをチェックしなくてはならないからである。
私は以前より少し重い77.5kgの体重で出場したのだが、これが問題だとは思えなかった。それよりも、私が1年中、つねにパーフェクトな体調を維持しようとしていたところに問題があったことに気づいた。
コロンブは、コンテスト前はせいぜい80%ぐらいの力でトレーニングをしており、コンテスト当日に着実にベストなコンデションに仕上っていくようにしていたが、私の場合は常に全力を出していた。我々はよくテレビのショーや、ゲスト・ポーザーにひっぱり出されるが、私はどんなときでもパーフェクトな自分を見せようとして、常に全力投球であった。だからコンテストを目前にしたとき、すでにかなり疲労しており、これが本番での明暗となっていたことがわかった。
――むろん、ミスター・オリンピアともなれば、最高レベルでの闘いということになるから、わずかのコンディションの不調でも、大きく勝敗を左右することになってしまうのだろう。
ところで、コンテストに出場するようなときは、どういった心構えでのぞむべきだろうか?
コーニー
そう、まず自分自身のからだというものを、よく知っておかなくてはならない。自分の長所、欠点をよくわきまえてトレーニングするのと、ただやみくもにトレーニングするのとでは、大きく違ってくる。そして、コンテストでは、できるだけ自分のからだを大きく、美しく見せるようにしなくてはならない。それがためには、ジャッジがジーッとからだを点検していくように、よく自分自身というものを知っていて、なおかつ自分に自信を持たなくてはならない。
コンテストでは大きなプレッシャーがかかるが、決して気おくれしてはダメだ。常に勝者のように堂々として、ポージングも自信をもってやることによって、数ポイントはアップするはずである。
――なるほど、たしかにそれは言えるだろう。で、今はどこでトレーニングしているの?
コーニー
フレモント・アスレティック・クラブだ。そこはかなり古いジムで、器具だって十分にそろっているわけではない。しかし、私は何年間も、いろいろのところでトレーニングをやってきたので、器具なんかそろってなくても、他のもので代用してやることを覚えてきた。その気にさえなれば、どんなところでだってトレーニングはできるものだ。私は今のジムで十分に満足している。
――×――×――
このインタビューはまだまだ続く。ともかく、昨年のミスター・オリンピア・コンテストでは、44歳のエド・コーニーが主役を演じたのである。フランク・ゼーンが世界の王座につき、ロビンソンが第2位となっても、観衆が最も興奮し、感動したのは、コーニーのポージングのときであり、彼がミスター・オリンピアとなっても何ら不思議ではなかったという。
世界のボディビル・ファンが注目するミスター・オリンピアは、すでに今年も開催されている。だが、この原稿を書いている10月25日現在、私はまだその結果を知らない。間もなく45歳になるコーニーは、果してどんな成績であったのだろうか。
近着の外国雑誌に、このオリンピアについての予想記事が載っているので少し触れてみよう。
それによると、今年のミスター・オリンピアは、かってない激戦になるだろうというのが一致した見方である。まず連覇を狙うフランク・ゼーンが優勝候補の筆頭にあげられている。そして、25歳の大型ビルダー、カルマン・サカラックがすでに挑戦を決定しており、200ポンド以上のクラスでロビンソンと激突するだろう。もしゼーンの連覇を破るとしたら、このサカラックだろうといわれている。だが、彼の上体は申し分ないが、脚が弱点である。これは短期間では解決できないので、ゼーンと争えばバランスと最後の決めでやや劣ることになろう。
バルクは抜群のダニー・パディラも出場するが、カットがもっと必要だろうし、ロイ・キャレンダーも大きいがバランスに難点がある。とくにカーフが最大のウイーク・ポイント。コーニーやティネリーノも一段と進歩して出てくるにちがいない。
またバーティル・フォックスもエントリーをする可能性もあり、さらにはモハメッド・マッカウェイ、コロンブ、メンツァー、エモットらも出てくるかも知れない。さらには、ラリー・スコット、ビル・パール、サージュ・ヌブレといったベテラン・ビルダーも出場をほのめかしているそうだが、そうなれば、今年のミスター・オリンピアは史上最大のビッグ・イベントになることは間違いない。
(おわり)
――映画のパンピング・アイアンの舞台となった1975年度のミスター・オリンピアはどうだった?
コーニー
そう、私はかなり上位に接近して優勝戦線にくい込んだが、コロンブを打ち破ることはできなかった。
200ポンド以下のクラスには、アルバート・ベックルス、フランク・ゼーン、ビル・グラントといった強豪もいたが、私はこのクラスでのポージングではすべての人を破ってトップであった。しかし、コロンブと私が並んでの比較審査では、コロンブのバックの厚みが大きくものをいって、私は遅れをとり、トータルとしてコロンブに2~3ポイント差で破れ去った。
オーバー・オールのタイトルは、もちろんアーノルドがとったわけだが、この模様はパンピング・アイアンの映画に美事におさめられおり、これが映画のクライマックスとなって、あの傑作が生まれた。
――あなたは映画スターでもなく、オリンピアの優勝者でもないのに、映画のパンピング・アイアンのポスターは、アーノルドではなくてあなたの写真が使われた。これはどうしてだろう?
コーニー
私自身も驚いた。それで、彼らはどうして私を選んだのか尋ねたところ、ありきたりのマッスル・ポーズを好まなかったので、1972年に私がミスター・アメリカになった直後に撮影した写真がいいということで採用したのだと言っていた。
映画がニューヨークで公開されたとき、彼らは5000枚ものポスターを街中に配ったが、それを見た人たちは、ポスターの写真をアーノルドだと思ったらしい。それで私が街を歩いているとき、よく「あッ!アーノルドだ。サインしてくれ」なんて言われたものだ。
――映画がニューヨークで公開されたとき、その反響はどうだった?
コーニー
あれにはびっくりした。映画館はいつも超満員だった。ロードショーだったので、私もプロモーションを手助けするために、ニューヨークに8週間ほどとどまって、映画と一緒に1日4回ものショーをやった。興行的にも大成功だったし、ボディビルディングの普及発展のためにも大へん効果があったと思う。
――1日に4回のショーというのはきついスケジュールだ。しかしその反面、楽しかったんじゃあない?
コーニー
そう、たしかにハード・ワークだったが、面白かった。私は食事を厳格にして、ミッド・シティ・ジムで規則的にトレーニングしてコンディションを調整した。それで映画に魅せられた多数の観客の前でポーズすることに、十分に満足感を覚えていた。
とくに公開初日の夜の観客はものすごかった。多くの有名人が顔をみせ、美しい女性もかなり来ていた。公開1週目には、ボディビルダーのほとんどが映画館に姿を現わしたようだった。それから一般の男性がやってくるようになり、そのあとは、彼らのガールフレンドといった女性が一緒にくるようになった。そしてこれはいいと評価になって、家族づれで来る人や、もう一度観にくる人も多かったようだ。ジャッキー・オナシスなども息子を連れて観に来ていた。
――そういった様々な観客が見に来たわけだが、彼らはどんな反応を示した?
コーニー
観客の中には、それまで一度もボディビルダーというものを見たことがない人がいて、私がポージングをしても、どうしたらよいのかわからないものもいた。しかし、映画がボディビルディングに対する意識をかなり高めたようで、最後には私のポーズも理解できるようになったみたいだ。また、観客からいろいろの質問があった。私は質問に答えたり、写真にサインしたりした。
――ニューヨークでの8週間を終えたあと、どうした?
コーニー
私は次のコンテストの準備のためにカリフォルニアに戻った。映画はその後も大きな反響を得たようだ。アーノルドはカンヌ映画祭に行って人気を博し、パンピング・アイアンは最優秀作品となった。
――そのあと、1976年のミスター・オリンピアとなるわけだが、これはどうだった?
コーニー
この年のコンテストは、まったく期待はずれに終ったといっていい。打倒コロンブを果すべく、再びアーノルドとパートナーを組んでトレーニングをやろうと思ったら、彼は引退してしまった。
そこで自分なりに冷静な判断でもって、「今度のオリンピアでコロンブと闘ったら、勝てるか?」と自分自身に問うてみたら、その答はイエスであった。そこで、私は今までにないほどのハードなトレーニングをして出場したがダメだった。結局、コロンブがオーバー・オールのタイトルを獲り、2位がフランク・ゼーン、3位がボイヤー・コー、そして私が4位であった。
そのあと、なぜ私は敗れたのか分析してみた。今以上に進歩し、次のコンテストで雪辱を果そうと思うなら、どこがよくなかったかをチェックしなくてはならないからである。
私は以前より少し重い77.5kgの体重で出場したのだが、これが問題だとは思えなかった。それよりも、私が1年中、つねにパーフェクトな体調を維持しようとしていたところに問題があったことに気づいた。
コロンブは、コンテスト前はせいぜい80%ぐらいの力でトレーニングをしており、コンテスト当日に着実にベストなコンデションに仕上っていくようにしていたが、私の場合は常に全力を出していた。我々はよくテレビのショーや、ゲスト・ポーザーにひっぱり出されるが、私はどんなときでもパーフェクトな自分を見せようとして、常に全力投球であった。だからコンテストを目前にしたとき、すでにかなり疲労しており、これが本番での明暗となっていたことがわかった。
――むろん、ミスター・オリンピアともなれば、最高レベルでの闘いということになるから、わずかのコンディションの不調でも、大きく勝敗を左右することになってしまうのだろう。
ところで、コンテストに出場するようなときは、どういった心構えでのぞむべきだろうか?
コーニー
そう、まず自分自身のからだというものを、よく知っておかなくてはならない。自分の長所、欠点をよくわきまえてトレーニングするのと、ただやみくもにトレーニングするのとでは、大きく違ってくる。そして、コンテストでは、できるだけ自分のからだを大きく、美しく見せるようにしなくてはならない。それがためには、ジャッジがジーッとからだを点検していくように、よく自分自身というものを知っていて、なおかつ自分に自信を持たなくてはならない。
コンテストでは大きなプレッシャーがかかるが、決して気おくれしてはダメだ。常に勝者のように堂々として、ポージングも自信をもってやることによって、数ポイントはアップするはずである。
――なるほど、たしかにそれは言えるだろう。で、今はどこでトレーニングしているの?
コーニー
フレモント・アスレティック・クラブだ。そこはかなり古いジムで、器具だって十分にそろっているわけではない。しかし、私は何年間も、いろいろのところでトレーニングをやってきたので、器具なんかそろってなくても、他のもので代用してやることを覚えてきた。その気にさえなれば、どんなところでだってトレーニングはできるものだ。私は今のジムで十分に満足している。
――×――×――
このインタビューはまだまだ続く。ともかく、昨年のミスター・オリンピア・コンテストでは、44歳のエド・コーニーが主役を演じたのである。フランク・ゼーンが世界の王座につき、ロビンソンが第2位となっても、観衆が最も興奮し、感動したのは、コーニーのポージングのときであり、彼がミスター・オリンピアとなっても何ら不思議ではなかったという。
世界のボディビル・ファンが注目するミスター・オリンピアは、すでに今年も開催されている。だが、この原稿を書いている10月25日現在、私はまだその結果を知らない。間もなく45歳になるコーニーは、果してどんな成績であったのだろうか。
近着の外国雑誌に、このオリンピアについての予想記事が載っているので少し触れてみよう。
それによると、今年のミスター・オリンピアは、かってない激戦になるだろうというのが一致した見方である。まず連覇を狙うフランク・ゼーンが優勝候補の筆頭にあげられている。そして、25歳の大型ビルダー、カルマン・サカラックがすでに挑戦を決定しており、200ポンド以上のクラスでロビンソンと激突するだろう。もしゼーンの連覇を破るとしたら、このサカラックだろうといわれている。だが、彼の上体は申し分ないが、脚が弱点である。これは短期間では解決できないので、ゼーンと争えばバランスと最後の決めでやや劣ることになろう。
バルクは抜群のダニー・パディラも出場するが、カットがもっと必要だろうし、ロイ・キャレンダーも大きいがバランスに難点がある。とくにカーフが最大のウイーク・ポイント。コーニーやティネリーノも一段と進歩して出てくるにちがいない。
またバーティル・フォックスもエントリーをする可能性もあり、さらにはモハメッド・マッカウェイ、コロンブ、メンツァー、エモットらも出てくるかも知れない。さらには、ラリー・スコット、ビル・パール、サージュ・ヌブレといったベテラン・ビルダーも出場をほのめかしているそうだが、そうなれば、今年のミスター・オリンピアは史上最大のビッグ・イベントになることは間違いない。
(おわり)
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