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★フラッシュ・レポート★
1980IFBB世界選手権に参加して見たこと、感じたこと、学んだこと

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月刊ボディビルディング1981年2月号
掲載日:2020.04.06
IFBB・JAPAN副会長 IFBB・JAPAN国際総局 松 山 玲 子

成田空港出発
――11月26日 午後2時――

 朝4時半、まだ暗いうちに家を出て大阪空港から成田空港へ飛ぶ。11月26日から30日にかけてフィリピンの首都マニラで開かれる1980世界選手権へ日本ティームの代表として、また世界選権へのデリゲートとして、2つの任務を果たすために、マニラへ向うためである。
 例によって、海外へ出立する前夜は一睡もしないで動いている。寝過ごして、取り返しのつかない失敗をすることが恐ろしいのと、目覚し時計で目を覚ますことが、私の頭にはこたえるからである。

 8時半、成田着。マニラへの集合時刻にはまだまだ時間がある。空港内の郵便局へ行って手紙を発送したりしているうちに、昨夜、山口県から汽車でやってきた崎浜選手が、ニコニコ顔であらわれた。早速2人でコーヒー・ショップに行ってコーヒーを飲む。ビールで乾杯の代りに......。
やがて谷口選手が着き、臼井選手の父上といっしょに、白井選手と徳江カメラマン(彼は今回は、正規のIFBB・JAPAN所属のカメラマンとして、日本ティームのメンバーとしてマニラへ行く)が着き、全メンバーがそろった。これで私の心配の第一関門は無事通過した。
 ボーディングまでの1時間はわけなく過ぎて、14:00、私たちは無事離陸した。飛ぶこと4時間、時差で日本より1時間おくれのマニラへ7:15着陸した。
 11月下旬の日本で冬服を着ていた私たちは、機内で夏服に着替えた。たった4時間で私たちは冬から夏へ運ばれ海外旅行をして、めまぐるしい時差と気候の変化に出会う時ほど、自転公転しながら熱い太陽のまわりを運行しているということを、改めて実感する時はない。

マニラ空港着
――11月26日 午後7時――

 私にとっては、今回が3回目のマニラである。第1回は1974年のアジア選手権で、小先秀雪、渡辺好男、坂口賢三、小沢幸雄、磯村俊夫、藤岡義雄の6選手が参加し、第2回は1979アジア選手権で、黒木寿、菊池正幸、阿野田英生の3選手が参加し、どちらの選手権でも日本ティームはかなりいい成績をあげた。

 今年の宿舎にあてられるフィリピン・プラザ・ホテルも、世界選手権の会場であるフィリピン国立コンベンション・センターも、去年訪れて知っている。今回の世界選手権挙行の中枢であトム・オルテガ氏(フィリピンのボディビルの父といわれる人で、松山巌在世中からの友人)夫妻や、フィリピン連盟会長マカシアノ氏とは、もう極めて親しい間柄なので、マニラについては私は何の心配もしない。しかし、あとの4人にははじめてのマニラである。いよいよ現地へ着いたという軽い興奮と好奇心が彼らの眼を輝かせている。
 とまった飛行機から地上に降り立つと、とたんに湿気を含んだ熱い空気が体をつつむ。ああ、やっぱりフィリピンに来たのだなと、改めて感じた。
 空港のロビーに入ると、まっさきにマカシアノ氏の精力的な丸い顔がニコニオして私たちを迎えた。マカシアノ氏のほかに、大勢のフィリピン連盟の人たちも来ている。
 早速に、私たちの首に、いい匂いのする白い小粒の蘭の花でつくったレイがかけられた。ああ、やっぱりマニラに来たのだ、と再び思った。ロビーの中は人でいっぱい。それがほとんど皆海外からこの世界選手権へ参加すべくやってきた人たちである。知っている顔もいくつかある。久闊のあいさつが楽しく交わされる。
 フィリピン連盟の手によって、一切の入国手続、通関手続が終えられ、私たちはフィリピン連盟からのバスでホテルに運ばれることになった。どういうわけか、マカシアノ氏は私を自分の自家用車へ招じたので、日本ティームも皆この車で運ばれることになった。
そのあとからバスがついてくる。
 私たちの車の前をフィリピン警察の
警官がオートバイで先導する。ウーウーとうなって走るオートバイに先導されていくのは、
VIPになったようないい気分である。世界中いろいろの国へ行ったが、このようなことはフィリピンだけである。
 車は、マニラの街を抜けて、ヤシの樹にふちどられている海沿いの道を走りつづけた。やがて見覚えのあるフィリピン国立コンベンション・センターのどっしりした建物が見えてくる。そこを通り過ぎると、もうフィリピン・プラザ・ホテルの玄関である。このホテルは、コンベンション・センターとは芝生の生えた広場をはさんで隣りあわせであり、その距離は100メートルほどである。
 ああ、やっと着いたとよろこんで、ホテルの玄関をはいったとたん、そこに待っていたのは警察官の物々しい荷物と身体のチェックであった。去年はそれほど厳しくなかったのに、今年は先頃、マルコス大統領の暗殺未遂計画事件があったので、このようにチェックが強化されたのだろう。その後も、ホテルへはいるたびに必ず全員に対して行なわれた。これは、日本からこの世界選手権を見るべく前の飛行機でマニラに来た10人の人たちの泊ったミラドール・ホテルでも同様に行なわれたとのことである。

 フィリピン・プラザ・ホテル着
――11月26日 夜――

 南国の夏の日は長く、ホテルについても日はなかなかくれない。着くと早速にホテルの中のスールー・ルームというIFBBの事務本部へ行って、オスカー・ステート氏に日本ティームの到着とティームのメンバーを届ける。
 いつもながら元気で、ニコニコ笑顔を絶やさないオスカー・ステート氏はもう大分のお年とうかがっているが、まだ老眼鏡を必要としない若さで、いつも広いコンテストの会場にひびきわたる朗々たる音声で、きびきびとジャジングを指揮するエネルギッシュな働きは私たちの驚嘆の的である。ひとつ間違えば非常に強くてむつかしい人であるけれども、まともな人には、とてもおだやかな人である。私は、仕事以外のときは、顔さえ合えばいつも冗談をいいあう間柄である。
 この手続きが終ると、ホテルの部屋の割りあてが行なわれた。
そしてそのあとは、フィリピン連盟主催のウエルカム・ディナー・パーティーが待っていた。めいめい部屋で旅装をとき、すぐにパーティーに出かける。
歓迎ディナー・パーティに出かける日本ティーム左から臼井、谷口、松山、崎浜、徳江

歓迎ディナー・パーティに出かける日本ティーム左から臼井、谷口、松山、崎浜、徳江

ディナー・パーティー
――11月26日 深夜――

 パーティーの行なわれたトゥリスム・ハビリオンは、フィリピン・プラザ・ホテルの別棟であって、フィリピン特有の建物である。私たちがはいると、もう数百人の人で広い会場はいっぱいである。いくつもいくつも丸いテーブルがおかれていて、好きなところへ着席する。
 ステージでは映画の上映中で、それが終ると、重要なポストの役員たちが代る代るあいさつをしたあと食事となる。大テーブルに数多くの大皿に盛られたいろいろな種類の料理を、皆は一列に並んで次々と好きなものを好きなだけ自分のお皿にとりわけ、テーブルに戻って談笑しながら、ゆっくり楽しく味わう。IFBBの国際交歓は、いつもこのように気がはらず、気楽にたのしめるように出来ている。
オスカー・ステート氏から舞台でのポージングのしかたを聞く日本ティーム。左から崎浜、谷口、臼井、松山

オスカー・ステート氏から舞台でのポージングのしかたを聞く日本ティーム。左から崎浜、谷口、臼井、松山

フィリピン・プラザ・ホテル
――11月27日 朝――

 昨夜、このホテルについたときは、あわただしくて、ろくにホテルのことを思う暇がなかったが、一夜を過ごした今朝は、このホテルのたたずまいが如何にも新鮮である。昨日、連盟から渡された朝食のクーポン券をもって、地下1階のビエール7というレストランへ行く。
 このホテルは、表の道路と同じ平面にあるが、ロビーからエスカレーターで下りた地下1階は、すぐ前のマニラ湾とホテルとの間の庭と同一平面にある。つまり、このホテルは、落差の大きい崖の斜面をけずって建てたものでロビーの入口は崖の上の道路に面し、地下1階は崖の下の海岸に面しているということである。
 これはちょうど、アカプルコのエル・プレジデント・ホテルとよく似ている。青々とした熱帯樹に囲まれていることも同じである。とくに、このフィリピン・プラザ・ホテルは、ロビーの中のいたるところに熱帯植物を配してムードゆたかな背もたれの高い藤の椅子をおいてある。坐っていると時間を忘れてしまいそうなほど、くつろいだ気分になる。

 分妙を気にして、セカセカと生きている日本の生活は、どこかへ置き忘れてきたようである。スペースをたっぷりとったロビーや、そのまわり、また地下のいくつかのレストランも、それぞれいい雰囲気である。
 壁面いっぱいの硝子窓で、明るい陽光と青葉の緑を部屋から充分にたのしめるこのホテルの、もう1つの特色は客の泊る部屋の区域が極めて静かに落付いていることである。廊下には部厚いじゅうたんをしきつめて足音が聞えぬようにし、エレベーターから降りたそこからもう照明が仄暗くしてある。だから、ここに足を一歩踏み入れたとたん、なんとなく眠いような気分になってくる。
 廊下の要所、要所にはガードマンが24時間立っている。これもまた、マニラの特色である。ガードマンといっても、日本のように制服を着たいかめしいのではなく、私がエレベーターから降りると、部屋の鍵を私の手からとって扉を開けてくれる親切な人も何人かいた。
 ホテルにはプールもあった。マニラ湾の夕陽は国際的にも有名である。その有名な夕陽を映すマニラ湾の水は、決して青くなく、いつも鉛色である。その代り、マニラ湾の防波堤のすぐ内側にあるこのホテルの庭にあるプールは、底の青いタイルの色を透して、ほんとうに美しい青さだった。外側の海の色が青ければ、これほどまでにプールの水の色を美しいと感じることはなかったろう。
 プールのまわりの芝生にたくさんおかれた藤の寝椅子には、いろとりどりの外国選手たちが日光浴をしている。どの選手もリラックスしているのだから、ほんとうのことはわからないながらも、あの体が、コンテストではどんなカットやデフィニッションを出すのかと、ひとりでに偵察本能が働く。
 さて、朝食に行った“ピエール7"では、多くの国々から集った選手たちが、楽しそうに談笑しながら食事をとっていた。献立は、いつものようにセルフ・サービスで、牛乳、ジュース、スクランブルド・エッグ、ベーコン、ハム、ソーセージ、パン、バター、ジャム、果物が好きなだけ取れるようになっており、コーヒーや紅茶という食後の飲物だけは、ウェイターが食卓へ運んでくれる。それぞれダイエットしいる選手たちにとっては、このような方式が何よりである。
 朝食を終えると、この日はフィリピン連盟がバスを2台用意して、希望者を観光ツアーに招待した。
オーストラリヤ・ティームと。左からキャロル・ベネット(女性ビルダー)1人おいて松山令子、リチャード・ヨンカー、ジョン・テリリ、ポール・グラハム(オーストラリヤ連盟会長・IFBB副会長)

オーストラリヤ・ティームと。左からキャロル・ベネット(女性ビルダー)1人おいて松山令子、リチャード・ヨンカー、ジョン・テリリ、ポール・グラハム(オーストラリヤ連盟会長・IFBB副会長)

 観光バス・ツアー
――11月27日 午前――

 臼井選手はプールで日光浴をするために観光バス・ツアーに行かない。あとの4人で参加して、冷房のきいた涼しいバスでつれていってもらう。行先は、広い地域にフィリピン共和国を構成している多くの島々の昔の生活様式や、家屋をありのままに再現したもので、私たちは興味深くそれらを見てまわった。
 1974年にここへ来た時、当時シンガポール連盟会長であったジョン・オング氏はじめ、何人かの人々といっしょにコカコーラを飲んだ小屋もそのままあり、なつかしく思った。
 ツアーから帰り、ホテルのフィエスタ・コーヒー・ショップで食事をとったあと、午後のひとときを利用してベン・ウイダー世界会長の部屋を訪ねてあいさつをし、記念撮影をする。つづいて、ビル・パール氏を皆でその部屋へ訪ねていき、去年、コロンバス・オハイオやロスアンゼルスでひとかたならい親切を受けたことへのお礼をいった。いつ会っても親切で温かい人である。
 午後、フィリピンのTV局の取材で選手たちはプールのそばで写真をとられた。

アジア連盟晩餐会
――11月27日 夜――

 アジア連盟のみのディナー・パーティーが催され、バスで市内の中華料理店へ招かれた。選手たちが食事をしている間に、役員たちは別室で臨時アジア会議を開いた。食事を終えた選手たちは先にホテルに帰ったが、役員たちは残って会議をつづけ、さらに、ホテルに帰ってからも、ロビーで深夜まで会議を続行した。
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 次号では、コングレス(総会)、プレジャッジング、ファイナル・コンテスト、サヨナラ・パーティーなどの模様について紹介します。
月刊ボディビルディング1981年2月号

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