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1981年度第6回ミスター・パシフィック・フィジカル・コンテスト参加行状記
国際親善&コンテスト&観光

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月刊ボディビルディング1981年3月号
掲載日:2020.04.17
日本ボディビル協会理事長 温井国昭

真冬の日本から常夏のグァムへ

 年明けた1月3日、私たちは、恒例となった日本、グァム親善コンテストである「第6回ミスター・パシフィック・フィジカル・コンテスト」参加のため、19時30分、成田空港に集合することになっている。
 今回、私は家族同伴で参加するため家族の者たちは初めての海外旅行とあって、興奮と嬉しさが重なって、朝起きたときから落ちついて家にはいられない様子だ。「早く行こうよ、早く行こうよ」とせがまれて、予定より1時間も早く家を出てしまった。
 成田空港についてしばらくすると、実業団副理事長の山際氏名城大学の鈴木先生、80年度ミス健康美西脇美智子さん、それに今回のコンテストに出場する西脇選手と全員そろった。
 出国手続をすませ、20時30分、30番ゲートへと向う。我々を乗せたJAL941便は21時15分、予定どおり一路グァムに向けて飛び立った。
 離陸後30分ほどして、機内食が運ばれてきた。若鶏のソテー、生野菜のサラダ、パンにごはん、デザートのお菓子、ジュース等々、みんな食欲旺盛で先程、搭乗前に食事をしたばっかりだるというのによく食べる。
 食後、女房と義母は何やらしきりに話し込んでいる。子供は、と見ると、すでに深い眠りに入っている。窓の外は真っ暗やみである。我々は昨年のコンテストの想い出話に花を咲かせる。しばらくすると、スチュアーデスのアナウンスがあった。グァムへの到着時刻、そして現地の天気は晴れ、気温は27度。寒さにふるえあがっていた真冬の日本から、3時間あまりで常夏の島グァムへ来てしまったのだ。
 グァム空港には、いつもこのコンテストでは一方ならぬご協力をいただいているグァム・シンポウ社長のデッド荒川氏と姫路ボディビル・センターの会長で、この大会の役員でもある西川稔氏が、深夜にもかかわらず我々一行を出迎えてくれた。聞けば、この日の早朝便で一足先に到着した宮畑氏、湯山氏、それに町屋、山崎、石井選手たちも出迎えていただいたそうで、お二方の気のつかいようには頭が下がる。
 ああ、やっぱりここは南国だ。真冬の服装なので頭から胸から汗が流れ落ちる。グァムでの一通りの予定表をもらい、バスでフジタ・タモンビーチ・ホテルへと向う。バスは冷房がよくきいており、やっと一息つく。
 グァムでの第一夜が明けた。カーテンを開けると目の前には眩しいばかりの太陽の光青く澄みきった空と海、高くそびえたつヤシの樹々が私たちを歓迎してくれているかのようにさわやかである。こんなに青い空は、いまではとても東京では見られない。
 朝食はホテル内のレストラン・ドミニックで。バイキング・スタイルで、好きなものを好きなだけ十分食べられる。ごはんから味噌汁までバラエティに富んでいる。それに、従業員はフィリピン人が多いが、みな日本語を上手に話すので助かる。
 海岸へ行ってみた。白い珊瑚礁で出来た砂浜、コバルトブルーの底まで透きとおって見える海遠くのほうで波が白く砕ける。ちょうどその辺から海は急に深くなるのだそうだ。太陽の光線の具合により、海の色は幾度となく変化する。その中に一艘のカタマラン船が浮んでいる。まるで別天地にいるようだ。
 砂浜では、すでに今日出場する選手諸君が肌を焼くのに懸命だ。筋肉の塊りが胸を背をと思い思いに南国特有の強い太陽にさらしている。私も筋肉の塊りの一員として、その群の中に参加する。それほど見劣りせず、まあまあの線をいっている(?)と自己満足。コンテスト会場への出発時間は午後2時、それまでの短期間内に出来るだけ黒く焼こうというのだから大変だ。

南国人特有ののんびりムード

 出発の時間がきた。ホテルからバスで会場のあるイパナ・ビーチ公園へと向う。広々とした公園の中央に大きなドーム型のステージがある。早くもアロハ、ムームー、海水着、Tシャツと色とりどりの服装をした50~60人の現地人ファンが、暑い中をレジャーシートやゴザを敷いて待っている。南国人特有の悠然としたおおらかな準備係の人たちの会場づくりなので、少し開幕時間も遅れそうだ。しかし、ファンのほうものんびりと語り合って、誰も文句などはいわない。
 私はじっとその人たちを見ながら、日本でのコンテストと比較してみた。日本でこんなことをしたら、おそらくヤジが飛び、口笛、指笛がなって騒然としてしまうだろう。やはり、日本人はせっかちで、几帳面すぎるのかも知れない。
 そういえば、昨夜というか、今朝というか、深夜、グァム空港に到着した我々は、バスでホテルに向ったのであるが、そのバスの中でもこんなことがあった。
 グァム島も省エネルギーを実施中とかで、迎えのバスも我々専用というわけではなく、他のツアーも一緒の乗り合いバスであった。そのため、近いホテルの順にお客を降ろしていったのだが、一番目のホテルで、ガイドさんがそのホテルに宿泊するお客を連れて、フロントで手続をしてくれているちょっとした待時間にも、バスの中のお客は「ガイドさんは何をグズグズしているんだ」と、すぐ文句が出る。私たちのホテルは二番目だったので、その後のことはわからないが、ますますイライラが高じたに違いない。我々日本人もう少し他人のことも考え万事に余裕ある気持をもちたいものである。
〔西川稔氏の経営するグァム・アメリカン・ヘルス・クラブで最後の調整をする選手たち〕

〔西川稔氏の経営するグァム・アメリカン・ヘルス・クラブで最後の調整をする選手たち〕

コンテスト開幕、石井選手優勝

 いよいよコンテストの開幕である。素晴らしいトロフィーがステージに並べられ、南国の強い光に照らされてさんと輝いている。
 大会々長ジョー浅沼氏の開会宣言により火蓋は切って落とされた。グァムの人気タレント、ジミーさんの司会で審査員の紹介。先ず日本側から最初に私、温井、山際氏、湯山氏、そしてグァム側からタヒチアン・ダンサーのデッド氏とグァムボディビル協会の役員1名の計5名である。
 審査方法は従来どおり日本ボディビル協会の審査規定で実施することになった。ベテランの審査員ばかりなので打合せは簡単に終る。
 つづいて選手入場。全部で15名。その中には2名の女性もいて大会に花をえる。男と女が一緒にコンテストに出ても、規定がどうのこうのと、文句をいうどころか、みんな嬉んでいるところが、いかにもグァムらしい。その頃にはもう歓客はゆうに1000名を越え拍手、口笛で会場は耳をつんざくばかりの盛りあがりようだ。
〔左から私、宮畑氏、グァムの女性選手。鈴木選手、山際氏〕

〔左から私、宮畑氏、グァムの女性選手。鈴木選手、山際氏〕

 いったん選手が退場したあと、司会者は、観客の中に飛び入り出場をする人はいないかと呼びかける。2~3人間違いなくウェイト・トレーニングをやっていると思われる体格のいい人がいて、司会者や観客が出るようにすすめたが、恥かしがって出たがらない。上腕囲が50cmはあろうかという、アロハシャツの袖がはち切れんばかりの若者がいて、もし出場していれば、かなり上位に入賞できたのにと、まことに残念であった。
 予選審査は、ゼッケン番号順に中央ステージで選手が1人ずつ、1分間のフリー・ポーズをとる。終了後、決勝進出者10名がピック・アップされ、決勝審査に移る。
 1番目は山崎選手。定評ある彼の大眼部のキレの良さに、観客は驚き、うしろの方で「馬の脚だ」という声も聞えてきた。
 2番目は町屋選手。上腕二頭筋を強調するポーズ。3番目は鈴木選手。パワーリフティングで鍛えた筋肉と彼独特の流れるようなポーズ。4番目はグァムの選手。キレはあるがバルク不足が目立つ。
 6番目は西脇選手。彼は私たちと一組の飛行機だったため、日光浴の時間が少なく、黒のドーランを塗っての出場。パワーの選手で、いつもは100kg以上ある体重を今日は85gに絞ったので、デフィニッションが素晴らしい。観客の声援にこたえてマッスル・ポーズをサービス。
〔コンテスト上位3選手と西脇嬢〕

〔コンテスト上位3選手と西脇嬢〕

 6番目は、前年度3位、グァムの高校の先生をしているルーベン選手。地元の選手だけに人気はバツグン、ヤンヤの隅矢である。しかし今年は体調を崩したとかで、あまりいい出来ではなかった。7番目も地元の選手で、長身で細身の選手だった。
 8番目、優勝候補の石井選手。上腕囲50cm、良くカットされた上半身、それに負けない下半身の逞しさ、力強いポージング。あまりボディコンテストを見馴れていない現地の人たちにも、石井選手の筋肉美の素晴らしさが判ったようだ。熱狂した観客の口笛、指笛、拍手、まさに興奮のるつぼだ。隣で審査中の山際氏が話しかけてきたが、何を云っているのか聞えない。最高潮である。
 9番目はアメリカの選手。まだ石井選手のときの興奮がさめやらぬ中でのポージングなので、気の毒であった。
 10番目は姫路ボディビル・センターの小川選手。彼は第1回から毎回参加しているので、ファンも多く、声援も多かった。
 次に女性2人が登場。もちろんオープン参加である。最初は金色のビキニをまとった金髪美人。モダンバレーを取り入れたり、男性ビルダーをまねたりして、ちょっと太目の肉体美をぞんぶんに発揮して、これまた大喝染を受けた。次は黒の水着をまとった髪の長い美人。こちらはヨガを主体とした柔軟なポーズで健康美をふりまいた。
 以上で決勝審査は終了した。
 決勝審査発表までのアトラクションは、宮畑豊選手とミス健康美、西脇美智子嬢の華麗なるゲスト・ポージングで観客を魅了した。どこへ決っても美人は得である。「ミチコ、ミチコ、アンコール」の手拍子入りの催促に、西脇嬢は再びステージに戻り、アンコールにこたえた。そして最後に、宮畑選手と西脇壌の共演による息の向った素晴らしいデュアル・ポージングが披露された。
〔宮畑選手と西脇嬢のゲスト・ポージング〕

〔宮畑選手と西脇嬢のゲスト・ポージング〕

 さて、いよいよ1981年第6回ミスター・パシフィック・フィジカル・コンテストの入賞者発表である。会場は一瞬シーンと静まりかえった。
「第3位・山崎選手、第2位・西脇手、第1位・石井選手」
 やはり予想どおり石井選手が優勝した。おめでとう。この調子で今年のミスター日本、そしてNABBAの世界チャンピオンを目指して頑張ってほしい。
 つづいて第4位にルーベル選手、第5位・鈴木選手、第6位に町屋、小川の両選手が入った。
 こうして大成功のうちに大会は無事終了した。選手役員は肩を組み、握手をしてお互いにその労をねぎらった。
 グァムの選手を見て、いつも感じることは、上半身に比べて下半身の弱いことだ。選手たちもそれは解っているらしく、下半身の集中トレーニングをする選手もいるが、効果が現われる前にすぐあきて止めてしまうと現地にもジムを持っ西川会長も頭を痛めていた。「人間辛抱が一番」なんていう言葉も、南国育ちののんびりした彼らには通じないのだろう。
〔グァム・テレビ局のインタビューをうける出場選手たち〕

〔グァム・テレビ局のインタビューをうける出場選手たち〕

歓迎パーティーと観光

 コンテストの終った晩、私たち日本人はイナラハンにある浅沼会長のお宅に招待された。浅沼邸には新戚の方や地元の名士たちが沢山集って私たちを待っていた。私たちがバスから降りると、いっせいに拍手で迎えてくれた。
 庭のテーブルの上には、グァムの郷土料理であるチャモロ料理が30種類以上も所狭しと並んでいる。中でも目を見張るのが子豚の丸焼き。腹の中にバナナの葉を詰め込んで、一昼夜グルグル回しながら焼き上げるのだそうだ。最初、この丸焼きに手を出すのには、かなり勇気がいる。何分にも原形そのままなのだから。「恐いもの見たさ」も手伝って、おそるおそる一ロ、口の中へ……まさに逸品である。おいしいのなんのって、とても言葉にはいい表わせない。皆さんも、機会があったらぜひ召しあがっていただきたい。
 その他、アソテットの木の実をしばって、中にチーズ、ベーコン等を入れオイルで炒めてから炊きあげたオレンジ色のごはん、レッド・ライス。野菜やビーフン、鶏肉などをブイヨンで煮込んだソバ、パンセット、鶏に魚、牛肉、バナナにタロイモの煮物、野菜サラダにスパイスのきいたお新香と、数えあげたらきりがない山海の珍味。飲み物もビールにジュース、コーラと飲み放題。大会もすんで選手も食事制限がなくなり、ただもくもくと食べる。
 グァムの人たちも一緒に食べるのだが、現地の人は、どんな小さな子供でもお客様を大事にする。お客様が全員ご馳走を取らないうちは、決して料理に手を出さない。いつもながら髪の良さに感心する。
 しかし食事の量には驚いた。子供でも私よりたくさん食べるのだ。皿に山盛りに持ってきてペロリと平らげてはお代わりをする。もちろん、大人はそれ以上。とにかくその食欲たるや、すごい。そのせいだろう、どの人を見ても肥満体ばかり。ふだんかなり気にしている私の腹など、現地の人に比べたら実にスマートに見える。
 やがてみんな満腹になったらしく、あちらこちらにグループができて、なごやかな親善風景が見られる。身振り手振りの片言英語だが、何んとか意志は通じるものだ。
 酒が入っているのでみんな陽気である。歌も踊りも出はじめた。石井選手はチャンピオンになっただけに、子供たちにものすごい人気だ。
 ここで地元の人たちの要望で石井、西脇、山崎3選手がポージングを披露した。ステージと違って、目のあたりに見る筋肉のあまりの凄さに、溜息が出、歓声が湧く。
 楽しい一時はまたたくまに過ぎて、お別れの時が来た。みんなで浅沼氏を胴上げし、つづいて西川氏、私まで胴上げされて、おひらきになった。今日のあたたかいおもてなしに感謝し、お礼を述べ、また来年の再会を約束して浅沼邸をあとにした。
 2日目、荒川氏が朝早く朝刊を持ってきてくれた。昨日のコンテストの模様が、英字新聞、日本語新聞、いずれも1面にデカデカと載っている。「写真も大きく出ているので、どこへ行ってもみんなが声をかけてくれるよ」と荒川氏も喜んでいた。いい記念品が出来た。
 今日はバスを1台借り切って島内一周観光めぐりだ。ガイドは荒川氏がかって出てくれた。
 バスは9時30分、ホテルを出発、サンビトーレスロードを通り、マリンドライブ(国道1号線)に出て恋人岬に直行。
 岬はするどく切り立った断崖絶壁である。下を見ると吸い込まれそうだがその眺めは絶景である。
 その昔、スペインの船長に見そめられ、無理に結婚をせまられたチャモロ娘が、愛し合っていた恋人との愛を貫ぬくため、結婚式の日、2人で逃げ出してこの岬に追いつめられ、とうとうここから身を投げたという。2人は離ればなれにならぬよう、お互いの髪を結び合って……。
 こんな悲恋な物語を秘めた岬だが、今はちょっと違う。この岬から、自分の愛している人の名前を叫べば、2人は必ず結ばれるという。ただし、絶対に2人の名前は叫ばぬこと。あとで三角関係のもとになるから。西脇君が盛んに叫んでいたので、ご利益があったかどうか、後日、聞いてみたい。
 恋人岬をあとにして、アガニア湾にさしかかる。ここは太平洋戦争で旧日本軍が上陸した地点だ。冥福を祈る。大酋長キプハの銅像を見ながら、自由の女神のある広場へ。そしてラッテストーン公園で記念撮影をしたあと、ソレダット砦などの名所旧跡を回り、11時30分、ブロディー校に到着。ここは浅沼会長が校長先生をしている学校でさっそく石井選手、山崎選手、西脇選手それに西脇壌が得意のポージングでデモンストレーションを行う。
 昼食後は今大会でご協力いただいた商店に寄り挨拶をしたり、お土産を買ったりして3時、ホテルに帰る。まだまだ日が高く暑いので、子供たちとホテルのプールで遊ぶ。そして夜は、タヒチアン・ダンスを見ながらのディナー・ショウである。
〔水牛に乗ってご機嫌の石井選手〕

〔水牛に乗ってご機嫌の石井選手〕

 3日目、ココス島へ海水浴に出かけた。ホテルからバスで1時間あまりでココス島に渡る船着場がある。今日のガイドさんは、真黒な顔をした50才くらいの大変愉快なチャモロ族の男性である。「ハーイ、お客さん、横井庄一さんが一番困ったこと知ってますか。それは、塩と味の素がなかったことです」と、まじめな顔をしていうので、バスの中は大笑い。なかなかお客をあきさせない話術を心得ている。
 船着場からグラスボートに乗って25分くらいで、グァムの南端にある細長い島、ココス島に着く。グラスボートの船底がガラス張りになっており、美しい海底が手にとるように見える。珊礁湖のゆれる中を赤や青、黄色の熱帯魚が泳いでいる。映画やテレビで見たことのあるあの美しい風景を、いま現実に自分の目で見ているなんて夢のようだ。
 ココス島は海水浴客でにぎわっていた。ほとんど日本人だ。白い砂浜に寝そべり、強い太陽で肌を焼く。みんな来た時とはうってかわり、真黒で、ロをきかなければ現地人と間違ってしまう。
 現地人といえば、ここでびっくりするような大男に会った。「体重は?」と聞くと、なんと400ポンドだと答える。約180gである。そして自分の腹を指さして「中にベビーが4人入っている」とジョークをとばす。宮畑君が思っきり腹をふくらませて一緒に写真をとったが、大人と小人より差があった。
〔体重400ポンドという現地の大男と比べれば私(左)も宮田選手も実にスマートに見えるからうれしい〕

〔体重400ポンドという現地の大男と比べれば私(左)も宮田選手も実にスマートに見えるからうれしい〕

 1時30分、ココス島を後にして帰途につく。途中、イナラハンに寄り、ランチョン・アンティゴを見学してホテルに帰る。夜はグァム新報社招待のカタマラン船にゆられての船上ディナーである。ギターの弾き語りを聞きながら、タモン湾をゆっくり進む。船上から見るビーチもまた風情があっていいものだ。夜星を見あげれば、宝石をちりばめたように星が輝いている。素敵な南国の夜はロマンチックなムードを漂よわせている。
 4日目は1日のんびりと骨休みをしたり、浜辺で遊んだりして、夜はドッグ・レースを見に行く。
 5日目、日中はずっと南太平洋カントリー・クラブでゴルフを楽しみ、夜はフジタのニッパハウスでサヨナラ・パーティー。お世話になった方々の家族も交えてのパーティーで、お互いにすっかり顔なじみなので話はっきず、夜遅くまでパーティーは続いた。そして「来年もまた、きっと来て下さい。待ってますよ」「必ず来ます」と再会を約して別れた。
 6日目、いよいよグァム最後の日となった。大阪方面の人は早朝の便で帰国の途についた。
 どうしたわけか、朝起きたときから息子の機嫌が悪い。誰が話かけても返事もしない。大の仲よしになった西脇さんが声をかけても知らんふり。昨日まであんなに喜んで楽しそうに飛びまわっていたのに、とあれこれ考えてみる。様子をじっと見ていると、ナゾが解けてきた。
 息子を呼んで聞いてみた。案の定、想像したとおりである。日本へ帰るのが嫌なのだ。その気持はよーく分る。大人だってできればこんな天国のようなところにいつまでもいたい。しかし、そうとばかりも云っていられないのが現実というものだ。
 上の娘がいろいろ気を使ってくれたお陰で、ホテルを出るころには息子の機嫌もすっかりなおった。
 14時、荒川氏がホテルに迎えに来てるくれたので空港に向け出発。空港では出国手続から荷物のことまで、なにからなにまで荒川氏が全部お世話くださった。ほんとうに頭の下がる思いだ。
 15時30分、JAL948便、サイパン経由で帰国の途につく。機上で見たタ暮の美しさも忘れられない。
月刊ボディビルディング1981年3月号

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