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★フラッシュ・レポート★
1980IFBB世界選手権に参加して見たこと、感じたこと、学んだこと

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月刊ボディビルディング1981年3月号
掲載日:2020.04.16
レポート=松山令子 写真撮影=徳江正之

コングレス(総会)

コンベンション・センター
――-11月28日午前9時から――

 年1回、世界選手権大会のときに開かれるコングレスは、IFBBの最高決議機関である。IFBBでは、会長も副会長も事務総長も、何ひとつ自分の意志で決定する権限はない。何を決めるのも会議での議決によらねばならない。
 この会議には、ティーム全員が出席するように招かれているので、3人の選手も徳江カメラマンも出席して、オブザーバー席で、IFBBの世界会議とは如何なるものであるかを見る。
 すべての議事が英語で行なわれた。各地域を管轄する各副会長が、1年間の状況を報告し、IFBBに起こった事件を話合って処理し、エジプト連盟が来年(1981年)の世界選手権開催に立候補し、可決された。つづいて、昨日行われたジャッジ委員会で、今回の世界選手権でのジャッジの人選を行なったその結果が発表された。
 今回任命せられたジャッジは次のとりである。
ルーデック・ノゼック(チェコ)
ピーター・ラルフ(イギリス)
ムスターファ・ハフチ(エジプト)
ジュリアン・ブロンマート(ベルギー)
ビル・パール(USA)
ダグ・エバンス(ウェールス)
松山令子(日本)
ジャック・ブロンマート(ベルギー)
ロッド・ミラー(USA)
エングラシオ・ティウ(フィリピン)
トム・オルテガ(フィリピン)

 審査委員会のオスカー・ステート氏は、以上の人選の経緯を説明して“22カ国から、自国のジャッジを世界選手権のジャッジとして推せんがあった。その中から、IFBBの国際ジャッジのライセンスを持ち、充分な審査の能力があり、自国の選手、または、ある特定の選手をひいきしない公正で正直な人であることを基準として、以上の人選をした。ジャッジの審査能力については、IFBB審査委員会は、すべてのジャッジング・シートを保存し各ジャッジの審査内容を具体的に詳細に検討して、その能力と人柄を記録してある”と述べた。
 ごらんのとおり、アジアでは、主催国という理由で決ったフィリピンのジャッジ以外は、アジアからは私ひとりが任命せられた。それだけに、まことに責任が重い。私はよいジャッジングをして期待に答えねばならないと心に誓った。
 その他に、IFBBは、各国加盟連盟には、選手権へ選手を送るのと、会議に代表を送るのは同等の重さの義務であるので、これを認識させるために選手のみを送って、会議に出席しない連盟へは警告状を発することを決定した。
 総会後、連盟から昼食が別室で供され、そのあと再び会議場に戻り、医学シンポジュームに出席して、スポーツ医学についての研究の報告があった。有効で真剣なコングレスであった。

ディナー・パーティー

アマド・バリエントス邸
――11月28日夜――

 このバリエントス氏は、トム・オルテガ氏の親友で、キャセイ・パシフィク航空につとめる人である。名の示すとおりスペイン系の人で、夫人は日系の人である。
 去年、私は個人としてここへ招かれて、その絵に描いた家のような美しさに驚いた。そのときは、10人あまりの集りであったので、楽しい会話がはずみ、終始笑いが絶えなかった。今年はバスいっぱいの人が招かれたので、家の中も庭も人が溢れていた。私には大好きな味の料理だったが、日本の選手たちの口に合うかと心配したが、皆はお腹いっぱい食べたといった。
 ホテルへ帰ったのは深夜、明日の朝は普通より早く朝食をすませ、9時の体重測定には1分たりとも遅刻しないようにと、固く念を押して、それぞれの部屋へ引きあげた。毎年のことではあるが、プレ・ジャッジングの前夜は身のひきしまる思いである。

プレ・ジャッジング

――11月29日午前9時から――

 コンテストを構成しているいろいろな要素の中で、関係者のすべてが最大の関心をよせるのはプレ・ジャッジングである。この日に賭けて、世界中から多くのボディビルダーが集ってくるのである。
 だから、いよいよ明日がプレ・ジャッジングという前日は、どの選手も心が落ち着かない。私も心が落ち着かない。いつもより早く、選手を急がせて“ヒエール7"へ朝食にいったが、いつも和やかにくつろいでいる選手たちでいっぱいのこのレストランも、今日はひっそりとしている。朝食抜きの選空も何人かいるのだろう。見えない選手の姿に、ピリピリと張りつめた気分を感じる。今日の私の朝食はコーヒーいっぱいだけ。
 レストランを出ると、向うからビル・パール氏とウインストン・ロバーツ氏(IFBBゼネナルセクレタリー)が歩いてくるのに出会う。ビル・パール氏は、自分たちは、これからコンベンション・センターへプレ・ジャッジングの用意に出かけるところだ。あなたもいっしょに行かないか、という。
 私が、自分は近視なので、ステージの選手のゼッケンの数字が見にくいと困る、というと、ビル・パール氏は、それではなおさら、いっしょに行ってステージとジャッジの席を調整してあげる、という。よろこんで、いっしょに行くことにする。もう一度、選手たちに体重測定の時刻に遅れないように念を押して。コンベンション・センターまで、陽のあたる緑の芝生の中の道を100メートル歩いていく。
 また、厳重なチェックを2回通過して、プレ・ジャッジング場につく。もう観客のための多くの椅子が後方にならべられている。ビル・パール氏は、ジャッジが使う重い大きい木製の椅子を、エイッともウンともいわずにヒョイと持ちあげて事もなげに運ぶ。さすがだなあと感嘆した。
 お陰で今回は、ゼッケン番号がよく見えて何の苦労もなかった。照明もプレ・ジャッジングの必要上、かなり明るくしてあった。細かいデフィニッションもカットもよく見え、ジャッジン|グには何の苦労もなかった。ここでもまた、ビル・パール氏の親切に心から感謝した。
(プレ・ジャッジング前の検量)

(プレ・ジャッジング前の検量)

(テレビ局の取材で三人並んでポーズをとる、前から崎浜、谷口、臼井)

(テレビ局の取材で三人並んでポーズをとる、前から崎浜、谷口、臼井)

 やがて体重測定が始まった。大きい声で役員が名前と国名を呼びあげると選手が前に出てきてはかりにのる。計量係の役員がOKというと、ゼッケン係の役員が次々とゼッケンを渡す。
 たまたま体重がオーバーしている選手があると、役員は、30分やるから大汗をかいてこいという。選手はホールの一隔の器具をおいたところへ行って汗をかく。そして全員の体重測定が終ったとき再計量を受ける。
 このようにして、再計量で通過した人が何人かいた。日本の選手は3人とも問題なく1回で通過した。ここでもまた、ひとつの大きい関所をこえたと感じた。
 1974アジア選手権で、小先選手はエントリーより身長が不足で、1クラス下には坂口、小沢の2選手がいたのでそこえも入れず、遂にオープン参加となった。1979世界選手権で臼井選手は体重不足でミドル・クラスへおりた。
 1980アジア選手権では、小野選手は減量の必要から極端に減食し、増淵選手は逆に、増量の必要から食べに食べ飲みに飲んだ(ただし、水を)。体重測定が終るまでは、選手の苦労はひととおりではない。従って私の心も安まらない。
 いよいよプレ・ジャッジングの開始である。ライト・クラス(70kg以下)エントリー26名。崎浜選手はゼッケン2でこのクラスにいる。平明で全体を同じように照らす照明で、選手の体はかくすところなくよく見える。ジャッジにわかっているのはゼッケン・ナンバーだけ。毎年の世界選手権に参加したり、マッスルビルダー誌に写真がのることで顔を知られている選手以外はどこの国の誰だということは一切わからないようにしてある。
 ジャッジンぐの方法は、IFBB・JAPANがそれにならってしているように、第1ラウンドが自然体、第2ラウンドが規定6ポーズ、第3ラウンドが1分間のフリー・ポージングで、1ラウンドごとに審査用紙が配られて集められる。
 この3ラウンドの集計によって、上位6名が決定するが、それは誰にも秘密に保たれる。そして、翌日のファイナル・コンテストで上位6名の入賞者が発表せられ、その6名によるポーズ・ダウン(ポージングによる戦い)が行なわれ、それを見てジャッジは6名の中から1名だけ1位の投票をする。こうして1位の投票を得た分だけ、1票1点として、前日のプレ・ジャッジングでの得点に追加される。
 前日のプレ・ジャッジングで、充分に時間をかけて慎重な審査をし、それを最終結果とすれば、選手はファイナル・コンテストでポージングをしても成績に関係がないから戦意を失なう。また、観客は、前日に決った結果を知らされるのでは盛りあがらない。選手に戦意を持たせ、ファイナル・コンテストを盛りあげるために、ファイナル・コンテストで最終結果を決めるようしたのである。まことに賢明な方法である。
(ファイナル・コンテストの開始前、舞台に並んだ各国選手団)

(ファイナル・コンテストの開始前、舞台に並んだ各国選手団)

 さて、話をライト・クラスのプレ・ジャッジングへ戻そう。それは実に真剣な戦いであった。選手にとっても、ジャッジにとっても。すべての選手のどこひとつも見落しがないように、ジャッジは気のすむまで比較審査を要求した。選手は何度もとめられても、心をこめて自分を見せた。
 何回となく呼び出されて、緊張したポージングをつづけるのは選手にとって決して楽なことではない。しかし彼らがそれに堪えるのは、比較審査をされる相手に負けたくないからであり、また、比較審査に呼び出されることは誇りでもあるからである。
 こうした入念な比較審査の結果、ジャッジが充分に納得した時点で、ジャッジは用紙に採点を記入し、集計係がそれを集めて、全ジャッジの審査の採点を比較対照して調べる。そして、もしそこで何らかの不自然な採点があると、そのジャッジは、その場で呼び出されて審問を受ける。その採点に理由と自信を持っているなら、ジャッジはその理由を説明すればいい。筋の通った説明なら受入れられる。
 もし、自己の採点が誤っていたと気付いたジャッジは訂正をすればいい。審問を通過したジャッジは、席に戻ってジャッジをつづける。明らかに非があると認められたジャッジは解任されて退席を命じられる。
 これでわかるように、IFBBの審査では、選手はジャッジによって審査され、その時、同時に、ジャッジは審査委員会によって審査されているのである。だから、選手もジャッジも審査委員会もみな真剣である。
 ライト・クラスが終り、息をつくひまもなくミドル・クラスに入る。これは28名で、レベルの高い選手が多く、一番の激戦クラスであった。延々と比較審査がつづく。選手もジャッジも一刻も気をゆるめないで、はりつめた時間が過ぎていく。
 朝の10時にプレ・ジャッジングが始まってから何時間たったかも考えなまってから何時間たったかも考えない。ただ眼と頭が休みなく働きつづける。ふと見ると、端から紙コップとコーヒーとクリームと砂糖と、ビニールにつつんだほんとに小さいサンドイッチがまわってきた。
 私は空腹ものどの乾きも感じないままに手をつけないでいた。すると、左隣りの審査席のビル・パール氏が黙ってそっと手をのばして私のコーヒーの中ヘクリームと砂糖を入れてさじでかまぜてくださった。私も無言で頭を下げてコーヒーを一口ずつ、ゆっくりゆっくり飲んだ。それでも眼は一瞬もステージから離さない。
 しばらくすると、右隣のロッド・ミラー氏が、そっと私にサンドイッチを食べないかと尋ねた。私が黙って頭を振ると、彼はそっと手を伸ばしてサンドイッチを取り、音をさせないで食べた。ミラー氏はお腹がペコペコだったにちがいない。
(ホテルのレストランで食事をする左から谷口、崎浜、白井)

(ホテルのレストランで食事をする左から谷口、崎浜、白井)

 このようにして、休むひまもなくラヘビー・クラスを終え、ヘビー・クラスを終え、私たちは12枚目のジャッジング・ペーパーに記入し、それが集められてチェックされて、ようやくすべてがOKとなったとき、ほっとして時計を見ると、時計の針が午後7時をさしていた。
 一瞬、私は時計が間違っていると思った。でも間違いではなかった。プレ・ジャッジングは間違いもなく午前10時に始まり、午後7時に終ったのである。まさに9時間のプレ・ジャッジングであった。
 私は9時間の内、一瞬の気のゆるみもなく疲れを感じることもなく、迷うところなくジャッジングが出来たことを心から嬉しく思った。
 上気した顔で徳江カメラマンが近づいてきた。彼も9時間の間ファインダーをのぞきっぱなしであった。彼はあきれたような顔でいった。“いつもこんなに長くかかるんですか?”“ええそうですよ”と私は平静に答えながらプレ・ジャッジングに9時間かけるIFBBという組織に誇りを感じた。
 選手にも、ジャッジにも、審査委員会の人々にも、心からご苦労さまといいたかった。そして、日本から選手権を見にきて、今日のプレ・ジャッジングを最初から最後まで見ておられた、10人の方々にご苦労さまといいたかった。誰も疲れたような顔をしている人はなかった。みな生き生きとして、このプレ・ジャッジングのあり方を肯定しているという顔つきだった。
 私はつくづく、日本での審査のことを考えた。日本では、すべての審査にかける時間が、せいぜい2時間か3時間である。IFBB本部では1つのクラスだけに3時間かけるというのに。長時間をかけることは、いろいろの事情に影響する。短い時間の方が万事につけて便利である。しかし、選手のためには、もう少し時間をかけるべきではないだろうか。
 もう1つは照明の問題である。もう少し工夫して、写真がうまくとれるような照明に出来ないものだろうか。今度、徳江カメラマンの撮った写真を見て、そのどれもが完全に、選手の体がいい光線を受けているのを見て感心した。人間の眼で見ただけではわからないが、写真を撮って見ると、その時の照明がどんなであったかが如実にわかる。私たちはまだまだ勉強すべきことがあると思う。
 プレ・ジャッジングを終えて、すぐファイナル・コンテストのリハーサルが始まる。入場行進のところと、つづいて、各国ティーム別にアルファベット順にステージへ上り、ティームがそろってポージングするところをリハーサルした。終ってホテルへ帰る。そして今夜もまたディナー・パーティーである。
(ホテルのプールで日光浴をする谷口(左)と崎浜)

(ホテルのプールで日光浴をする谷口(左)と崎浜)

ディナー・パーティー

――11月26日夜――

 パーティーはトム・オルテガ邸で開かれた。故松山巌が在世中からの古い友人であるトム・オルテガ夫妻は、私と毎年のように顔を合わせているうちにもうすっかり私の友だちになった。ほんとうに心やさしい一家である。
 私がマニラに着いた日から、この日のパーティーにはぜひくるようにと顔が合うたびに念を押されていた。選手たちも徳江カメラマンも今日のプレ・ジャッジングで疲れはてて、もうよそへおよばれに行くのは気がはるから遠慮したいという。そこで私ひとりがいくことになる。
 リハーサルからホテルへ帰り、大急ぎでシャワーをあびて着替えてロビーへおりると、もうバスは出たあと。私だけ車で送られていく。着くともう大勢の人がバスで先についていて家の中はいっぱい。ガレジにまでテーブルをならべて皆が坐っている。
 ベン・ウイダー会長、ベテー・ウイダー夫人、マイク・メンツァー、その他いろいろの人達でいっぱいである。食事の談笑の楽しい時を過してホテルへ帰ってきた時はもう真夜中だった。
 海外へくると、このような外交も仕事の中の大きな部分を占める。そして誰かれなしに片寄らずにつきあおうと思うと、なかなかエネルギーがいる。たまに、自国の選手とだけいっしょにいて、よその国の役員とつきあわない役員もあるが、そういう人は決して誰からもほめられない。外交もまたつとめのひとつである。これをちゃんとして打解けた間柄になっておかなければ何かの時に困ることになる。人間関係というものは、国内でも国外でも同じである。
 プレ・ジャッジングが終って今日は最大の関所を越えた感じである。眠るのが惜しいような気がする。明日はいよいよファイナル・コンテスト。ジャッジングはしたけれど、結果は知る由もない。少しでも日本選手のよくあることを祈って眠る。

ファイナル・コンテスト

――11月30日午後6時から――

 ファイナル・コンテストは夕方6時から、コンベンション・センターのプレナリー・ホールで行なわれる。
 マニラ到着後は全く忙しくて余暇のなかった選手たちと徳江カメラマンは午前中からショッピングに出かける。私は自分個人のショッピングなどしている暇はない。公的な仕事がいくつもある。例えば、明日は早朝6時にホテルを発つから、今日のうちに必要な人に必要なお礼や挨拶をすましておかねばならない。ひとつひとっ片付けておく。
 東京から吉武巌さんが来ておられ、プラザ・ホテルへ訪ねて来られ、運よくお目にかかることが出来た。フィリピンの友だち2人と今夜はプラザ・ホテルに泊まられる由。フィエスタでいっしょに食事をする。ミラドール・ホテルへ泊った10人の日本の仲間たちとは少しも会うチャンスがない。頼まれていたプレ・ジャッジングや選手権の入場券を渡すにもどれだけ苦労したかわからない。
 6時から始まった世界選手権は、マルコス大統領のご臨席を賜ったことで終生記念すべきコンテストとなった。演出もすばらしく、ほんとうに参加してよかったと思う。こんないいコンテストを行ない、フィリピン・プラザのようなすてきなホテルを提供して至れりつくせりの待遇をしてくださったフィリピン連盟に心から感謝を捧げる。
 ただひとつ残念なのは、日本選手がいい成績をあげ得なかったことであるが、これは今後、トレーニングを研究して1日も早くレベル・アップを計るより仕方がない問題である。決して選手のみを責めないで、私たちが手をかさねばならない。

さよならカクテル・パーティー

――11月30日午後10時半から――

 コンテスト終了後、プラザ・ホテルのミンダナオ・ホールでのお別れのカクテル・パーティーが催され、ここで|参加ティームへ参加賞のトロフィーが贈られた。また参加ティームのチーフ・メンバーやその他いろいろの人たちに功労賞の楯がフィリピン連盟から贈られた。ほんとうに、こんな行事を主催するということは、費用の上からも、どんなにたいへんなことかということを痛感した。また改めて、フィリピン連盟に対し、尊敬と感謝の念を新たにした。
 いよいよこれですべての行事が終った。今夜はマニラでの最後の夜であると思うと、感概ひとしおである。
(超満員の観客席。中央貴賓席にマルコス大統領の顔が見える)

(超満員の観客席。中央貴賓席にマルコス大統領の顔が見える)

マニラ出発。帰国の途へ

――12月1日早朝――

 夜中の3時半までかかって、ひとりで荷造りをする。ひもひとつないのでボーイさんを呼んで届けてもらう。5時に出発するのでフロントに頼んでビル(請求書)をつくってもらう。5時のモーニング・コールを頼んでベッドに横になる。
 1時間すると、モーニング・コールで起こされる。荷物をロビーへ運び、タクシーを呼んでもらうように頼み、選手たちのおりてくるのを待つ。やっと選手たちがおりてきて支払をすませ(選手たちが部屋の冷蔵庫にいれてあるものを飲んだ分)、タクシーで空港に向う。
 吉武さんもいっしょの飛行機で帰られるので、空港でいろいろのことをずいぶんと手伝っていただいて、ほんとうにうれしかった。唄の文句ではないが人の情が身にしみる旅の空である。
 8時、マニラ空港を離陸した飛行機は、12時45分、成田に無事着陸した。いつも心労の積み重ねである国際選手権参加の旅で、私がほんとうにヤレヤレと思って気がゆるむのは、帰りの飛行機がガタンといって地面についたときである。
 今度の旅は僅か5日間であった。ヨーロッパへ行って半月海外にいるときとは比べものにならないほど短くて楽なはずである。でも私は、やっぱり自分が深く疲れているのがわかった。さあこれで、私の今年の任務は全部終った。あとはしばらくすべてを忘れてポカンとしてくらし、疲れの癒えるのを待つばかりである。日本はやっぱり寒い。
 (了)
月刊ボディビルディング1981年3月号

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