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★ビルダー・ドキュメント・シリーズ★
喜びと悲しみの1980年
期待される大型新人 小沼敏雄

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月刊ボディビルディング1981年1月号
掲載日:2020.03.24
川股 宏

◇プロローグ◇

 大方のボディビル・ファンの頭の中からは、もうとうに消え去ってしまった小さな出来ごとである。
 それは、昨年8月10日、1980年度ミスター東京コンテストもいよいよ佳境に入り、ムンムンとした熱気につつまれていた会場内でのことである。
 山際氏の司会で次々と選手たちがポージング台上で日頃の成果を見せていく。決勝進出を賭けて各選手は勝利を胸に秘め、汗で光った。いずれ劣らぬブロンズ像のような鍛え抜かれた体を1つ1つの諸筋に全神経を集中してポーズをとっている。
 永年つちかってきた努力と汗の集積を精一杯の力で表現するこのポーズの一瞬こそが勝負なのだ。
 ある若い選手が、真剣に、これでもか、これでもかと、素質はありそうだが、まだどこかに少し甘さの残る体を、審査員に、あるいは観客へとアピールしているその最中に、会場の片隅から『来年ガンバレ!』と大きなヤジがとんだ。会場はドッと笑いのウズ。
 ところが、その瞬間『来年ガンバレとは何事だ。失礼なヤジは止せ!!』と一人の観客がやり返した。――こんな場面が実際にあったのを想い出した方もあろう。
 実は、『失礼なヤジは止せ!!』と正義の味方よろしく怒鳴ったのは、何をかくそう、年甲斐もなく興奮してしまったこの私(筆者)なのである。
 もちろん、ヤジも悪気ではなく、今年は上位入賞は無理かも知れないが、1年間、みっちりトレーニングすれば来年はきっとよくなるだろう、という意味を込めて、簡単にユーモアのつもりで言ったのだろうが、私の怒った心境と理由はこうだったのだ。
 会場の選手と観客――これが1つにとけ合って大会は盛りあがる。選手の訴える力と、観客の呼応する力との融合だ。そして、『よ〜し、キマッタ』『カーフがいいぞ』というように、適切なヤジは、さらに会場を盛り上げる効果を発揮する。
 しかし、その反面、心ない観客のちょっとしたヤジが選手の覇気をそぎ、会場をしらけさす危険な場合もある。
 実はこの時、私の頭の中で、3年前のミスター日本コンテストでのある一瞬と直結してしまったのである。
 NABBAユニバースでミディアムクラスの栄冠を手にしていた須藤孝三選手が、奥田孝美選手に負けたあの大会である。
 須藤選手がポージング台上に立ち、両手をま横に広げる彼の特意のポーズで、いままさに決めにかかろうとするとき、『ごくろうさん!!』というヤジがとんだのだ。須藤選手は、一瞬、ニコッと笑みを浮かべてポージングを続行した。
 しかし、コンテスト直後、彼は私に次のように語った。『あの“ごくろうさん!”のヤジはショックでした。どういうつもりでいったのか知りませんが、私には“お疲れさん、もう君の代は終ったョ”というふうにとれたんです。そうかといって、これが負けた理由ではないんですが』
 この須藤選手の言葉が頭をかすめた私は、つい大きい声を出してどなり返してしまったというわけだ。それに実はもう1つの理由もあったのだ。
 その時、ポージング台上でポーズをしていたのが小沼敏雄選手(21歳)で私は彼の体をみて『うわさには聞いていたが、なるほどこりゃいい選手だ。デビュー当時の須藤孝三選手によく似ており、久しぶりの大型新人だ』と感心していた矢先に、『来年ガンバレ』というヤジがとんだというわけだ。1回でもバーベルで汗を流し、努力の重みを知っている人なら、絶対に口に出すべきではないと思ったのである。
 小さな記憶を長々と語ったが、今回紹介したいのは、その期待される新人“小沼敏雄選手”なのである。

◇喜びと悲しみと◇

 小沼敏雄、21歳。彼は現在、芝浦工業大学工業化学科4年に籍を置く学生であり、今年4月には社会人としてのスタート台に立つ身である。
 そんな最後の学生生活を祝福してか本年度はビックなプレゼントが彼の努力に対して次々と与えられた。まず、関東学生ボディビル選手権オープン優勝、ミスター東京5位、新人賞、全日本実業団コンテスト新人賞など、どれ1つとってみても価値ある大きなプレゼントであり、悔いのない学生時代の終りを飾ることができた。
 反面、こんなにも悲しく無情なことが、なんの前ぶれもなく突然おそってくるとは誰にも予想できなかった。
 それは、7月のある日、52歳の若い大黒柱の父が、突然、心臓発作のためこの世を去ったのである。一瞬、小沼は目の前がまっ暗になった。何ひとつ不自由なく学業とボディビルに明け暮れて青春を謳歌していた小沼にとってこれはあまりにもショックであり、悲しい出来ごとだった。
 こうして、小沼にとって喜びと悲しみの入りまじった、人生の縮図のような1980年は終りをつげた。そして、早くも1981年に向けて、彼は大きな希望を胸に、もくもくとトレーニングを開始した。

◇強い男になりたくて◇

 “期待される大型新人”“翔べ若人”そんな表現がぴったりの小沼が、ボディビルをやるきっかけとなったのは、高校時代に逆のぼる。
 小・中学校とあまりスポーツらしいスポーツをやらなかった小沼は、芝浦工業大学の附属高校に入学して間もなく、少年時代は誰でも一度は憧れるように、彼も強い男に憧れて、小柄な体でも出来るボクシング部に入った。
 当時の彼は、今の体格からは想像も出来ないほど小柄で、身長は162cm、体重は51kg。ボクシングではなんとフライ級だったというから驚く。それでも『いつかはきっと強い選手に』と闘志を秘めて練習に励んだ。
 そのころをふりかえって彼がいうには『確か4回くらい試合に出ましたが、一度も勝ったことはありません』というように、憧れの強さと現実は、だいぶかけ離れていたようだ。その訳は、大きい体をしぼってリミットまで落とした選手と、彼のように、しぼらなくてもフライ級のリミットしかない体重の選手では、パンチの差は歴然としていたからである。
 しかし、どんな理由にしろ、何度負けても、やはり強くなりたいという気持が変るわけではなく、逆にますますそんな気持は高じていった。それと同時に、育ち盛りの小沼の体重は、徐々にではあるがふえていった。51kgだった体重が、2年生のときには54kg、3年生の始めには57kgにまでなった。
 そして、その時は小沼自身も気がつかなかったかも知れないが、スポーツ(ボクシング練習)の効果が、一見無駄なように見えても、将来にそなえて着々と積み重ねられていった。
 それともう1つ、彼が希望したように強く大きい体になれなかった理由は“食事”だった。『僕は子供の頃から肉がきらいで、野菜ばかり食べていました』と彼自身がいっているように、強く逞しい体をつくるのに、食事のとり方がいかに大切かを証明できることが高校3年生のとき起ったのである。

◇ボディビルとの出会い◇

 ボクシングをやりながらも、『どうしても素晴らしい体になりたい』という強い欲求から、コツコツ貯めた2万円をそっくりはたいてバーベル・セットを購入したのである。
 そして、見よう見まねで1人でコツコツとトレーニングをはじめた。育ち盛りだし、素質もあったのだろう、間もなく効果が目に見えてあらわれてきた。こうなってくると、さらに大きな効果を得ようと、本格的に専門家についてトレーニングしたくなってくる。
 さっそくNEトレーニング・センターに入会し、竹内コーチの指導を約4ヵ月ほど受けた。
 トレーニングの合間に見るボディビル誌の写真や記事は、彼に強烈な印象を与えた。トレーニング法、食事法などをむさぼり読んでいるうちに、いつしか彼はボディビルのとりこになってしまった。
 そして、知識から実行へと、積極的に取り入れていった結果、まず彼自身がその効果にびっくりしてしまった。なんと、4ヵ月で体重が13kgも増えて70kgになったのである。若い引きしまった体での13kgの増量である。大げさにいえば寝て起きるたびごとに体が大きくなっていったのである。この急激な変身ぶりに、本人はもとより、両親も兄弟も、友人もみんなビックリしてしまった。
 『俺もやればできるんだ。よし、もっと素晴らしい体をつくってみせる』と心にいい聞かせ、体にいい聞かせる度に、大いなる自信が確信へと変っていった。そして『大きくなるためには嫌いな肉でも何でも食べる』というふうに、食事にも大きな変化をさせたのである。
〔小沼敏雄選手〕

〔小沼敏雄選手〕

◇楽しい大学生活◇

 162cm、52kgの高校生。何回戦っても、いつも負けてばかりいた、か細いボクシング部員が、高校を卒業するときは170cm、70kg、実に身長が20cm、体重が20kgも増えたのである。いくら成長期とはいえ、変われば変るものでおそらく3年ぶりに会った人は別人と思うほどの変化であった。
 しかも、変わったのは体格だけでなく、考え方や性格まで大きく変化したことはいうまでもない。このことは、肉体改造に成功した経験から、目標をかかげて、自信をもって実行すれば、必ずできる、ということが実証されたからである。
 ちょっとした暇があれば、内外のボディビル誌を読んで『自分にぴったりのトレーニング法はどれだろう』と明けても暮れてもボディビルから離れられない日々を送るようになった。
 こうして、ボディビルへの意欲が高揚しかけたとき、小沼は高校を終え、希望どおり芝浦工大へと駒を進めた。そして、本格的にボディビルのトレーニングをすることを決意し、通学路線にある田端ボディビル・アカデミーに入会した。
 こうして学業とトレーニングの充実した生活が始まった。そして、この田端ボディビル・アカデミーで知り合った先輩や仲間たちの指導や助言で、ぐんとパワーもつき、体にも目をみはる変化が再び起こってきた。
(つづく)
月刊ボディビルディング1981年1月号

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