フィジーク・オンライン
  • トップ
  • スペシャリスト
  • 1980年度第10回世界パワーリフティング選手権大会- ステージからの報告 PARTⅡ アメリカ テキサス州ダラス く国際会議と大会第1日目>

1980年度第10回世界パワーリフティング選手権大会-
ステージからの報告 PARTⅡ
アメリカ テキサス州ダラス
く国際会議と大会第1日目>

この記事をシェアする

0
月刊ボディビルディング1981年1月号
掲載日:2020.03.16
日本選手団長・JPA理事長 関 二三男

開催地、テキサス州ダラスへ

 11月23日23時50分、羽田を飛び発ったCI―008便は、一路アメリカへ!!と思ったら、私の感違いで、機はハワイ経由、ロスアンゼルス行きだった。給油のため降り立ったハワイは、我々日本選手団そろいのブレザーには、いささか暑すぎ、2時間の待合室は少々だれ気味だった。
 ハワイを発ち、ロスへ向う機内では選手諸君は窮屈な長旅に疲れが出たのか寝入っている選手が多い。中には2~3人、はしゃいでいる選手もいたがほとんどの選手はすでに世界選手権を経験しているので、コンディションを狂わせることはないだろうと思いつつ私もいつしか寝入ってしまった。
 日本時間の翌日正午近く(現地時間3日,19時)ロス空港にランディングした。
 いつもながら我々は簡単に通関を済ませた。さすがスポーツに理解のあるアメリカである。世界選手権に出場する日本チームだと一言いえば、フリーパス同様である。日本もこうであったら良いのになあと、いつも思う。
 タクシー3台に分乗してロスアンゼルス・ヒルトンへ。予約してあるはずだったが、どうしたことか何も知らないという。早くも副団長、吉田君の得意の英語が活躍して万事うまく解決した。さすがである。
 すでに時間は夜中の12時を指している。疲れをとるには寝るのが一番、さっそくベッドにもぐり込む。しかし、やはり神経が高ぶっているのか、ウトウトしたと思ったら早くも5時には目が覚めてしまった。
 7時半、全員ロビーに集合。タクシーで空港へ向う。9時55分、我々日本選手団を乗せたボーイング727は、大会開催地、テキサス州ダラス空港へ飛びたった。ふと見ると、昨年の世界選手権で、アメリカのL・ガントと史上最高の一騎打ちを演じたニュージーランドのサー、P・マッケンジーも乗っていた。
 3時間あまりでダラス空港に到着。ここで現在アメリカに在住している伊差川浩之選手(バンタム級)が合流して日本選手団は全員そろった。また、空港には、昨年の世界会議で知り合ってすっかり意気投合した、なつかしき友、ジョン・ペテット氏が、またまたジョークをとばしながら迎えにきてくれていた。
 日本チームとニュージランド・チームは2台のマイクロ・バスに分乗してハイウェイを30分とばして宿舎兼試合場であるロード・インに到着。
 このロード・インは、試合場であると同時に、大会に必要な設備、つまり練習場、検量室、宿舎、レストランなどすべて完備している。我々に与えられた部屋はかなり広く、セミダブル・ベットがそれぞれ2つで、程度はホテルの中の上といったところだろう。
 試合場は、奥行き30m、横幅50mくらいで、奥の真中に特設ステージが造られており、真正面からCBS・TVのカメラが狙うようになっている。客席数は1200人くらいである。
 デカイもの好きのアメリカの中でも特に広大なテキサスとくれば、さぞかしバカデカイ設備だろうと、日本を発つ前に私が描いていたものとは少し違って、こじんまりとした会場だ。しかし、使い安さという点では、過去7回の選手権の内で一番便利な施設だと思う。
 ロード・インの各自の部屋に落ち着いてすぐ、私の部屋に役員と選手全員に集まってもらい、全力を出しきって悔いのない試合をしようと訓辞して、夕方7時から軽くいっぱい飲んで大会へのファイトを固めた。
 部屋に戻り、テレビのスイッチを入れてみると、異様な雰囲気である。そうだ、今日は11月4日、アメリカ中、いや世界中が注目している大統領選挙なのだ。お祭りさわぎとアメリカ人気質も加わって、テレビがあわただしく選挙の行方を伝えている。どうやら、レーガン候補が有利らしい。
 11月5日、早朝5時に目が覚める。緊張のためか、時差のためか、どうも早起きがクセになってしまった。同室の吉田君を起こさないように気をつかいながら、この原稿を書く。
〔給油のため立寄ったハワイ空港でひと休みする日本選手団〕

〔給油のため立寄ったハワイ空港でひと休みする日本選手団〕

加盟問題をめぐる国際会議

 今日はIPF(世界パワーリフティング連盟)の会議がある。日本選手団の役員として参加することになっていた実業団の山際昭氏が、テレビ出演のため、我々より2日遅れて成田を発つことになっているが、会議が始まるまでにうまく間に合ってくれるといいがなどと思いながらシャワーを浴びる。
 シャワーを終えてテレビをつける。どうやらタカ派のレーガンが圧勝したらしい。
 午前9時から始まる今日の世界会議には、日本からは私と吉田君が出席する。ここでアクシデントが2つ出た。1つは、ダラスで合流した伊差川選手が昨夜から激しい下痢を起こしてしまったのだ。これは山本コーチと鈴木正之選手に頼んで何とか手当てしてもらうことにする。もう1つは、会議のために用意してもらうように前もって頼んでおいた通訳がまだ来ていないというのだ。今年の会議は重要な議題があるので、とくに有能な通訳をと、あれほど念を押して頼んでおいたのだが。しかし、もうこの機に及んではどうしようもない。京都大学出身の吉田君の語学力に頼るしかない。
 9ドル50セントのサーロイン・ステーキの朝食をとり、9時からの会議に出る。
 会議が始まったとたん、すぐ、ややこしい問題にぶつかった。それは新しく加盟申請をした8つの国の承認問題である。8ヵ国の内、シンガポール、パプア・ニューギニア、フランス、ペルー、デンマーク、メリティウスの6ヵ国は問題なく承認されたが、あとの2ヵ国については、すでに加盟している某国が、その2ヵ国と自国とは正式な国交がないので、もし、承認するならば、我がチームは大会をボイコットするといって、どうしてもきかない。どうやら、そのチームは正式にその国を代表し、費用その他も国から援助してもらっているらしい。
 そこへいくと、我が日本チームは、文部省の後援はいただいても、金はもらっていないので気が楽である。
 日本をはじめ、いくつかの国の代表は、スポーツと政治は別だと説得しても、ガンとして聞き入れない。その形相たるや、顔を真赤にして、口からツバを飛ばしながらの反論は、まさに迫力満点である。
 約半日間、討議をしたが、いっこうに進展しない。そこで、加盟申請をしている、その2ヵ国の人に会議場を出てもらい、今度は各国がそれについての意見を順を述べる。これにもかなりの時間を要したが、やがて加盟を認めるか否かの裁決に入る。結果はノー、加盟申請は却下された。
 我々と同様、何千キロも離れた遠いところから、はるばる選手団をつれてきたんだろうに! 会議場に呼び戻された2ヵ国の代表は、その旨を通告され、机の上の書類をまとめて退場していった。
 その間、私は何んとも言えない複雑な気持だった。気の毒とか、かわいそうとかいう一言では言い表わせない、イデオロギーの違う国際間の問題だけに、平和な現在の日本人にはとても理解できないのではないだろうか。
 こうして、加盟問題がかたづいたのは、なんと夜の9時すぎである。こんなはずではなかった。まだ議題は半分以上も残っている。残りは明日、午前9時からとなり、おかげで、楽しみにしていた主催者招待によるテキサス・バス・ドライブがパーである。
 もっと気の毒な人がいた。女子の世界選手権に関する問題を報告するために、小さな子供を3人もオーストラリアに残してはるばるダラスまで来て、会議場前のロビーで、いまか、いまかと朝から首を長くして待っていたロズべイシル女史である。
 しかし、我々役員も遊んでいたわけではない。ケンケン、ガクガクと延々12時間もやり合っていたのである。我が日本をはじめ数ヵ国は、このあま会議を続行して今日中にすべてを終らせ明日のバス旅行を主張したが、疲れたので一応ここで打ちきり、明朝9時から再開しようという意見が圧倒的で、やむなく断念した。
 シャワーを浴び、12時近くになって就寝。疲れた!!
 それにしても、やはり吉田君は大したものだ。日本にいるとき、彼は英会話はダメですなんていっていたので、通訳がいなくて一時はどうなるかと思ったが、どうして、どうして、立派に通訳の役も果たしてくれた。
 11月6日、またまた5時5分に目が覚める。昨日の会議では役員と通訳の2役をこなして大活躍の吉田君は、さすがに疲れたらしくまだ眠っている。そのうえ、彼は選手でもあるので、最後の調整もしなければならない。さらに、仕事の関係で(大成建設・設計部)、市街の建築物なども見て歩きたいと言っていたがそれもできない状態だ。彼を起こさないように静かに原稿を書く。
 6時15分。そろそろ吉田君を起こし「少し練習をやろうか」と話しかけると、ムックリとからだを起こし「おはようございます」と、まだ半分、夢心地のようだ。何しろ100㎏級の選手だから、ムックリというこの表現が、まさにぴったり。
 顔を洗って今日の打合せののち、何棟も建っているホテルの中庭や外廻りを散歩して、また朝からステーキの1日が始まる。
 食事後、吉田君の体重を測ってみると97㎏、リミットの100㎏までもう少しである。それにしても彼はよく食べる。時差も環境もまったく関係ないようだ。それに、食べ物に限らず、見るもの聞くものに対して、まるで赤んぼうのような興味を示して、こだわりがない。他の選手もこうであったら、体調を崩すこともないだろうと思う。
 7時から約1時間、山本コーチと2人で吉田君の調整練習を手伝う。早朝の重量トレーニングは注意を要する。スクワットはまずウェイトなしのヒンズー・スクワットでウォーミング・アップしたあと、60㎏、140㎏、180kgで終り、つづいてベンチ・プレスは、60kg、100kg、140kgと進め、170㎏で止めた。
 やはり彼は練習不足をかなり気にしている。もうここまできたら“あとは野となれ山となれ”だと、言いきかせた。しかし、私の内心は済まないという気持でいっぱいだった。なにしろ、昨日は12時間近く、今日も何時間かは国際会議に出てもらはなければならないのだ。あとで、ふだん誰にもしてやったことのないスポーツ・マッサージをたっぷり心をこめてやってやろう。
[世界選手権フライ級7連覇の偉業をなしとげた因幡英昭選手]

[世界選手権フライ級7連覇の偉業をなしとげた因幡英昭選手]

テリー・トッドへの厳しい処分

 9時、2日めの国際会議が始まる。おやおや、今日ものっけから変な雲ゆきである。日本でもかなり知られており、パワーリフティング界では世界的に著名なテリー・トッドが会議に呼び出されていた。なんだか重苦しい雰囲気がただよい、裁判所の一室にいるような感じである。
 やはりそうだった。会議の冒頭から次々とテリー・トッドへの批判がアメリカ役員から述べられた。つまり、彼は、アマチュア・スポーツであるパワーリフティングを私利・私欲に利用しさらにIPFに対して多大な迷惑と損害を与えたというのだ。
 例をあげると、テリー・トッドは、IPFとアメリカ連盟の許可なく大会を開き、しかも、勝手に世界選手権というような名称をつけたり、また、それから得た金銭が不明だったり、彼の出している雑誌や書籍の収益に関しても問題があり、彼の行動は、組織を乱し、売名的で、アマチュアにふさわしくないというのである。
 それに対して、一応、テリー・トッドに弁解をさせたのち、いったん彼を退場させ、どう処分するかの討議に入った。まず、彼の行なった事実を1つ1つとりあげて討議したあと、具体的な処分案が出された。
 その1つは、彼のパワーリフティングに関する全ての活動を1年間停止しようというもので、中には5年間停止を主張する人もいた。物議の結果、2年間と決定した。
 テリー・トッドが議場に呼び戻されその旨がいい渡された。この決定に、トッドは不満の色を顔に出したが、問答無用、二度と弁解は許されない。この毅然たる態度、さすがIPF(世界パワーリフティング連盟)である。著名もクソもない。これくらいきびしくしなければ世の中の秩序は保てないと私は思った。
 IPF会議は、午前中、彼の問題でつぶれた。アメリカ連盟内ではとても解決し得なかった虚像の処分も、ようやく決着をみた。いまやテリー・トッドは、まさに落ちた偶像となった。私もそうならないように心掛けよう。
 ちょっと横道にそれるが、私は今年(昭和55年)いっぱいで、JPA(日本パワーリフティング協会)理事長と選手生活をやめる決心をした。しかし私は、テリー・トッドと違い、故意にこのアマチュア競技、パワーリフティングを私利、私欲のために利用したことはない。たまたまテレビの録画どりに私のジムを使ったことはあるが、出演者や器具の関係で他に適当なところがなく、やむなく使ったに過ぎない。ジムを宣伝しようとして無理に私のジムを使ったわけではない。
 むしろ、アマチュアであるばかりにテレビに出演したときにも、私事はいっさい語っていない。マスコミ自体が勝手に脚色したものが2~3あったがこれは私の責任ではない。
 いずれにしても、私の理事長辞任と現役引退は“落ちた偶像”にならず、連勝のまま、そしてJPAの全理事から不満のない、惜まれつつ退任することに今は満足している。
 午後の会議から、ようやく本来の議題に移り、延々、夜9時まで審議がつづいた。この中で読者の皆様方にお伝えしたいのは、1981年度世界選手権は12月2日~6日まで、インドのカルカッタで、そして1982年度は西ドイツのミュンヘンで開催されることが正式に決ったことである。

因幡、7年連続世界選手権制覇

 11月7日、昨日の会議の疲れか、今朝の目覚めは6時であった。いよいよ今日から第10回世界選手権大会の幕が切って落とされる。私は朝8時45分から、フライ級、バンタム級コスチューム・チェックを手伝うよう命ぜられている。そして多分、午後3時から開始されるフェザー級、ライト級の主審を、そして山本君が同じクラスの副審をやることになるだろう。
 間もなく隣りの部屋の仲村君がやって来た。モンスター、吉田君も起きて来た。もう8時を少しまわっている。急げ、メシだ。例によってステーキを食べて会場に急ぐ。
 フライ、バンタム両級22選手のシューズからリスト・バンデージまでが念入りにチェックされる。各国の一流選手が集まっているのだから、随所にいろいろな工夫がなされている。スーパー・スーツを使わない選手はごくまれになってきた。
 今日の我が日本勢は、フライ級の因幡英昭、徳嵩純大、バンタム級の伊差川浩之、槐春治(旧姓・渡部春治)の4選手が出場する。しかし、この4選手の最初の山場となるスクワットのピーク時には、私は主審をする次のフェザー級、ライト級のコスチューム・チェックが始まってしまうので、残念ながら応援することが出来ない。
 チェックが始まって、出場選手を調べてみたら、なんと、この両クラスは28選手もいるではないか。夕方5時に競技を開始しても、終了は真夜中になることは間違いない。こんな長時間、主審としてミスのない判定を下すにはスタミナの配分に充分注意しなければならない。
コスチューム・チェックの次は検量である。裸になった選手が次々に体重計にのる。それにしてもみんないい体をしているのにはびっくりした。相当しぼり込んであるせいもあると思うがコンテスト・ビルダーとしても充分通用するデフィニッションである。
この検量室の前が試合場であり、ちょうどフライ、バンタムの2クラスがやっている。大きな歓声が検量室まで聞えてくる。どうやら世界新記録が出たらしい。因幡選手かな? そうだといいが……。
 私の担当の検量が済んで試合場に行ってみると、やはり因幡選手が232.5㎏のスクワットに成功して世界新記録を更新したのだった。今大会も彼はまず無難に7年連続の優勝をするだろう。徳嵩、伊差川、槐の3選手は、それぞれ180㎏、190㎏、180㎏で、すでに試技を終了していた。つづいて第2種目のベンチ・プレスがこれから始まるところであった。
 日本選手の出番はかなり後の方なので、急ぎ昼食をとることにした。私が主審を担当するフェザー、ライトの2クラスは終るのが深夜になるので、しっかり食べておかなければならない。
 昼食を食べて少し休んで試合場に行ってみると、すでに日本選手4人のベンチ・プレスは終了していた。記録は因幡117.5㎏、徳嵩110㎏、伊差川142.5㎏、槐115㎏であった。
 そして最後の種目デッド・リフトが始まった。私はカメラをもって日本選手の試技に見入る。
 まず徳嵩選手が185㎏で終り、重量が220㎏になったところで、因幡がステージに出てきた。これに成功すればトータルの世界新と同時に優勝が決まる。カメラを握る手が自然に汗ばんでくる。220㎏成功! 決まり! 今回もまた彼は2位以下を大きく引きはなして世界選手権7連覇をなしとげたのだ。場内の歓声は日本の偉大なリフターをたたえて、いつまでも鳴りやまない。
 後は気になる伊差川選手の3位入賞である。槐選手は、9月21日、東京で行われた世界選手権選考会では、フライ級まで下げて232.5㎏のデッド・リフトの世界新を出しており、今大会の上位入賞を期待していたが、減量と時差ボケ、長旅の疲れなどが影響したのか、意外にふるわず、3位入賞は望みうすとなった。
 フライ級、バンタム級全選手の試技がすべて終り、やはり伊差川選手の3位入賞が決まった。これで世界選手権で3位までに入賞した日本選手は、因幡、槐(旧姓・渡部)、富永の3選手についで4人目である。
 しかし、伊差川選手のバンタム級は今大会でも優勝した強豪、P・マッケンジーが今年限りで引退するとのことなので、来年はうまくいくと優勝か2位が期待される。また楽しみが1つふえた。
 結果が出たので、私は5時からの出番にそなえて少し寝ることにした。5時10分前、会場へ行ってみると、フライ級、バンタム級の表彰式がまだ済んでおらず、結局、フェザー級、ライト級の競技が始まったのは6時すぎであった。
 私はカゼでノドを痛めていたので、サイド・レフリーに変えてもらった。この両クラスには日本選手がエントリーしていないので、レフリーにだけ専念すればいいのが、せめてもの救いである。トマト・ジュースとコーヒーを横に置おいて競技は始まった。
 フェザー級には、アメリカのガントとブレデリーの2黒人選手、それにイギリスのペングリー、ライト級には昨年優勝したカナダのモイヤーと、最近、ぐんぐん記録を伸ばして評判のアメリカのリッキー・クレインという注目すべき5選手が出場する。
 まず最初のスクワットで、ガントが260㎏をマークした。彼をうしろから見ると、背骨が明らかにS字型に曲っている。これは確かに異常体型であろうが、パワーリフティング競技の面から見れば、背骨が曲っている分だけ上半身がちぢまるので、それだけ有利になるというわけだ。
 そのガントにつづいて、モイヤーが265㎏をマークした。しかし、そんなことに驚いてはいられない。このあと信じられないスゴイ記録が次々と飛び出してくるのだ。
 先ずクレインが285㎏を成功して、M・ブリジスのもつ世界記録を更新して会場をわかせた。そしてフェザー級のブレデリーが最後に、なんと295㎏をやろうというのだ。エーッ! まさか! 一瞬、私は自分の耳を疑った。
 しかし、いま私の目の前で、バーベルはちゃんと295㎏にセットされた。それでもまだ信じられない。
 精悍な顔をした、小柄ながらバランスの良い体をしているブレデリーが、いまバーベルをかついだ。おぼつかない足どりではあったがスタンスを決めた。そして「イージー!」(容易だ、簡単だ、という意味で、自分自身に暗示をかけるときに使う)と声を出してしゃがみはじめた! 降りた! 立ち上がる! 上がる! 上がった! ついにやった! すごい世界新記録がいま私の目の前で生まれたのだ。これだから世界選手権というのは、たまらない魅力だ。また帰国してこのことをみんなに知らせるのが楽しみだ。ほんとうにいい土産が出来た。
 少し休んでベンチ・プレス。これはあまり見どころもなく、たんたんと進んで最後のデッド・リフトに入る。
 先ずライト級のクレインが、両手の手のひらの皮をむきながら300㎏を決めて優勝をものにした。もちろん世界新である。
 このあとである。さっき285㎏に成功したフェザー級のガントが、いっきょに22.5㎏も増量して307.7㎏をやるというのだ。えーッ! まさか! いやほんとうにやるんだ。
 目をまん丸に見開いてガントが出て来た。バーに近づき、慎重に足の位置をきめ、上体をたくみにちぢめるようにしてしゃがんだ。グッと全身に力を入れて引いた! 浮いた! 10㎝くらい浮いたところでカタカタとバーベルが音をたててゆれている。ガントの怪力もこれまで、ついに彼は静かにバーベルをおろして去っていった。しかしこのぶんなら、遠からず彼はきっとこの壁を破るにちがいないと私は見た。
 こうして両クラスが終ったのは、なんと午前1時である。
 次回は大会第2日目、ライト・ヘビー級からスーパー・ヘビー級までの模様をお知らせします。
≪大会第1日目に行われた4クラスの成績≫

≪大会第1日目に行われた4クラスの成績≫

〔フライ級7位・徳嵩純大選手〕

〔フライ級7位・徳嵩純大選手〕

〔バンタム級3位・伊差川浩之選手〕

〔バンタム級3位・伊差川浩之選手〕

〔渡米のたびにお世話になるサンフランシスコ在住の片野氏宅で左から吉田、長島洋子さん、片野氏夫妻、私(関)、山際、鈴木〕

〔渡米のたびにお世話になるサンフランシスコ在住の片野氏宅で左から吉田、長島洋子さん、片野氏夫妻、私(関)、山際、鈴木〕

〔バンタム級6位・槐春治選手〕

〔バンタム級6位・槐春治選手〕

月刊ボディビルディング1981年1月号

Recommend