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★ビルダー・ドキュメント・シリーズ★
0からの出発・栗山昌三

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月刊ボディビルディング1979年1月号
掲載日:2018.09.12
JBBA常任理事・東京ボディビル協会理事長
川股宏

◇生きがい◇

中野ボディビル・センターのコーチを引き受けた当時の栗山は「飲食業をライフ・ワークと決めながら、いくらボディビルが好きとはいえ、二足のワラジをはき、仕事以外のジム・コーチなどを引き受け、道草食っていいんだろうか。仕事一本で頑張った方が身のためではないんだろうか」と、自分からすすんで引き受けた仕事でありながら、頭の片すみでは、不安や後悔が交錯して、ときどき夜中にハッと目がさめてしまうことがあった。
それでも、自分の体がこれほどまでに逞しくなり、力もついてきた今、ボディビルのない生活などとても考えられない。だから、将来を託した夢に多少、不安はありながらも、バーベルを握っているときの充実感は、何ものにも換えがたい人生のよりどころといった感じであった。
昼夜を問わず働きづくめの毎日でありながらも、不満はなかったし、かえってそこに生きがいを感じていた。
それを証明するかのように、昭和45年には、栗山自身が実業団、東京、全日本のパワーリフティング選手権の重量級ベンチ・プレスで連勝、会員からは小沢幸夫選手のアジア選手権、つづいて末光健一選手のミスター日本、ミスター・ユニバース優勝など、多くの優秀なビルダーを育てあげた。
一方、三軒茶屋に開いた食堂の方も当時では画期的ともいえる営業方針があたって、きわめて順調であった。
画期的なアイデアというのは、つまり深夜営業である。いまでこそ、多くの外食産業が深夜営業をやっているので珍しくはないが、当時は夜中の12時すぎまで店を開けているところなどほとんどなかった。
彼は「東京は人口が多い。それに昼夜の別がない。しかもアパート暮しや学生も多い。こんな1人者や、夜遅い人たちにも利用できる家庭的な食堂にしよう。きっともうかるぜ」というわけで、明け方の午前3時まで営業するシステムを実行したのである。
[会員に指導中の栗山会長]

[会員に指導中の栗山会長]

◇人間補強◇

一匹狼とでもいったらよいのだろうか『いまにみておれ、男一匹、根性でやってやる』というような人には欲ばりが多い。つねに夢をえがき、いろんなことに欲望をもつ。そして、その欲望が強烈なエネルギーを伴なう。さらに欲望にとどまらず、なんでも貪欲に吸収しようと行動する。
これを裏返えせば、社会の大樹の陰に庇護されている平凡な人と比べ、不安感も一層強いから、なおさら自分を補強、強化し、完全武装をしようとする。それはあたかも、ボディビルで胸や腕、脚、背と次々と完成させていくのに等しい。
それを証明するかのように、これから後の栗山の動きはめまぐるしい。
先ず昭和46年、均整術の資格をとるため、仕事の合間に渋谷の整体術学校に通い、資格取得。つづいて日本体育協会の2級トレーナーの資格取得。
「このトレーナーのときは苦労しました。受講資格がないというんです。当時、体育施設協会の指導者の資格をもっていたし、ボディビル・ジムのコーチもしているからといってもダメなんです。つまり、体協加盟のスポーツに関係がないからというわけです。区の教育委員会や都庁に何回も足を運んで、やっと講習を受けることができました。他のスポーツもやっているビルダーは別として、それまでにボディビルを専門にやってきた人で、この試験を受けた例がなかったらしいんです。その後は何人かの人が体協のトレーナーの資格をとっているようです」これをもってしても最初の道をつけることが、いかに難しいことかがよくわかる。
そしてこの年、3年近くつとめた中野ボディビル・センターのコーチを辞し、三鷹市に念願の自分のジム〝三鷹スポーツ・アカデミー〟を開設したのである。
さらに昭和47年には日本体育協会の1級トレーナー、昭和50年には電子針師の資格取得と、物につかれたように手あたりしだいに資格をとった。
「いくら経験があると威張っても、それだけでは通じません。やはり世間は正式の資格がなくては信用してくれません。電車だって切符があるから乗れるんです。人生だって誰もが認める切符がなければ通用しません。ビルダーも指導者になろうと思うならいろいろな講習会や、学校にいって勉強し資格をとることです」という栗山は、将来、整体術や電子針の総合治療院をつくりたいと大きな夢に胸をふくらませている。
一方、ライフ・ワークの飲食業の方はどうかというと、これまた、驚くほどトントン拍子なのだ。
三鷹にジムを開設してしばらくたったころ、ジムのすぐ右隣の店を貸すらしいという、耳よりなニュースが舞いこんだ。ジムの方もようやく軌道に乗ってきたので、早速交渉して借りることに成功、待望のミニ・クラブ〝栗〟を開店したのである。
食堂を経営したり、キャバレーのマネージャーの経験もある彼は、水商売のスイも甘いも十分に心得たプロフェッショナルといってよい。クラブ経営は開店当初より順調にすべり出した。そして、その順風に乗り、翌年には2つめのクラブ〝ミニハワイ〟を荻窪に開店した。これもまた極めて順調なすべり出しだった。
栗山は、そんな順調な時も先を見る目が早い。「最近、クラブが少しふえすぎた。これからは、若い人たちが気軽に飲めるスナックがきっとはやってくる」と読んだ彼は、まず手始めに、三軒茶屋の食堂〝ことぶき〟を人に譲り、次にミニ・クラブ〝栗〟をスナックに代えた。また〝ミニハワイ〟を閉め、代りに〝ドングリ〟というスナックとクラブをミックスしたセンスのある店を、ジムの隣の2階に開店したのである。
その他、現在計画中のものに24時間営業のスナック方式のレストランがある。これはおそらく昭和54年度中には開店するはずである。こうして、もち前のバイタリティとアイディアで事業を拡げる栗山は、業界の信用を得て、いまや三多摩地区の同業組合長をもつとめている。ボディビル界においては、東京ボディビル協会理事長のほか、全国協会の理事も兼ね、コンテスト、パワーリフティング大会の審査員、審判員として、大きな大会には必ず彼の顔が見える。まさに油ののり切った忙しい毎日である。
よく人から〝彼はアクが強い〟といわれるほど強烈な個性の持ち主であった彼がいまあるのは、口先だけではなく、人が酒を飲んだり遊んだりしているとき講習を受けたり、学校に行ったりして次々と資格をとっていった、その前向きな姿勢と努力があったからである。つまり、常に口と実行が伴なっていたのである。だから、アクも強烈な個性も『なるほど、ようやる』と次第に周囲から認められるようになっていったのもあたりまえである。

◇ゼロから有を◇

自分の歩んできた道を、ふりかえってみたとき、昔、体をこわして新潟に帰ったときの、あの打ちひしがれたあわれさ、さびしさが最も強く印象に残っているという。たとえ事業に失敗したとしても、丈夫な体と強い精神力があれば盛り返すこともできるが、体をこわせばすべてが終りである。精神的にもまいってしまう。
だから、栗山は、ボディビル器具を見るたびに〝ありがとう〟という感謝の気持があふれてくるという。そして、自分がゼロから出発して、ジムを創立し、店をもち、資格をとり、役職をおおせつかる、これら有を生み出してくれたのは、なにをかくそう、すべてダンベルやバーベルが病弱な体を、このような立派な体に改造してくれたお陰だということを心が痛むほど感じるという。
それだけに、彼はボディビルをたんに体や筋肉づくりだけに終わらせたくないという気持で、いつも指導にあたっている。
「私はビルダーを見ると、やはり柔道や剣道をやっている人たちのような先輩、後輩の礼儀や秩序、素直な心などが足りないような気がするんです。そして、それらはボディビルで養えないものかというと、決してそうじゃないと思うんだ。また、そういう社会人としての常識をしっかり身につけている人は、やはり発達も早いと思う。朝生選手なんかいい例だよ。
ちょっと体がよくなると、先輩は馬鹿にするし、口のきき方も忘れてしまうデクの棒をよく見かける。ビルダーは体が大きくて目につきやすいから、とくにそういった内面的なことに注意しないと、ボディビルそのものまで誤解されてしまうんじゃないかと思う。
私がなぜこんなことをいうかというと、今年のミスター日本コンテストで本当に恥かしい思いをしたからだ。というのは、大会の挨拶をお願いした大阪協会々長の中山代議士が、忙しい政務の間をぬって新幹線でかけつけてくださったが、予定より少し遅れたために、進行の途中のキリのいいところで挨拶をお願いした。そして、時間にすればいくらでもないと思うが、中山代議士が遅れて来たおわびと、選手に励ましをいっている最中、選手の中から「話が長いと、筋肉が冷えちゃうよ。早くやめてくれないかなあ」という声がした。また、客席からもザワザワと雑談がきこえてきた。相手の立場を思いやる気持がないこんな言葉や態度は今後ぜったいに改めてもらいたいと思う。私にいわせりゃ、1分や2分で縮んでしまうような筋肉だったら、しょせん入賞は無理だよ」
と、若いビルダーたちに、聖人君子になれというのではなく、トレーニングをとおして体を鍛えるとともに、精神的にも成長してもらいたいと強い口調でいっていた。
私が訪ねたこの日も、朝まで店をやっていたにもかかわらず、午前中に築地まで仕入れに行ってきたばかりのところだった。「新潟県人の通った跡にはペンペン草も生えない」のたとえどおり、常に大きな目標をかかげ、働くことに楽しみを覚えている栗山を見ると、たのもしい兄貴のような力強いものを感じる。
『商売で身を立てる』と決心して新潟から出てきた彼が、いま現在位置するところは頂上なのか途中なのか、誰にもわからない。しかし彼はいまだに動きを止めないのである。
最後に栗山氏から読者に一言。
「皆さん、昭和54年度ミスター日本は東京で開催されます。とくにこの大会は25周年です。みんなで協力して立派な記念大会をやりましょう。私たち役員も一生懸命がんばります。みなさんよろしくお願いします」
月刊ボディビルディング1979年1月号

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