ヨーロッパひとり歩き<その1>
イギリス・ボディビル界の周辺
月刊ボディビルディング1979年2月号
掲載日:2018.10.01
(財)スポーツ会館トレーナー
早稲田大学ボディビル部監督
岸 正世史
早稲田大学ボディビル部監督
岸 正世史
●NABBA会長を訪ねて●
長いヨーロッパでの仕事に向け、厳戒の成田空港を飛び立ったのは、関東地方にもようやく梅雨入り宣言が行われた頃であった。リフティング・シューズやベルトなどのトレーニング用具の他、日本製プロテイン・タブレットなどをゴッソリ持ったため、携帯荷物が規定の20kgをなんと10数kgも越えてしまった。では、いかにして搭乗チェックを突破したかというに、美人係員のいるチェック・インを探し、馴れないお世辞などいいながら、なんとかうまくごまかしたというわけ。
さて、南回り便のため、延々32時間30分の刑を終えて、飛行機という監獄からロンドンはヒースロウ空港に釈放された。若者の町アールズ・コートに格安のホテルを見つけた私は、時差ボケの中、休む間もなく NABBA (The National Amateur Body Builders’ Ass-ociation)の本部を訪れた。
日本ならさしずめ東京の日本橋といった感じの昔のロンドンの表玄関、チャリング・クロス駅のすぐ裏手にある本部事務所は、ビルの狭い急な階段を4階まで昇ったところが入り口になっている。これはあとで日本に帰ってから健康体力研究所の野沢秀雄氏から聞いた話だが、あの狭いビルにも、ちゃんとエレベーターはあるのだそうだ。しかし、さすがに会長のオスカー・ハイデンスタム氏は、健康のため、あの急な階段を歩いて昇り降りしているという。巨体をゆすりながら。
さて、南回り便のため、延々32時間30分の刑を終えて、飛行機という監獄からロンドンはヒースロウ空港に釈放された。若者の町アールズ・コートに格安のホテルを見つけた私は、時差ボケの中、休む間もなく NABBA (The National Amateur Body Builders’ Ass-ociation)の本部を訪れた。
日本ならさしずめ東京の日本橋といった感じの昔のロンドンの表玄関、チャリング・クロス駅のすぐ裏手にある本部事務所は、ビルの狭い急な階段を4階まで昇ったところが入り口になっている。これはあとで日本に帰ってから健康体力研究所の野沢秀雄氏から聞いた話だが、あの狭いビルにも、ちゃんとエレベーターはあるのだそうだ。しかし、さすがに会長のオスカー・ハイデンスタム氏は、健康のため、あの急な階段を歩いて昇り降りしているという。巨体をゆすりながら。
[NABBA本部事務所]
街ではよく中国人もシンガポール人に間違えられた私も、ここではすぐに「日本から来ましたね」と言われた。
会長の大きな手のひらに包まれるように固い握手を交す。ここでこうして日本人を迎えるのは、私が3人目であるとのことだ。最初は前述の野沢氏、そして2人目がミスター・タマリだという。ミスター・タマリ(日本ボディビル協会理事長・玉利斉氏)は私と同じ大学の出身で、しかも同じクラブの先輩であることを話すと、会長の早口な英語はますます回転がよくなって声高になり、「それは素晴らしいことだ!!」を連発。聞いていたとおりの背すじの伸びた立派な英国紳士である。
氏の生き生きと輝いている美しい目とは対称的に、額に刻まれた数本のシワには、NABBA30年の歴史を見る思いがした。同時に、JBBAとの10年を越える親善関係にもかかわらず、私が「3人目」という事実から、イギリスが日本にとっていかに遠い国であるかを察するにあまりある。このことはイギリスにとっても同様に違いない。なにしろ、日本の地域をいまだに“FanEast(東の果て)”と呼んでいるくらいなのだから。
オスカー・ハイデンスタム氏が、NABBAの会長であると共に、ミスター・ユニバース・コンテストの創始者であり、また“Health & Strength”誌の編集者でもあることはあまりにも有名だが、彼が以前ミスター・ブリテンやミスター・ヨーロッパを制した名ボディビルダーであったということは日本では案外知られていないようだ。
“Faber & Faber”という出版社から出ている氏の執筆によるボディビル技術解説書“Modern Bodybuilding“を見せてもらったが、日本の書籍にあるような、著者紹介や著者略歴なるものが載っていない。習慣の違いかとも思ったが、念のため聞いてみたところ会長はあっさりと「過去のことは過去のことさ」と一言。あくまでも未来を見つめて歩み続けるNABBA会長の面目躍如といったところか。
書棚の上には1997年度第29回ユニバース・コンテストのプロ、アマ、ビキニのそれぞれの覇者、トニー・エモット、バーティル・フォックス、ブリッジ・ギボンズのカラー写真が額に収められて飾ってある。フランスのスーパー・スター、サージ・ヌブレや、日本の強豪、須藤孝三選手らを押えての英国勢の完勝が、会長にとってはよほどうれしかったようだ。
そこで私は、1968年第20回の吉田実選手以来、会長の見てきた日本人ビルダーに対する印象を聞いてみた。
「日本のビルダーは皆素晴らしい」とまず外交辞令を言ったあと、会長は「コンテストで見た限りでは」と前置きをして、「圧倒されるような筋肉の持ち主、例えば、かつてのあのアーノルド・シュワルツェネガーや、現在ではわがバーティル・フォックスに代表されるような選手は見あたらないが、いずれもたいへん良いボディビル・センスを持っているように思う。つまり『力』で劣る面は十二分にその『美』でカバーするそのセンス、知恵を彼らは持っている。その意味でも、スギタ、スドーは私にとって強く印象を残っている日本人ビルダーだ。特にこのロンドンでは、スドーの人気は大したものだ。今年(1978年)のユニバースにも彼らは来るのだろうか」
そういえば、のちの9月22・23日に当地で行なわれたユニバース・コンテストでは、私はNABBA関係者や一般ファンから幾度となく「今年はスドーは来ないのか」「なぜ来ていないのか」と質問攻めに会ったものだ。
この話を聞いて、今回の日本の代表奥田孝美選手について、あとで会長の印象を聞くことが私にとって違った意味で興味深かったが、コンテスト後は会長と個人的に会う機会を逸してしまった。奥田選手が杉田、須藤両選手とはまたひと味違ったタイプに映るのは私だけだろうか。
会長の大きな手のひらに包まれるように固い握手を交す。ここでこうして日本人を迎えるのは、私が3人目であるとのことだ。最初は前述の野沢氏、そして2人目がミスター・タマリだという。ミスター・タマリ(日本ボディビル協会理事長・玉利斉氏)は私と同じ大学の出身で、しかも同じクラブの先輩であることを話すと、会長の早口な英語はますます回転がよくなって声高になり、「それは素晴らしいことだ!!」を連発。聞いていたとおりの背すじの伸びた立派な英国紳士である。
氏の生き生きと輝いている美しい目とは対称的に、額に刻まれた数本のシワには、NABBA30年の歴史を見る思いがした。同時に、JBBAとの10年を越える親善関係にもかかわらず、私が「3人目」という事実から、イギリスが日本にとっていかに遠い国であるかを察するにあまりある。このことはイギリスにとっても同様に違いない。なにしろ、日本の地域をいまだに“FanEast(東の果て)”と呼んでいるくらいなのだから。
オスカー・ハイデンスタム氏が、NABBAの会長であると共に、ミスター・ユニバース・コンテストの創始者であり、また“Health & Strength”誌の編集者でもあることはあまりにも有名だが、彼が以前ミスター・ブリテンやミスター・ヨーロッパを制した名ボディビルダーであったということは日本では案外知られていないようだ。
“Faber & Faber”という出版社から出ている氏の執筆によるボディビル技術解説書“Modern Bodybuilding“を見せてもらったが、日本の書籍にあるような、著者紹介や著者略歴なるものが載っていない。習慣の違いかとも思ったが、念のため聞いてみたところ会長はあっさりと「過去のことは過去のことさ」と一言。あくまでも未来を見つめて歩み続けるNABBA会長の面目躍如といったところか。
書棚の上には1997年度第29回ユニバース・コンテストのプロ、アマ、ビキニのそれぞれの覇者、トニー・エモット、バーティル・フォックス、ブリッジ・ギボンズのカラー写真が額に収められて飾ってある。フランスのスーパー・スター、サージ・ヌブレや、日本の強豪、須藤孝三選手らを押えての英国勢の完勝が、会長にとってはよほどうれしかったようだ。
そこで私は、1968年第20回の吉田実選手以来、会長の見てきた日本人ビルダーに対する印象を聞いてみた。
「日本のビルダーは皆素晴らしい」とまず外交辞令を言ったあと、会長は「コンテストで見た限りでは」と前置きをして、「圧倒されるような筋肉の持ち主、例えば、かつてのあのアーノルド・シュワルツェネガーや、現在ではわがバーティル・フォックスに代表されるような選手は見あたらないが、いずれもたいへん良いボディビル・センスを持っているように思う。つまり『力』で劣る面は十二分にその『美』でカバーするそのセンス、知恵を彼らは持っている。その意味でも、スギタ、スドーは私にとって強く印象を残っている日本人ビルダーだ。特にこのロンドンでは、スドーの人気は大したものだ。今年(1978年)のユニバースにも彼らは来るのだろうか」
そういえば、のちの9月22・23日に当地で行なわれたユニバース・コンテストでは、私はNABBA関係者や一般ファンから幾度となく「今年はスドーは来ないのか」「なぜ来ていないのか」と質問攻めに会ったものだ。
この話を聞いて、今回の日本の代表奥田孝美選手について、あとで会長の印象を聞くことが私にとって違った意味で興味深かったが、コンテスト後は会長と個人的に会う機会を逸してしまった。奥田選手が杉田、須藤両選手とはまたひと味違ったタイプに映るのは私だけだろうか。
[オースカー・ハイデンスタム会長と彼のデスク]
●NABBAのスタッフ●
翌日、同じこの事務所で紹介を受けた、会長の右腕となって日夜活躍しているNABBAの影武者、ノーマン・ヒバート氏を読者の皆さんにもご紹介しておこう。
彼は、ロンドンの西部地区でリリーロード・フィジカル・フィットネス・センターを経営しており、会員の指導をするかたわら、自らの体づくりにも人一倍熱心で、1978年度ミスター・ブリテンでは、シニアの部、45歳以上クラスで4位に入賞している。
私が昼間、本部事務所に行くと、いつも彼はこまめに書類の整理や金勘定をしている。私の顔を見ると、じつにやさしい目をしてニコッと笑い、「コンニチワ」と言ってくれる。私の手元にあるイギリス製のプロテインやレバー・タブレットからNABBAのマーク入りのTシャツ、コンテストのチケットにいたるまで、すべて彼の世話になって手にいれたものばかりだ。香ばしいプロテイン・パウダーを口にすると、今でもヒバート氏の心のやさしさがよびがえってくる。
彼の奥さん、シルビア夫人もやはり同じ彼の経営するトレーニング・センターで女性の指導にあたっている。むしろ、知名度では彼女の方が上かも知れない。と言うのも、彼女は元ミス・ブリテンのほか、元ミス・ユニバース・ビキニのタイトル・ホルダーでもあるからだ。金髪、面長の美人である。
ユニバース・コンテストのあとのダンス・パーティで会ったときは、ヒバート氏が若々しいサファリ・ジャケットの上下スーツで身を包んでいたのに対し、シルビア夫人はクリーム色を基調としたまことに品のいいドレスをまとっていた。とにかく素敵なカップルである。
NABBAのスッタフといえば、やはり元ミス・ブリテンに輝き、1972年にはミス・ユニバース・ビキニにもなっているクリスティーヌ・チャールズ女史の名前をあげないわけにはいかない。
彼女は、NABBAの主に女性コンテスト関係の世話役ということだが、私の記憶では、確か、前回1977年度のミス・ユニバース・ビキニにも自ら出場し入賞を果たしたように思う。
周知のように、イギリスではどんな地方の小さなコンテストでも、必ずと言ってよいほどミス・何々コンテストが併催されるくらい、女性のコンテストが盛んな国である。
彼女が、本部事務所やコンテスト会場、パーティー会場などで忙しく歩き回っている姿は何度か見かけたが、私は直接言葉を交わしたことがないのでそれ以上のことは知らない。ただ、ハイデンスタム会長が、彼女はNABBAになくてはならないスタッフの1人である、と言っていたことを覚えている。
それ以前にも彼女の顔だけは、例の“Health & Strength”誌上で見ていたし、女史に失礼かも知れないが、何よりも彼女の個性豊かなフェースは私にとって覚えやすかった。
コンテストのあとのダンス・パーティーでは、会場整理やミュージック関係の手伝いをしていた。なにしろ、ハイデンスタム会長自らパーティー会場の受付でチケットさばきに精を出していたのだから、チャールズ女史ともどもそのスタミナたるや、NABBAを支えるに足るものがあるなどと、ヘンなところで感心してしまった。
パーティーの途中、会場がややしらけ気味になった時、チャールズ女史はさっそうとフロアーの真中に出るや、パッとドレスを脱ぎ捨て、いや、一瞬そうするのかと思ったのは私の浅はかな思いすごしで、ドレスではなくハイヒールを脱ぎ捨て、やおら1人で激しく踊りだし、会場の人たちのヤンヤの喝采を浴びていた。
まくれあがる彼女のスカートにチラチラ目をやりながら、「見えそうで見えんなあ」と言っていたのは、わが同胞、玉利理事長だったか、はたまた奥田選手だったか?
(次回は、イギリス国内の歴代有名ビルダーたちの地元での評価について記してみたい。)
彼は、ロンドンの西部地区でリリーロード・フィジカル・フィットネス・センターを経営しており、会員の指導をするかたわら、自らの体づくりにも人一倍熱心で、1978年度ミスター・ブリテンでは、シニアの部、45歳以上クラスで4位に入賞している。
私が昼間、本部事務所に行くと、いつも彼はこまめに書類の整理や金勘定をしている。私の顔を見ると、じつにやさしい目をしてニコッと笑い、「コンニチワ」と言ってくれる。私の手元にあるイギリス製のプロテインやレバー・タブレットからNABBAのマーク入りのTシャツ、コンテストのチケットにいたるまで、すべて彼の世話になって手にいれたものばかりだ。香ばしいプロテイン・パウダーを口にすると、今でもヒバート氏の心のやさしさがよびがえってくる。
彼の奥さん、シルビア夫人もやはり同じ彼の経営するトレーニング・センターで女性の指導にあたっている。むしろ、知名度では彼女の方が上かも知れない。と言うのも、彼女は元ミス・ブリテンのほか、元ミス・ユニバース・ビキニのタイトル・ホルダーでもあるからだ。金髪、面長の美人である。
ユニバース・コンテストのあとのダンス・パーティで会ったときは、ヒバート氏が若々しいサファリ・ジャケットの上下スーツで身を包んでいたのに対し、シルビア夫人はクリーム色を基調としたまことに品のいいドレスをまとっていた。とにかく素敵なカップルである。
NABBAのスッタフといえば、やはり元ミス・ブリテンに輝き、1972年にはミス・ユニバース・ビキニにもなっているクリスティーヌ・チャールズ女史の名前をあげないわけにはいかない。
彼女は、NABBAの主に女性コンテスト関係の世話役ということだが、私の記憶では、確か、前回1977年度のミス・ユニバース・ビキニにも自ら出場し入賞を果たしたように思う。
周知のように、イギリスではどんな地方の小さなコンテストでも、必ずと言ってよいほどミス・何々コンテストが併催されるくらい、女性のコンテストが盛んな国である。
彼女が、本部事務所やコンテスト会場、パーティー会場などで忙しく歩き回っている姿は何度か見かけたが、私は直接言葉を交わしたことがないのでそれ以上のことは知らない。ただ、ハイデンスタム会長が、彼女はNABBAになくてはならないスタッフの1人である、と言っていたことを覚えている。
それ以前にも彼女の顔だけは、例の“Health & Strength”誌上で見ていたし、女史に失礼かも知れないが、何よりも彼女の個性豊かなフェースは私にとって覚えやすかった。
コンテストのあとのダンス・パーティーでは、会場整理やミュージック関係の手伝いをしていた。なにしろ、ハイデンスタム会長自らパーティー会場の受付でチケットさばきに精を出していたのだから、チャールズ女史ともどもそのスタミナたるや、NABBAを支えるに足るものがあるなどと、ヘンなところで感心してしまった。
パーティーの途中、会場がややしらけ気味になった時、チャールズ女史はさっそうとフロアーの真中に出るや、パッとドレスを脱ぎ捨て、いや、一瞬そうするのかと思ったのは私の浅はかな思いすごしで、ドレスではなくハイヒールを脱ぎ捨て、やおら1人で激しく踊りだし、会場の人たちのヤンヤの喝采を浴びていた。
まくれあがる彼女のスカートにチラチラ目をやりながら、「見えそうで見えんなあ」と言っていたのは、わが同胞、玉利理事長だったか、はたまた奥田選手だったか?
(次回は、イギリス国内の歴代有名ビルダーたちの地元での評価について記してみたい。)
[1978年度NABBAミスター・ユニバース審査会場となったアセンブリー・ルームで。左から、奥田選手、私、玉利理事長、ジャマイカのチェン・ウイント選手。]
月刊ボディビルディング1979年2月号
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