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第8回1978年度世界パワーリフティング選手権大会に出場して
どこまで伸びるか! 世界の記録

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月刊ボディビルディング1979年2月号
掲載日:2018.10.07
日本チーム団長
仲村昌英

日本チーム副団長
中尾達文
フィンランドのトルク市で開かれる第8回1978年度世界パワーリフティング選手権大会に臨む日本選手団、52kg級=因幡英昭(東京34才)、福屋好博(東京34才)、67.5kg級=原田勲(岡山24才)、75kg級=鈴木正之(愛知39才)、中尾達文(香山30才)、90kg級=前田都喜春(愛知34kg)、110kg級=仲村昌英(沖縄34才)、以上一行7名を乗せたジェット機は、1978年10月29日、霧雨にけぶる成田新東京国際空港を予定より3時間半も遅れて飛び立った。
機中、相変わらず窮屈な座席に縛りつけられ、ブロイラーもどきの過度の機内食のサービスに全くうんざりしながら、揺られること約10時間、給油のためモスクワ空港に着陸。いてつくような寒さと、無愛想で不気味な雰囲気の中で約1時間の休憩の後、再びロンドンへ向って飛び立った。そして3時間、夜の10時にやっとヒースロー空港に降り立つことができた。なんと成田を発ってから実に15時間近くも飛行機に乗りっぱなしだった勘定になる。どおりで足がむくんで、しばらくは靴が履けないありさまであった。
同夜はロンドン市内に一泊、翌朝6時前にたたき起こされ、時差ボケの頭をたたきながら再びヒースロー空港からヘルシンキへ向かって飛び立った。約3時間でヘルシンキ空港に到着。もうここまでくればしめたもの、目ざすトルク市まであとわずかである。ヘルシンキ空港で国内線の小型ジェット機に乗りかえて約30分、遂にやって来たのですトルクの町へ!!
空港には、以前アメリカでの世界大会で見おぼえのあるフィンランド・パワーリフティング協会の関係者が多数出迎えに来ていてくれ、再会をよろこびあった。
トルク市は人口15万で、この国では中程度の都市だそうだが、静かな森林と、多くの湖に囲まれた実にのんびりとした、いかにも北欧らしい面影がある。気温は0度からマイナス1~2度くらいで、かなり寒く感じる。
それよりも何よりも、我々の目を引きつけたのは、女性の美しさである。北欧は世界有数の美人の産地と聞いていたが、ききしにまさるその美しさにしばしボウゼンとしてしまった。すきとおるような美しい肌に、パッチリと大きい目、スッキリとおった鼻すじ、よくもまあ、こんなに美人ばかりそろったものだ。オーバーな表現をすればブスを探すほうがはるかに大変だ。話を本題に戻そう。大会役員に案内されて宿舎のイキトウリ・ホテルに着いたのが夜の7時ちょっと前だった。全員多少の時差ボケや疲れはあるにせよ、いよいよ決戦場へたどりついたという緊張感で、そんなものはどこかへふっ飛んでしまい、11月2日から始まる大会に早くも思いをはせるのであった。

因幡、世界新で堂々の5連勝

11月2日、大会開幕である。今回は宿舎であるイキトウリ・ホテルの催物会場のホールがそのまま試合会場となっていたため、選手にとっては非常に好都合であり、大好評だった。
このイキトウリ・ホテルは北欧第二のホテルと言うだけのことはあって、ホテル内にプールやトレーニング場、貸しホール、会議場などをあわせもつ近代的な設備の整った立派なホテルであった。
会場内には参加17カ国の国旗が飾られ、すべての準備が完了して今や大会を待つばかりである。そして、アメリカとフィンランドのテレビ局が大会の模様を放映するため、カメラや照明を忙しそうにセットしていた。
関係者の話によると、フィンランド政府は、この世界選手権大会に対して多額の援助金を出してくれたそうだが会場の規模や設営、その他のセレモニーなどから推察しても、本当に今回の大会にかけるフィンランド・パワーリフティング協会の一致団結した意気込みと言うものが十二分に感じとれた。
初日は52kg級と56kg級の2階級が実施された。まず52kg級が夕方の5時30分試合開始。このクラスには日本の誇る常勝、因幡と初出場の福屋の2選手が出場する。会場は平日であるにもかかわらず、びっしりと立錐の余地のないくらい観客で埋めつくされ、いやが上にも世界選手権大会開幕にふさわしい雰囲気となった。ちなみに、今大会の入場料は1人1,500円とのことであった。
いよいよスクワットの試技が開始された。前日までのルール改正の世界会議に私も出席していて、スクワットのしゃがみの深さと、デッド・リフトの引き上げる時のバランスの判定基準が非常にきびしくなることがわかっていた。とくにスクワットは全員充分にしゃがんで完全なスクワットをすることをみんなで申し合わせておいた。
まず福屋選手が115kgからスタートした。しかしここで思わぬ失敗をしてしまった。というのは、福屋選手の初出場の緊張と、私たちセコンド陣の不慣れのために、コールされてから1分以内に試技を始めなければ失敗となるというルールにひっかかり、タイム・オーバーで失敗にされてしまった。
出足のつまづきに、我々はあせったり、とまどったりしたが、福屋選手自身は意外と冷静で、2回目、3回目は完全にものにしてくれた。
次のベンチ・プレスでは90kgを成功させ、最後のデッド・リフトは170kgをまず成功させたあと、一気に200kgまで上げて2回目に臨んだ。バーベルは完全に引けて上体も完全に反れたのだが、わずかに大腿部にシャフトをこすりつけて、づり上げたため、惜しくも失敗の判定。日本の大会なら充分に成功と見られる試技であったのだが。結局、デッド・リフトは170kgにとどまり、トータル390kgで全試技を終った。福屋選手自身としては、自己のベスト記録を40kg以上も下まわる不本意な記録ではあったものの、初出場ながらその堂々とした試技は観衆から大きな声援を浴びていた。
[初出場で少し固くなり、トータル390kgで52kg級4位入賞の福屋選手]

[初出場で少し固くなり、トータル390kgで52kg級4位入賞の福屋選手]

さて次は、日本の誇る小さな巨人、因幡選手の登場である。すでに過去4年連続優勝という偉業をなし遂げており、すでに世界に敵なく、自己の記録との戦いである。
彼は試合前の作戦どおりスクワットの第1試技で、いきなり205kgからスタートした。前日まで少し体調を崩し減量に苦しんでいたため、いくぶん重い感じはしたが完璧な試技であっさり成功。2回目は210kgにアップしたが意外にも1回目よりもはるかに軽い感じで楽々成功した。
いよいよ3回目215kg。ワールド・レコードのアナウンスが場内に流れると、観客の間からは声をからして「カモン!イナバ」「ゴーゴー!イナバ」の大シュプレヒコール。因幡選手は独特の「シェー!」のかけ声一閃、がっちりとシャフトを両肩に食い込ませてしゃがんだ。場内は床を踏みならす音と、ピーピーという口笛で、まさに興奮のるつぼと化した。
因幡選手は歯をくいしばって一気に立ち上がった。完璧なスクワットである。白ランプ3つ、見事な世界新である。まだ5kgアップしても充分に立てそうな感じであった。観衆は信じられない物でも見たかのように、一瞬静まり、すぐまたハチの巣をつついたような大きな祝福の拍手を送ってくれた。すぐにコスチューム・チェックが行われ、即座にOKが出て、215kgが正式にIPFのワールド・レコードとして公認された。
スクワットの世界新に気をよくしてか、次のベンチ・プレスでも自己最高の117.5kgに成功。そして最後のデッド・リフトでは、一気に1回目から優勝と世界新をねらって220kgからスタート。これを実に軽く成功させて、5年連続世界選手権優勝と世界新を確定した。
2回目の225kgも軽く浮き、上体も充分に反れて成功したかに見えたが、途中で一瞬シャフトが止まったということで反則にとられて赤ランプが2つで失敗に終わった。3回目、もう一度225kgに挑戦したが、さすがの因幡選手も力尽きて引けなかった。
こうして、名実共にまさしく世界の王者であることを因幡選手は世界に示してくれた。彼は出る以上、絶対に勝たねばならない宿命を背負わされ、そして、その重圧をはねかえして勝ちつづけてきた。弱体のJPAの屋台骨をあの細い体で力一杯、意地と執念で5年間、見事に支えてきてくれた。表彰台にのぼり、君が代のメロディーにのって日の丸の旗が上がっていくのを見つめる因幡選手の本当に澄みきったすがすがしい男らしい顔を私は一生涯忘れることはないであろう。
52kg級はこうして因幡選手の5連勝で幕を閉じた。2位には前体会同様イギリスのバイローが490kgで入り、3位には470kgをマークした同じイギリスのストレンガーが入った。つづいて福屋選手が4位。
[トータル552.5kgの世界新をマークし、世界選手権5連勝と最優秀選手に選ばれた52kg級の王者、因幡選手]

[トータル552.5kgの世界新をマークし、世界選手権5連勝と最優秀選手に選ばれた52kg級の王者、因幡選手]

56kg級はマッケンジー圧勝
60kg級はガントが逆転優勝

56kg級はニュージランドのマッケンジーの一人舞台であった。他に彼をおびやすかだけの選手がおらず、やや興味をそがれた感じがしないでもなかった。しかし、この人なつっこい42才のマッケンジーは、いつの大会でも軽量級の人気を因幡選手と二分する名物男である。
彼はまず、スクワットで217.5kgの世界新を出したあと、つづくベンチ・プレスでも他をまったく寄せつけず、127.5kgを成功させた。そして最後のデッド・リフトでは、2回目の試技で245kgを引き、トータル590kg。世界新で堂々の優勝。2位になんと65kgもの差をつける文句のない勝ちっぷり。老雄は消え去るどころかますます健在。
2位にはフィンランドのハッタネンが525kgで入り、3位にはオーストラリアのザピア選手が500kgで入賞。それにしても、42才のマッケンジーの優勝は、基本を充分にマスターして、節制とトレーニングを怠らなければ、このパワーリフティングは40才を過ぎても充分に世界のトップ・クラスの実力を維持できることを私たちに身をもって示してくれたと言えよう。
[56kg級でトータル590kgを出して優勝したマッケンジー]

[56kg級でトータル590kgを出して優勝したマッケンジー]

大会2日目は、やはり夕方5時30分より60kg級が始まった。このクラスでは人間起重機と異名をとるイギリスのペングリーと、アメリカのガントのまさしく火の出るような熾烈な一騎打ちが展開された。
まずスクワットでは、ペングリーが227.5kg、ガントが217.5kg。つづくベンチ・プレスではペングリーが137.5kg、ガント140kgと、一進一退の全く手に汗をにぎる戦いとなった。2種目を終えた時点で、わずかに前大会のチャンピオンのペングリーが意地を見せて7.5kgのリード。
そして遂に、この日の最高のハイライトがやってきたのである。両者ともにデッド・リフトは得意中の得意種目である。とくにガントは、極端に胴が短かくて手が長い。まるで手長猿のような人間ばなれのした体つきをしており、デッド・リフトにはピッタリの体型である。
まず、ガントが245kgからスタートして軽くこれを引き、次いでペングリーが250kgから出てこれまた軽々と成功。そして遂にすさまじい場面へと突入していった。
2回目の重量は共に265kg。まずガントが無雑作にスッとごぼう抜き、文句のない白ランプ3つ。さあ、ペングリーもこれに成功しなければ優勝できない。気迫をみなぎらしてゆっくりとシャフトに手をやり、彼独特の順手のオーバー・グリップでガッチリ握り、満身の力をこめてグーッと引いた。しかし、わずかに大腿部でゆすったと判定され、痛恨の赤ランプ3つ。
ペングリーの顔にあせりの色が見えた。その証拠に彼の乾いて血の気の失せたくちびるが、小きざみにふるえているのがわかった。そして彼は、3回目の試技で、なんと270kgにあげて、一挙の逆転優勝と世界新をねらってきた。
遂に決定的な瞬間がやってきた。必死の形相で引き上げはじめた。場内は同じヨーロッパ人のよしみでものすごい声援。全員総立ちで「ゴーゴー!ペングリー!」の大合唱がわきおこる。バーベルはゆっくりとひざ近くまで挙がったが、無情にもそこでピタリと止まって動こうとしない。ついにあきらめた彼は、無念さに泣き出しそうな顔をしてバーベルを下ろした。うらめしそうに失敗の赤ランプに目をやりながら、肩を落として控室に消えていった。この瞬間、皮肉にもガントの金メダルが確定したのである。
もはや大観衆の眼は、果してこのガントが一体全体、何kgのデッド・リフトに挑戦するのかに注がれた。その瞬間である。場内アナウンスは全くもって信じられないことをしゃべり始めたのである。驚くなかれ、何とガントは自分の体重の4.7倍以上の282.5kgの世界新記録に挑戦すると言っているではないか。
場内をうずめた2,500人の観衆は、一瞬、聞き間違いではないかと自分の耳を疑った様子であったが、すぐさま耳をつんざくばかりの大声援でガントの3回目の試技を迎えたのである。
ガントは、呼吸をととのえ、その類人猿のような長い手で、おもむろにシャフトを握り、思いっきり背筋をそらせた。このか細い脚の長い小さな体の黒人が、本当に自分の体重の4.7倍以上もの重量を引っぱり上げることができるのであろうか、と思った次の瞬間、実にいとも簡単にアッという間に完全に引ききってしまった。文句のない白ランプ3つ、成功である。
これは私の直感だが、恵まれた体型と執念の男、ガントは、恐らく近い将来300kgをマークし、自分の体重の5倍のデッド・リフトをやってのける世界最初のリフターとなるような気がした。彼は果たして人間なのであろうかあるいはサイボーグなのかも知れない。本当に世界には恐ろしい人間がいるものである。
3位はフィンランドのコイッカがトータル552.5kgで入賞した。

67.5kg級は21歳の怪物、マイク・ブリッジが730kgで優勝

大会2日目、夜8時から開始された67.5kg級には、初出場ながら得意のベンチ・プレスで張りきる原田選手が出場した。
まず最初のスクワットでは、今大会からルールの改正もあり、とくにしゃがみの深さが連日厳しくチェックされているので、原田選手は慎重を期して155kgでスタート、2回目170kgと、まずまず順調にすべり出したが、3回目の180kgはもう少しのところで失敗してしまった。
次のベンチ・プレスでは彼はさすがに強く、1回目150kg、2回目157.5kgと成功させ、3回目は日本新の160kgに挑戦したが惜しくも失敗。しかし、原田選手の157.5kgは、67.5kg級では優勝したブリッジの182.5kgにつぐ第2位であった。
最後のデッド・リフトでは、無難に205kgを引いてトータル532.5kgで9位という成績だった。
[67.5kg級でトータル532.5kgをマークし、9位入賞の原田選手]

[67.5kg級でトータル532.5kgをマークし、9位入賞の原田選手]

このクラスも出場選手が12名と非常に多く、2位以下はかなり激戦となった。ただし1人、アメリカの21才の新星マイク・ブリッジが圧倒的な強さを発揮し、まず、スクワット282.5kg、ベンチ・プレス182.5kg、デッド・リフト265kg、トータル730kgと、デッド・リフトを除く3種目に世界記録を塗りかえて優勝。底知れぬ強さを見せて全くの1人舞台であった。
2位のカナダのポスキュワレが675kg、3位のイギリスのガーナーが670kgと、前大会の1位とほぼ同記録を出していながら、それが全くカスんで目立たないのだから恐れいる。この21才の怪物クンは、これからまだまだ記録を伸ばしつづけ近い将来世界のパワーリフティング界の新しいスターとなることであろう。
ここでもう1つ特筆すべきことは、この67.5kg級では6位までがトータル620kg以上を出していることである。この記録を見るにつけても、このクラスあたりを境にして、日本選手と世界との距離は開く一方で、中でもスクワットとデッド・リフトの今後の記録の大幅な向上が急務といえよう。ー続ー
月刊ボディビルディング1979年2月号

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