1981年度第11回
世界パワーリフティング選手権大会
1981年11月5日~8日 於=インド・カルカッタ
月刊ボディビルディング1982年1月号
掲載日:2020.08.24
日本選手団長 関二三夫
過去最強の日本チーム
今回の世界選手権では、今迄で最強と思われるメンバーがそろい、団長の私としては、ひそかに第5回大会(イギリス・ハーミンガム)で逃がした団体3位入賞を期待していた。
では、まずはじめに日本チームのメンバーを簡単に紹介しよう。
フライ級の因幡選手は、世界選手権7連勝をつづけており、今回も先ず優勝間違いないだろう。バンタム級の伊差川選手は、出場選手の顔ぶれ如何では優勝の可能性も大いにあり、種目別ではべンチ・プレスの世界新を狙っている。
同じくバンタム級の工藤選手は、日本選手権以後のトレーニング次第ではスクワット世界新も可能な実力をもっており、3位以内の入賞も夢ではない。
フェザー級の服部選手は、学生界から初めての参加であり、若さと素直さを持っているので、この機会に多くのことを吸収して、将来の飛躍のための糧としてほしい。3位以内は無理としても、入賞を目指して若さでぶつかってもらいたい。
ライト級のこうろぎ(現在は使われていない漢字のため、ひらがなで書く)選手は、スクワットのスタンスが非常に広いため、それさえうまくいけば290kg以上の素晴らしい世界新も可能であろう。また、トータルでも3位以内が可能で、
もしそれが実現すれば、日本選手として初のライト級3位入賞となるので大いに期待したい。
ミドル級の植田選手は、足の障害を克服して見事なスクワットを見せ、ついに世界大会に出場するまでになったその不屈の闘志に敬意を表したい。
ライト・ヘビー級の中尾選手は、昨年まで私が頑張っていたこのクラスをガッチリと受け継いでくれた。今大会でも顔ぶれによっては相当の期待が持てよう。ただ、中尾選手はこれまで体重が最高でも80kgを切るという軽さなので、何とかあと2kg増えれば記録も大幅にアップし、3位以内入賞の可能性も大いにあろう。
ミドル・ヘビー級の前田選手は、年齢を追うごとに記録を伸ばし、今、ようやく円熟期に入った。今大会では、トータル800kg前後を期待したい。この辺から上の重量クラスは、何位になるかやってみなければわからないと言うのが現実だから、うまくいけば上位入賞も充分期待できる。
125kg級の仲村選手は、ご存知のとおり日本へビー級の第一人者で、37歳ながら、まだまだ未知の能力を秘めている。とくに今回は、前回のアメリカ・テキサスでのスクワットの無念をどうはね返えすか大いに楽しみである。前田選手同様、他国選手の顔ぶれいかんでは上位入賞も期待される。
以上、9選手の横顔を紹介したが、出場選手の枠は1カ国10名なので、もう1名出場出来る。そこで、レフリーをやることになっている私が、レフリーを辞退して選手として出場し“枯木も山のにぎわい”になることも考えたが、やはり、いくつかのクラスのレフリーをした方が、
微妙な試技の判定などがあった場合、何かと有利になるだろうという結論を下した。
それにしても、参加費用の全額自己負担ということが、フル・メンバーを組めなかった最大の原因で、この点、パワーリフティングを1日も早く、バレーボールやサッカーなどのように一般大衆に愛されるポピュラーなスポーツにするために、みんなで一丸となって努力していきたいと思う。
しかし、このメンバーなら、私の永年の夢である団体3位入賞も充分あり得る!という明るい希望を胸に、日本チームは11月1日、成田を発った。
では、まずはじめに日本チームのメンバーを簡単に紹介しよう。
フライ級の因幡選手は、世界選手権7連勝をつづけており、今回も先ず優勝間違いないだろう。バンタム級の伊差川選手は、出場選手の顔ぶれ如何では優勝の可能性も大いにあり、種目別ではべンチ・プレスの世界新を狙っている。
同じくバンタム級の工藤選手は、日本選手権以後のトレーニング次第ではスクワット世界新も可能な実力をもっており、3位以内の入賞も夢ではない。
フェザー級の服部選手は、学生界から初めての参加であり、若さと素直さを持っているので、この機会に多くのことを吸収して、将来の飛躍のための糧としてほしい。3位以内は無理としても、入賞を目指して若さでぶつかってもらいたい。
ライト級のこうろぎ(現在は使われていない漢字のため、ひらがなで書く)選手は、スクワットのスタンスが非常に広いため、それさえうまくいけば290kg以上の素晴らしい世界新も可能であろう。また、トータルでも3位以内が可能で、
もしそれが実現すれば、日本選手として初のライト級3位入賞となるので大いに期待したい。
ミドル級の植田選手は、足の障害を克服して見事なスクワットを見せ、ついに世界大会に出場するまでになったその不屈の闘志に敬意を表したい。
ライト・ヘビー級の中尾選手は、昨年まで私が頑張っていたこのクラスをガッチリと受け継いでくれた。今大会でも顔ぶれによっては相当の期待が持てよう。ただ、中尾選手はこれまで体重が最高でも80kgを切るという軽さなので、何とかあと2kg増えれば記録も大幅にアップし、3位以内入賞の可能性も大いにあろう。
ミドル・ヘビー級の前田選手は、年齢を追うごとに記録を伸ばし、今、ようやく円熟期に入った。今大会では、トータル800kg前後を期待したい。この辺から上の重量クラスは、何位になるかやってみなければわからないと言うのが現実だから、うまくいけば上位入賞も充分期待できる。
125kg級の仲村選手は、ご存知のとおり日本へビー級の第一人者で、37歳ながら、まだまだ未知の能力を秘めている。とくに今回は、前回のアメリカ・テキサスでのスクワットの無念をどうはね返えすか大いに楽しみである。前田選手同様、他国選手の顔ぶれいかんでは上位入賞も期待される。
以上、9選手の横顔を紹介したが、出場選手の枠は1カ国10名なので、もう1名出場出来る。そこで、レフリーをやることになっている私が、レフリーを辞退して選手として出場し“枯木も山のにぎわい”になることも考えたが、やはり、いくつかのクラスのレフリーをした方が、
微妙な試技の判定などがあった場合、何かと有利になるだろうという結論を下した。
それにしても、参加費用の全額自己負担ということが、フル・メンバーを組めなかった最大の原因で、この点、パワーリフティングを1日も早く、バレーボールやサッカーなどのように一般大衆に愛されるポピュラーなスポーツにするために、みんなで一丸となって努力していきたいと思う。
しかし、このメンバーなら、私の永年の夢である団体3位入賞も充分あり得る!という明るい希望を胸に、日本チームは11月1日、成田を発った。
成田空港に勢ぞろいした日本チーム
予防接種をやめての不安な旅
今回、私は新しい体験を2つした。1つは成田空港からの出発である。そして私は、この成田空港は、もしかしたら世界の主要空港の中では最も不便ではないかと感じた。私は妻に車で送ってもらったからいいようなものの、これが電車やバスを乗りついで来るとなると、大きなトランクを持っての行動は非常におっくうなものだ。
それともう1つは、開催国インドをはじめ、途中の通過国であるタイ、ホンコン、台湾と、初めての経験であり気候も違うため体調の維持が気がかりだった。とくに心配なのは、これらの地区に旅行した人がよくかかる疫病である。
コレラの予防接種を受けた選手は、仲村、前田、中尾、植田、服部、伊差川の6選手で、残る私とこうろぎ、工藤、因幡の4人が問題である。
どうして予防接種をしなかったかと言えば、こうろぎ君が3年前にタイ国に旅行した折、予防接種後、しばらくトレーニングしてはいけないと医者から注意されたというのである。
それを聞いた私は、よし!それならしょうがない。トレーニングを中断するわけにはいかないのだから、予防接種をやめよう。そのかわり、経ロ物には充分注意するよう全員に周知徹底させて大会に参加したのである。
こうして、新しい体験に伴なう不安を感じながら、飛行機はタイの首都、バンコクへと向った。
6時間半後、バンコク空港に到着。夜半のため景色は夜景しか見えないが、機を一歩出ると、ムッとする暑さ。さすが南国だなあと感じる。通関を済ませて待合室に出ると、ちょうど日本のローカル空港のような感じである。人々の服装や、全体の雰囲気から、やはり後進国だということがすぐわかる。
空港から3台のタクシーに分乗してホテルに向う。私の乗った車はべンツの古いもの。もう1台は米国車。これも古い。もう1台は小型の日本車で、日本ではとてもお目にかかれないほど古い車である。15分ほど走ってホテル・ゴールデン・ドラゴンに着く。
ここで読者の皆さんに、日本選手団にもう1人の同行者があったことをお伝えしておきたい。世界選手権大会では1カ国役員2名のワクがあり、日本からはいつも私しか参加していないので、その空いている1名のワクに、今回は仲村選手の知人で米国人、マイク氏(36歳、元ウェイトリフティング選手で、保険会社勤務)をコーチの肩書で加え、
日本選手団は合計11名となった。このマイク氏が伊差川選手と共に通訳として活躍してくれ、我々は、いつの大会でも、このようなありがたい助力者が現われて言葉の不自由さを救ってくれる。
それともう1つは、開催国インドをはじめ、途中の通過国であるタイ、ホンコン、台湾と、初めての経験であり気候も違うため体調の維持が気がかりだった。とくに心配なのは、これらの地区に旅行した人がよくかかる疫病である。
コレラの予防接種を受けた選手は、仲村、前田、中尾、植田、服部、伊差川の6選手で、残る私とこうろぎ、工藤、因幡の4人が問題である。
どうして予防接種をしなかったかと言えば、こうろぎ君が3年前にタイ国に旅行した折、予防接種後、しばらくトレーニングしてはいけないと医者から注意されたというのである。
それを聞いた私は、よし!それならしょうがない。トレーニングを中断するわけにはいかないのだから、予防接種をやめよう。そのかわり、経ロ物には充分注意するよう全員に周知徹底させて大会に参加したのである。
こうして、新しい体験に伴なう不安を感じながら、飛行機はタイの首都、バンコクへと向った。
6時間半後、バンコク空港に到着。夜半のため景色は夜景しか見えないが、機を一歩出ると、ムッとする暑さ。さすが南国だなあと感じる。通関を済ませて待合室に出ると、ちょうど日本のローカル空港のような感じである。人々の服装や、全体の雰囲気から、やはり後進国だということがすぐわかる。
空港から3台のタクシーに分乗してホテルに向う。私の乗った車はべンツの古いもの。もう1台は米国車。これも古い。もう1台は小型の日本車で、日本ではとてもお目にかかれないほど古い車である。15分ほど走ってホテル・ゴールデン・ドラゴンに着く。
ここで読者の皆さんに、日本選手団にもう1人の同行者があったことをお伝えしておきたい。世界選手権大会では1カ国役員2名のワクがあり、日本からはいつも私しか参加していないので、その空いている1名のワクに、今回は仲村選手の知人で米国人、マイク氏(36歳、元ウェイトリフティング選手で、保険会社勤務)をコーチの肩書で加え、
日本選手団は合計11名となった。このマイク氏が伊差川選手と共に通訳として活躍してくれ、我々は、いつの大会でも、このようなありがたい助力者が現われて言葉の不自由さを救ってくれる。
〔カルカッタのメイン・ストリート。こわれた水道で水浴びをする子供たちと,くずれかかった商店街〕
〔世界選手権8連覇をなしとげた因幡選手のスクワットと表彰式〕
想像を絶するインドの貧困
翌朝6時、ホテルを出発。8時にバンコクを飛び発った。乗客の中に沢山の僧侶(ヒンズー教?)がいた。約5時間後、カルカッタ空港に到着。
おや!暑いことは暑いが、タイのムシ暑さとは違う。もっとカラッとした感じである。
通関手続きをすませてロビーに出ると、インド・パワーリフティング協会事務局のバレット・プーシャン氏が出迎えてくれた。そして、同機で一緒になったオーストラリア・チームとオランダや西ドイツの役員と共にバスに乗り込む。
しばらくすると、バスのそばに数人の子供達がかけ寄って来て物乞いを始めた。その子供達のいでたちといったらこれがまたひどい。足は素足できたなく、着ているものはボロボロ。気がついてあたりを見わたすと、駐車場の車もボロばかり。車が来ると,子供ばかりではなく、同じようにボロをまとった大人まで寄って来て物乞いを始める。ここインドも、やはり後進国である。
走り出したバスの窓からの眺めは、ちょうど終戦直後の日本を思わせる田園風景である。壁の落ちかかったみすぼらしい農家が点々とあり、この国では神物とあがめる牛が、のんびりとやせた躰で歩いている。もちろん耕運機などといったものはどこにも見あたらない。
バスは1時間くらい走っただろうかそろそろカルカッタの街に入って来た。ヒドイ!私はこれ迄にこんな貧民街を目にしたことがない。道路は一応、舗装されてはいるが、デコボコの道ばたで、こわれた水道管からふき出す水で、大人も子供も躰を洗っている。家々は商店なのか住いなのか、いずれも崩れかかったようなボロ家がならんでいる。
走っている車はボロ車、それに人力車、自転車、手押車、その間を右往左往する人、人、人。なんて人が多いんだろう。それもボロをまとった素足の人ばかり。私は呆然とそれを眺め、まるで別世界を見ている感じを受けた。と、同時に、世界選手権とはいろんな勉強を私にさせてくれる。
世界には、富める国、貧しい国、病める国、混乱の国といろいろあるが、いま私が目にしているこの国は、間違いなく貧しい国である。それにひきかえ、我が日本は、なんと裕福な国だろう。物資が豊富で、言いたいことが自由に言える日本人は、なんて幸せなんだろう。それにしても,えらいところに来たもんだ、というのが全員の共通したインドの印象である。私などは、買物はおろか、外出も一切しまいと考えたほどである。
やがて、カルカッタの中心街にあるパーク・ホテルに到着。このホテルもカルカッタでは一流とのことだが、日本で言うならば二流というところ。宿泊料だけは今までの最高で、1泊2食付きでUS90ドルとかなり高い。
私とこうろぎ君が同室で、前にも書いたように、予防接種をして来なかったため、2人ともインドでは食べ物には極力注意しようということで、日本から真空パックのライス、インスタント・ラーメン、缶詰などの食糧品を1週間分と、それに登山用のガスバーナー、ボンべ、なべ、やかんまでちゃんと用意してきた。インドに来て見て、これがまさに「正解」。2人で顔を見合せた。工藤君などは早くもラーメン作りにやって来た。
旅の疲れも出て、私は夜8時頃、早々と床についた。明けて11月3日、早朝3時半に起き、この原稿を書く。
6時近く、仲村君が来て、屋上から街の様子を見ませんかと言うので、急ぎ屋上へ行って見る。沢山の人がアーケードの下でゴロ寝して雨やどりしている。中にはゴミの山をひっかきまわして何やら一心不乱に拾いあさっている者もいる。
午前11時、私の部屋に全員集合し、今日のスケジュールの打合せをする。治安その他に不安があるので、午前中に我々日本チームについているブーシャンの案内で土産物などの買物を済ませ、調整のトレーニングは午後4時頃からすることに決める。
買物に行こうとホテルを出たとたん暑さを伴った異様なニオイにムッとする。私は胸をちぢめて、小さな呼吸をよぎなくされた。一行が歩き出すと物乞いがしつこく寄ってくる。10分ほど歩いて国営の店で皆それぞれ土産物を買う。
ホテルに戻り、レストランでステーキを注文してみた。味はまあまあである。ビールも日本のとほとんど変らない。我々がこうして気軽に飲むビールも、インドの一般国民にとっては、めったにロにすることの出来ないしろものだそうだ。
昼食後、1時間ほど休んでトレーング場に行く。ふだんは何かの集会場だそうだが、かなり広いスペースに、同時に2チームがトレーニング出来るように器具がセットされている。すでにカナダ・チームが調整していた。我々もさっそくはじめる。
軽量級の何人かは、昨夜すでにここで調整したとのこと、みんな調子は良さそうだ。とくに前田選手が良く見えた。スクワットの調整をしていた仲村選手が、大腿つけ根の肉ばなれが痛いと言うのが気がかりだ。それ以外故障者はなく、トレーニングは無事終了。
夕方7時、当地のリッチマン主催のディナー・パーティに私、中尾、こうろぎ、植田の4人が招かれた。(パーティにまつわる話は、中尾選手の原稿で詳しく書かれると思うので省略)。
10時頃、リッチマンの運転する車でホテルに戻る。しばらくして、10人ほどのインド人が私の部屋に来て歓談。
おや!暑いことは暑いが、タイのムシ暑さとは違う。もっとカラッとした感じである。
通関手続きをすませてロビーに出ると、インド・パワーリフティング協会事務局のバレット・プーシャン氏が出迎えてくれた。そして、同機で一緒になったオーストラリア・チームとオランダや西ドイツの役員と共にバスに乗り込む。
しばらくすると、バスのそばに数人の子供達がかけ寄って来て物乞いを始めた。その子供達のいでたちといったらこれがまたひどい。足は素足できたなく、着ているものはボロボロ。気がついてあたりを見わたすと、駐車場の車もボロばかり。車が来ると,子供ばかりではなく、同じようにボロをまとった大人まで寄って来て物乞いを始める。ここインドも、やはり後進国である。
走り出したバスの窓からの眺めは、ちょうど終戦直後の日本を思わせる田園風景である。壁の落ちかかったみすぼらしい農家が点々とあり、この国では神物とあがめる牛が、のんびりとやせた躰で歩いている。もちろん耕運機などといったものはどこにも見あたらない。
バスは1時間くらい走っただろうかそろそろカルカッタの街に入って来た。ヒドイ!私はこれ迄にこんな貧民街を目にしたことがない。道路は一応、舗装されてはいるが、デコボコの道ばたで、こわれた水道管からふき出す水で、大人も子供も躰を洗っている。家々は商店なのか住いなのか、いずれも崩れかかったようなボロ家がならんでいる。
走っている車はボロ車、それに人力車、自転車、手押車、その間を右往左往する人、人、人。なんて人が多いんだろう。それもボロをまとった素足の人ばかり。私は呆然とそれを眺め、まるで別世界を見ている感じを受けた。と、同時に、世界選手権とはいろんな勉強を私にさせてくれる。
世界には、富める国、貧しい国、病める国、混乱の国といろいろあるが、いま私が目にしているこの国は、間違いなく貧しい国である。それにひきかえ、我が日本は、なんと裕福な国だろう。物資が豊富で、言いたいことが自由に言える日本人は、なんて幸せなんだろう。それにしても,えらいところに来たもんだ、というのが全員の共通したインドの印象である。私などは、買物はおろか、外出も一切しまいと考えたほどである。
やがて、カルカッタの中心街にあるパーク・ホテルに到着。このホテルもカルカッタでは一流とのことだが、日本で言うならば二流というところ。宿泊料だけは今までの最高で、1泊2食付きでUS90ドルとかなり高い。
私とこうろぎ君が同室で、前にも書いたように、予防接種をして来なかったため、2人ともインドでは食べ物には極力注意しようということで、日本から真空パックのライス、インスタント・ラーメン、缶詰などの食糧品を1週間分と、それに登山用のガスバーナー、ボンべ、なべ、やかんまでちゃんと用意してきた。インドに来て見て、これがまさに「正解」。2人で顔を見合せた。工藤君などは早くもラーメン作りにやって来た。
旅の疲れも出て、私は夜8時頃、早々と床についた。明けて11月3日、早朝3時半に起き、この原稿を書く。
6時近く、仲村君が来て、屋上から街の様子を見ませんかと言うので、急ぎ屋上へ行って見る。沢山の人がアーケードの下でゴロ寝して雨やどりしている。中にはゴミの山をひっかきまわして何やら一心不乱に拾いあさっている者もいる。
午前11時、私の部屋に全員集合し、今日のスケジュールの打合せをする。治安その他に不安があるので、午前中に我々日本チームについているブーシャンの案内で土産物などの買物を済ませ、調整のトレーニングは午後4時頃からすることに決める。
買物に行こうとホテルを出たとたん暑さを伴った異様なニオイにムッとする。私は胸をちぢめて、小さな呼吸をよぎなくされた。一行が歩き出すと物乞いがしつこく寄ってくる。10分ほど歩いて国営の店で皆それぞれ土産物を買う。
ホテルに戻り、レストランでステーキを注文してみた。味はまあまあである。ビールも日本のとほとんど変らない。我々がこうして気軽に飲むビールも、インドの一般国民にとっては、めったにロにすることの出来ないしろものだそうだ。
昼食後、1時間ほど休んでトレーング場に行く。ふだんは何かの集会場だそうだが、かなり広いスペースに、同時に2チームがトレーニング出来るように器具がセットされている。すでにカナダ・チームが調整していた。我々もさっそくはじめる。
軽量級の何人かは、昨夜すでにここで調整したとのこと、みんな調子は良さそうだ。とくに前田選手が良く見えた。スクワットの調整をしていた仲村選手が、大腿つけ根の肉ばなれが痛いと言うのが気がかりだ。それ以外故障者はなく、トレーニングは無事終了。
夕方7時、当地のリッチマン主催のディナー・パーティに私、中尾、こうろぎ、植田の4人が招かれた。(パーティにまつわる話は、中尾選手の原稿で詳しく書かれると思うので省略)。
10時頃、リッチマンの運転する車でホテルに戻る。しばらくして、10人ほどのインド人が私の部屋に来て歓談。
〔ホテルに着くと,さっそく日本から持ち込んだインスタントラーメンで腹ごしらえをする私〕
〔大会開催地カルカッタに到着した日本チーム。うしろがパーク・ホテル〕
国際会議での決定事項
11月4日。今日は午前9時から世界会議がある。私はマイク氏を伴なって出席。彼のおかげで言葉の面でたいへん助かった。
会議では、先ずステロイド・テストをどうするかが議論され、結局、今大会もアンフェタミン(興奮剤)テストのみとし、つぎの第12回大会(ドイツ・ミュンヘン)からすべてのテストをすることになった。
次に女子の90kg級が新設され、これで女子の階級は10階級となった。また来年(1982年)オーストラリア・シドニーで行われるはずだった第3回女子世界選手権大会は、経済的理由から1983年に持ち越され、かわってイギリスのバーミンガム市で開催されることになった。さらに,1983年の第13回男子世界選手権は女子選手権と一緒にオーストラリアで開催と決った。いずれにしても、これでまた、男・女世界選手権のために、2年間に3回外国に行かなければならないが、なんといっても先立つものはお金。さして楽でもない家計からひねり出してくれる女房殿に感謝します・・・。
つづいて新加盟国の承認問題。すでに読者の皆さんにおなじみの世界的ビルダー、サージ・ヌブレがフランス・パワーリフティング連盟の代表として第1回フランス・パワーリフティング選手権開催の実績を持ってこの国際会議に臨み、満場一致で加盟が認められた。これでIPF加盟国は確か43ヵ国になったと思う。8年前,我が日本が加盟したのは18番目だったと記憶している。それからこの数年でずいぶん増えたものだ。
会議の最後に、今大会のレフリーの割りふりがあり、私はフライ級、ライト級、それに125kg級とスーパー・ヘビー級(この2階級は同時に行なわれる)の3クラスのレフリーを担当することになった。
会議を終り、私とこうろぎ君、それにジャン・トッド、L・ガント、Dr.シワルツといった親しい友人と歓談しながらタ食をすませ、部屋に戻ると、もう12時を過ぎていた。すぐ就寝。
11月5日。朝6時起床。いよいよ今日午後6時から競技がスタートする。開会式に出席するため、午後3時、各国の役員・選手たちと一緒にバスにて会場の「ネタジ・インドア・スタジアム」に出かける。スタジアムに着いてその大きさにおどろいた。こんなことを言ってはインドの人たちには失礼だが、インドア・スタジアムとしてこんなに大きいのは日本でも見たことがない。
道ばたには貧しい人々があふれ、かたや、こんな立派なスタジアムがデーンと建っている。どこかチグハグな感じがする。
午後4時、フライ級の検量がはじまり、因幡選手、無事通過。
検量後、すぐ開会式が始まる。でまたまたおどろいた。まず、日本で言うならば「国体」なみの入場行進。民族衣装をつけた可愛いい女の子の持つ各国名の入ったプラカードを先頭に参加15カ国の役員・選手の入場。それに少年鼓笛隊、少女合唱団、少女舞踊団、ポーイスカウトと、その動員数は数えきれない。開会式の規模としてはこれまでに私が見てきたものの中で最大である。さすがインド政府のバックアップの力だなあと感じた。
開会式も終り、午後6時、いよいよフライ級の競技が開始された。私は正面から見て左側のサイド・レフリーである。因幡選手、8年連続世界選手権を制覇なるか!そして、それにつづく日本選手団ガンバレ!
今回の選手権大会報告は、このあと、各クラスの競技については、そのクラスに出場した選手自身に個々にレポートしてもらうことにしたので、たいへん興味深いものになると思います。では、因幡選手から順に各選手へバトン・タッチ…。
会議では、先ずステロイド・テストをどうするかが議論され、結局、今大会もアンフェタミン(興奮剤)テストのみとし、つぎの第12回大会(ドイツ・ミュンヘン)からすべてのテストをすることになった。
次に女子の90kg級が新設され、これで女子の階級は10階級となった。また来年(1982年)オーストラリア・シドニーで行われるはずだった第3回女子世界選手権大会は、経済的理由から1983年に持ち越され、かわってイギリスのバーミンガム市で開催されることになった。さらに,1983年の第13回男子世界選手権は女子選手権と一緒にオーストラリアで開催と決った。いずれにしても、これでまた、男・女世界選手権のために、2年間に3回外国に行かなければならないが、なんといっても先立つものはお金。さして楽でもない家計からひねり出してくれる女房殿に感謝します・・・。
つづいて新加盟国の承認問題。すでに読者の皆さんにおなじみの世界的ビルダー、サージ・ヌブレがフランス・パワーリフティング連盟の代表として第1回フランス・パワーリフティング選手権開催の実績を持ってこの国際会議に臨み、満場一致で加盟が認められた。これでIPF加盟国は確か43ヵ国になったと思う。8年前,我が日本が加盟したのは18番目だったと記憶している。それからこの数年でずいぶん増えたものだ。
会議の最後に、今大会のレフリーの割りふりがあり、私はフライ級、ライト級、それに125kg級とスーパー・ヘビー級(この2階級は同時に行なわれる)の3クラスのレフリーを担当することになった。
会議を終り、私とこうろぎ君、それにジャン・トッド、L・ガント、Dr.シワルツといった親しい友人と歓談しながらタ食をすませ、部屋に戻ると、もう12時を過ぎていた。すぐ就寝。
11月5日。朝6時起床。いよいよ今日午後6時から競技がスタートする。開会式に出席するため、午後3時、各国の役員・選手たちと一緒にバスにて会場の「ネタジ・インドア・スタジアム」に出かける。スタジアムに着いてその大きさにおどろいた。こんなことを言ってはインドの人たちには失礼だが、インドア・スタジアムとしてこんなに大きいのは日本でも見たことがない。
道ばたには貧しい人々があふれ、かたや、こんな立派なスタジアムがデーンと建っている。どこかチグハグな感じがする。
午後4時、フライ級の検量がはじまり、因幡選手、無事通過。
検量後、すぐ開会式が始まる。でまたまたおどろいた。まず、日本で言うならば「国体」なみの入場行進。民族衣装をつけた可愛いい女の子の持つ各国名の入ったプラカードを先頭に参加15カ国の役員・選手の入場。それに少年鼓笛隊、少女合唱団、少女舞踊団、ポーイスカウトと、その動員数は数えきれない。開会式の規模としてはこれまでに私が見てきたものの中で最大である。さすがインド政府のバックアップの力だなあと感じた。
開会式も終り、午後6時、いよいよフライ級の競技が開始された。私は正面から見て左側のサイド・レフリーである。因幡選手、8年連続世界選手権を制覇なるか!そして、それにつづく日本選手団ガンバレ!
今回の選手権大会報告は、このあと、各クラスの競技については、そのクラスに出場した選手自身に個々にレポートしてもらうことにしたので、たいへん興味深いものになると思います。では、因幡選手から順に各選手へバトン・タッチ…。
〔大会々場のネタジ・インドア・スタジアム〕
〔ホテルの前の道路に,ゆうゆうと牛が寝そべっているのが,いかにもインドらしい〕
◇52kg級……………因幡英昭
11月5日。連日30度近い好天が続く中、ここインド・カルカッタ市のネタジ・スタジアムにおいて、第11回世界パワーリフティング選手権が始まった。夕方から開会式が行われ、引きつづき午後6時過ぎから52kg級がトップを切ってスタートした。
この日の競技は、52kg級の1クラスだけに、日本チームの全員がセコンドにアドバイスにと力を貸してくれた。
最初の種目スクワットで230kgに成功した私は、4回目の特別試技で235kgの世界新に挑戦したが、惜しくもこれは失敗に終った。
べンチ・プレスは、台がかなり高く慣れていないため、足が浮く感じで、結局115kgに終った。
2種目が終った時点で、アメリカのダンバーが357.5kgでトップ、そして私が345kgで2位、そのあとに4人の選手が310~335kgでつづくといった接戦となり、ひとつも油断できない状態となった。
そして最後のデッド・リフトに入った。トップを走っているダンバーのスタートは160kgである。そこで私は一気に逆転しようと215kgでスタートした。ところがどうしたわけか、腰がまるっきり入らず、おまけに爪先があがってしまい、ついに215kgを失敗してしまった。2回も同重量に挑戦、今度は無難に引いたが、そのときの重さは230~240kgもあるように重く感じられた。
3回目は225kgに挑戦したが、バーベルが床にへばりついたように、引いても引いても離れようとしない。とうとうギブ・アップ!
結局、トータル560kgと、平凡な記録ではあったが、なんとか世界選手権8連勝をすることが出来た。しかし、これは自分1人だけのカで達成したものではなく、日本チームのメンバーが一丸となってアドバイスしてくれたことと、遠くから声援を送ってくださった皆様方のお陰であり、心から感謝すると共に、厚くお礼申し上げる次第であります。できればもっと高い記録でお応えしたかったのですが、なにせ、インドは私達の想像以上に食べ物を始め、すべての環境が悪く、最高のコンディションで試合にのぞむのはむずかしく、むしろ、上出来の方だと言えるかも知れません。
では次に、今回の大会で気がついたことを2~3述べたいと思います。
まず、スクワットでは、大腿部が水平か、それよりちょっと下がったか、と迷うようでは、必ずといっていいほど赤ランプがつきます。やはり、ふだんの練習時から常に水平以下にバッチリ下げるように心掛けることです。
べンチ・プレスは、先にも書いたように、台が高いので、重量級の選手はともかく、軽量級の小さい選手にとっては、足が浮かないように、高いべンチ・プレス台での練習も、これから国際試合に出ようとする選手にとって必要になってくるでしょう。
デッド・リフトでは、シャフトの堅さと、ローレット(ギザギザに加工した部分)が我々の手幅より、ひと握りほど広くきざまれているため、日本選手はかなり泣かされました。私もいつもの握り幅よりひと握り広くしたために、やはりフォームが変わり、少し前かがみになって腰が入らなくて苦労しました。まあ,国によってシャフトの作り方も違うので、これもやむを得ないことだとあきらめるよりしかたがありません。
それから、これから初めて国際試合に出られる選手の皆さんに申し上げたいことですが、ふつう誰でも、日本で出した記録よりも高い記録を出そうという気持で、はりきって遠征しますが世界選手権のようなビッグ・ゲームになると、その雰囲気にのまれて、思う存分に実力が発揮できず、自分で考えていた記録(トータル)より30~40kg低くなるのがあたりまえです。初出場で失格しなかっただけでもうけものといったふてぶてしい気持をもつことも必要です。
このように、世界選手権に出場してあまりにも自分の記録が低いのにガックリしている人を毎年、何人か見うけますが、この経験を生かして研究と努力を重ねてはじめて、落ち着いて戦えるようになり、それが好成績につながるのだと思います。
やはり良い記録を出すには、選手は燃えなくては駄目です。燃えて、燃えまくって、その興奮をバーベルにぶっつけることです。
私もふだんは仕事の関係上、あまり練習が出来なく、トレーニングもごく平凡なものですが、世界選手権の2~3カ月前からエンジンを全開にしていきます。私自身の筋力そのものは、世界選手権の上位入賞者に比べて、ほとんど優劣はないと考えています。大会に臨んだ時点での興奮状態が他の選手より強く、それが爆発して良い結果につながっているような気がします。
1981年度は、先のワールド・ゲームズと、今回の世界選手権になんとか優勝したとはいうものの、記録的には物足らないものでしたが、1982年は、なんとしてもトータルであと20kgくらい伸ばしたいと、大きい目標をかかげて頑張るつもりです。
この日の競技は、52kg級の1クラスだけに、日本チームの全員がセコンドにアドバイスにと力を貸してくれた。
最初の種目スクワットで230kgに成功した私は、4回目の特別試技で235kgの世界新に挑戦したが、惜しくもこれは失敗に終った。
べンチ・プレスは、台がかなり高く慣れていないため、足が浮く感じで、結局115kgに終った。
2種目が終った時点で、アメリカのダンバーが357.5kgでトップ、そして私が345kgで2位、そのあとに4人の選手が310~335kgでつづくといった接戦となり、ひとつも油断できない状態となった。
そして最後のデッド・リフトに入った。トップを走っているダンバーのスタートは160kgである。そこで私は一気に逆転しようと215kgでスタートした。ところがどうしたわけか、腰がまるっきり入らず、おまけに爪先があがってしまい、ついに215kgを失敗してしまった。2回も同重量に挑戦、今度は無難に引いたが、そのときの重さは230~240kgもあるように重く感じられた。
3回目は225kgに挑戦したが、バーベルが床にへばりついたように、引いても引いても離れようとしない。とうとうギブ・アップ!
結局、トータル560kgと、平凡な記録ではあったが、なんとか世界選手権8連勝をすることが出来た。しかし、これは自分1人だけのカで達成したものではなく、日本チームのメンバーが一丸となってアドバイスしてくれたことと、遠くから声援を送ってくださった皆様方のお陰であり、心から感謝すると共に、厚くお礼申し上げる次第であります。できればもっと高い記録でお応えしたかったのですが、なにせ、インドは私達の想像以上に食べ物を始め、すべての環境が悪く、最高のコンディションで試合にのぞむのはむずかしく、むしろ、上出来の方だと言えるかも知れません。
では次に、今回の大会で気がついたことを2~3述べたいと思います。
まず、スクワットでは、大腿部が水平か、それよりちょっと下がったか、と迷うようでは、必ずといっていいほど赤ランプがつきます。やはり、ふだんの練習時から常に水平以下にバッチリ下げるように心掛けることです。
べンチ・プレスは、先にも書いたように、台が高いので、重量級の選手はともかく、軽量級の小さい選手にとっては、足が浮かないように、高いべンチ・プレス台での練習も、これから国際試合に出ようとする選手にとって必要になってくるでしょう。
デッド・リフトでは、シャフトの堅さと、ローレット(ギザギザに加工した部分)が我々の手幅より、ひと握りほど広くきざまれているため、日本選手はかなり泣かされました。私もいつもの握り幅よりひと握り広くしたために、やはりフォームが変わり、少し前かがみになって腰が入らなくて苦労しました。まあ,国によってシャフトの作り方も違うので、これもやむを得ないことだとあきらめるよりしかたがありません。
それから、これから初めて国際試合に出られる選手の皆さんに申し上げたいことですが、ふつう誰でも、日本で出した記録よりも高い記録を出そうという気持で、はりきって遠征しますが世界選手権のようなビッグ・ゲームになると、その雰囲気にのまれて、思う存分に実力が発揮できず、自分で考えていた記録(トータル)より30~40kg低くなるのがあたりまえです。初出場で失格しなかっただけでもうけものといったふてぶてしい気持をもつことも必要です。
このように、世界選手権に出場してあまりにも自分の記録が低いのにガックリしている人を毎年、何人か見うけますが、この経験を生かして研究と努力を重ねてはじめて、落ち着いて戦えるようになり、それが好成績につながるのだと思います。
やはり良い記録を出すには、選手は燃えなくては駄目です。燃えて、燃えまくって、その興奮をバーベルにぶっつけることです。
私もふだんは仕事の関係上、あまり練習が出来なく、トレーニングもごく平凡なものですが、世界選手権の2~3カ月前からエンジンを全開にしていきます。私自身の筋力そのものは、世界選手権の上位入賞者に比べて、ほとんど優劣はないと考えています。大会に臨んだ時点での興奮状態が他の選手より強く、それが爆発して良い結果につながっているような気がします。
1981年度は、先のワールド・ゲームズと、今回の世界選手権になんとか優勝したとはいうものの、記録的には物足らないものでしたが、1982年は、なんとしてもトータルであと20kgくらい伸ばしたいと、大きい目標をかかげて頑張るつもりです。
月刊ボディビルディング1982年1月号
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