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1981年第11回世界パワーリフティング選手権大会
1981年11月5日~8日 於=インド・カルカッタ

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月刊ボディビルディング1982年2月号
掲載日:2020.08.28
56kg級 工藤敏蔵
60kg級 服部和弘
67.5kg級 こうろぎ公吏
75kg級 植田英司

56kg級……工藤 敏蔵

 11月2日、日本選手団を乗せたTG311機は、午前10時、カルカッタに到着した。夏の終りだと聞いていたが、とにかく暑い。ボロボロの服を着てはだしで街を行く人、バスにむらがる浮浪児たち、それになんとも言い表わしようのない悪臭には、ひたすらマイッタ。こんな現地の有様は関団長が細部にわたってレポートしたので、私は私の出場した56kg級の試合について報告したいと思う。
 2日昼すぎパーク・ホテルに着き、しばしの間仮眠。夕方、関団長の部屋に行き、なつかしい日本から持参したインスタントラーメンを食べる。団長はキャビング・コンロまで持参してきており、このコンロのおかげでどれほど救われたことか。その用意周到さには頭が下がる。
 夜、みんなで1階のトレーニング場に行き、体をほぐす。スクワット180kg3発、軽い。これなら200kgからスタートできるだろう。
 11月5日、Mr.マイクが参加メンバーをメモしてくれたので、さっそく目を通してみた。なんと、つわものばかりではないか。まず全米№1のミランにはじまり、イギリスの雄、バイロ、フィンランドの大べテラン、ハッタネン、オーストラリアのスキン、それに日本の伊差川選手といった、錚々たる顔ぶれがならぶ。その他、地元インドからは2名工ントリーされているが、vで560~580kgを常に出しているので、なんとか3位以内には入れそうな気がする。
 11月6日、いよいよ56kg級が行われる。セコンドには中尾さん、植田さん、因幡さんがついてくれる。べテランぞろいなので、とても心強い。
 午前8時検量、10時全員ステージに整列、バラの花を1人ずつ渡されて選手紹介。その後すぐ第1種目スクワットが開始された。
 私の出番は9人目。このクラスではやや遅い方であるが、それでもあっというまに出番が来た。スタート重量は予定より5kg下げて195kg。
 生まれて始めての世界選手権の檜舞台、この大観衆の前で私は、いまスクワットをやるのだ。これまでお世話になった方々の顔が浮ぶ。1回目だけはなんとしても成功させなければならない。失格だけは絶対に許されない。試技を開始するまでの、ほんの数秒間にいろんなことが頭の中をよぎる。
 主審に一礼をしてバーをかつぐ。いつもより重く感じる。スクワットの合図でしゃがんで、立ちあがる。白ランプ3つ。成功である。しかし、おかしい。こんなはずじゃなかった。もっと軽くなければいけない。
 2回目、200kgにしようか205kgにしようか迷った末、思いきって205kgを申し込む。ふだん連続3発以上はやっている重量だが、やはり世界選手権の雰囲気にのまれたのか重い。日本でいつもかついでいる同じ重量とはとても信じられない。
 主審のスクワットの合図で、しゃがむ。95%立ちあがったが、最後のつめが悪くて、つぶれてしまった。3回目も同重量に挑戦したが、やはり同じであった。
 スクワットを終った時点では、バイローが225kgでトップ。つづいて伊差川選手215kg、ハッタネン205kg、私とインドのジョゼフが195kgで4番目である。
 つづくべンチ・プレスは、伊差川選手がやはり強く2位に20kgの差をつけての一人舞台であった。私は112.5kgで5番目である。
 そして、最後のデッド・リフトが始まる。昨日、あの因幡さんが1回目215kgを落としたのを、私はすぐそばで見ているので、200kgでスタートする予定を190kgに下げて申し込んだ。
 さきほどまでおとなしかった2人のインド選手は、このデッド・リフトが強いという。アメリカのミランはこの種日を最も得意としている。そういわれて見れば、彼らの指や腕はびっくりするほど長い。しかも、バーベルのシャフトが日本のよりも太い。
 読者の皆様も、日本選手のデッド・リフトの記録が一様に低いことに気づかれたと思うが、今大回で使用されたシャフトが、我々がいつも使用しているものと、あまりにも違いすぎたことがその一因だと思う。言い訳けがましく聞えるかも知れないが、これはまぎれもない事実である。
 私は207.5kgで終わり、インドのジョゼフがこのクラスの最高227.5kgを引いて、3種目が終った。私のトータルは515kgで、予想だにしなかった全く不本意な成績であった。
 結局、1位は伊差川選手の577.5kg、2位はバイローの562.5kg、以下3位・バッタネン550kg、4位・ミラン522.5kgとつづき、私は6位であった。しかし、このあと、ドービング・テストがあり、伊差川選手とハッタネンがプラス反応が出て失格となり、それそれ順位がくり上がった。
 こうして、私自身、不本意の成績に終ったとはいえ、今大会で得たものは数限りない。なによりも関団長を筆頭に、パワーリフティングに執念を燃やす男達と交流を深めたこと、そして世界の檜舞台を経験したという事実、このことは、これからの私のパワーリフティング人生において、おおいにプラスになると思う。
 そしてまた、フライ級の次に日本が制覇するのは、やはりこの56kg級であることを私は信じて疑わない。そのために私は、トレーニングをつみ、近い将来、再び世界に挑戦し、その時こそ悔いのない成績を上げたいと思う。
〔カルカッタに勢揃いした日本チーム。前列,世界選手権8連覇の因幡。後列左から,仲村,前田,こうろぎ,中尾,関団長,マイク・コーチ,服部,工藤,植田,伊差川の各選手〕

〔カルカッタに勢揃いした日本チーム。前列,世界選手権8連覇の因幡。後列左から,仲村,前田,こうろぎ,中尾,関団長,マイク・コーチ,服部,工藤,植田,伊差川の各選手〕

60kg級……服部和弘

 私がパワーリフティングを始めたのは、大学1年の秋だったから、今年でちょうど3年目である。その間、鈴木正之先生、前田都喜春先生の指導を受けて、学生大会においては60kg級で3年連続優勝することができた。そして今回、学生としては初めて、日本代表選手として世界選手権に出場することができ、たいへん光栄に思うと同時に自分の力を充分出しきって、悔いのない試合をしようと,張り切ってカルカッタに行ったのであるが、結果は、スクワットのしゃがみが浅く、3回とも失敗で失格になってしまった。
 私にとって始めての世界の檜舞台での失敗は、非常に残念であったが、また、この失敗から得たものも大きかった。それらのことも含めて、60kg級の試合経過を報告したいと思う。
 大会2日目、午後1時から60kg級が始まった。参加選手は8名。やはり、なんといってもこのクラスの主役は、昨年の大会で、スクワット260kg、べンチ・プレス160kg、デッド・リフト285kg、トータル705kgという素晴らしい世界記録を出したR・ガントであろう。そのガントの今大会のスタート重量はいったい何kgであろうかと、興味深々で掲示板を見ると、スクワット205kg、べンチ・プレス132.5kg、デッド・リフト230kgと、意外に低い。
 まず、ガントは1回目のスクワット205kgを成功はしたが、しゃがみが浅かったのか赤ランプが1個ついた。2回目は227.5kg。これは惜しくも失敗。ここで女性セコンドのジャン・トッド(女子スーパーヘビー級世界記録保持者)が、ラックの高さを少し調整させるなどしてうまく時間を稼いだが、そんな配慮にもかかわらず、3回目もやはり立てなかった。ただでさえ胴体の短いガントの体が、小さなスーパー・スーツに締めつけられて、リーチと脚の長さがやけに目立った。
 ガントの次に強いと予想されるガべース(イギリス)が230kg、242.5kg、247.5kgと、いずれも無難に成功させ、ガントに42.5kgの差をつけた。彼のフォームは日本選手とよく似ており、試合を行なう時「カモン!ストロング」と何度も大きな声を出して気合いを入れるので、観衆もそれにつられてエキサイトしてくる。昨年の大会で2位となったK・ランペラはガントと同じく205kgで終った。
 ところで、ここで私のことに移るがスクワットのウォーミング・アップで60kg、100kgと、充分間をとって行なったが、調子は良さそうだった。セコンドについてくれた前田先生がステージの方に行かれたので、私もステージに行ってラックの位置を確かめてアップするところへ戻った。
 そして、椅子に座って、なにげなく自分のジャージの上着を取り上げた。その瞬間、全身から血が引いてくるのを感じた。ジャージの下においたスーパー・スーツがないのだ。あわててバックの中や、その近くを探したが見当らない。
 “盗まれた”と感づいた時はスクワットが始まる寸前で、観衆の声援も高まっていた。もう普通のツリパンでやるしかない。急いで140kg、160kgとアップを行なって出番を待った。
 やがて、私の名前がコールされた。スタート重量は195kg。バンデージをを巻いてステージに上がる。気合いをかけてバーベルをかつぐ。少しラックの位置が低すぎたのか重く感じた。
 主審の「スクワット」の合図で。“ヨシコイ”としゃがもうとした時、バーがすべってさがった。“しまった”と思い一瞬、試技を中止しようかとも考えたが、かまわず続行した。なんとか、しゃがんで立ったが、判定は当然のごとく赤ランプ3つ。
 第2試技も同重量。1回目は失敗したが、意外に気持は淡々としていた。もちろん、この重量には充分自信があった。2回目はラックを少し上げてもらった。背中にすべり止めのタンサンマグネシウムをいっぱいすりつけてもらい、気を落ちつけてスクワットをした。しかし、判定は両サイドのレフリーの赤2つで失敗。やはりしゃがみが浅かったらしい。
 1回目の失敗のときと違って、頭の中がボーッとなって、もうなにがなんだかわからなくなってしまった。
 3回目、今度は意識して2回目より腰を下げたつもりであったが、それはあくまでも“つもり”であって、2回目と同様、しゃがみ方が浅くこれまた失敗。ステージを降りてくると、ガントとセコンドのジャン・トッドと視線が合ったが、私は何か後ろめたい感じになって視線をそらしてしまった。
 今から思うと、失敗した悔しさというより、恥ずかしさでいっぱいだったのだろう。あのとき私に、2回目、3回目の試技のとき、死にもの狂いで成功させるという気持が本当にあったのなら、悔しくて涙が出たであろう。スーパー・スーツを盗まれたときから、私はすでに精神的に負けていたのだった。
 まわりを見ても知らない人ばかり、言葉もわからず、ただ、なんとなく騒々しい、いつもの学生の大会とは違う異様な雰囲気に含まれて、ただ漠然と試技をしているにすぎなかった。ステージの上で他の選手達が力いっぱい試技をしている姿をみているのが、とてもつらかった。しみじみと、学生の大会でのしゃがみの浅い甘いルールで、まんぜんと練習していた自分自身に腹立たしくなった。
 話をステージの上に戻そう。べンチ・プレスが始まった。ランペラが115kg、ガべースが122.5kgで終り、最後にガントが出てきた。彼のスタート重量は132.5kg。これを成功させて2回目は145kg。バーがスティキング・ポイントのところで止まってしまった。もちろん失敗である。
 ここでまた例のごとくジャン・トッドが出てきて、サイド・ヘルパーになにか文句をつけているようだ。つまりこれも時間稼ぎである。これが功をそうしたのか、ガントはするどい気迫をみなぎらせて同重量に再挑戦。今まで以上に弓なりになって145kgをなんとか成幼させた。
 さあ、最後の種目、デッド・リフトである。2種目が終った時点でガべースが370kgでトップ、つづいてガント350kg、ランペラ320kgである。スタート重量はガべースが225kg、ガントとランペラが230kgである。
 まず3人とも無難にスタート重量を引く。ガべースは2回目235kgを成功させ、3回目240kgを失敗してトータル605kgで終了した。
 ガントは2回目に255kgを成功させトータルでガべースにならんだが、このままでは、体重差でガべースの勝ちである。そして3回目275kg。ガントはこれをなんのためらいもなく引いてトップに立った。しかし、ランペラがまだ出てこない。
 重量は287.5kgにセットされた。ランペラがゆっくりと出てきた。もし、これに成功すれば、ガントの持つ285kgの世界記録を2.5kg上回る。しかも、ガーベスの85kgを2.5kg抜いて2位に浮上するのだ。ランペラは落ち着いてシャフトを握り、大きく息を吸って引き始めた。しかし、シャフトが膝の下あたりにきたとき、ガタガタとバーベルが音をたててゆれ、それ以上あがってくれない。彼は3回目,もう一度、同重量に挑戦したが、やはりバーベルを浮かせるのが精一杯だった。
 これで60kg級のすべての試技が終了したのかと思ったら、290kgがコールされた。ガントが世界新記録を出そうというのである。ガントはうつむきながらステージの上を行ったり来たりしながら、手を強く握りしめて精神を集中させている。
 やがてガントは両足をしっかりときめ、グッと全身に力を入れて引いた。しかし、バーベルはちょっと浮いただけで、それ以上は上がらなかった。
〔60kg級1位 L・ガント(アメリカ)〕

〔60kg級1位 L・ガント(アメリカ)〕

〔60kg級2位 T・ガベース(イギリス)〕

〔60kg級2位 T・ガベース(イギリス)〕

67.5kg級……こうろぎ公吏

 11月6日、私の出場する67.5kg級が行われた。このクラスには、昨年、世界選手権フェザー級でスクワット295kgの世界新を出し、さらに、べンチ・プレスで、始めて体重の3倍、180kgを上げたアメリカの怪物、ブレデリーが出場する。私は少し減量しすぎたが、ベスト記録が出るよう祈りながら,胸の鼓動を押えつつ、試合開始を待った。そして午後5時、いよいよ試合の幕が切って落とされた。

◇スクワット

 この種目は、何といってもブレデリーが強い。彼は1回目250kgを軽く上げ、ネンティスが260kg、ペングリーが265kgで終ったあと、2回目に277.5kgを成功。さらに3回目、295kgの世界新に挑戦したが、惜しくもバーベルを後方に落としてしまい、世界新はならなかった。
 私は、2回目に245kgを成功。3回目に260kgに挑んだが、立ち上がることは出来なかった。

◇べンチ・プレス

 この種目もまたブレデリーの一人舞台であった。ペングリーとフテラがともに157.5kgで終了したあと、彼はゆうゆうとステージに現われた。私の耳くらいまでしかない小さな巨人、ブレデリーは1回目170kgを軽く上げ、2回目には、驚くなかれ、なんと190kgの世界新に挑戦しようというのだ。私は興奮しながら、彼の試技に見入った。
 ゆうに45cmはあろう丸太棒のような太い腕、そして狭い手幅で、全くブリッジをしないブレデリー独特のフォームで胸の上に下ろされた190kgのバーベルは、まるで生きもののように上がっていった。「白ランプ3つ」成功である。
 そして彼は、3回目に192.5kgとさらに世界新記録を伸ばしてしまった。私は、いや、この会場にいるすべての人がブレデリーのこの快挙に魅了されてしまった。彼はまるで人間の格好をしたロボットとしか言いようがない。
 それに対して私の記録は112.5kg。同じ体重でありながら、自分の弱さが、あまりにもはずかしい。

◇デッド・リフト

 この種目はとくに傑出した選手がいなく、ブレデリーが262.5kgを引き優勝を確実にしたあと、ネンティスが280kg、ペングリーが282.5kgを引いたのが目立ったくらいである。私は220kgで、ベストを尽くしたが力を出しきれず、7位であった。結局,トータル732.5kgでブレデリーが優勝、2位・ペングリー705kg、3位・ネンティス695kgの順であった。
 67.5kg級のレポートは、ブレデリーについて書きすぎたが、それくらい私には彼の印象が強かったのである。
 ところが、翌日になって、予期しないことが起こったのである。というのは、今大会から実施されたアンフェタミン検査で、ブレデリーが失格になったのである。そういえば、彼は試技に成功するたびに、喜びのあまりステージでジャンプするが、その高さが、ゆうに1mはあった。これは,まさしく普通の状態ではない。そして、彼の体つき、筋肉の付き具合、これも異状であった。やはりステロイドや興奮剤を使っていたのであろう。
 我々は、あくまでアマチュアである。私は人間として、また、真のスポーツマンとして、自然の体で、厳しいトレーニングの成果をひっさげて記録に挑戦していかなければならないと思う。
 最後に、私を世界選手権にまで出場できる選手に育ててくださった関会長に心から感謝したいと思います。
〔67.5kg級7位・こうろぎ公吏選手〕

〔67.5kg級7位・こうろぎ公吏選手〕

75kg級……植田英司

 大会3日目、私のクラス75kg級の試合日である。大会初日の入場行進のとき、世界選手権という大会の大きさに感動したのも、つかの間、もう試合当日である。
 朝6時に目が覚めた。さっそくホテルの中に設置されているトレーニング場で体重を計った。74.3kgである。体重オーバーの心配は全くない。
 今日、セコンドについてくれる伊差川さん、服部さんと3人でバスで試合会場のネタジ・スタジアムに向う。会場についた時には、もう検量が始まっていた。検量、コスチューム・チェックとも無事通過して、控室で朝食を食べていると、因幡さん、工藤さんが応援にかけつけてくれる。始めての海外試合だけに、応援がたくさんいるだけで心強い。
 10時から試合開始である。それに先だって、選手の紹介があり、ステージに出場選手全員が整列したが、私が一番小さい。外国選手、とくに北欧やアメリカの選手は、1クラスも2クラスも上の体に見える。もっと体を大きくして、5~6kgの減量で試合に臨むのが理想的なのかも知れない。
 いよいよスクワットの試技が開始された。スタート重量205kgの私が一番先である。1回目、自分ではかなり腰をおろしたつもりだったが、白2つ、赤1つで、何とか成功だ。2回目、重量を225kgに上げたが、緊張してフォームが定まらず、バーベルを前に落としてしまった。3回目も同重量を申込んだが、タイム・オーバーで失敗に終った。
 外国選手では、アイスランドのオスカーソンが285kgで最高だったが、ほとんどの選手が250kg以上の重量でスタートしているのを見て、私のカの弱さをつくづく感じた。これからも私なりに頑張って、彼らのパワーに少しでも近づくように努力したい。
 第2種目のべンチ・プレスに入るころから、ようやく緊張がやわらいできた。1回目140kg、成功。2回目150kgに増量。そんなに重いとは思わなかったが、挙上コースが悪く、最後、腕が伸びきらず失敗。3回目、もう一度、同重量に挑戦。みんなの応援で気持も落ち着き、上げるコースも良く成功。
 外人選手は、スクワットに比べてこのべンチ・プレスは意外に重量が伸びず、最高がスウェーデンのバクルンドの190kg、つづいてイギリスのアレクサンダーの175kg、3番目はオーストラリアのワディル152.5kg、そして私の150kgが4番目であった。
 最後の種目、デッド・リフトは、とくにヨーロッパ、アメリカの選手が強く、300kg近く引く選手が多くいる。スタート重量210kgの私は、もちろん最初である。しかもその1回目、上体を伸ばしたところで、左手がすべり失敗してしまった。2回目、今度は左手に気をつけて引いたが、それでも、最後まですべりそうでひやひやだった。成功のランプを見てほっとした。3回目は重量を220kgに上げ、引くことは引けたものの、最後にバランスをくずしてしまい、失敗に終った。
 イギリスのアレクサンダーが最高の297.5kgを引き、トータルでも752.5kgで75kg級の優勝者となった。
 結局、私はスクワット205kg、べンチ・プレス150kg、デッド・リフト210kg、トータル565kgで、今までの自己記録をかなり下まわり11位であった。改ためて世界選手権の厳しさと、自分自身の至らなさを思い知らされた大会であった。
 今大会は、マイク・ブリジスの持つ驚異的な世界記録を破った、リック・ガーグラーが仕事の都合で出場していなかったのが何より残念だった。いずれにしても、日本とまるつきり環境の違った所での試合の難しさと、世界の一流選手と言われる人たちの試合に対する厳しさを強く感じさせられた。今後は、この経験を生かして練習に精進していきたい。
〔75kg級・植田英司選手〕

〔75kg級・植田英司選手〕

月刊ボディビルディング1982年2月号

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