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第12回世界パワーリフティング選手権大会とJPAの過去・現在・未来

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月刊ボディビルディング1983年2月号
掲載日:2020.10.05
出席 日本チーム団長 遠藤光男氏 JPA副理事長 後藤武雄氏 JPA相談役 関二三男氏
本誌――本日はお忙しいところをお集まりいただきましてありがとうございました。今日は、第12回世界パワーリフティング選手権大会に日本チームの団長として西ドイツに行かれた遠藤さんと、日本パワーリフティング界の長老というか、育ての親というか、JPA副理事長の後藤さんと相談役の関さんの3人で、大会の模様と、日本パワーリフティング界の過去・現在・未来について語り合っていただきたいと思います。

後藤――今回は、日本チームとしては団長の遠藤さん、コーチのマイクさん、選手として、世界大会9連覇を狙う52kg級の因幡選手、82.5kg級の中尾選手の4人だったんですね。56kg級の伊差川選手も最初はメンバーに入っていましたね。何か事故でもあったんですか?

遠藤――そうです。本当はフル・メンバーで参加するのが理想的なんですが、何分、役員・選手とも自費参加なので、毎年参加するというのは経済的にも大変なんですね。
とくに今回は伊差川選手が故障で不参加ということになり、結局、役員2人、選手2人の4人だったんです。少ないながらも和気あいあいと楽しく頑張ってきました。
[第12回世界パワーリフティング選手権大会日本代表チーム、左から遠藤団長、中尾選手、因幡選手、マイク・コーチ]

[第12回世界パワーリフティング選手権大会日本代表チーム、左から遠藤団長、中尾選手、因幡選手、マイク・コーチ]

後藤――ミュンヘンまで、時間はどのくらいかかりましたか。それと、気候はいかがでした?

遠藤――だいぶ乗り換えがありましてそれらを入れて正味22時間ほどかかりました。気候は北海道と同じくらいらしいんですが、最初の2~3日はバカ陽気で温かったんですが、そのあと寒波がきて、セーター1枚しか持っていかなかったので、みんなふるえあがってしまいました。

関――西ドイツの受け入れ態勢はどうでしたか?

遠藤――招待状にホテル・ヨーロッパとあったんで、由緒ある素晴らしいホテルかと思って行ってみたら、ごく普通のビジネス・ホテルでした。まぁ、それはいいとして、世界各国から参加した役員・選手の数が200人以上と、予想した以上に多かったので、ベッドが足りなくなってしまい、無理して1人部屋にベッドを2つ入れるというようにしたので、かなりきゅうくつな思いをしました。でも、今になって考えると、かえって楽しい想い出になりました。

後藤――今後の大会の参加国はどのくらいでしたか。それと選手数は?

遠藤――参加国が20ヵ国、選手数は確か145名だったと思います。

関――それはおそらく史上最大の大会ですね。開催地が西ドイツだったんで、とくにヨーロッパ諸国の選手が参加しやすかったからでしょうね。IPFに新しい加盟が認められた国はありましたか?

遠藤――新しく加盟したのはオーストラリア、サウジアラビア、ザンビアの3ヵ国です。懸案のサウス・アフリカも役員が4人来ていましたが、人種差別問題が解決していないということで、今回も加盟は見送られました。ただし、この問題が解決され、サウス・アフリカがIOCに正式加盟された時点で、IPFの加盟も認められることになりました。

関――その他、何か新しく決定したことがありますか?

遠藤――そうですね。マスターの世界大会を9月に実施すること。ジュニア年令は23歳以下とすること。それに薬物検査に違反した場合、初回は1年半の出場停止、2回目は4年間出場停止ということが決定しました。
[日本チーム団長・遠藤光男氏]

[日本チーム団長・遠藤光男氏]

因幡選手、世界選手権9連勝

後藤――さて、本題の大会ですが、まず52kg級で世界大会9連勝という大記録がかかっていた因幡選手はいかがでしたか?

遠藤――結果的には9連勝できたわけですが、因幡選手としては、今までで一番苦しい勝ち方でしたね。というのは、スクワットとベンチ・プレスの2種目が終った時点で、アメリカのダンバーに32.5kg離されていたんです。それを最後のデッド・リフトで35kgの差をつけ、結局、2.5kg差で因幡選手が逆転したんです。実際あの時は、これで因幡選手の連勝も8連勝で終わりかと思いました。

関――32.5kgもの差を一発で転逆するというのが、パワーリフティングの醍醐味ですね。

遠藤――私も、とにかく日本からは選手が2人しか参加していないので、どうしてもこの2人にはベスト状態で頑張ってもらおうと、52kg級と82.5kg級のときはレフリーをはずしてもらって、彼らにつきっきりでした。まぁ、最初の52kg級で因幡選手が9連勝できてホッとしました。しかし、ダンバーの最近の記録の伸び方から見て、来年の大会は恐いですね。

関――82.5kg級の中尾選手はいかがでしたか?

遠藤――彼は元来、82.5kg級にしては体が小さいので、本来なら1クラス下の75kg級に出た方が上位に入賞する可能性は高いんですが、自分のベスト記録を出したいというんで82.5kg級に出ている関係で、今度ミュンヘンに行ってからも、ごはんとカップ・ラーメンを無理してつめ込んだり、飲めないビールを飲んだりしていたんですが、それでも大会当日の検量で80kgをちょっとオーバーしたくらいでしたね。他の選手は85~6kgを減量してきますから、中尾選手はみんなよりひとまわり小さく見えましたね。それに、このクラスは出場選手が最も多い激戦区だったんです。彼自身は記録的には不本意の成績だったかも知れませんが、よく健闘して6位に入りました。

ベスト・リフターにブリッジス団体優勝はアメリカ

後藤――ベスト・リフターは誰がとりましたか。それに団体成績はどうでました?
[JPA副理事長・後藤武雄氏]

[JPA副理事長・後藤武雄氏]

遠藤――ベスト・リフターには82.5kg級のマイク・ブリッジスが選ばれました。団体成績ではやはりアメリカが強く、優勝5人、2位3人と圧勝でした。2位はイギリス、3位はフィンランド、4位はスウェーデンとヨーロッパ勢がつづきました。

 今度、向うへ行って強く感じたことは、もうヨーロッパでは重量挙協会といっても重量挙げは名ばかりで力を入れているのはパワーリフティングなんですね。だから選手層も厚いし、これからどんどん強くなってくると思いますね。

関――全体的に見て、各クラスの記録はいかがでしたか?

遠藤――率直に言って、大会の規模は大きかったんですが、記録的には物足りなかったですね。とくに重量級はかなり低かったですね。これはドーピング・チェックが厳しくなったということも一因だと思います。

関――この大会で目立った選手としてはどんな選手がいましたか?また、大会中、何かアクシデントはありましたか?

遠藤――特に目立った選手としては、ベスト・リフターを獲得した82.5kg級のブリッジス、56kg級で優勝したガントのベテラン2人と、それに、さっき言いました52kg級で因幡選手をおびやかしたアメリカのチャック・ダンバー。あとは100kg級で優勝したスウェーデンのマトソンとスーパー・ヘビー級で同記録ながら体重差で2位になったアメリカのブービアーですね。今年の全米選手権で優勝して出てきた選手ですが、体も引きしまっていて、125kgを2~3kgオーバーしているくらいの体ですが見るからにパワーもありそうだし、年令も確か24歳か25歳と若いし、あと10kgくらい体重が増えたらカズマイヤーやラインホルトと並ぶようなすごい選手になるような気がしますね。

 アクシデントは全くありませんでした。世界中から言葉の違う選手が集まっているというのに、試合の進行は非常にスムーズでした。というのは、補助係を指揮するミスター・バーレディが実に要領よくテキパキと指図していたからです。彼は最後の頃は、もう声がかれて出ないほどでした。それを見るにつけても、補助係というのは、ただ補助すればいいというのではなく、選手以上にキャリアがある人がやるべきですね。

関――ところで遠藤さんは、第4回世界大会以来、8年ぶりの世界大会参加になるわけですが、この間の開きみたいなものを感じましたか?

遠藤――そうですね、あの時は関さんと因幡選手と私の3人で行ったんですが、参加国は確か8ヵ国で、出場選手も少なかったんですが、今度8年ぶりに行ってみて、その間IPFの素晴らしい発展ぶりというものを痛切に感じました。

 具体的には、先にも言ったように参加国が20ヵ国、役員・選手が200人という具合に、大会規模が飛躍的に大きくなったことです。それに、アメリカはもちろん、ヨーロッパ諸国がパワーリフティングに非常に力を入れているということを強く感じましたね。

関――遠藤さんと、コーチで行なった、ミスター・マイクがレフリーをなさったそうですが、日本での判定基準との間に何かギャップをかんじられましたか?

遠藤――別に感じませんでしたね。競技の始まる前にIPFのビッグ・マーサーがレフリー全員を集めて「これはスポーツであるから、あくまでも厳しく、そして公平でなくてはならない」という話がありました。とくに、スクワットとデッド・リフトの判定が世界的に甘くなっているから注意するようにとの事でした。各レフリーともそれを良く守って判定していたと思います。私はその中でも最も厳しいという評判でしたが、ずっとそれを押し通したので、あとで会長から「君の態度はよかった」とほめられました。

 それとレフリーの技術的なことでは、スクワットとベンチ・プレスは試技の終ったあとの合図が「ダウン」ではなく「ラック」、デッド・リフトだけが「ダウン」と合図することに統一されました。

関――競技に関するトラブルはありましたか?
[JPA相談役・関二三男氏]

[JPA相談役・関二三男氏]

遠藤――レフリーの判定に関しては抗議もトラブルもありませんでした。ただ、コスチューム・チェックで2~3のチームと意見の相違はありましたが、いったんレフリーが下した判定に対しては抗議はありませんでした。

後藤――使用器具で変ったこととか、気がついたことはありませんでしたか?

遠藤――器具そのものについては別にありませんでしたが、シャフトがものすごく堅かったですね。それとローレット加工の幅が狭かったことですね。だから、デッド・リフトで、日本の選手がよくやる足幅を広くして手幅を狭くする、いわゆるスモウスタイルの選手の場合は、ちょどシャフトを握る部分にローレット加工がないんです。外国製のシャフトはこれがほとんどですから、日本の選手がこれから世界大会を狙うような場合は、少し手幅を広く握る練習をしておく必要がありますね。

 それに、シャフトが堅いということは、スクワットでしゃがんだときや、デッド・リフトの最初の引っぱりのとき、たわみがないので、馴れてないと調子が狂うんじゃないですか。オーストラリアの選手なんか何人もこれが原因で失敗したといっていました。それで、因幡選手も中尾選手もスタート重量を予定より少し落としました。

関――日本では、以前にパワーリフティング用にローレット加工の幅を広くしたんですが、世界大会では重量挙げシャフトをそのまま使っていますから、ローレット加工の幅が狭いんです。これは今後、検討の必要がありますね。

遠藤――その他で印象に残ったことは試技の直前に、自分自身を興奮させるというのか、精神集中をはかるというのか、こういった面でのテクニックは外国選手を見習う必要がありますね。

 とかく日本の選手はおとなしく、静かに試技に入りますが、外国選手は「ウオーッ!!」とびっくりするような大声を出したり、自分で自分のほほをひっぱたいたり、壁に頭をぶつけたりして、すごい形相で試技に入ります。中には興奮のあまり、試技のあとでプラット・ホームにひっくりかえってしまうくらいの選手もいました。

関――いつか、テキサスかオハイオだったんですが、選手が自分で興奮できないので、コーチに顔をひっぱたいてもらたんですが、興奮しすぎてコーチをひっぱたきかえしたのを見たことがありますよ。

 ところで、来年の世界大会の開催地はどこに決まりましたか?
[因幡選手は、西ドイツに渡ってから体調を崩し、これまでで最も苦しい戦いだったが、このドクター、ケン・レイスタナーのお陰で世界大会9連覇をなし遂げた]

[因幡選手は、西ドイツに渡ってから体調を崩し、これまでで最も苦しい戦いだったが、このドクター、ケン・レイスタナーのお陰で世界大会9連覇をなし遂げた]

遠藤――来年はスウェーデンのストックホルムと決定しました。時期は今年と同じぐらいということですから10月末か11月上旬ですね。今年よりもまた少し遠くなりますが、今年以上のチームを編成して、もっといい成績を残したいですね。

後藤――世界大会の規模も飛躍的に大きくなったということですが、日本の場合も、JPAの創立当時と比べると、パワーリフティング人口、記録、あらゆる面でずいぶん発展したもんだと思いますね。

関――私がこれまでに何回か世界大会に参加した経験や、いま遠藤さんから今回の世界大会の話を聞いて、感ずるですが、これから世界大会に臨むJPAの態度としては、やはり昔でいう軽・中量級を主体としてチームを編成するのが得策ですかね。後藤先輩いかがですか?

後藤――昔は日本では軽量・中量・重量の3段階だけだったですから、体重幅も10kgも15kgもあって、それほど減量には神経を使わなかったんですが、今は完全にスポーツ化して11階級にも分かれているので、減量とどのクラスに出るかという点に、以前よりよけいに神経を使うことになりますね。

 いずれにしても、やはり日本人の体格からいって、国際大会で上位入賞を狙うには軽いクラスの選手が絶対に有利ですね。現に日本選手で世界のトップ・リフターといえるのは因幡選手とか伊差川選手といった軽いクラスですからね。

 以前、まだ記録挑戦会なんていわれていた時代から、いい選手がそろっていて充実していたのは軽・中量級でしたね。重量級は選手層も薄いし、記録的にも物足りなかったですね。

 当時はデッド・リフトはなかったんですが、軽・中量級のベンチ・プレスなんかはかなりいい記録を残していますね。だから、当時の一流選手が現在まで第一線で活躍していれば、日本のレベルももっと上がっていたでしょうね。

関――当時の選手で強く印象に残っている選手としては、どんな選手がいますか?

後藤――そうですね、軽量級では伊集院明也選手、富永義信選手、花井照雄選手、広瀬武男選手、中量級では鈴木正広選手、出川昇選手、岩岡武志選手、後藤時弘選手、市丸輝男選手それから重量級では宮本彰選手、吉田馨選手なんかが思い出されますね。そんな人達と、みんなで一緒に集まって話をしてみたいですね。

 それにしてもJPAの発足当時は、現在のように、毎年、世界大会に選手団を送るなんて、全く考えていませんでしたね。それに、当時は外国選手の記録などは、時々、雑誌で見るくらいで、我々がそれに対抗しようなどとは考えてもみませんでしたね。

これからのJPA

関――後藤先輩にはJPA創立以来、相談役というような形でずっと残っていただいたんですが、遠藤さんが初代理事長に就任され、それから、照井進さん、私、そして現在の第4代目の斉藤理事長とつづくわけですが、その陰には常に、この後藤先輩とか、九州の太田実さん、埼玉大学の松尾先生といった方々が、陰に陽に日本のパワーリフティング界を支えてきてくれたということを忘れてはなりませんね。

遠藤――ほんとうに僕らは後藤さんを目標にして、追いつけ追い越せでやってきたんですが、その先輩が、最近こそ大会には出ませんが、現役選手と同じように連日バーベルを握っているという、その努力と気迫を若い人は見習わなければいけませんね。

後藤――みんなの努力で、ようやく日本のパワーリフティングの基礎づくりができたんですが、これからは、さらに底辺に広げてもっとポピュラーなスポーツに育てていく必要がありますね。現在、62年沖縄国体でパワーリフティングの公開競技実現に向けて斉藤理事長以下の現スタッフがよく頑張っていますが、なんとかこれが実現して、飛躍の足がかりになるといいですね。そのためには、私に出来ることなら何でもお手伝いしたいと思っています。もちろん、トレーニングもまだまだ若い人に負けずにつづけていくつもりです。

関――先輩にお手伝いいただくことはたいへんありがたいことです。とにかくパワーリフティングはこれからのスポーツですから、先輩、後輩、みんなで一致協力してやっていくことが大切ですね。ただ、スポーツマンであるからには礼節を忘れず、後輩は先輩をたてて、意見を聞きながらやっていかなければだめですね。少しくらい記録がいいからといって天狗になったりすると、一致協力が得られなくなりますからね。

遠藤――確に、スポーツであるからには、少しでもいい記録を出すことに精魂を傾けるのは当たり前ですが、そのようなトレーニングを通じて、社会人としての人格を磨かなければいけませんね。スポーツマンのいいところはファイトと礼儀ですよ。先輩後輩のケジメをきちんとつけることは見ていても気持がいいですね。

関――後藤さんも、先輩としてお手伝いしていただくだけでなく、役員、あるいは選手として、ぜひ一度、世界大会に出てください。

遠藤――今大会の最年長選手は47歳でした。後藤さんは今年は確か51歳になるんですね。トレーニングを始めて30年だそうですが、それを記念してぜひ今年は出てください。

後藤――私もかねがね一度、世界大会に出てみたいと思っていたんですがこの年になると記録も現状維持がせいいっぱいで、いくら練習しても記録は伸びませんから、入賞は度外視して、最年長者賞でも狙って出てみたいと思っています。

遠藤――それから話は別ですが、今度世界大会へ行って、各国の役員や選手と雑談していると、ぜひ日本で世界大会を開いてくれと、よく言われるんです。しかし、役員、選手を合わせて200人以上集めるとなると少なくとも5,000万円以上かかるでしょうね。体協にでも加盟して、国の援助がなくてはとても実現はむづかしいですね。
関――今回の西ドイツはいかがでしたか。やはり国がかりでしたか?

遠藤――もちろんそうです。主催が西ドイツ重量挙協会ですから、

関――以前、ある新聞記者に、パワーリフティングを普及する最も手っとり早い方法は世界大会をやることですよ、と言われたんですが、確かにそれは私もいつも考えているんですが何分、民間ベースで世界大会をやるということは現段階ではとても無理ですね。

遠藤――将来、必ず日本で世界大会をやるという夢をもちつつ、当面はみんなで力を合わせてコツコツと地道にやるより仕方ありませんね。3人ともお互いに年令のことなど考えずに頑張りましょう。

本誌――どうも本日は貴重なお話をうかがいまして、ありがとうございました。
月刊ボディビルディング1983年2月号

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