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☆1983年度第13回世界パワーリフティング選手権大会報告 ≪その2≫☆

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月刊ボディビルディング1984年4月号
掲載日:2021.02.03
伊差川(56kgクラス)3位、伊藤(67.5kgクラス)5位
日本選手団長・前田都喜春

◇56kg級の試合経過

 56kg級には伊差川浩之選手が出場する。このクラスには、当初、60kg級に出場する予定だった世界的デッドリフターのL・ガントが、現地に着いて体重を計ってみると58kgしかないということで、1階級下げて出場することになった。

 やはり薬物検査に関係あるようで、服用を停止したことによって体重が激減したものと思われる。このケースにあてはまるのは、後述のマイク・ブリジス(米、82.5kg級)やバディー・デューク(米、90g級)なども同様で、著しく体重が少ない。

 56kg級は10名の選手がエントリーし11月10日の夕方6時30分から競技が開始された。
[56kg級1位●L・ガントのスクワット210kg。背筋にバーを載せている様子がわかる]

[56kg級1位●L・ガントのスクワット210kg。背筋にバーを載せている様子がわかる]

[56kg級3位●伊差川選手のデッドリフト200kg]

[56kg級3位●伊差川選手のデッドリフト200kg]

[L・ガントのデッドリフト245kg。長い腕が有利だ]

[L・ガントのデッドリフト245kg。長い腕が有利だ]

 まずスクワットは、6選手が160~180kgでスタートしたあと、伊差川選手は190kg、ガント(米)200kg、ジョセフ(印)210kg、バイロー(英)215kgのスタートであった。

 伊差川選手は1回目の190kgを楽に成功したかに見えたが、僅かにしゃがみが高く、赤2、白1で失敗した。スタート重量の失敗は、その後の試技に与える心理的影響が大きいが、ちょうどこのとき、第2回目に190kgを試技する選手が3人いたので、5~6分の休息がとれることになり、彼にとって心の動揺を静めるのにまことに好都合であった。

 第2回目は同重量を十分に沈みこんでゆっくり立ち上がり、今度は文句なく成功。3回目は200kgに増量し、これも深く下ろして粘りながら立って成功した。

 ガントは、第1回目200kg、第2回目210kgと、独特の背筋にもたせた深い位置のフォームから立ち上がった。普通のスクワットの3倍の時間をかけて立っているので、調子が悪いのではないかとみていたら、3回目は棄権してしまった。昨年の全米大会では60kg級で220kgを出している彼も、体重減には勝てないようである。

 スクワットの最高はN・バイローで225kgを深い位置から立ち上がって成功させた。インドのジョセフは210kgを3回とも腰高で失敗してしまった。これは普段の練習方法に問題があるのではないだろうか。

 つづくベンチプレスは、2年前のインド大会では140kg台を挙げていたガントが、なんと112.5kgのスタートではないか。彼は2回目120kgを成功し3回目125kgでつぶれてしまった。バイローも120kgで終っているので、残るは伊差川選手1人である。

 伊差川選手の第1回目は140kg。押しきるかと思ったが途中でストップしてしまった。なんということか。スクワットにつづいて、またもやスタートでつまずいてしまった。

 幸いインドネシアの選手が2回目にこの重量に挑戦していたので、この間に気合いを入れ直して再度140kgに挑んだ。いかにも重そうにゆっくり上がって、今度は成功。ヤレヤレである。

 第3回目は、2回目の感じから2.5kgの増量がギリギリの線だと思ったが、彼の意気込みから145kgに挑戦することにした。しかしやはりダメだった。伊差川選手の最も得意なこのベンチプレスの不調が、のちのち尾を引くことになった。

 2種目終了時点では、1位がバイローで 342.5kg、2位が伊差川 340kg、3位がガントで 330kg。しかし最後のデッドリフトはガントの得意種目なので10kg差では逆転される可能性が多分にある。また、バイローとの2.5kg差もどうにかしなければいけない。

 デッドリフトが開始され、やはりこの不安が現実となり、2.5kg 差をめぐってバイローと伊差川選手の熾烈な戦いがくりひろげられた。

 第1回目は、バイロー、伊差川ともに200kgを成功したあと、バイローは第2回目に210kgを申し込んだ。ここで我々は現時点での2.5kg差を考慮して、同記録なら体重差で伊差川選手の勝ちと計算して212.5kgを申請した。

 ところが、バイローは2,3回目とも210kgを失敗したのである。我々も210kgに下げたい気持はあったが、進行してからの申請重量は下げられないので、そのまま第2回目、212.5kgに挑戦することになった。

 バイローが失敗したんだから、絶対にこの212.5kgを成功してくれ、というセコンドの祈るような気持を背に、伊差川選手はバーを握り、静かに引いた。ゆっくりとバーが浮き、上体を返しにかかったとき、一瞬、僅かに止まったかのように見えるきわどい試技であった。思わず振り返って判定を見ると、無情にも赤が2つついている。あーあー大きなタメ息が漏れた。

 3回目も同重量に挑戦したが、2回目の引きで力尽きており、膝まで上がったところで止まってしまった。万事休す。2.5kg差がどうにもならず、トータル540kgで終ってしまった。

 この経過を振り返ってみて、2.5kg 差のままで第2回目もバイローと同じ210kgとし、3回目で体重差の勝ちに持ち込む作戦をとっていたならば、今回のケースは十分に210kgを引いていたのではないかと思われた。もし、バイローが210kgを引いたとしても、3回目に逆転の勝負をかけられるので、着実な駆け引きの方が妥当ではなかったかと考えさせられた。

 このバイロー、伊差川のデッドヒートを尻目に、ガントは1回目、余裕の230kgを引いてあっさり逆転し、2回目、245kgを手の長い有利な体型から楽々と成功して(3回目棄権)、トータル575kgで優勝した。

 しかしガントのこの記録は、以前の彼の記録(デッドリフト290kg、トータル705kg)を知る者にとっては非常に寂しい結果であり、ステロイドホルモン停止による避けられない結末であることがありありとうかがわれた。

 このように、薬物停止による記録低下という現実が存在する限り、薬物に頼らない日本人リフターにとって、正常な記録の位置づけや、世界のトップリフターに手の届くところまで来ていることは明白であり、今後とも、追いつき追い越せの精神で、たゆまず努力を積み重ねていってもらいたいものである。
[56kg級表彰。左から1位●L・ガント 2位●N・バイロ 3位●伊差川]

[56kg級表彰。左から1位●L・ガント 2位●N・バイロ 3位●伊差川]

◇60kg級の試合経過

 60kg級は伊藤長吉選手が67.5kg級に転向したので、日本チームからは出場者なし。また我々も、今日、この前に行なわれた52kg級、56kg級のセコンドと写真撮影などで動き回り、たいへん疲れ切っているのと、明日からの準備もしなければならないので、このクラスを見ずに引き揚げることにした。

 60kg級は新人のG・ヘンリソン(ス)が、S240kg、B137.5kg、D227.5kg、トータル605kgで優勝した。彼とはサヨナラパーティーの席で話したが、3種目にバランスがとれており、パワーリフティングを始めてまだ5年ほどのキャリアで世界のトップリフターになったというのは驚異である。

 この60kg級も、過去の大会で上位に入賞したことのある選手の出場が少なく、入れ替わりの激しいのが目についた。純粋な新旧の交代というよりも、薬物検査による入れ替わりというような気がしてならない。


 我々にとって最初の最も大切な第1日目の試合はこうして終了した。

 パワーリフティング史上初のV10達成と、デッドリフト233kgの世界記録を樹立した因幡選手おめでとう。そして次の世界大会への課題を残した記録更新への新たな誓い。残念で思い出深い1日は伊差川選手にとっても同じであり、バイローとのデッドリフトの駆け引きは、最後まで絶対に引き切る体力を養うことが先決であり、体重差に持ち込もうとしたことに敗因があったのかも知れない。あのとき引けなかったのは、自分自身が弱かったからだという割り切り方をして、その悔しさを胸に秘め、次の大会に向けて日々鍛練しようではないか。
[67.5kg級5位・伊藤選手のスクワット235kg。良く腰が下りているのがわかる]

[67.5kg級5位・伊藤選手のスクワット235kg。良く腰が下りているのがわかる]

 大会2日目(67.5kg級、75kg級、82.5kg級)の報告

◇67.5kg級の試合経過

 このクラスには、60kg級で長年活躍してきた伊藤長吉選手が、身体が大きくなり、体重も増し、減量がむつかしくなってきたので、今大会から1階級上げて出場することになった。

 11月11日(金)、入国後5日目にして初めて晴天である。午前9時30分より67.5kg級の検量とコスチューム・チェックが行われ、伊藤選手は65.9kgで楽々とパスした。

 このクラスの出場選手は11名。午前11時に競技開始。昨日で試合の終っている因幡選手が今日はセコンドについている。ひょうきんな彼は、どこにいても人気者である。

 伊藤選手のスクワットのスタートは235kg。11人中8人目の出番で、余裕があった。彼は、会場から「ワアー」という歓声が出るほどのフル・スクワットで第1回目の試技を文句なく白3つで成功させた。これに気をよくして2回目245kg、3回目252.5gを腰の低い完璧なスクワットで成功し、幸先のよいスタートを切った。

 伊藤選手の所属するブラザー工業での彼の普段の練習は、部員全員が常に低い腰の位置によるスクワットを心掛けているため、知らず知らずのうちに低い位置での感覚と筋肉鍛練が身につき、本番でも安心して見ていられる。

 67.5kg級ともなると上には上があるもので、ペングリー(英)とネンティス(ス)が257.5kgに成功し、優勝候補のウォール(米)が287.5kgに成功した。このウォールは1983年全米選手権で300kgに成功している(ドラッグ・テスト無しのため未公認記録)が、3回目295kgをつぶれてしまって、驚異の300gを見ることはできなかった。

 つづくベンチプレスでは、ネンティス130kg、ウォール142.5kgで終了しているのに対して、伊藤選手はまたもや絶好調で、137.5kgからスタートして、142.5kg、145kgと3本とも成功してしまった。今回は1階級上げたため減量の心配がなく、目一杯の体調で出られることの好調さを見せつけてくれた。

 彼の体重から言えば、まだ3~4kgの増量は可能で、そのときはさらに一段と筋力が向上すると思われ、以後、このクラスの伊藤選手の活躍が楽しみになってきた。

 ベンチプレスの最高はペングリーの147.5kgで、結局、150kg以上はいなかった。2種目終了時点で、1位・ウォール430kg、2位・ペングリー405kg、3位・伊藤長吉397.5kg、4位・ネンティス387.5kg、5位・ペドラジ365kgとつづいていた。

 いよいよ興味のあるデッドリフトの対決となった。伊藤選手は上位5人の中では最も早い出番で、第1回目235kg、2回目245kgを成功し、これは9本パーフェクトなるかと思ったが、3回目の250kgを途中の返しに入るほんの一瞬、動作が止まった感じで、引き切ったが赤2、白1で惜しくもこれは失敗。結局トータル642.5kgで終了した。この記録は67.5kg級の日本新記録であり、世界の檜舞台で記録を塗り替えるという大健闘をやってのけた。

 このあとの舞台では、265kg付近に駆け引きが集中し、まずウォールが1回目265kgを引いてあっさり優勝を決めたあと、ペングリーが、2回目265kgに成功。この時点でトータル670kgで2位につけた。

 これに対してネンティスは、1回目262.5kgに成功したあと、じっと待機していたが、ペングリーのトータルを見て、体重差で逆転しようと、2回目282.5kgに挑戦した。それは2位を賭けた執念の引きといった感じで、ヨーロピアン・スタイルのフォームからジワリジワリと時間をかけて引き上げ、遂に成功してしまった。4位から一気に2位浮上を狙った見事な引きであった。

 一方、ペングリーは、ネンティスの無気味な待機作戦にまどわされて自分の申請重量を忘れてしまったかのように、2回目よりも20kg増量して285kgに挑んだ。仮にこれを引いても1位の705kgを逆転することはあり得ないのだから、可能性のある重量で着実に2位を狙った方がベターではなかったろうか。結局、ワイド・スタンスのペングリーの引きは無残にも失敗した。試合時間の短い駆け引きの中には思わぬ落とし穴があるものだ。

 そしてこれにより先、すでに終了している伊藤選手の642.5kgに対して、5位につけていたペドラジは、280kgを申請して逆転4位の勝負を賭けてきた。これに成功すれば645kgで4位浮上となる。280kgと言えば、このクラスでは非常に重い重量となるが、ペドラジの執念がそれを上回り、強烈なヨーロピアン・スタイルで勝利の女神を呼び込んだ。昨日も今日も興奮の舞台はどこにもあるものだと感じた。
[伊藤選手のデッドリフト245kg。トータル642.5kgの日本新を出す]

[伊藤選手のデッドリフト245kg。トータル642.5kgの日本新を出す]

[B・ウォールのスクワット287.5kg。重量が背筋にかかっている]

[B・ウォールのスクワット287.5kg。重量が背筋にかかっている]

[67.5kg級1位●B・ウォールのデッドリフト275kg]

[67.5kg級1位●B・ウォールのデッドリフト275kg]

◇75kg級の試合経過

 この75kg級には植田英司選手が出場する。14名のエントリーがあり、その中でダントツの実力者はリッキー・クレイン(米)である。

 彼については面白い話がある。当日の朝、植田選手について体重を計りにいくとリッキーがいた。体重計の針は76.8kgを指している。彼は驚いた様子もなく「昼までには75kgにしてみせるさ」と平然としていた。

 1.8kgを4時間でどのように減量するのだろうか。そんな急激な減量で影響は出ないのだろうかと思っていたが、彼はニコニコ笑っているばかりで一向に気にしていない。そればかりでなく彼は奥さんと父親を一緒に連れてきて、会場内でアメリカから持ってきたスーパースーツ、バンデージ、トレーニングに関する単行本、パワーリフティングの月刊誌、Tシャツ、ベルトなどを売りまくっていた。とにかく陽気で気さくな、代表的なアメリカ人という感じであった。一家そろっての商売には中々お目にかかれないものだ。

 さて、午後1時半からの検量で、植田選手は75kgジャストでパス。注目のリッキーは74.9kgでパスしていた。どのようにして減量したのか聞いておくべきだった。

 3時、競技開始。植田選手はスクワットの第1回目225kgをかつぎ、主審の「スクワット」という合図でしゃがむ動作に入ろうとしたが、その途中で右足が動き、バランスを崩して失敗してしまった。

 ご存じのとおり、植田選手は右足が不自由なため、一般の選手と同じようにはいかない。それを努力で克服し年々記録を伸ばしている。しかし、判定に際してはルールは正確・非情でなければならない。他の選手と全く同様に適用される。このプレッシャーが、ともすれば身体のバランスを崩すことにもなろう。植田選手は、バランスを崩したのは自分の技術が未熟なためだと開き直り、2回目は気分を入れ替えて同重量に挑戦、見事に成功した。

 3回目の235kgは、1回目と同じようにバランスを崩して失敗したが、会場からは惜しみない拍手がいつまでも送られていた。
[75kg級9位●上田選手のスクワット225kg]

[75kg級9位●上田選手のスクワット225kg]

[75kg級1位●R・クレインのデッドリフト。日本人のフォームに近い]

[75kg級1位●R・クレインのデッドリフト。日本人のフォームに近い]

 余談になるが、大会後のサヨナラ・パーティーでも、植田選手はスウェーデンの接待役の女の子に一番もてていた。やはりこのスクワットでの試技が印象に強く残っていたのではないかと思う。世界のイナバももてたが、それ以上のもて方で、我々はもっぱら呑み役、聞き役に回っていた。

 さて注目のリッキー・クレインの登場となった。彼のフォームは写真でわかるとおり、足を大きく開いたオープン・スタイルで、1回目292.5kgを軽く成功。2回目の312.5kgは腰がやや高い感じで失敗した。ワイド・スタンスでも審判は非常に厳しく見て判定していることを目のあたりに見た。

 リッキーは3回目も同じようにして失敗したが、この微妙な判定に対して全く不満の態度を見せず素直に従っていたのには好感がもてた。

 このリッキーのフォームについて植田選手は「バーベルを担いでしゃがむときに、膝に重量を乗せる(ワイド・スタンスの特徴)のでなく、臀部を先に突き出してしゃがんでいき、そして、平行以下までくると、すばやく臀部を上げるといった感じのスクワットである。また、シャフトの位置は上の方で担ぐ(因幡選手と同じくらい)が、このフォームは上体が前傾しやすいので、背筋力が強くないと出来ないように思う」と述べていた。

 結局、75kg級のスクワットは、リッキーとワズキール(オ)の292.5kgが最高で、バータネン(フィ)290kg、アレサキンダー(英)275kgの順となった。2~3年前と比べて記録はあまり伸びていないようである。

 なお、スクワットで失格したのは3人で(インド、カナダ、ノルウェー)インドは腰が高く、他の2人は自分のスタート重量がつかめていない状態で重すぎて最初からつぶれてしまった。欧米の選手のこのような失敗の原因は薬物検査と関係ありそうで、薬物の使用停止による重量の低下がどれくらいになるか判らなかったと思われ、大丈夫だろうと考えた重量が挙がらなかったことを意味しているわけで、自ら墓穴を掘る結果となった。

 ベンチプレスでは、植田選手は150kgからスタートした。大会前の練習では軽く157.5kgを挙げていたので、第1回目を成功したあと、2回目は160kgに増量した。ただ、1回目のとき足の台の高さが合わなくて、右足がちょっと動いて赤が1つ出たので、試技の前に踏台の高さを十分に調整した。

 こうして、植田選手は自信をもって160kgに挑戦したのだが、途中のスティッキング・ポイントで止まってしまった。のちほど聞いてみると、足の高さが気になってプレスの動作に意識集中が出来ず、思うように挙げられなかったと言っていた。

 やはり足の高さは事前に十分調べておかないといけない。普段の練習のときから公式試合と同じ規格のベンチを用いて、足の高さの感覚を身につけておく必要がある。もちろん、植田選手がこれを怠ったというわけではなく、彼の言葉からその必要性を強く感じたまでである。

 75kg級のベンチプレスの最高は、アレキサンダーの177.5kg。リッキーは2回目に全米大会の172.5kgより7.5kg低い165kgを出し、3回目は棄権した。

 最後のデッドリフトに入ったが、大した逆転もなく順当に決っていた。

 植田選手は、シャフトが気になるといって、入念に感覚をつかもうとしていた。

 前号で述べたように、ローレット幅が広いため、スモウ・スタイルのフォームには不利なことは否めないが、きざみの深さは日本のシャフトと同じ程度だったので、手の滑りについては心配ないものと思われた。

 2年前のインド大会では、同じスウェーデン製のシャフトであったが、これがひどい粗悪品で、ローレットがメッキしてあるためツルツル滑り、手の小さい日本人には最大の難物だった。今回はメッキはしてなかったが、それでもアップ用のシャフトは滑るような気がして心配していたが、本番ではアップ用とは違う一級品が使われていたので安心した。いずれにしても、海外遠征ではローレットの幅ときざみの深さに気をつけてスタート重量を決めなければならない。

 植田選手もやはり手の握り幅が気になって、スタート重量を10kg下げて、1回目220kgとして危なげなく成功。2回目の230kgも余裕が出てきて軽く成功。3回目の240kgも楽な感じで3本とも成功した。スクワットとベンチプレスでは失敗したが、最後のデッドリフトは緊張感がほぐれて会心の試合ができたようである。

 こうして、植田選手は2年前のインド大会よりも約50kgと大幅に記録を伸ばした。今後ますます技術に磨きをかけて記録を伸ばし、世界的リフターを目指して頑張ってほしいと思う。

 75kg級も順当に進み、若干の逆転劇はあったが、バータネンが295kgを引いてトータル750kgで終るのをみて、2種目終了時点で5位につけていたアレキサンダーが300kgに挑戦し、これを成功させてトータル752.5kgとなり、2位浮上となった。

 最後はリッキー1人。彼は1回目、305kgをユーモアたっぷりの独特のゼスチャーで会場の雰囲気づくりをしてから、ワイド・スタンスのフォームから軽く引き上げた。しかし、ダウンの合図のあと、浮かれすぎて、ドスンとバーベルを床に落としたので、赤2、白1で失敗してしまった。

 おそらくリッキーも緊張しすぎて、思わず手を離してしまったと思うが、審判は厳格・非情を売りものにしており、リッキーにとっては思いがけない第1試技になった。

 リッキーにとっては、あと1回の試技に成功すれば優勝であるから、増量する必要はない。2回目は同重量を慎重な面持ちでゆっくり引き上げ、そして今度はプレートが床につくまで静かに下ろして文句なく成功した。この光景を見て、会場は一瞬、嵐のような拍手と歓声につつまれた。

 3回目は327.5kgにとばしたが、これは膝下ぐらいまで浮いただけだった。こうしてトータル762.5kgと、記録的には物足りないが、バンデージを巻いて登場する陽気なリッキーには「役者」といいたいような風格と親近感が同居し、一人で75kg級を盛り上げていたのが印象的であった。

 (つづく)
[75kg級表彰。左から1位・クレイン 2位・アレキサンダー 3位・バータネン]

[75kg級表彰。左から1位・クレイン 2位・アレキサンダー 3位・バータネン]

月刊ボディビルディング1984年4月号

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