★ビルダー・ドキュメント・シリーズ★
実業団とミス健康美の育ての親
山際 昭の歩んだ道〈1〉
月刊ボディビルディング1982年8月号
掲載日:2018.12.09
川股 宏
◇アコーデオンとの出会◇
「13番、有楽町であいましょう。♪あなたを待てば雨が降る ぬれてこぬかと気にかかる あァーあ ビルの谷間のティルーム 雨もいとしや歌ってる−−」
何気なく、たいくつしのぎにスイッチを入れたテレビの画面は"NHK素人のど自慢"をうつし出していた。
戦後の日本が、よえやく復興期をむかえた頃、フランク永井が歌って大ヒットし、誰もが一度は口ずさんだなつかしい曲であるが、山際の場合、また違った意味で、目がくい入るように伴奏しているアコーデオンに釘づけされてしまうのだった。
『アコーデオンか、なつかしいなあ。考えてみりゃ不思議なもので、このアコーデオンが今の俺を作ってくれたんだ。物を恩人に例えるのも変だが、俺にとってアコーデオンは仏像か十字架みたいに、礼拝物にも等しいもんだ。そうそう、物語りに"アラジンと魔法のランプ"というのがあって、「ハイッ御主人様、御用は何んでしょう」とランプの精が何んでも望みをかなえてくれる。この不思議な物語、俺にとってランプの役目をしてくれたのがアコーデオンなのだ。
今、俺はホテルを6軒経営し、好きなアメリカ製のスポーツカーを乗りまわし、経済的に何不自由なく満された生活をしている。しかも、何物にも勝るこの健康。どれ1つとっても幸せ過ぎるほど幸せな人生を送っている。この誇らしい人生も、あのアコーデオンと俺が出合わなかったら、俺の人生はどうなっていたかわからない』
走馬灯のように、40年も前の想い出が山際の脳裡をかけめぐった。
昭和元年も暮れようとする12月26日山際は真珠で有名な伊勢市で7人兄弟の末っ子としてうぶ声をあげた。生家は手広く建築業を営んでおり、7人の子供は何不自由なく育っていった。
しかし、戦争という時代の大きな流れは、兄達を次から次へと戦場に送り二度と帰らぬ死の淵へと押し流してしまった。
束の間の兄弟愛しか体験できなかった山際は、この頃から、どんなに悲しくても、その悲しさを心の中に包み込み、常に笑顔をたやさない習慣をつくった。
兄達の打ちっづく戦死という悲しみの連続のあと、戦争は終った。
昭和21年、旧制の宇治山田中学校を卒業した山際を、父は本人の希望も入れて大阪府吹田市にある鉄道専門学校に入学させた。
「日本は必ず復興する。そうならなければ、ワシの可愛いい息子達は犬死にじゃ。そうはさせん。その復興の原動力となるのが鉄道じゃ。だからこそ鉄道学校へ入れるんじゃ」と父、栄三郎は考えたに違いない。
期待を胸に入学した鉄道専門学校で山際はアコーデオンという楽器に始めてふれ合う。敗戦直後の混乱期の悲しさや、つらさを少しでも柔らげようとする時、若人が音楽を口ずさむのは今も昔も変らない。せいいっぱい明るく生きようとする山際にとって、アコーデオンは唯一の友だった。
そんな時、鉄道専門学校のクラス対抗学芸会に山際はアコーデオンを演奏する機会を得る。当時としては流行の先端をいくこの楽器演奏に、学友達はヤンヤの拍手を送った。そして、この暗い時代にも喜々としてよろこんでくれた友人達の顔をみるにつけ、山際は自分の将来について今まで考えてもみなかったことが心に浮んだ。
『人様を楽しく、明るい気持にさせる職業で生きることが俺の生甲斐のような気がする。日本の全国民が敗戦のショックに打ちひしがれているこんな時こそ、人々は笑いを求め、娯楽を求めそれが活力となり、明日の希望へとつながるのではないだろうか。そんな一助に自分はなりたい。思いきって芸能界へ飛び込んでみようか』
人々を少しでも陽気に笑いのある気分にさせたいという小さな火種が、山際の心の中でメラメラと大きな炎となって燃えあがってきた。山際の生来の陽気な性格に、あのアコーデオン演奏の拍手が火をつけたのである。
しかし、今日のように芸能関係者が脚光を浴びている恵まれた時代ではなく、むしろ、昔から"河原こじき"と云われるほど、浮き草のように、住むところさえ安定しない旅から旅への根なし草のような生活しかそこにはない時代だった。
それでも山際は決心した。安定した生活が保障されている鉄道職員から、どうなるかわからない芸能界。しかもこれといって特技があるわけでもなくあるのはアコーデオン1台と演芸会での忘れることのできない拍手の想い出だけだった。云ってみれば無茶苦茶な決心といってよい。しかし、若さの特権とでも云おうか、行動が先だった。
こうして、1年足らずで鉄道専門学校を中退した山際は、迷うことなく吉本興業の門をたたいた。関西の喜劇の雄"吉本興業"に入門したのはそんなきっかけであった。
何気なく、たいくつしのぎにスイッチを入れたテレビの画面は"NHK素人のど自慢"をうつし出していた。
戦後の日本が、よえやく復興期をむかえた頃、フランク永井が歌って大ヒットし、誰もが一度は口ずさんだなつかしい曲であるが、山際の場合、また違った意味で、目がくい入るように伴奏しているアコーデオンに釘づけされてしまうのだった。
『アコーデオンか、なつかしいなあ。考えてみりゃ不思議なもので、このアコーデオンが今の俺を作ってくれたんだ。物を恩人に例えるのも変だが、俺にとってアコーデオンは仏像か十字架みたいに、礼拝物にも等しいもんだ。そうそう、物語りに"アラジンと魔法のランプ"というのがあって、「ハイッ御主人様、御用は何んでしょう」とランプの精が何んでも望みをかなえてくれる。この不思議な物語、俺にとってランプの役目をしてくれたのがアコーデオンなのだ。
今、俺はホテルを6軒経営し、好きなアメリカ製のスポーツカーを乗りまわし、経済的に何不自由なく満された生活をしている。しかも、何物にも勝るこの健康。どれ1つとっても幸せ過ぎるほど幸せな人生を送っている。この誇らしい人生も、あのアコーデオンと俺が出合わなかったら、俺の人生はどうなっていたかわからない』
走馬灯のように、40年も前の想い出が山際の脳裡をかけめぐった。
昭和元年も暮れようとする12月26日山際は真珠で有名な伊勢市で7人兄弟の末っ子としてうぶ声をあげた。生家は手広く建築業を営んでおり、7人の子供は何不自由なく育っていった。
しかし、戦争という時代の大きな流れは、兄達を次から次へと戦場に送り二度と帰らぬ死の淵へと押し流してしまった。
束の間の兄弟愛しか体験できなかった山際は、この頃から、どんなに悲しくても、その悲しさを心の中に包み込み、常に笑顔をたやさない習慣をつくった。
兄達の打ちっづく戦死という悲しみの連続のあと、戦争は終った。
昭和21年、旧制の宇治山田中学校を卒業した山際を、父は本人の希望も入れて大阪府吹田市にある鉄道専門学校に入学させた。
「日本は必ず復興する。そうならなければ、ワシの可愛いい息子達は犬死にじゃ。そうはさせん。その復興の原動力となるのが鉄道じゃ。だからこそ鉄道学校へ入れるんじゃ」と父、栄三郎は考えたに違いない。
期待を胸に入学した鉄道専門学校で山際はアコーデオンという楽器に始めてふれ合う。敗戦直後の混乱期の悲しさや、つらさを少しでも柔らげようとする時、若人が音楽を口ずさむのは今も昔も変らない。せいいっぱい明るく生きようとする山際にとって、アコーデオンは唯一の友だった。
そんな時、鉄道専門学校のクラス対抗学芸会に山際はアコーデオンを演奏する機会を得る。当時としては流行の先端をいくこの楽器演奏に、学友達はヤンヤの拍手を送った。そして、この暗い時代にも喜々としてよろこんでくれた友人達の顔をみるにつけ、山際は自分の将来について今まで考えてもみなかったことが心に浮んだ。
『人様を楽しく、明るい気持にさせる職業で生きることが俺の生甲斐のような気がする。日本の全国民が敗戦のショックに打ちひしがれているこんな時こそ、人々は笑いを求め、娯楽を求めそれが活力となり、明日の希望へとつながるのではないだろうか。そんな一助に自分はなりたい。思いきって芸能界へ飛び込んでみようか』
人々を少しでも陽気に笑いのある気分にさせたいという小さな火種が、山際の心の中でメラメラと大きな炎となって燃えあがってきた。山際の生来の陽気な性格に、あのアコーデオン演奏の拍手が火をつけたのである。
しかし、今日のように芸能関係者が脚光を浴びている恵まれた時代ではなく、むしろ、昔から"河原こじき"と云われるほど、浮き草のように、住むところさえ安定しない旅から旅への根なし草のような生活しかそこにはない時代だった。
それでも山際は決心した。安定した生活が保障されている鉄道職員から、どうなるかわからない芸能界。しかもこれといって特技があるわけでもなくあるのはアコーデオン1台と演芸会での忘れることのできない拍手の想い出だけだった。云ってみれば無茶苦茶な決心といってよい。しかし、若さの特権とでも云おうか、行動が先だった。
こうして、1年足らずで鉄道専門学校を中退した山際は、迷うことなく吉本興業の門をたたいた。関西の喜劇の雄"吉本興業"に入門したのはそんなきっかけであった。
吉本興業入社当時の山際
空前の大ヒットとなった映画"君の名は"の試写会で司会をつとめた山際(左端)と出演俳優
左から勝新太郎、山際、若山富三郎
◇司会者への道◇
「山際はん、そこんとこの、その仕草は、こないしたらどないです。そうや"アカンガナー"をもっと強よう云うんや、その方がずっとええでュー。それに、身ぶりかて、こんなぎょうさんなかっこうのほうがよろしゅうおまんがなァ」
山際の師匠とも云える寺島勇作さんの台本の振付だ。人々を暗さから引き出すための笑い、そのためにはみんな稽古も真剣そのものだった。
同期には参議院議員のコロンビア・トップ、司会の宮尾たかし、後輩には藤田まこと、白木みのる。今になってみれば皆んな有名人になっている。特に藤田まこととは、先輩・後輩という関係を抜きにしてよく気が合った。
これらの人達と毎日しのぎをけずって出し物の稽古に明け暮れた。もちろん、当時は、現在のように全国に知られる芸能人になろうなどとは誰1人思っていなかった。"少しでも人々に笑いを"それが同じ釜のめしを食う芸人達の統一のテーマだった。
ちょっと話題がそれるが、この山際の所属する吉本興業は、今でも語り草となっているが、大阪の女傑、吉本せいが経営していた。千日前、堀江、新町、天満、松島などに19軒の寄席をもつこの女傑は、昭和のはじめ通天閣をも買収し、多くの芸能人を女手ひとつで育て統卒していた。そして、人々が戦後の復興に一歩一歩、着実に歩みはじめた頃、吉本せいが大阪人に与えた娯楽というカンフル剤は、大きな明日への活力となった。
さらに芸能界に活気を与えたのは、ラジオの民間放送開始であった。民放はきそって歌謡番組、娯楽番組を組んだため、アッという間に芸能界は買手市場となった。このような時期に山際が芸能界に入ったということは強運だったのかも知れない。
その後、コミックや芝居から山際は司会者としての道へ進む。そして、宮尾たかしなどと共に、山際昭はトップ司会者へと育っていく。
現に、吉本興業から名古屋の名劇に移籍した時、浅草ロック座の名優、古川ロッパやゲスト出演の当時、二枚目俳優のトップにあった池部良と同等に「司会・山際昭」とカンバンに宣伝されたものである。
司会者として、さらに幅広い分野を開拓しようと腹話術の練習を重ね、東宝映画"のど自慢狂時代"に司会者役として出演したのもこの頃であった。
芸能界はめまぐるしく変化した。山際はスカウトされてコロンビアと専属契約を結んだ。大阪、名古屋、東京、九州と全国を股にかけ、歌謡ショウなどの公演につぐ公演。体がいくつあっても足りない忙しさであった。
当時、司会者としてお互いに交遊を温めた歌手は、藤山一郎、楠木俊夫、渡辺はま子、岡本敦郎、神楽坂はんこといった往年のスター歌手で、彼らの歌う歌声が、山際の司会によって日本中に流れた。そして全国の人々の心を明るくしたという確かな手ごたえがあり、それが司会者としての生甲斐でもあった。その他、当時はまだ無名に近かった若山富三郎、勝新太郎兄弟と親しくなったのもこの頃である。
昭和20年代の後半、日本の復興は目ざましい成果を上げていった。特に朝鮮動乱を機に日本はめざましい発展を遂げることになる。しかし、現在の生活と比較すると、まだ格段に貧しいものであった。当時の娯楽はなんといっても映画とラジオで"鐘の鳴る丘"に大人も子供も聞き耳を立てたものである。
歌謡番組も全盛期をむかえ、ラジオのスイッチをひねると、必ずどこかの局でやっていた。日曜日の夜、6時から6時30分まで、新しくテイチクと専属契約を結んだ山際の司会による"テイチク・アワー" が1年半にわたって放送された。
その後、東海林太郎の"芸能生活20周年記念ショウ"の司会を頼まれたのを機会に、以後8年という永いコンビが組まれることになった。真面目な東海林太郎と、義理人情に厚い山際とはぴったり意気が合い、お互いの人間性を磨き合いながら全国をまわった。
当時、移籍する度にギャラが上がるのが習慣となっていたが、山際のギャラも相当なものであった。ラジオ1回5,000円、地方公演1日、10,000円。月に20〜30万は確実にかせいでいた。これが昭和20年後半のことである。ちなみに、郊外の小さな家なら50万円で十分買えた時代のことである。
マスメディアも、ようやくラジオからテレビに移ってきた。人気歌手の地図も第2段階に入り、若いアイドルが次々と登場してきた。娯楽も司会も、テンポの早い現代的な様相へと突き進んでいった。そして山際もまた、ここで大きく転進することになる。
山際の師匠とも云える寺島勇作さんの台本の振付だ。人々を暗さから引き出すための笑い、そのためにはみんな稽古も真剣そのものだった。
同期には参議院議員のコロンビア・トップ、司会の宮尾たかし、後輩には藤田まこと、白木みのる。今になってみれば皆んな有名人になっている。特に藤田まこととは、先輩・後輩という関係を抜きにしてよく気が合った。
これらの人達と毎日しのぎをけずって出し物の稽古に明け暮れた。もちろん、当時は、現在のように全国に知られる芸能人になろうなどとは誰1人思っていなかった。"少しでも人々に笑いを"それが同じ釜のめしを食う芸人達の統一のテーマだった。
ちょっと話題がそれるが、この山際の所属する吉本興業は、今でも語り草となっているが、大阪の女傑、吉本せいが経営していた。千日前、堀江、新町、天満、松島などに19軒の寄席をもつこの女傑は、昭和のはじめ通天閣をも買収し、多くの芸能人を女手ひとつで育て統卒していた。そして、人々が戦後の復興に一歩一歩、着実に歩みはじめた頃、吉本せいが大阪人に与えた娯楽というカンフル剤は、大きな明日への活力となった。
さらに芸能界に活気を与えたのは、ラジオの民間放送開始であった。民放はきそって歌謡番組、娯楽番組を組んだため、アッという間に芸能界は買手市場となった。このような時期に山際が芸能界に入ったということは強運だったのかも知れない。
その後、コミックや芝居から山際は司会者としての道へ進む。そして、宮尾たかしなどと共に、山際昭はトップ司会者へと育っていく。
現に、吉本興業から名古屋の名劇に移籍した時、浅草ロック座の名優、古川ロッパやゲスト出演の当時、二枚目俳優のトップにあった池部良と同等に「司会・山際昭」とカンバンに宣伝されたものである。
司会者として、さらに幅広い分野を開拓しようと腹話術の練習を重ね、東宝映画"のど自慢狂時代"に司会者役として出演したのもこの頃であった。
芸能界はめまぐるしく変化した。山際はスカウトされてコロンビアと専属契約を結んだ。大阪、名古屋、東京、九州と全国を股にかけ、歌謡ショウなどの公演につぐ公演。体がいくつあっても足りない忙しさであった。
当時、司会者としてお互いに交遊を温めた歌手は、藤山一郎、楠木俊夫、渡辺はま子、岡本敦郎、神楽坂はんこといった往年のスター歌手で、彼らの歌う歌声が、山際の司会によって日本中に流れた。そして全国の人々の心を明るくしたという確かな手ごたえがあり、それが司会者としての生甲斐でもあった。その他、当時はまだ無名に近かった若山富三郎、勝新太郎兄弟と親しくなったのもこの頃である。
昭和20年代の後半、日本の復興は目ざましい成果を上げていった。特に朝鮮動乱を機に日本はめざましい発展を遂げることになる。しかし、現在の生活と比較すると、まだ格段に貧しいものであった。当時の娯楽はなんといっても映画とラジオで"鐘の鳴る丘"に大人も子供も聞き耳を立てたものである。
歌謡番組も全盛期をむかえ、ラジオのスイッチをひねると、必ずどこかの局でやっていた。日曜日の夜、6時から6時30分まで、新しくテイチクと専属契約を結んだ山際の司会による"テイチク・アワー" が1年半にわたって放送された。
その後、東海林太郎の"芸能生活20周年記念ショウ"の司会を頼まれたのを機会に、以後8年という永いコンビが組まれることになった。真面目な東海林太郎と、義理人情に厚い山際とはぴったり意気が合い、お互いの人間性を磨き合いながら全国をまわった。
当時、移籍する度にギャラが上がるのが習慣となっていたが、山際のギャラも相当なものであった。ラジオ1回5,000円、地方公演1日、10,000円。月に20〜30万は確実にかせいでいた。これが昭和20年後半のことである。ちなみに、郊外の小さな家なら50万円で十分買えた時代のことである。
マスメディアも、ようやくラジオからテレビに移ってきた。人気歌手の地図も第2段階に入り、若いアイドルが次々と登場してきた。娯楽も司会も、テンポの早い現代的な様相へと突き進んでいった。そして山際もまた、ここで大きく転進することになる。
月刊ボディビルディング1982年8月号
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