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第11回世界パワーリフティング選手権大会
1981年11月5日~6日 於=インド・カルカッタ

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月刊ボディビルディング1982年3月号
掲載日:2020.09.18
82.5kg級 中尾達文
90 kg級 前田都喜春

82.5kg級……………中尾達文

 私の出場する82.5kg級は,大会3日日の11月7日午後1時30分,試合開始である。このクラスは,75kg級とともに出場選手が最も多い激戦区であり,その中には,あの超スーパースター,マイク・ブリジスがいる。さらに彼を追ってイギリスの古豪ロン・コリンズや,デッド・リフトの世界記録保持者フェリーカンプニェミもいる。これらの世界トップ・リフター達に混って,私は世界選手権では初めて82.5kg級に出場するわけである。出場選手数は11名。ただただ思い切って頑張るのみである。

 11月2日こカルカッタ入りして以来日本選手団はもちろんのこと,インドを除く他の外国選手団も一様に,辛すぎる食べ物と悪い水に悩まされて,仲々思うようにコンディションの調整が進まないようだ。私も今回の世界大会は,体重に関しては大幅に不足していたので,いくら食べても体重オーバーの心配は全くないが,逆に,いかにしてうまく82.5kgに近づけるかが問題であった。
  中尾選手のスクワット

 中尾選手のスクワット

 実は,私は,これも自分としては初めてのことであるが,昨年10月12日~16日まで,滋賀県で行なわれた琵琶湖国体の相撲競技に香川県代表として出垳したため,世界選手権までの最後の調整期間が約2週間という短いものであったのと,相撲の稽古で首(頸唯)と肩,手首を痛めたので,充分な練習と体重増加を図れないまま日本を発ったのである。

 カルカッタ入りして以来,毎日3食きちんと食べているにもかかわらず,体重はー向に増える様子もなく,試合当日の朝,朝食前にホテルの計りに乗ると,何と77kgしかない。一瞬,こりゃとてもじゃないが,今日はきっとスクワットが重いぞと思いつつ,何とか検量時間までの4時間近くの間に,少しでも胃袋に食べ物を詰め込んで,せめてお腹だけには充分に力が入るようにしておこうと考えた。そして,朝食を食べた後も,ホテルの自室で,日本から持ち込んだスープ,はちみつ,缶詰などをジュースと一緒に胃袋に流し込んで試合場へ向った。

 大会会場の国立ネタジ・インドア・スタジアムは,まさしくスタジアムの名にふさわしく,ものすごく広い立派な,インドでも有数の室内競技場で,ホッケーやバスケット,ハンドボール等の国際大会もひんぱんに開催されるそうで,観客も13,000人は収容できるというマンモス会場である。

 やはりパワーリフティングも重いクラスになるほど人気があるらしく,すでに観客は4,000人近くいる。会場では75kg級の試合が進行中で,強豪の中で苦しい状況ながらも元気に頑張っている植田選手を激励してから,私はセコンド役のこうろぎ選手と一統に検量控室に行く。

 すでに82.5kg級に出場する選手の半数近くが集っていて,11時30分の検量開始を待っていた。やがて箚量とコスチューム・チェックが同時に始まる。朝からのジュースによる缶詰つめ込み作戦が功を奏して,一応,体重は78.6kgと形の上では78kg台となった。それにしても,朝8時から僅か3時間ほどの間に,なんと1.6kg近くも胃袋につめ込んだわけである。苦しかった,本当に胃袋が!!

 マイク・ブリジスなどは,カルカッタ入りしたときは87kg近くもあり,顔も体も私より2回り以上も大きかったが,やはりそごはスーパー・スター,検量時にはピタりと82.5kgに決めて見事に1回でパス。さすがである。

 かくて82.5kg級の11名全員の検量が終了し,体重表がはり出された。やはり私か一番軽く, 70kg台は私一人で,2番目に軽い選手でも81.7kgある。ほとんどの選手は,ふだん84~85kgくらいある体重を少し減量しているということだった。
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◇スクワット

 試合開始の1時30分が近づいてきたので,スクワットのウォーミング・アップのためにアップ室へと急いだ。

 今大会で気がついたことは,何といってもスクワットのしゃがみの判定が非常に厳しかったことである。その為私は,スタート重量を少し軽くし,絶対安全な265kgとした。そして,アップリレームヘ行って,まず230kgでアップしてみた。やはり緊張しているのと,体重が軽かったことが原因で,いつもより重く感じた。しかし,カルカッタへ來てからの練習でも290kgは充分かつげていたし,いざコールされてプラット・フォームに上がれば絶対にやれるんだという自信はあった。

 いよいよ重量は265kgに上げられて私の番が巡ってきた。この重量までにすでに6~7名の選手が出たが,そのうち,3名が失敗している。

 私の名前がコールされた。とにかく失敗しないように,充分に深くしゃがみ込むことだけを念頭において,いつものように自分自身に気合を入れてプラット・フォームに登り,バーベルをかついで後方にバックし,主審の合図を待った。

 合図と同時に試技に入ったが,重量がそう重くはなかったので,自信を持って充分に深くしゃがんで立ち上がった。「どうだ,これなら文句ないだろうjと判定ランプを見ると,成功はしていたが,2:1でかろうじての成功ではないか。やはり,日本での判定なら,充分すぎるくらい深いスクワットをやったつもりなのに,1つとはいえ赤ランプがつくとは………。私白身も,またセコンドの人達も「おかしいなあ,あれでもまだ浅いというのだろうか」と首をひねってしまった。

 1回目の265kgが思ったより軽かったので,2回目は280kgにした。コーチのマイクさんは,今日のレフェリーはすごく厳しいから,275kgに下げてていねいに取っていくようにと,しきりにアドバイスしてくれたが,私は大丈夫だからと念を押して280kgで2回目の試技にトライした。

 2回目も,そう重くなく,深くしゃがんで楽に立った。自分としては,悪くても1回目と同じように2:1で成功だろうと思ったのだが,判定は逆に1:2で失敗と出た。ミスター・マイクが「だから言ったじゃないか。ここは日本じゃないんだ。世界選手権なんだぞ」と大声でどなっている。

 いまさらクヨクヨしても仕方ない。280kgの重量はそれほど重いとは感じられなかったので,とにかくラスト・トライで,もう少ししゃがみ込めるだけ深く下ろしてみようということで,3回目にチャレンジすることにして,ニー・バンテージを巻き始めた。今まで興奮のあまり気がつかなかったが,いつの間にか人指し指が破れてかなり出血しており,バンテージが血に染っていくのに気がついた。多分,スクワットのラックで切ったのだろう。しかし,もうコールされている。慯の手当をしているヒマはない。あわててプラット・ホームにかけ上がって280kgにトライした。

 3回目も,肩にかついだ感じは余り重くなく,余裕をもって2回目よりもずっと深く腰を下ろして立った。これならいくら厳しい判定とはいえ,悪くても2:1で成功するだろうと自信を持ってランプを見ると,やはり白1,赤2で失敗。いったいどのくらい深く下ろせばいいのだろうと,一瞬,目の前が真暗になる思いがした。

 しかし,その後から出てきたスーパー・スター,マイク・ブリジスが゛ほんとうのスクワットというのは,こういうスクワットを言うのだ。という手本を見せてくれたのだ。彼の,この完壁な,もはやフル・スクワットかと思われるほど尻を下ろしたスクワットを見せっけられては,私がいくら,しゃがみ込んだ,腰を充分に下ろした,と異議を申し立てても受けつけてくれないはずだ。

 ブリジスは,1回目320kg, 2回目345kg, 3回目365kgと,彼自身のもつ世界記録377.5kgより12.5kgも低い記録で終了したが,3回とも,すべてフル・スクワットといってもいいほど,深く腰を落としていた。しかし,記録から見て,ブリジスも今大会の厳しい判定を考慮して,記録を度外視して,深くしゃがみこむことに専念したのであろう。

 そういうば, 82.5kg級で,この怪物ブリジスのライバルと目されていたイギリスのロン・コリンズは, 317.5kgでスタートしたが,3回とも失敗し,失格となってしまった。

 今大会でのスクワットのしゃがみ具合の判定ポイントは,ヒップ・ジョイントが完全にひざの上端面よりはっきりと下がっていなければ,レフェリーは絶対に白ランプを押してくれないという厳しさで,この判定基準は今後とも世界選手権ではつづくと思わなければならない。とにかく,これまでの甘いしゃがみを捨て,充分にヒップ・ジョイントを下ろしたスクワットを早急にやり直す必要があるように思う。記録的には,おそらくどの選手も20kg近くダウンするかも知れないが,それもやむを得ない。

◇ベンチ・プレス

 最初のスクワットで,ライバルのコリンズが失格したため,もはやブリジスの独壇場である。

 私は先にも書いたように,10月の琵琶湖国体の相撲で手首と右肩と頸椎ねんざのために,今回は全くベンチ・プレスが振わず,1回目155kgからスタートし,2回目162.5kg, 3回目170kgと3回とも白ランプ3つで何なく成功はしたものの,自分としては最も得意とするこのベンチ・プレスで170kgしか出せなかったのは全く情ないの一言に尽きるものだった。

 しかし,せめてもの救いは,高松を発つときは160kgが1回やっとだったのが,カルカッタに若いてから首が少し楽になったこともあり,不本意ではあるが170kgが挙げられたことは,私の予想を上まわるものだった。

 ブリジスはこの種目でも圧倒的に強く,2回目に237. 5kgを楽々と成功させ,マクドナルドの持つ232.5kgの世界記録をあっさり更新したあと,3回日には240kgとさらに記録を伸ばした。2種目が終った時点で,ブリジスは2位以下に120kgの大差をつけて,99%優勝を決定してしまった。
◇デッド・リフト

 休む間もなく最後のデッド・リフトが始まった。試合開始後,すでに3時間以上経過している。

 私の場合,不思譏と今回はデッド・リフトの調子がよく,高松を発つ直前の練習でも290kgは引いていたので,心中では,たとえ他の2種目はダメでも,せめてデッド・リフトだけは日本記録を更新したいと,いささか自信をもっていたのだが,結果は,全く自分の意に反し,無惨にも260kgで終ってしまったのである。

 これもいまさら言い訳がましくて書きづらいことだが,あくまでも私の見てきたありのままのレポートという意味で申し上げたいと思う。

 今大会で使用されたバーベル・シャフトは,太さが直径29ミリで,これは全く問題なかったが,要は,ローレット加工の仕方が,日本のシャフトとは大へん違っていたのである。つまり,下図のようになっており,私を始め日本人選手のように,足幅を広くし,手幅を狭く握る相撲スタイルの引き方の選手が握る部分には全然ローレット加工がなく,おまけに,その部分にクローム・メッキがほどこしてあるので,顏が映るくらいにツルツルなのだ。
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 これに対して,欧米の大半の選手が行なうヨーロッパ・スタイルの引き方では,足輻が狭く,握り幅が広いのでこのシャフトがぴったりで,しかも,ツルツルの部分か両大腿部に当るので引き上げるときに,大ももにひっかからず,誠に好都合なのである。

 私は,1回目の試技は思いきって軽くし,安全パイの260kgでスタートした。もちろん物足りないくらい,ずつと引き上げたのだが,レフェリーの合図とほぼ同時に,ツルッとシャフトがすっぽ抜けてバーベルを落としてしまった。 もちろんこれは失敗。

 2回目は,タンザンマグネシウムと日本から持ち込んだ野球用のロージンを充分にぬって,慎重に再度260kgに挑戦した。これも軽く大腿部まで引き上げて,いざ上体を返そうとしたところで,また手がすべってこれも失敗。 しまった!! 私は心の中で思わず叫んだ。こりゃ下手をすれば,世界大会4回目で,260kgさえも上げられずに失格するのではないかと思った。

 それにしても情けないといおうか,悔しいといおうか,いくらシャフトがすべるといっても,たかが260kgではないか。

 3回とも260kgの同重量なので,私1人が続けて試技をしたわけだが,約5,000人の観衆も,あと1回のラスト・チャンスに失敗すれば失格することを知っているので,それはもうハチの巣をつついたようなさわぎである「日本,どうしたんだ,頑張れ!」「ミスター・ヒゲ,しっかりせんか」と,多分,こんな意味の大声をあげ,拍手と口笛の大声援である。

 手さえすべらなければ,絶対に260kgは引けるという自信はあったので,よし,こうなればもう破れかぶれでやるしかない。そこで3回目は,両足のスタンスはそのままで,手幅だけローレットの部分まで広げた。かなり変則的なスタイルで,思い切りシャフトを引いた。バーベルは実に軽く,今まで2回の失敗がまるでウソのように,簡単に引けたのである。もちろん白ランプ3つで成功。私も,そして観衆も,ああヤレヤレ,やっと成功したか,というため息と共に,一斉に大きな拍手を送ってくれた。

 私がこの最後の土壇場で何とか成功できたのも,セコンドの人達のアドバイスと観衆の温かい声援のお陰だと,深く感謝している。こうして,私の試技はすべて終了し,トータル695kg.11名中,6位。自己ベストより落ちること72.5kg.全くの惨敗であった。

 デッド・リフトも大づめとなり,ブリジスと46歳の世界記録保持者,クンプニェミの一騎打ちとなった。ブリジスは2回目に340kgを引き,トータルで945kgの世界新を樹立して優勝を決めたところで3回目の試技を棄権し早々と控室へ消えて行った。

 一方,クンプニェミは,2回目に,330kgをそれこそあっという間に軽く引き,3回目には彼自身の持つ世界記録を2. 5kg上まわる360kgに挑戦した。46歳の心意気やよし,大観衆の嵐のような声援の中,彼は無衣情でプラットホームに登り,360kgのシャフトに手をかけるや,満身の力をこめて一気に引き上げにかかった。大腿部まですーつと挙がったバーベルは,無情にもそこでピタリと,はりついたように止まり,かくて万事休す。残念ながら失敗に終った。

 こうして,4時間半にも及ぶ82.5kg級の迫力ある闘いは,劇的な幕切れとなった。まさに82.5kg級は怪物ブリジスの一人舞台であった。

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 私が帰国して,この原稿を書いているとき, IPF本部よりJPA国際部に連絡が入り,今大会から実施されたアンフェタミン(精神興奮剤)テストの結果,マイク・ブリジスが失格となったことがわかった。従って,私の順位は1つくり上かって5位になったわけであるが,私にとっては,たとえ順位が6位から5位になろうが,あんな記録ではうれしくも何ともない。

 また,ブリジスが興奮剤を使用していたかどうか,私には知るよしもないが,そして私は,選手の薬物使用を是認するものでは決してないが,私自身は,ブリジスが失格しようが,しまいが,彼の偉大さに対する私の評価に変わりはないのである。

 なぜなら,24歳という若さに似合わず,彼の態度はまさしく堂々としており,試技はもはや完璧に近いものであった。そして何よりも,私より10歳も年下の若者に,いくら彼が薬物を使用していたかどうかは別にしても,まぎれもなく250kgもの大差をつけられて全く問題にされずに破れたのだから!!

 おこがましいかも知れないが,私は一般の人よりは多少なりとも「勝負の何たるか」を,また「勝負の非情さ」を知っているつもりである。今後,選手諸君が薬物を使用することなく,また,そのチェックがより厳しく実施されることを願いつつ,今一度,私自身も体を治し,再度パワーリフティングのトレーニングにより一層の精進を誓って,今回のレポートを終りたいと思う。

90kg級……………前田都喜春

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 90kg級は大会3日日の11月7日午後5時開始の予定であったが,その前の75kg級と82.5kg級が大幅に遅れたため定刻より1時間半遅れて6時半開始となった。

 90kg級は,78年から3年問,世界チャンピオンに君臨していた人間起重機v・アネロに変わって,3種目に平均した強さを持つW・トーマスに興味が絞られた。彼は,昨年秋の全米大会,ワールド・ゲームに出場し,トータルでなんと体重の10倍以上を記録して優勝しているのだ。とにかく,重量級におけるアメリカの層の厚さはたいへんなものである。

 試合状況の報告の前に,おことわりしておきたいことがある。というのは日本チームがカルカッタに着いたのが11月2日の朝であった。 90kg級は7日に予定されており,私は2日,3日,4日と練習し,5日と6日は休養日とするスケジュールをたてた。

 2日はデッド・リフト,3日はスクワットとベンチ・プレスのコンビネーション,4日はスクワットを軽く行ない,体調も良く,まずは十分な仕上がりに思えた。

 ところが,大会初日の5日,ノドが乾いたので会場でちょっと気軽に飲んだオレンジジュースが不運の始まり,その日の夜半から腹痛を伴なう激しい下痢を起こし,それが6日,7日になっても止まらず,試合当日の検量では3kg減の88kg,腹に全く力が入らないという最悪のコンディションに陥ってしまった。

◇スクワット

 下痢というアクシデントのため,当初320kgからスタートする予定だったが,これを断念して310kgに修正,会場に来てからさらに5kg減らして305と万全の策をとった。

 競技が開始され,インドの選手がまず200kgからスタートし,私の出番は10人中7番日と余裕があった。しかし体重がかなり落ち込んでいるため十分に注意し,さらに,審判員が前日60kg級の服部選手(スクワットで3回とも失敗し,失格となる)のと今と同じ構成であるために気を引き締めた。

 私の出番がきた。 スタート重量305kgを裂帛の気合いとともに軽く挙げ,成功はしたものの赤ランプが1つ点灯した。これは主審の赤である。十分深く腰を下ろしたのにおかしい。

 一般に,主審の位置(正面)からの判定は,まったくきわどいしゃがみの場合,確認できないのが普通であり,このようなときは白ランプを押して,腰の高さが見やすいサイド・レフリーに主導権を委ねるのが普通である。

〔註〕このスクワットの判定問題,およぴ今大会から実施され大量の失格者を出したメディカル・チェックに関する問題,および,世界選手権の特徴と今後の動向等については,別稿をごらんいただきたい。

 第1回目の判定で,私は大きな不信感を持ちながら第2試技に進んだ。重量は322.5kgである。意識して1回目よりも深くしゃがんで立ち上がったが判定は白1つ,赤2つで失敗である。日本チームのメンバーに聞いても,やはり第1試技より深く下りていたということであった。また,自分自身も絶対の自信をもって深く下ろしていただけに大きなショックを受けた。

 もうこのあたりになると,1回目,2回目ともに赤ランプを押し続けた主審の判定に,何らかの意図があることに気づいた。3回目はもうフル・スクワットをやるしかないと意気込み,同重量に挑戦したが,途中で力尽きた。

 この第2試技には多くの意味が含まれている。というのは,私の直後に試技した2人の外人選手(スウェーデンとイギリス,主審はスウェーデン)のしゃがみ具合を比較した場合,最終姿勢の違いはあるが,しゃがみの深さにおいては私の方が深かった(日本チームの数名による客観的観察)のに,彼らは成功,私は失敗であった。

 次に,このような判定が生ずる背景には,自国選手への援護的要素が多分に含まれており,主審の権利を行使した自国有利の意図があからさまに見えたケースでもあった。

 しかし,試合結果にどのような分析を加えようとも,微妙な判定要素の多いパワーリフティングで世界に通用するためには,アメリカ勢のような誰からも文句をつけられないフル・スクワットのフォームを身につけるべきであり,それには今から低く腰を下ろす練習を重ねる以外に方法はない。
〔前田選手のスクワットとデッド・リフト〕

〔前田選手のスクワットとデッド・リフト〕

 なお,この90kg級では西ドイツのヘンケ選手は225kgのスクワットを,明らかな腰高で3回とも失敗して失格。また,世界的リフ々-として知られる82.5kg級のコリンズ選手も,コーチが大会本部席に何やら恐ろしい剣幕で抗議し,前例のない5回のスクワットを試みたが,何れも腰高で失敗していることから見ても,どうもヨーロッパ圏のスクワットは全般に腰が高いようである。

 スクワットも大詰に近づき,ステージにW・トーマスが現われた。彼は第1試技340kgをスーパースーツを破りながらも怪くフル・スクワットで成功し,つづく第2試技もすごいスピードで350kgを簡単に挙げた。第3試技の355kgは途巾で失敗したが,世界第1人者の貫禄を示した。全く文句のない低い位置からのスクワットは,熱烈なインドの観衆に応えるのに十分であった。

 こうして,多くの問題を含みながらスクワットが終了し,この時点で私の順位は4位であっだ。

◇ベンチ・プレス

 ベンチ・プレスの部では,私は予定どおリ155kgからスタートし,第3回目には167.5kgの自己新を記録した。幸いにも下痢による減量の影響はなかったようだ。

 200kg以上に挑戦したベンチ・プレッサーは3人いたが,スウェーデンのマトソンとアメリカのトーマスの2人が成功した。彼らは第2試技の220kgをともに成功したあと,第3試技で堅実策をとったトーマスが227.5kgに成功。230kgに挑戦したマトソンは惜しくも失敗した。

 2種目終った時点のサブ・トータルは,1位・トーマス577.5kg, 2位・マトソン557.5kg, 3位ウェスト517.5kg私は472.5kgで5位であった。

◇デッド・リフト

 いよいよ最後のデッド・リフトである。今大会で使用されたスウェーデン製のシャフトは,ローレット加工が甘く,その上,メッキしてあるため非常にすべり易いと聞いていたので,私はスタート重量を予定の285kgから282.5kgに下げて第1回目を行なった。指の握りが若干甘かったので,フィニッシュの姿勢に入ったとき右手が滑りそうになったが,肩をかえしてかろうじて成功した。

 減量の影響がかなり大きくひびいていたので,第2試技の増量には慎重を期し,マイク・コーチの指示にしたがって290kgに桃戦した。29回のシャフトでは中央付近のたわみが思ったより少なく,非常に重く感じた。

 そして,3回目の295kgはピクリとも動かなかった。やはり,2回目に290kgを選んだマイク・コーチの指示は適切であった。迷ったときのちょっとした助言は千金の重みがある。

 我々はふだん国内大会では28mシャフトのたわみによる恩恵を十二分に受けて,ファースト・プルの高くなった楽な位置から試技しているが,29mシャフトになるとこれが全く通用しないことがわかった。ファースト・プルの一番苦しい状態では,このたわみの有無が意外に大きく作用することを考えれば,今後,国内大会においても29mmシャフトを採用し,たわみの状況にまず馴れることが必要だと思う。また,平時の練習で29回シャフトがない場合は,たわみの分だけ足元を高くした練習方法を採用することが必要である。

 さて,重量が300kgを超えた。まだ外国勢が7人残っている。早々と競技を終了した自分の力を恥じた。そして300kg台が4人, 310kg台が2人の計6大が全試技を終了したあと,最後にトーマスが出てきた。彼は相撲スタイルのややワイド・スタンスで,第1回目317.5kg,第2回目340kg,第3回目352.5kgをいずれも軽く引き上げた。さらに彼は,第4試技でV・アネロのもつ世界記録を5kg上まわる375kgに挑戦したが,膝上まで引き,あと僅かというところまでいったが力尽きた。

 それにしても,トーマスが,第2試技を成功した時点で優勝が確定していたのであるから,第3試技では352.5kgではなく362.5kgに挑戦していれば,おそらくマイク・ブリジスのもつトータル937.5kgを2.5kg上まわる940kgの世界新が生まれていた筈である。というのは,第4試技の375kgがほんの僅かのところで失敗したほどの力があったことを思えば,それより12.5kgも軽い重量なら十分可能だっだ筈である。誠に惜しい3回目の重量選択であった。

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〔90kg級選手。左からウェスト(失格),1位・トーマス,2位・マトソン,3位・前田,1人おいてアテンボルグ(失格)〕

〔90kg級選手。左からウェスト(失格),1位・トーマス,2位・マトソン,3位・前田,1人おいてアテンボルグ(失格)〕

 こうして90kgの試技がすべて終ってみれば,まさにトーマスの1人舞台であり,重量級でありながら体重比10.33倍という記録で,2位に62.5kgもの大差をつけて優勝した。私は日本の重量級で初の5位入賞という成績だったか,1位とは167.5kgもの大きな差が存在している事実をみるとき,生涯目標を,今大会における私の体重比8.66倍から10倍以上にすべく,新たな試練に向って挑戦したい所存である。

 なお,その後, JPA国際部を通じての情報では,メディカル・チェックの結果3位の,ウェストと4位のアテンボローが失格となり,私の順位は5位から3位に浮上し,銅メダル獲得という好成績になった。

 こうして,今大会から実施されたメディカル・チェックによって失格した選手の数は,全階級で17名にも及び,1階級平均2名が失格するという大恐慌の世界選手権となったことは,今後の動向に大きな暗示を与えているように思われる。
(次号では, 100kg級以上の試合について報告します)
月刊ボディビルディング1982年3月号

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