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フィットネス界から政界へ!
岡本薫

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月刊ボディビルディング
掲載日:2018.09.15
text& photo=Ben


昨年のオールジャパン・ボディフィットネス優勝者の岡本薫は、わずか3度目の挑戦にしてボディフィットネスの頂点に君臨した。しかし、彼女はその大会を最後に、あっさりと競技生活に幕を下ろしてしまったのだ。

 そのことを本人からメールで知らされた時「えっ!なんで?これからというのに、もったいない」という言葉が頭の中に浮かんだが、彼女はこの競技を始める以前から心の中に将来の夢を抱いており、その夢を叶えるチャンスがやって来たのだと言う。その夢とは…政界への挑戦!である。
記事画像1
おかもと かおる
1972年2月1日生まれ 出身地=京都府
血液型=B型 職業=自民党役員
身長=158cm 体重=49kg(オン)、58kg (オフ)
趣味=お菓子作り、ガーデニング
 私が初めて岡本選手と話をしたのは、世界ボディフィットネス選手権を控えた昨年の9月の下旬、オリンピアが開催される街、ラスベガスであった。さすがに、大会を間近に控えた彼女は、しっかりとシェイプされた体をキープしており、肌も真っ黒に焼き込まれていて、ステージ上で見る姿そのものであった。そして、それから約4カ月後、インタビューの日を迎えた訳だが、彼女の地元である京都で再会した時には、色白で、多少ふっくらとし、スーツ姿で登場した彼女からは、フィットネスコンペティターの面影はすっかりとなくなってしまっていた。
「いや~、ラスベガスでお会いした時とはすっかり印象が変わってしまっていて、分かりませんでしたよ」
「そうですよね~。トレーニングも、もう2ヶ月以上していませんから」

 風貌は既に政界の人になってしまった感のある岡本選手だが、その物腰柔らかな京都弁と笑顔は、ボディフィットネスという競技に身を置いていた選手時代と何ら変わっていなかった。

筋トレとの出会い

 私は、彼女がオールジャパンミスボディフィットネスの優勝をわずか3回の挑戦で掴んだということは、その取材をしていた時点でわかってはいたが、きっと大会へ出始める以前から相当の筋トレ経験があるか、もしくは他の競技で十分鍛えられていたのだと想像していた。それは、08年のオールジャパンに初出場した彼女のフィジークが、他のベテランと言われる選手たちの筋肉に負けていなかったからだ。しかし彼女の答えは、そんな私の想像に反するものだった。

「いいえ、ボディフィットネスの大会に初めて出場したのが2008年7月に開催されたオール関西ボディフィットネスで、その大会を目指してトレーニングを始めたのはその年の1月からですから、筋トレ歴7ヶ月くらいでしたね。筋トレを始める以前も、これと言ったスポーツ経験などはなく、どちらかと言えば運動音痴でしたね。ジムにはその8ヵ月前から通い始めたのですが、その時は筋肉をつけたいとか、奇麗な体を作りたいとか外見的なことではなく、ただ単に健康な体を取り戻したいというのが理由でした。実は、私…」

 岡本選手は33歳の時に、膠原病を発症したという。ある日、朝起きると熱があり、体がだるくて、なかなか起き上がれず、そういった日が何日間か続き、これはおかしいと病院へ行ったら診断されたそうだ。

 それまで病気らしい病気もせず、健康に過ごして来ていただけに、膠原病と診断された後は何もする気がなくなるのも無理はない。仕事を休み、自宅療養をする、いわゆる寝たり起きたりの病人生活を続けていた。我々が膠原病と聞くと〝原因不明の不治の病〟みたいに想像するが、専門的に見ても「長期にわたって治療を続ける必要がある病気」だということで、多くの患者は薬の副作用よりも、長期にわたる闘病生活で気持ちがめいってしまうことの方が深刻だと言われている。

 岡本選手も、2年間ほど自宅療養の生活を送り、その間は症状が良くなったり悪くなったりの繰り返しで、完治の目処など皆目見当もつかなかった。そんな中「なんとか自分の力で体を元に戻そう。元々健康であったのだから、元に戻れるはず」という気持ちを持ち始めた。そして、学生時代ボディビルを行っていた兄(1989年全日本学生大会2位の岡本浩一)の勧めもあり、ジムに通うことにしたそうだ。

 そうは言うものの、元々しんどいことが嫌いで、見た目も〝運動ができなそう〟なタイプ、兄が大会を目指してトレーニングに励んでいた頃も「なんであんなにしんどいことをして体を作るのだろう?信じられへん」と感じていたくらいだから、彼女のジム通いも決して喜んで始めたものではない。だから、最初の頃はジムへ行ってエアロバイクを漕ぐ程度のものであった。

コンテストへの目覚め

 ジムへ通い始めてから2ヵ月くらいが過ぎたとき、彼女は筋トレ、とりわけベンチプレスに興味がわいて来たという。エアロバイクを漕いでいる位置からちょうどベンチプレス台がよく見え、おもしろそうだなぁと興味がわいて来たそうだ。また、ベンチプレスをやっている女性がほとんどいなかったので、なんで女性はやらないのだろう?、という好奇心からちょっとやってみようということになった。始めは10㎏のバーがやっと挙がる程度ではあったが、意外と面白かったという。そして、通い始めた頃は週1回程度であったジム通いも、筋トレを始めるようになってからは週3回程度は行くようになった。ただ、それでも彼女の筋トレは上半身のみであったらしい。

「膠原病と診断された時に、左足の拒き ょこ つ骨が壊死していることが判明したんですよ。お医者さんからは、〝一生杖生活になるから、杖を作っておくように〟と言われていたし、実際普通には歩けませんでした。ただ、杖をついての生活なんて年寄りみたいで嫌でしたので、杖は作りませんでしたけどね」

 もちろん、筋トレを始めた頃は脚に痛みを感じていたので、下半身のトレーニングはやっては駄目と医者に言われていたし、また脚に負担がかかるような種目は怖くてできなかった。だから、ベンチに寝転んで行えるベンチプレスに自然と目が行ったのかもしれない。

 そんな上半身のみのトレーニングを続けて半年くらい経った頃に「下半身もトレーニングしないとアンバランスになるよ」とある会員から言われたらしい。元々筋肉のつきやすい体質だったのかもしれないが、自分で見ても確かに上半身ばかりに筋肉がついて来て、下半身が貧弱だった。

 また、筋トレを始めるようになると周りにいる方々が皆元気で、自分が病気だという意識がだんだんとなくなり、トレーニングすることが楽しくなってきだした。そして「どうせ筋トレするなら全身万遍なくトレーニングしてボディメイクしたい」という欲も出て来たという。目指す理想像は、ターミネーターに出てくる女主人公のサラ・コナーだった。

 そんな彼女のやる気をさらにかき立てたのは、ボディフィットネスコンテストの存在だった。

「一緒に住んでいる兄が月ボを買っていたので、私もジムへ通うようになってからは、ぱらぱらと見ていました。そんな時、ボディフィットネス大会というものの存在を知ったのです。雑誌に載っている女性たちは皆きらびやかで、美しい体をしていました。どうせトレーニングするなら、この大会を目指してみよう、という気持ちになったんです」

 ボディフィットネスという存在を知り、それを目指したトレーニングをやり始めたのが2008年1月、そして初めての大会がその年の7月に開催されたオール関西ボディフィットネス。わずか7ヵ月間しかなかったが、彼女はそのデビュー戦で、見事優勝するのであった。

「大会へ向けての減量は5月から開始したので、それまでの5ヵ月間はとにかく筋肉を大きくしようと必死でした。また、上半身と下半身の差が開いていたので、なんとかバランスを整えようと、ジムのパーソナルトレーナーにメニューを組んでもらったりもしました。まだ、足首には不安がありましたので、高重量はもちろん扱えませんが、スクワットもやり始めましたね」

 週に3回程度しか通っていなかったジムも、大会という目標を置いてからは週に5~6回来てトレーニングに励んだ。また、有酸素運動を含めて2時間程度だったトレーニング時間は、筋トレのみで4時間行ったという。

 書き忘れていたが、岡本選手は膠原病の治療にとジムへ通いだしたのと同時に菜食療法も取り入れていた。いわゆる肉類はいっさい食べずに小魚と野菜中心の食事療法である。しかし、筋肉を大きくするにはタンパク質を取らなくてはいけないし、そのタンパク質の摂取源として肉類は欠かせない。ということで、この時には既に牛肉と鶏肉をメインとした食事となり、他に1日6回のプロティンを飲んだという。

「大会という目標ができたらもうスイッチが入っちゃいましたね。タンパク質は量なんて関係なく、摂れるだけ摂ろうといった感じで。トレーニングを始める前は46㎏くらいしかなかった体重は、その年の減量に入る頃には55㎏にまで増えました」

 5月からの減量に入ればさすがに1日6回のプロティンは少なくしたが、筋量は落としたくないということで、タンパク質摂取量は高く保ったまま、炭水化物の摂取量を減らすことで体重を落としていった。また、有酸素運動も筋量を落としたくないということから、最終手段として取っておいて、7月に入ってから取り入れたくらいだそうだ。そして結果、皆さんご存知の通りオール関西ボディフィットネス優勝、その後のオールジャパンボディフィットネス3位という好成績を初挑戦の年に残した。

 ところで膠原病は、いったいどうなったのであろう?

「トレーニングを始めてから徐々に、発熱することが少なくなり、だるさもなくなって来たので、大会を目指すようになってからは病院へは行かなくなりました。ただ、大会へ向けて日焼けをしなくてはいけませんが、紫外線を浴びることで収まっていた膠原病の症状が一気に悪化する可能性はありました。でも、肌が真っ黒になるほど日焼けをしても何の症状も出なかったことから、病気はもう治ったんだとその時感じましたね」

2年目の失敗

 08年のオールジャパンでは初出場で3位という好成績を残しながら、岡本選手は悔しさだけが残ったという。なぜなら、オール関西からオールジャパンまでの1ヵ月の間に弱点の脚を改善させようとトレーニングをやりすぎて、逆に全体的に細くなってしまったからだ。また、その時の優勝者である望月朋子選手とのレベルの差を痛感し、もう1回ゼロからやり直さなければと心に誓ったそうだ。

 オールジャパン後は、とにかく脚の強化ということで下半身中心のトレーニングに変え、また高重量も扱いだした。足首の負担はあったが、まわりの腱や組織が丈夫になったのか、高重量でのトレーニングをしても全く痛みは出なかったそうだ。しかし、調子の良い時に限って、思いもよらぬケガが起こるものだ。彼女も翌年の1月に歩行困難なほど腰を痛めてしまった。

「腰を痛めた時点で、その年の大会出場はあきらめました。ジムへ行かないのはもちろん、トレーニングのことを忘れようと、本もいっさい見ずに、好きなお菓子作りなどの趣味に走りましたね。でも、神懸かり的なものってあるんですよね。ある時、なぜか腰痛がなくなったんですよ。もちろん腰痛が出ている間は兄の接骨院で治療していましたが、これが原因で治った、っていうものは本当にありませんでしたね」

 彼女は、ジムへ復帰した時はマシンたちに涙しながら挨拶して回り、再びトレーニングをできる喜びを改めて感じたという。この時既に4月となっていたが、とりあえず8月のオールジャパンへの準備を始めた。しかも、減量を始める5月の段階で彼女は、昨年よりも良くなっていると実感し、優勝するという気持ちがわいてきたそうだ。

「腰を痛めて3ヵ月間全くトレーニングをしなかったことで、体がリフレッシュできたのだと思います。4月からのトレーニングでは、重量よりも効かすことに重点を置き、体の反応も非常に良かったです。わずか1ヶ月のトレーニングでも劇的に体が変わっていたのを実感できました。そして〝今年は望月さんに勝ちたい〟という意欲がわいて来ました」

 結果は、2位。昨年より1つ順位を上げたことになる。が、彼女自身はまたも納得できなかった。別に優勝できなかったことに納得していない訳ではない。勝つことを意識しすぎて、納得のいくステージングができなかったからだ。

「フィジーク面では下半身もかなり改善できていたと思います。しかし、力みがひどく、見るからにガチガチで、女性らしさや美しさが全く表現できていませんでした。はっきり言って1年目より悪かったです」
昨年のオリンピアにて。マッスルナデシコこと照井智恵選手との写真撮影

昨年のオリンピアにて。マッスルナデシコこと照井智恵選手との写真撮影

フィットネス・オリンピアのアデラ・ガルシアと

フィットネス・オリンピアのアデラ・ガルシアと

3年目の区切り

 2年目のシーズン後、これまでの2年間の競技生活を振り返り、あまりにもトレーニング中心のゆとりのない生活を送って来たと感じたらしい。そして、3年目はトレーニングはしっかり行うものの、自分の趣味や他の時間も大切にしてゆとりを持って生活していこうと決めた。昨年までは調子が良い悪いに拘らず、決められたトレーニングはきっちりと遂行して来たが、この年からは調子が悪ければ予定を変更して休み、それが続けば2日でも3日でも、1週間でも休むようにしたと言う。

「トレーニングのやり方や内容はもちろん変えましたが、トレーニングに取り組む気持ちが変わりました。前は、とにかく大きくしたい、勝つ体を作りたい、といった大会へ向けてのトレーニングでしたが、3年目はトレーニングすること自体にゆとりを持ち、体と対話をし、そうすることで体の変化やトレーニングの効果など細かい部分にまで気づくようになりましたね。元々、健康な体を取り戻すために始めたトレーニングが、いつの間にか勝つという目的を達成するためだけに変わっていました。再び初心に返ることで、勝つ意識がなくなり、トレーニングを楽しめるようになりました」

 〝トレーニングを楽しみたい〟この気持ちを一生持ち続けたいがためか、岡本選手は2010年で大会出場を最後にしようと心に決めていたらしい。たとえ優勝できなくても、気持ち的に満足のいく終わり方をしたかったということだ。そして、この3年間の中で精神的にも肉体的にもベストの状態で臨むことができた。その結果は、クラス優勝に総合優勝というおまけまで彼女にもたらした。

「勝てたからいう訳ではありませんが、本当に結果はどうでも良いという気持ちで臨みました。とにかく悔いの残らないように準備をして、大会に臨めれば良いと。ですから、その年の1月から日本舞踊を習い、女性らしさも磨きました。オーバーオールでも優勝できたことは、本当にびっくりしました。中村静香さんは、私が競技を始める前に初めてインターネットで写真を見た方で、こんなに筋肉があっても奇麗でエレガントで、あこがれの存在でした。そんな方に勝って競技生活を終えることができ、私は本当に幸せです」
初出場の 08 年オールジャパン

初出場の 08 年オールジャパン

09 年オールジャパン。確かに筋量的には望月選手に負けてない

09 年オールジャパン。確かに筋量的には望月選手に負けてない

 岡本選手は、この4月に京都府議会議員選挙へ出馬する。そう、彼女の第2のチャレンジの舞台は政界なのである。

 フィットネス界から政界へ、このレールはなにも前々から決まっていた話ではない。彼女が2010年を競技生活の最後にしようと思ったのは春先であり、政界への道が開けたのはオールジャパン後の10月なのだから。ただ、いつの日か政治の世界で仕事をしたいという気持ちは、かなり昔から抱いていたらしい。

「私は兄の接骨院で仕事をしていましたが、そこにはいろいろな患者さんがやって来ます。母子家庭の人や、一人暮らしの老人、就職で苦労されている方など、本当にいろいろです。そんな方達とお話をしていて、やはり生活や暮らしなどでの疑問点や改善点、一般的な常識に反している面などがたくさんあると認識しました。私も20歳の時に母が脳出血で倒れ、以来介護をして来ていますが、法律や条例などで実際の生活に活かされていないことや矛盾点が多々ありました。そんな市民生活に直結することを、市民の目線で変えて行けたら良いなあと前々から思っていたのです。そんな時、たまたま昨年の9月に自民党の京都府議会議員の一般公募があったので、それに応募をし、筆記、面接などの試験を経て11月に受かりました」

 府議会議員選挙の出馬が決まってからは、選挙の地盤固めの挨拶回りや街頭演説、後援会作りなどこれまでの生活とはガラリと変わってしまった。もちろんトレーニングなどしている暇はない。私がインタビューへ伺った時も「○○先生のところへご挨拶へ行かなくてはなりません」と、とても半年前には真っ黒に日焼けした水着姿でステージに上がっていた人とは思えない変貌ぶりだった。事実、岡本選手が現在身を置いている世界において、彼女がフィットネスの元日本チャンピオンだなんて言っても、誰も信じてくれないそうだ。だから、彼女の現在の名刺の裏側には昨年優勝した時の写真が載っている。表側には色白でスーツ姿の岡本選手がにっこり笑っている姿が、裏にはきらびやかなポージングスーツを身にまとったゴージャスな姿が。私でも、同じ人かと疑ってしまうくらいなのだから、諸先輩方や一般の市民の方々が信じてくれないのは致し方ないだろう。
すっかり変貌した岡本選手

すっかり変貌した岡本選手

 わずか競技生活3年ながらも、非常に内容の濃い、実のある3年間であったことはインタビューを通じて窺い知ることができた。そして、このボディフィットネスで培ったものを、次は政界で京都のため、日本のために活かしてほしい。

「とりあえずは4月の選挙に当選しなくては、その先には進めませんが、トレーニングと出会っていなければ今の私は間違いなくありませんでしたし、政治の世界へ踏み出す勇気もなかったと思います。トレーニング、フィットネスを通じて本当に貴重な経験をさせてもらいました。私は、フィットネスの世界からは離れてしまいますが、いつの日か筋力トレーニング、フィットネスの普及のために力になりたいと思います。そして、できればカンバックしたいです」

 4月10日、京都府議会議員選挙投票日。うれし涙を流す岡本選手、いや岡本先生の姿を期待する。
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